home > 通信 >本来無一物 何仮払塵埃:『アセンション館通信』第976号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
  ☆☆   ☆☆
 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/01/01(第976号)
☆☆   ☆   ☆☆
☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
-☆☆────-☆☆─────────────────────
 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.本来無一物 何仮払塵埃

2.編集後記
──────────────────

━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 1.本来無一物 何仮払塵埃
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

新しい年ですね。

どんな年になるんでしょうね。

といっても、

お互い自分の思いでホログラムを作って

自分の現実を創造しているだけらしいけど。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

見かけの世の中があまりにも複雑になると、

とてもそのすべての流行については行けない。

そういう状況も現れますよね。

そのため自分の夢のあちこちが

ほころび始めることさえ出てくると思います。

憶えることが多すぎて老朽化したマインドでは

とても対応できませんもの。(^_-)

こういう非常事態のなかで、

このメルマガの配達人が

ごくごく単純な指標にすがりたがるのもわかります。

マインドで対応するにしても

あまり多くのことは憶えられません。

これまでいろいろ渉猟して

聞き噛じってきたたくさんの

スピリチュアルメッセージの中から

これだけ憶えればそれでいいという

頼りになりそうな指標を

どれか一つに絞るしかないと思います。

と思って……改めて見晴らしてみると、

どうも対応しなきゃならないようなことなど

何もないらしい。

というのも、

知覚の対象として現れている【見かけ】には

別に何の意味もないらしいからです。

だから

「自分」に関して言えることも、

「自分」は“何か”であるというようなことは

いっさい言えないらしい……ということがわかった。

はっきりしているのは

「自分は存在する」ということだけというなら、

これは別に無理に憶えなくても……。(*^_^*)

