home > 通信 >過渡的な段階はありません:『アセンション館通信』第977号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/01/08(第977号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.過渡的な段階はありません

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.過渡的な段階はありません
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普段こうして日常的な生活空間の中で

「よくもまあ

 なんとか対応して生きているもんだなぁ!」
 
などという我ながら不思議な思いが

湧いてきたりすることもあります。

それも、もしかしたら、

ある“閾値”を超えたのかもしれません。

気がついたら、

いろんなところの記憶が抜けていたりして、

それでも現実はなんとか回っている。

まるで、抜けたら抜けたで、

“抜け得”みたいな感じがないでもない。

「そんなに生真面目に困ることもないんだな」、

なんて思いさえ湧いてくる気がします。(^_-)

我々って、

みんな自分がいろいろ対応しているから

自分の現実が回っているように思っているけれど、

じつはそういうことでもないんじゃね?

って気がしないでもない

今日このごろでございます。(*^_^*)


さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

ジャン・クラインの『われ在り I AM』。

とても不思議な本です。

あるときにはとってもよくわかる気がすることもある。

でも、またどうかすると、

まるで手も足も出ないような気がすることもある。

そして、

これにしがみつかないでどうする!

という気分になるときもある。

ときには難しいことなど何も書いてない、

という気がするときもある。

しかしまたどうかすると、

あらゆる言葉が普通とはまったく違う

かけ離れた地平から発しているようにも思われる。

「難読」というなら、

これほど難読の本はめったにありません。

しかしまたここではあらゆる言葉が

けっして古びない原石の輝きを放っている。

なんとかしがみつかなきゃ……。

本書の前の方から意味がわかりそうな部分を

順にご紹介しています。

前回に続いて

「4」節の残りの部分をご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 【質問者】
 どうすれば絶え間なく揺れ動く思考の流れから
 抜け出すことができますか?
 
 【ジャン・クライン】
 現れては消えていく思考の流れを
 ひたすら観察してください。
 それらを拒絶したり助長したりしてはなりません。
 決してそれらを導こうとしてもなりません。
 ただ、
 淡々と注意深く見ていてください。
 そうすればすぐに、
 あなたは思考や感情、
 感覚などがこの無方向的で注意深い意識、
 つまりあなたの開放性(オープンネス)の中に
 現れるのを感じられるようになるでしょう。
 それらはあなたがいるからこそ存在するのです。
 ゆえにそれらの現れはそれらの故郷である、
 真のあなたを指し示します。
 最初にあなたは、
 自分が自分自身の思考に介入し、
 それらを抑圧したり、
 逆にそれらに飲み込まれてしまったり
 していることに気づくでしょう。
 あなたがそんなことをするのは、
 孤立させられ、
 今まさに死にそうになっている自我(エゴ)が
 不安を感じているせいです。
 しかし、
 能動性や受動性といった心の習慣から自由になると、
 あなたは自分本来の
 静かな注意の状態になってゆくでしょう。
 
 【質問者】
 では、完全に無念無想にならなくても、
 この本来の注意の状態になれるのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 この状態は
 思考の不在によって起こるのではありません。
 それは、
 その中で思考が現れては消えていく場です。
 それは思考の「背後に」あります。
 ですから、
 無理矢理心の揺れ動きをなくそうとするのではなく、
 ただ頭の中を明瞭にしていてください。
 単にすべてを歓迎するような
 開放性を保ってさえいれば、
 自分のネガティブな感情や欲望、
 恐れなどを受け入れ、
 理解できるようになるでしょう。
 ひとたび無方向的な注意の中で受け入れられれば、
 これらの感情はひとりでに燃え尽きてしまい、
 後には静寂だけが残ります。
 現れてくるものすべてに気づくように、
 注意深くしていてください。
 すると、
 まもなくあなたは
 自分が思考に巻き込まれることなく、
 それを傍観していることに気づくはずです。
 これが事実として確立すれば、
 思考が生じようと生じまいと、
 あなたはそれに
 縛られなくなります。
 
 『われ在り I AM』(p34-35)
──────────────────

> どうすれば絶え間なく揺れ動く思考の流れから
> 抜け出すことができますか?

普段これほど思考の中に絡め取られている者としては

この思考の流れの外に出られたらどれほど楽だろう!

