home > 通信 >無方向的な注意:『アセンション館通信』第978号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/01/15(第978号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.無方向的な注意

2.編集後記
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■ 1.無方向的な注意
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今日は久しぶりの曇天。

寒いですね。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

ジャン・クラインの『われ在り I AM』。

を読むようになってから……何かが

すこし変わったような気がしないでもありません。

もちろん、

現れはいつも変化しているのですから、

pariの心境に多少の変化が現れたとしても、

そんなことは当然です。

驚くことでも自慢するようなことでもありません。

ただ、何が変わったかと言えば、

ジャン・クラインという方の言葉で

何かにつけて響いてくる内容の一つに、

われわれ(エゴ)の意図的な努力には

自然に起こる調和的変化を妨害する以外の

どんな意味もない……というその感じが

なんとなく伝わってきてしまったのです。

要するに、

努力できないのはそう悪いことでもない、

という感じです。(*^_^*)

まあ、こういうのは

ただの年齢的な変化かもしれません。

本書の前の方から意味がわかりそうな部分を

順にご紹介しています。

今回は「5」節からご紹介したいと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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 7
 
 
 【ジャン・クライン】
 あなたは「われ知る」(I know)を生きること、
 つまり認識そのものになることを
 まったく記憶できません。
 あなたが記憶できるのは、
 ある一定の時間に精神的な次元で理解したこと、
 つまり経験だけです。
 しかし、
 生そのものは時間や空間に束縛されません。
 それは経験ではなく、
 客観化することもできません。
 心(マインド)にまったく縛られずに生きることは、
 非二元的で純粋な在ることです。
 生を知っている本物の師は
 自分が教える内容を超越しています。
 真我(セルフ)を知ることは
 知識そのものになることであり、
 言葉だけではそれを伝えることができません。
 言葉とは真我という説明不可能なものの
 ぼんやりした影にすぎません。
 ですから、
 決して言葉によるコミュニケーションに
 とどまってはならないのです。
 教えは弟子に新たな聞き方をさせるため、
 つまり考えや期待を抱かずに
 完全に自分を開いて受動的に聞くようにさせるため
 「口実」にすぎません。
 そして、
 この開放性(オープンネス)は聞く者自身の真の本質、
 すなわち清寂、
 究極の知識です。
 その指導は肉体的にも精神的にも
 決して固定化してはなりません。
 師が師であることから完全に自由ならば、
 指導は時空の中で行われるけれど揺らぐことなく、
 その本源である真の存在を指示し続けます。
 いわゆる師はいわゆる弟子を
 心と身体のパターンから解き放ち、
 彼が真の自立と究極の安心、
 および継続的な無の状態を
 見つけられるようにするのです。
 
 客観的に物事を学ぶと、
 その過程はいつも断片的になってしまいます。
 しかし、
 グルは真理についての知識を全体的に伝えます。
 なぜなら、
 グルとその教えは一つだからです。
 師はただ目の前にいるだけで役に立ちます。
 なぜなら、
 師の現存(プレゼンス)は探求者に
 彼自身の現存(プレゼンス)を思い出させるからです。
 現存(プレゼンス)は師と弟子に共通したものであり、
 その中にすべての存在が現れます。
 それゆえ、
 意図せずして全体性を思い出させるようなものが生じ、
 弟子はそれに引き付けられるのです。
 永遠なるものは一瞬で現実の中に確立します。
 そうなれば、
 心身のエネルギーが再統合されるのも時間の問題です。
 
 【質問者】
 もし、私の理解が正しければ、
 つまりグルの教えは私たちの真我を指し示し、
 そうすることによって
 グルが目の前にいるときに起こることを
 私たちが頻繁に思い出せるようにしている、
 そして言葉は踏み台に過ぎず、
 対象のない静寂、すなわち充溢(じゅういつ)、
 あるいは真我を明らかにした後は
 すぐに消滅するということですね。
 
 【ジャン・クライン】
 まったくその通りです。
 
 『われ在り I AM』(p73-74)
──────────────────

> あなたは「われ知る」(I know)を生きること、
> つまり認識そのものになることを
> まったく記憶できません。
> あなたが記憶できるのは、
> ある一定の時間に精神的な次元で理解したこと、
> つまり経験だけです。

これ、面白いですね。

われわれが生きていたのは

言い換えると、認識そのものであったのは

まったく記憶のない幼児のときだけだった

ということのようです。

それ以後のすべては

精神的な次元であれこれ理屈を言っていただけだった。

それはすべて仏陀の言う

「苦(ドゥッカ)」でしかなかった。

だからマインドにまったく縛られずに

生きる生き方を思い出させるために

師が夢の中に入ってきてくださる

というわけなのでしょう。

──────────────────
 【質問者】
 私たちの成就を妨げている最大の障害は何ですか?
 