忘れたって別にかまわないわけだし。

誰に迷惑をかけるわけでもなし。

心配することにも……、悩むことにも……、

特に何の意味もない。

それはただそういう風景だというだけ。

いろいろ心配だとか言ったって、

それは実際に心配している“自分”がいる

ということでもないらしい。

実際に“自分”という実体が存在していて

そいつが心配しているわけでもないのだから。

それはただ、

「心配」という思考が起こってきたあとで、

「あの心配は俺の所有物だ」とのたまう

別の思考が起こってきたというだけのこと。

「心配」も一つの思考、

“自分”もそれと同じ一つの思考。

「心配」もつかの間の風景なら、

“自分”もそれと同じ一つのつかの間の風景。

“自分”という実体はどこにも存在しない。

幽霊の正体見たり枯れ尾花。

とは言っても、

一度マインドがこのことを納得したからと言って、

二度と再び「心配」が起こらないというわけでもない。

この身体を住処として長年培われてきた習慣が

そう一足飛びに消えてなくなるわけがない。

「心配」という思考は

きっとこの身体にまたまた起こるわけです。

でもそれもまたただの束の間の風景にすぎない。

「心配」という思考が湧いていることに

「自分」が気づいていることを示しているだけ。

あらゆる対象物はただ

それに気づいている「自分」を指しているだけ。

身体という実体の“自分”がいて

その“自分”に起こる未来を心配しているわけではない。

身体も「自分」が気づいている対象物。

心配も「自分」が気づいている対象物。

その「心配」は

「自分」という<気づき>の中で起こっている。

<気づき>がその「心配」に気づいていても、

<気づき>はその「心配」だとは言わない。

<気づき>は絶対的主体性。

「心配」は<気づき>に対する一つの対象物にすぎない。

あらゆる【見かけ】は、

<気づき>に対するいっときの対象物。

<気づき>は“何者”にもなることはできない。

このごくごくシンプルで過激な真実を

覆い隠している煙幕が

静かに雲散霧消するままに……放っておけるかどうか。

どうやらそれだけのことのようです。

去年に続いて、

ジャン・クラインの『われ在り I AM』の

前の方の節から意味がわかりそうな部分を

順にご紹介していきます。

今回は

「4」節からご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
 4
 
 
 【ジャン・クライン】
 真理へ近づくには
 基本的に二つの既知の方法があります。
 段階的な方法と直接的な方法です。
 直接的なアプローチでは、
 「あなたは真理であり、
  何も獲得する必要はない」
 ということが前提になっています。
 何かを得ようとして努力することはすべて、
 真理から離れてゆくことに他なりません。
 「道」は厳密には
 どこかから別のどこかへ行くというような道ではなく、
 単に真理、
 つまり「われ在り」(I AM)に対して自分を開き、
 それを喜んで受け入れることです。
 あなたが一度自己の本質をちらっと見さえすれば、
 それはあなたを引き寄せてくれます。
 ですから、
 あなたは招かれるたびに
 それに応じて波長を合わせるだけで、
 他には何もしなくて良いのです。
 このチューニングに、
 意志的な要素はまったく必要ありません。
 心(マインド)が「われ在り」に合わせるのではなく、
 「われ在り」が心を吸収するからです。
 
 他方、
 段階的に真理に近づく方法ではあ、
 なたは心に縛られたままです。
 心は
 「もし、
  心の状態が変わったり止まったりしたら
  自分を超える何かに吸収されるだろう」
 という妄想を抱いています。
 この誤解は真理の探求者を
 悲惨な状況に陥れることがあります。
 つまり彼は自分の網で
 自分自身をがんじがらめにしてしまうのです。
 それは最も微細な二面性でできた網です。
 
 『われ在り I AM』(p30-31)
──────────────────

ジャン・クラインは

古来“探求者”と言われる人たちが

真理を知るための方法としてたどった道は

基本的には二つしかないと言います。

ひとつは「直接的な道」です。

それは、

> 「あなたは真理であり、
>  何も獲得する必要はない」

ということが前提になっている道。

そしてもう一つは、

真理を知ろうとするとき

人はたくさんの誤解に阻まれて

真理が見えなくなっている状態にいるので、

瞑想でじょじょにその誤解を消去して

正解にたどり着かなくてはならない

ということを前提とする「間接的な道」だと。

このあたりは、

禅宗の五祖弘忍禅師の求めに応じて提出された

筆頭修行僧神秀の偈頌

 身是菩提樹 (身はこれ菩提樹)
 心如明鏡台 (心は明鏡のごとし)
 時々勤払拭 (時々に勤めて払拭し)
 莫遣有塵埃 (塵埃を有らしむることなかれ)
 
 身体は悟りのための瞑想の樹
 心は鏡のようにすべてを映し出しています
 つねに身体と心を磨き続けて
 塵や埃がつかないようにする所存です

に対して提示された六祖慧能の偈頌

 菩提本非樹 (菩提もと樹にあらず)
 明鏡亦非台 (明鏡もまた台にあらず)
 本来無一物 (本来無一物)
 何仮払塵埃 (なんぞ塵埃を払うを仮らん)
 
 悟りはもともと身体ではない
 心もまた悟りの土台ではない
 そもそも初めから何もない
 いったい塵や埃を払うなんの必要があるのか

を想起させますね。

ジャン・クラインは

この心身を自分として

その自分を段階的に真理に近づけてゆくという方法は

実際は「最も微細な二面性でできた網」であり

ときには

「真理の探求者を悲惨な状況に陥れることがある」

と言います。

そして「道」というのは、厳密には

“今の自分”から“もう少しマシな自分”に向かって

進んでゆくというようなことではなく、

ただ、自分が存在するということに

自分を開き、

それを喜んで受け容れることだと言います。

【あなたは招かれるたびに
 それに応じて波長を合わせるだけで、
 他には何もしなくて良いのです。
 このチューニングに、
 意志的な要素はまったく必要ありません。
 心(マインド)が「われ在り」に合わせるのではなく、
 「われ在り」が心を吸収するからです。】

と。

ふー。

(-||-)

──────────────────
 【質問者】
 もし、私が完全で何もする必要がないなら、
 なぜ私はここにいるのでしょうか?
 また、なぜ私はこの惑星に存在するのでしょうか?
 