と想像する気持ちはよくわかります。

ジャン・クラインの処方は単純です。

われわれはもともと

思考の流れの中にいるわけではない。

思考の流れがわれわれの中に発生しているだけ。

だから

【現れては消えていく思考の流れを
 ひたすら観察してください。】

という一見なんの変哲もない提案です。

そしてもう少し具体的な忠告もしてくれます。

【それらを拒絶したり助長したりしてはなりません。
 決してそれらを導こうとしてもなりません。
 ただ、
 淡々と注意深く見ていてください。】

そうやって思考を見ていたら、

そういう思考が

<気づき>、つまり自分に対して

自分が受け入れているからこそ

自分の中に現れているのが

感じられるようになるだろうというのです。

だからそういう思考は

あなた(気づき)という故郷を指し示しているのだと。

最初のうちは

あなたはその思考に介入して、

それらを抑圧しようとしたり、

逆にそれらに呑み込まれたりするかもしれない。

【あなたがそんなことをするのは、
 孤立させられ、
 今まさに死にそうになっている自我(エゴ)が
 不安を感じているせいです。】
 
(@_@) ⌒★?

なんと!

そういうことだったのか……。(-_-;)

ここで質問者は、

じゃ、別に無念無想にならなくたって、

そういう自分本来の注意の状態になれるのか?

と聞きます。

するとジャン・クラインは

この観照ということと

思考のあるなしとは無関係だと言います。

なぜなら、

この観照というのは

「その中で思考が現れては消えていく場」

のことだからと。

思考があろうがなかろうが、

観照は思考の「背後に」常に存在するのだから。

その思考を追い払おうとすること自体も

また単なる別の思考に他ならないので、

無理矢理それらの思考を抑え込もうとするのではなく

ただすべてを歓迎するような開放性を保っていればいい。

そうしていれば、

ネガティブな感情や欲望、あるいは恐れも

ひとたびこの歓迎するような

開放的で無方向的な注意の中で受け入れられれば、

すべてひとりでに燃え尽きてしまい、

後には静寂だけが残る……というのです。

ただ現れてくるものすべてに気づくように

注意深くしていればいい。

そうすればやがてあなたは

自分がそれらの思考に巻き込まれることなく、

ただそれを傍観していることに気づくだろうと。

そしてそれが観念的な知識ではなく

ひとたび事実として確立すれば、

思考が生じようと生じまいと、

あなたはそれに縛られなくなる、と。

こう言われると今にもできそうな……。

──────────────────
 【質問者】
 あなたの話を正確に理解できているとすれば、
 もし私の頭の中が明日の仕事の予定や家庭の問題、
 空想や白昼夢などでいっぱいだとしても、
 私は受動的にそれらに巻き込まれることなく、
 かといって強制的に
 それらの考えを追い払おうとするのでもなく、
 ただ思考から観察へ重点を移しさえすればよい。
 観察し続けていれば、それらは消えてゆく。
 そういうことですか?
 
 【ジャン・クライン】
 そうです。
 
 【質問者】
 ということは、
 たとえ無方向的な注意を感じているときでも、
 思考は生じるということですか?
 それとも、
 その思考は話が終わらないうちに
 すぐ消えてしまうということなのでしょうか?
 
 【ジャン・クライン】
 もはや思考は形成されません。
 
 【質問者】
 つまり単に考えようという衝動が起こるだけで、
 思考は形成されなくなるときがくるのですね。
 
 【ジャン・クライン】
 そのような脈動すら消えてしまいます。
 もはや脈動を煽るものが何もないからです。
 対象を維持するのは主体です 。
 主体がなくなれば、
 対象もその支えを失って消えてしまいます。
 現れては消えていく感情や思考に対して積極的に、
 あるいは消極的に何らかの対応をしているとき、
 あなたは自我という中心点から
 それらを見て行動しています。
 しかし、
 この自我という中心点は幻想に過ぎないと知ると、
 あなたは自然に
 そのプロセスの外へ出ることになります。
 その瞬間、
 方向づけられたエネルギーがすべて、
 忽然(こつぜん)と消えてしまうのです。
 
 あなたが思考やかすかの衝動を観察しているとき、
 そこにはまだ主体と対象の関係があります。
 その関係はまだ一つの中心と結びついています。
 しかし、
 あなたが気づき(アウェアネス)の状態にあるとき、
 中心はもはや存在しません。
 
 気づきとは、
 自分の周囲に気づくこと、
 そして気づいていることに気づくことです。
 周囲のものは気づきの中に現れます。
 ですから、
 最終的には瞑想教室へ行く必要もなくなります。
 なぜなら、
 もう対象も思考も脈動もないからです。
 
 【質問者】
 心が揺れ動いている状態から、
 考えたり投影したりしようという
 脈動すら消えてしまった状態との間には、
 過渡的な段階があるように思われます。
 そうですか?
 