 【ジャン・クライン】
 私たちが可能性を実現しきることを
 妨げる主たる障害は、
 私という概念です。
 それは記憶や
 私たちがそこに属すると思っている
 社会的文脈などによって生み出された
 想像の断片に過ぎません。
 
 確かに、
 望んでいた対象が手に入ると、
 無欲になる瞬間、
 つまりいかなる意図からも私や知る者、
 知られるものからも自由な一瞬が訪れます。
 「私」がこの経験は自分のものであると主張したり、
 それを「私は幸せである」という考えに変化させ、
 主体と対象の関係の中に持ち込んだりするのは、
 あくまでもその後です。
 「私」は決して現存(プレゼンス)しません、
 「私」は記憶からできており、
 記憶を使って存在しています。
 そのため、
 何かを経験している瞬間には、
 「私」も主体と対象の関係もないのに、
 記憶はこの驚きや無力の状態を
 何らかの対象のせいにします。
 そうすることによって、
 記憶は私たちが対象の中に充足を求める
 プロセス全体を強化するのです。
 
 『われ在り I AM』(p75-76)
──────────────────

真の自分であることを妨げる

最大の障害は何か?

質問も端的ですが、

ジャン・クラインの解答もまことに端的です。

現象を自分だと思いこんでいるわれわれが

真の自分を思い出すのを妨げる主たる障害は

見かけの上で一瞬幸福になることを

つい求めてしまう“私という概念”だと。

あらゆる瞬間の姿・形・状況は

すべてつかの間のものでしかない。

永遠のものではありえない。

つまり夢の一場面でしかありえない。

このことに疑いの余地はありません。

するとその夢の一場面の一つの対象物と

気づいている自分を同一視してしまうことは

まさに幻想でしかない。

この幻想世界の中に迷い込んでしまえば、

われわれはとめどもなく

充足を求めて【見かけ】の中を彷徨させられる。

ユリディスを求めて彷徨う『黒いオルフェ』のように。

そして幻想世界自体が

その夢からの目覚めの手伝ってくれることはない。

われわれは実際は何を求めているのか?

求められているのは実際は

分離幻想からの解放です。

──────────────────
 【質問者】
 しかし、いつもエゴが
 一体性(ワンネス)を破壊しているならば、
 いったいどこから
 成就や無欲の状態への欲求が起こるのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 自我がその源から少ししか離れていないならば、
 もう一度源を見つけたいと切望するでしょう。
 この探求は一体性と充溢の記憶から生じます。
 あらゆる経験は
 私たちの真の在り方である無の経験から発します。
 「私」もまた、
 その源の香りを漂わせています。
 私たちは無欲になった瞬間や
 深く眠っているときに源を思い出します。
 そのため、
 自我は常に葛藤状態にあります。
 つまりいつも自我は
 一体性の中で我を忘れたいと憧れると同時に、
 存在し続けるために戦っているのです。
 
 驚きの原因として対象を思い起こすと、
 主体と対象の関係を助長することになります。
 そして、
 主体と対象の関係の中では「私」が王です。
 しかし、
 対象は対象のない状態を指し示すものに過ぎない
 と理解されれば、
 もう対象は重視されなくなります。
 そしてこのことは奥深い目覚め、
 つまり全体性の予感を生みます。
 やがて、
 その予感も自我とともに消え、
 ひとりでに真我が明らかになります。
 
 『われ在り I AM』(p76-77)
──────────────────

しかし求めている当人自身が

自分の分離幻想で一体性を破壊しているのなら、

夢から覚めたいという思いは

いったいどこから生まれてくるのか?

ジャン・クラインの説くところによると、

どうやらわれわれというエゴ自体も

じつは真我の香りを漂わせているらしい。

【自我は常に葛藤状態にあります。
 つまりいつも自我は
 一体性の中で我を忘れたいと憧れると同時に、
 存在し続けるために戦っているのです。】

アチャ!(>_<)

しかも、

分離幻想という主体と対象の関係の中では

主導権はつねに「私=自我」のほうにあるという。

ではその「私」が一体性の中で我を忘れ、

しかも存在し続けるという矛盾を

どうすれば解決できるのか?

それには自分の存在に気づいていて

しかもエネルギーを幻想の中に

漏出しないことしかない。

そこでジャン・クラインはあっけらかんと

その矛盾を解く魔法の鍵を渡してくれます。

【対象は対象のない状態を指し示すものに過ぎない
 と理解されれば、
 もう対象は重視されなくなります。】

と。

(*_*) ⌒★?