 【ジャン・クライン】
 ただ、
 この完全性を知るためだけです。
 あなたが言う完全性や不完全性は
 互いに依存しあう概念です、
 あなたにとって最も身近で基本的な性質である真理は、
 そのような相互補完性を超越しています。
 不完全性も完全性もなくなったとき、
 あなたは自分の現在の中に、
 つまり自分の完全性の中に生きています。
 そうなってください。
 
 【質問者】
 先生、あなたが今、この女性にされた解答で
 彼女は納得されたようですが、
 私には理解できません。
 私にも理解できるように、
 もっとわかりやすく説明していただけますか?
 
 【ジャン・クライン】
 あなたには気づく能力があります。
 ですから、
 自分が不完全さや不満、不足、
 倦怠などを感じている瞬間、
 それに気づいてください。
 気づいてくださいと言いましたが、
 それは単にそれらの感情に名前をつけて
 忘れてしまうということではありません。
 むしろ、
 それらを知覚することに全神経を集中してください。
 それには時間がかかるでしょう。
 なぜなら最初、
 あなたは自分を見つめることに慣れていないからです。
 しかし、
 倦怠感や絶望感を探求しているうちに、
 あなたはいつしかそれらの中で
 自分を見失うことがなくなるでしょう。
 あなたはそれらの対象よりも
 探求することのほうに夢中になるからです。
 やがて、
 あなたは自分と自分が探求しているものとの間に
 間隔があることに気づくでしょう。
 あなたはもはや、
 倦怠感や知覚にとらわれなくなります。
 そして、
 ある瞬間、
 突然にそのようなものは解決し、
 あなたは自分が
 現在の明晰性の中にあることを発見するのです。
 
 【質問者】
 私は自分の存在の本質を早く知りたくてたまりません。
 私はまだ真の明晰性をまったく感じられないので、
 また対象に気を取られてしまいます。
 静寂にいざなわれているというよりもむしろ、
 前よりも静寂にいざなわれることがなくなりました。
 
 【ジャン・クライン】
 願いが叶ったり、
 何かの行動を成し遂げたりした瞬間に
 注意してください。
 そして、
 それらの瞬間に波長を合わせてください。
 そうすれば、
 あなたの「存在したい」という願いに
 変化が生じるでしょう。
 心から不安や恐れ、
 不満などがなくなると、
 自分の本当の願いは
 「在りたい」ということだけだとわかるでしょう。
 この願いには興奮や散漫さがまったくありません。
 見つけるべきものは何もないのだとわかれば、
 熱心な探求者ももう、
 明晰性の探求を急がなくなります。
 なぜなら、
 失われたものは何もないからです。
 自分は「探求者」によって
 間違ったほうへ導かれているのだと
 私たちがはっきりと自覚すると、
 それまでそれが自分だと
 私たちが思い込んできた人格は
 ひとりでに消えてゆきます。
 存在したいと言う願望は
 望まれているもの自身から直接湧き上がってきます。
 言い換えると、
 真我(セルフ)は
 それ自身を探し求めるということです。
 このことがわかると、
 私たちは集めたい、
 捕まえたい、
 達成したいという欲求を抱かなくなります。
 そして、
 心の活動が少なくなってゆきます。
 
 このことを深く理解すると、
 私たちは自然に自分の故郷へ連れ戻されます。
 恩寵が私たちをそれ自身へと引き寄せるのです。
 このことを言葉で言い表すことはできません。
 それはただ生きられることしかできないのです。
 
 『われ在り I AM』(p31-33)
──────────────────


こう聞いて、質問者は

> もし、私が完全で何もする必要がないなら、
> なぜ私はここにいるのでしょうか?
> また、なぜ私はこの惑星に存在するのでしょうか?

とジャン・クラインに迫ります。

論理的な問い詰め方とも言えませんが、

まあ、気持ちはわかります。

しかし、この問が引き出した

ジャン・クラインの回答が素晴らしいですね。

> 【ジャン・クライン】
> ただ、
> この完全性を知るためだけです。

まあ、この「リーラ」の意味は、

煎じ詰めれば、

自分の完全性を知るため以外にありえないのでしょう。

けっきょくは“一人遊び”なのですから。

今度は別の質問者でしょうか。

> 【質問者】
> 先生、あなたが今、この女性にされた解答で
> 彼女は納得されたようですが、
> 私には理解できません。
> 私にも理解できるように、
> もっとわかりやすく説明していただけますか?