 【ジャン・クライン】
 一番初めから私たちは究極の無の状態、
 すなわち気づきそのものだけを重視しています。
 ある状態から別の状態への
 過渡的な段階はありません。
 思考や脈動はこの気づきの中に現れます。
 瞑想において経過段階はありません。
 意識は経過しないからです。
 観察すること、
 つまり究極の観照は一瞬で生じる出来事です。
 経験や実験は
 この自然な無の状態の中で起こります。
 経過の中に経過はありません。
 経過も移行も等しく、
 決して前進も後退もしない連続体の中に現れるのです。
 
 『われ在り I AM』(p35-37)
──────────────────

そういう言葉を聞いたら質問者も驚きます。

じゃ、

これまでのいつものように

たとえ頭の中が

明日の仕事や家庭の問題でいっぱいになっていて

空想や白昼夢に満たされていたとしても、

あえてそれらを無理やり追い払おうとしたりせずに、

ただ気づきの焦点をそれらの思考から

観察すること自体に移しさえすれば、

それらの思考は消えていくということなのか、

と聞きます。

ジャン・クラインが首肯くのを聞くと、

質問者はさらに、

ということは、逆に言うと、

その歓迎的な無方向の注意を感じていても、

思考は生じるということなのですか?

それともそういう思考は

すぐに消えていくということなのか、と確認します。

ジャン・クラインの解答は

「もはや思考は形成されません」

という驚くべきものです。

質問者は念を押さざるをえません。

ということは、

ただ考えようという衝動が起こるだけで、

実際の思考は形成されなくなるときがくる、と

そう理解してもいいのかと。

ジャン・クラインは肯定します。

「そのような脈動すら消えてしまいます」と。

それは自然に起こってくることに

逆らおうとする者が存在しないからだと。

【対象を維持するのは主体です。
 主体がなくなれば、
 対象もその支えを失って消えてしまいます。】

(@_@) ⌒★?

うう……。(-_-;)

現れては消える感情や思考に対して

積極的あるいは消極的に何らかの対応をしているとき、

われわれは“自我という中心点”から

それらの感情や思考を見て行動しているらしい。

しかしいったん

この“自我という中心点”が幻想だとわかると、

われわれは自然に

そのプロセスの外に出ることになる……というのです。

【その瞬間、
 方向づけられたエネルギーがすべて、
 忽然(こつぜん)と消えてしまうのです。】

(*_*) ⌒★?

ほんとにそれだけのことなの!(?_?)

(-||-)

ジャン・クラインの説明はこうです。

われわれが意図的に観照状態を保とうとして

“自分”の思考やかすかな衝動を観察しているとき

そこにはまだ主体と対象の関係がある。

その観察はまだ一つの“中心”と結びついている。

しかし、われわれが

起こってくるすべての思考や感情を歓迎する

無方向的な観察の立場から、

つまり<気づき>の立場から観察しているとき

そこには中心はもはや存在しないと。

<気づき>というのは

自分の周囲に気づくということであり、

またその気づいていることに気づいていること。

周囲のものは気づきの中に現れる。

起こっていることを歓迎し、受け容れる。

それ以上、

何かを学ぶ必要など何もない、と言います。

ジャン・クラインの説明を聞いていると

あまりに一挙に

究極の状態に行ってしまうように思われて、

質問者は念を押します。

しかし今の自分が日常的に経験している

マインドが揺れ動いている状態から、

思考や投影に対する衝動すら消えてしまうような

そういう状態はあまりにもかけ離れて感じられる。

その両者の間には中間的な状態、

過渡的な段階というのがあるのでしょうね?と。

ジャン・クラインの解答は

じつに清々しいまでに妥協がありません。

【過渡的な段階はありません。】

私たちは最初から究極の無の状態、

すなわち気づきそのものだけを重視しています。

ある状態から別の状態に向かう思考や

その思考への反応はすべてこの気づきの中に現れる。

それらの反応に気づいているということの中に

プロセス的な経過段階というのは存在しない。

【意識は経過しないからです。
 観察すること、
 つまり究極の観照は一瞬で生じる出来事です。】

(*_*) ⌒★?

経験とか実験というのは

この自然な無の状態の中で起こること。

経過と解釈されているものの中に

実際に経過しているものは何もない。

経過も移行も同じこと。

けっして前進も後退もしていない

<気づき>という連続体の中に現れているだけ。

──────────────────
 【質問者】
 経過がないとすれば、
 記憶とはいったい何なのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 記憶とは一つの思考方法です。
 もし、
 何かの思考があるとすれば、
 その思考は今、現れています。
 たとえ私たちがそれに「二千年前」とか
 「昨日」とかいったラベルをつけたとしても、
 それらのラベルもまた、
 現在の思考です。
 与えられた時間には一つの思考機能しかないので、
 ある機能している瞬間、
 あなたはその機能を果たしている者です。
 
 【質問者】
 私がその機能を果たしている者であり、
 その他には何もないならば、
 どうしてその機能を果たしていたことを
 後から思い出すことができるのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 それが思い出されるということは、
 それがあなたの全体的な気づきの中で
 現れたことの証拠です。
 「意識とその対象は一つである」という言葉で
 私たちが言わんとしているのはそういうことです。
 それは観照と呼ばれることもあります。
 この全体的な気づきの中で、
 物事はいわゆる過去や未来から現れてきますが、
 それらはすべて普遍的な現在に属しています。
 それゆえ実際には記憶は存在しません。
 記憶は気づき、
 すなわち観照の中で生じる機能なのです。
 
 【質問者】
 いつ私たちは自分の行動を観照するのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 あなたは常に自分の行動を観照しています。
 ですから、
 観照しようとしてはなりません。
 観照は機能ではなく、
 また描写できるものでもありません。
 あなたはもともと観照者なのであって、
 観照者になろうとすることはできません。
 これはきわめて重要なことなので
 よく理解しておいてください。
 あなたはただ、
 自分は観照者であるということを
 ちゃんと自覚してさえいれば十分です。
 そうすれば、
 自分を思考者や行為者だと考える
 古いパターンや習慣は消えていきます。
 
 何らかの行動をするとき、
 あなたとその行動は一つです。
 行動の中に自我はいません。
 後になってから、
 自我はそれを誰かに割り当てようとし、
 「私はこれをした」と言います。
 しかし、
 行動している瞬間、
 行為者はなく、
 ただその行為だけがあるのです。
 
 干渉する主体は、
 ひとたびそれが存在しないものだと知覚されると
 消えてゆきます。
 そして、
 その後には純粋意識だけが残ります。
 自我という主体なしに、
 主体と対象という関係もありえないので、
 一つの対象として現れていたものも、
 もはや一つの対象であるとさえ言えなくなります。
 それはこの現実、
 つまりこの静寂の一つの表現に過ぎないのです。
 
 『われ在り I AM』(p37-38)
──────────────────

もし経過がないのだとすれば、

じゃあ、記憶とはいったい何なのですか?

と質問者は尋ねます。

ジャン・クラインは、

記憶というのは、

「記憶」というラベルの付いた

思考方法の一種なのだと言います。

どんな思考も<今>現れていて、

「記憶」という思考も現在の思考なのだと。

そう聞いた質問者は、

では、

もし<今>現れている思考しかないのなら、

どうして後から思い出すことができるのか?

と尋ねます。

ジャン・クラインは、

それが思い出されるということ自体が、

それが全体的な気づきの中で現れたということの

証拠なのだと答えます。

【「意識とその対象は一つである」という言葉で
 私たちが言わんとしているのはそういうことです。】
 
と。

記憶というのは、

<気づき>、

つまり観照のなかで生じている一つの機能で、

実際には記憶というものは存在しないのだと。

観照を自分がすることと思っていた質問者は、

いつ私たちは自分の行動を観照するのか?

と尋ねます。

ジャン・クラインは

ここで非常に重要なことを言います。

【あなたは常に自分の行動を観照しています。
 ですから、
 観照しようとしてはなりません。】

と。

マハラジもよく、

「それは観照ではない」と言っていたものです。

観照とは、

エゴが意図してできるようなことではない。

「あなたが観照なのだ」といった

ニュアンスなのだと思います。

ジャン・クラインもここで

【あなたはもともと観照者なのであって、
 観照者になろうとすることはできません。】

と言っています。

そして

「これはきわめて重要なことなので
 よく理解しておいてください。」

と念を押しています。

われわれがどう思おうと事実が変わることはない。

とはいえ、

誤解を信念とするのではなく、

事実を信じたほうが自然ではあります。

だから、

【あなたはただ、
 自分は観照者であるということを
 ちゃんと自覚してさえいれば十分です。
 そうすれば、
 自分を思考者や行為者だと考える
 古いパターンや習慣は消えていきます。】