こう問われてジャン・クラインは

われわれの本質を一言で説明します。

> あなたには気づく能力があります。

あなたという存在の本質は

「気づく能力」なのだと。

だから自分が気づいている対象物に

注意を奪われるのではなく、

自分が「気づく能力」をもっているということ、

その奪われることのない自分の本質的能力そのものを

もっともっと重要視してくださいと。

絶えずそれを重要視できるようになったら、

倦怠感とか絶望感といった

嫌悪の対象となるような思考を相手にしていても

いつしかそれらの中で自分を見失うことが

なくなるだろうと言います。

それはあなたが

【それらの対象よりも
 探求することのほうに夢中になるからです】

と。

(-||-)

絶えず自分の本質的能力に

気づいていられるようになったら……。

そうなったらもう……、

そうなること自体が恩寵なのでしょうね。(-_-;)

【あなたはもはや、
 倦怠感や知覚にとらわれなくなります。
 そして、
 ある瞬間、
 突然にそのようなものは解決し、
 あなたは自分が
 現在の明晰性の中にあることを発見するのです。】

(-||-)

そうありたいものです。

ここでダメ押しのもう一つの質問が提出されます。

若い方なのでしょう、

この方の質問は勢いに溢れています。

> 【質問者】
> 私は自分の存在の本質を早く知りたくてたまりません。
> 私はまだ真の明晰性をまったく感じられないので、
> また対象に気を取られてしまいます。
> 静寂にいざなわれているというよりもむしろ、
> 前よりも静寂にいざなわれることがなくなりました。

とても熱心に探究されているのでしょうね。

ジャン・クラインの回答は

じつに具体的な示唆に富んだ慈愛溢れるものです。

> 願いが叶ったり、
> 何かの行動を成し遂げたりした瞬間に
> 注意してください。
> そして、
> それらの瞬間に波長を合わせてください。

なるほど。

人間にはいろんな気分のときがありますものね。

いつも嫌悪感にあふれてばかりいるわけでもない。(*^_^*)

> そうすれば、
> あなたの「存在したい」という願いに
> 変化が生じるでしょう。

(@_@)

(?_?)

(-_-)

> 心から不安や恐れ、
> 不満などがなくなると、
> 自分の本当の願いは
> 「在りたい」ということだけだとわかるでしょう。

(@_@) ⌒★?

ああ……。

そういうことなのか。

(-||-)

> この願いには興奮や散漫さがまったくありません。
> 見つけるべきものは何もないのだとわかれば、
> 熱心な探求者ももう、
> 明晰性の探求を急がなくなります。
> なぜなら、
> 失われたものは何もないからです。

何も失われていない。

> 自分は「探求者」によって
> 間違ったほうへ導かれているのだと
> 私たちがはっきりと自覚すると、
> それまでそれが自分だと
> 私たちが思い込んできた人格は
> ひとりでに消えてゆきます。

ただ、

エゴという虚構の「探求者」に

鼻面を引き回されていただけだと分かれば、

その「探求者」はひとりでに消えてゆく。

> 存在したいと言う願望は
> 望まれているもの自身から直接湧き上がってきます。
> 言い換えると、
> 真我(セルフ)は
> それ自身を探し求めるということです。

そうか。

> このことがわかると、
> 私たちは集めたい、
> 捕まえたい、
> 達成したいという欲求を抱かなくなります。
> そして、
> 心の活動が少なくなってゆきます。

そうか。

> このことを深く理解すると、
> 私たちは自然に自分の故郷へ連れ戻されます。

……。

> 恩寵が私たちをそれ自身へと引き寄せるのです。
> このことを言葉で言い表すことはできません。
> それはただ生きられることしかできないのです。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/

   ………○…………○…………○………

▼『アセ通』へのご意見投稿フォーム:
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P48750702

   ………○…………○…………○………


▼『アセ通』への情報ご投稿フォーム
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P87119518


   ………○…………○…………○………


━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 2.編集後記:
━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ありがたいことです。

すばらしいですね。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
Copyleft(C)2022 paritosho
──────────────────

home】 【挨拶】 【本棚】 【映画】 【N辞書】 【R辞書】 【随想】 【仕事】 【通信】 【連絡