ということになるのでしょうね。

そして現実は思考に伴うので、

【干渉する主体は、
 ひとたびそれが存在しないものだと知覚されると
 消えてゆきます。
 そして、
 その後には純粋意識だけが残ります。】

ということになるのだと思います。

主体がなければ、

主体と対象という関係もありえない。

そのため、

一つの対象として現れていたものも、

もはや対象であるとさえ言えなくなる。

つまるところ、

それはこの静寂の一つの表現に過ぎない

ということになるのでしょう。

──────────────────
 【質問者】
 私たちは自分自身をより良くするために
 何か努力すべきではないのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 あなたはいったい何を良くしたいのですか?
 あなたは完全です。
 いつも何か足りないと感じている、
 人格というベールを取ってください。
 そうすれば完全性だけ残ります。
 ひとたび偽りが偽りだとわかると、
 偽りのものはひとりでに消えてゆきます。
 あなたは自分を心や身体と同一視しています。
 それゆえに、
 あなたは改善したいと思うのです。
 心と身体が自分だと信じている限り、
 あなたはそれらの道具に支配され続けます。
 
 しかし、
 あなたが自分は心と身体だと信じるのをやめれば、
 その瞬間に、
 その誤りのために使い尽くされていた
 エネルギーが解放されます。
 心や身体をあるがままに放っておいてください。
 そうすればもう、
 あなたはそれらに支配されません。
 それらはあなたという全体のほんの一部に過ぎません。
 ただ、
 自分の不完全なところに気づいていてください。
 そうすれば、
 この気づきそのものが
 不完全なところの処理をしてくれます。
 ひとたび自分が心でも身体でもないとわかると、
 あなたは何が起ころうとそれらをすべて
 受け入れることができるようになります。
 自分にある基本的な自律性を理解することによって、
 すべてを受容する態度がもたらされるのです。
 
 あらゆることがこの歓迎という光の中で見られ、
 すべてがその中で現れては消えてゆきます。
 その結果、
 物事はその完全な意義を持つようになり、
 調和がひとりでに再構築されます。
 この「歓迎」は、
 研ぎ澄まされた気づきであり、
 その中に過去はありません。
 それは現在どんなことが繰り広げられようとも、
 自我によって制限されることも
 記憶によってゆがめられることもなく、
 それを許容し、
 反映することを目指します。
 
 この一体性(ワンネス)において、
 私たちは自分の本質、
 つまり究極の喜びと完全性を発見するのです。
 
 『われ在り I AM』(p39-40)
──────────────────

ジャン・クラインの説明の勾配が

ちょっと急過ぎたのかもしれません。

質問者はここで

ちょっと常識に戻りたくなったようです。

私たちは自分自身を改善するために

何か努力すべきではないのですか?

と聞きます。

ジャン・クラインは

あなたが自分を改善したいと思うのは

自分を心や身体と同一視しているからだ、と言います。

いつも何か足りないと感じている、

人格というベールを取ってください。

そうすれば完全性だけが残るのですと。

そして

心と身体が自分だと信じている限り、

あなたはそれらの道具に支配され続けることに

なるのですと。

そして、

自分は心と身体だと信じるのをやめさえすれば、

その瞬間に、

その誤りのために使い尽くされていた

エネルギーが解放されるのだと。

ひとたび自分が心でも身体でもないとわかると、

何が起ころうとそれらをすべて

受け入れることができるようになるのだと。

そして

【あらゆることがこの歓迎という光の中で見られ、
 すべてがその中で現れては消えてゆきます。
 その結果、
 物事はその完全な意義を持つようになり、
 調和がひとりでに再構築されます。】

と言います。

このすべてを歓迎する無方向の気づき、

【この一体性(ワンネス)において、
 私たちは自分の本質、
 つまり究極の喜びと完全性を発見するのです。】

と。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………

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■ 2.編集後記:
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ありがたいことです。

われわれの心配がしていることは、

ただ単に心配がふさわしい現実を呼び出す

ということ以外に

大した能力はないのかもしれません。

湧いてくる思考を

拒否したり嫌悪したりすること、

そしてその刺激にそそのかされて

行動に駆り立てられたりすることに

大した意味もないのかもしれません。

それなら、

ただすべての思いと

すべての現実を歓迎していたほうがいいのかも。(*^_^*)

すばらしいですね。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
──────────────────
mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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