見られているあらゆる【見かけ】は、

見ている「私=真我」を指し示している。(@_@)

いったんそれが理解されれば、

もう対象は重視されなくなる。

そうすれば、

存在するという究極の喜びを実現しながら、

しかもエネルギーを

幻想の中に漏出せずにすむ。

──────────────────
 【質問者】
 どうすれば自我の考えを捨てることができますか?
 
 【ジャン・クライン】
 私たちの中には、
 錯覚による根深い信念体系があります。
 それは、
 対象や私たちの周りにあるものは
 すべて自分とは分離していて、
 自分の外にあるというものです。
 さらに私たちは自分を身体や感覚、
 心などと同一視し、
 私とあなたが分離した世界を作り出します。
 この私たちの信念を最大限に広げ、
 自分の感情や身体、思考などを、
 他の木や馬や鳥などのような対象として見ることは、
 初めのうちは非常に役に立ちます。
 そうすることによって、
 私たちと心身との非合理で密接な関係の間に
 いくらか距離を置くことができるからです。
 
 やがて私たちは、
 自分の思考、「私」という考え、
 感情、好き嫌いなどは皆等しく、
 知覚の対象なのだとわかります。
 そして、
 この観点によって、
 私たちは自然に「自分は知る者である」と認識し、
 個人的な実体であるという考えは
 まったく無意味になります。
 
 自分の周りにあるものを
 対象の集まりだとする考え方も変化するでしょう。
 対象はもはや、
 正確に言うと対象ではなくなります。
 このときから、
 それは知る者、
 すなわち意識の延長、
 あるいは表現となります。
 これは一瞬でとらえられた全体的理解の結果です。
 この経験は一歩一歩進む分析的過程とは
 まったく異なります。
 
 『われ在り I AM』(p77-78)
──────────────────

【見かけ】に囚われているわれわれは

対象や自分の周りにあるものはすべて

自分とは分離していて、

自分の外にあるという根深い信念をもっている。

だから最初はまずその信念(分離幻想)を

“自分”の身体、感情、思考にまで拡大して、

その“自分”の身体や感情や思考もすべて

自分とは分離している対象物であると

見なすことは非常に役に立つ。

そうすれば、

われわれの心身への偏った一体化を緩めて

それらにいくらか距離を置くことができる。

そうしているうちにやがて、

そうだとするなら

自分の思考や、感情、好き嫌いも、

「私」という概念の、「私」という身体感覚さえも

みんな同じく知覚の対象だったわけだ

ということがわかってくる。

その観点から見ていると、

自然に「自分は知る者である」という認識が定着し、

個人的な実体というような考えは

まったく無意味になってくる。

そうなると

肉体という乗り物に固有の特性、

すなわち視野の関係や眉間の感覚から派生していた

“知覚の中心”という信念も解体しはじめ、

自分の“まわりにあるもの”を

対象物の集まりと見なしていたその思い込み方自体も

変化してくることになる。

すべての知覚の対象物は、

もはや正確には対象物とも言えなくなる。

この観点から見直すなら、

それは知る者の延長、

言い換えると意識の延長、

あるいは意識の表現ということになる。


こうやっていつものpariふうに、

言葉を使って一見論理的に書くと

それは理屈ともとらえることができる。

これはpariふうエゴの必死の引き伸ばし作戦。(^_-)

でもそれは別の言い方をすると、

淀君が大阪城の外堀を埋める許可を

出してしまったようなものとも言える。

淀君はまだまだ諦めたつもりはない。

しかし、実際は勝負はついている。

もう淀君が大勢を挽回することはできないだろう。

しかし、それはそれとして、

それが腑に落ちる瞬間は

一瞬でとらえられた全体的理解の結果です。(*^_^*)

ジャン・クラインによると、

【この経験は一歩一歩進む分析的過程とは
 まったく異なります。】
 
ということですから。(^_-)

──────────────────
 【質問者】
 このような理解はいつでも起こりうるのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 目覚めているとき、
 夢を見ているとき、
 深い眠りから目覚めようとしているときなど、
 いついかなるときでも
 この瞬間的理解は起こりえます。
 この理解は(そして、この理解だけが)
 あらゆるお決まりのパターンを消し、
 それらを全体に再統合します。
 
 大部分の人は、
 注意とは何かに向かって集中すること、
 またある対象の魅力に引き込まれることとしか
 理解できません。
 私たちの興味を引く対象を重視すると、
 そのことによって連続性の幻想が生まれます。
 しかし、
 無方向的な注意は対象が静かな平安、
 つまり究極の非二元的な意識の中へ
 溶け込んでゆくことを可能にします。
 そして、
 この意識はあらゆる見かけ上の二元性の背景です。
 
 全体的な理解は瞬時に起こり、
 解釈や疑念の余地を残しません。
 この明瞭な視野のひらめきの中で、
 時間と空間は消滅します。
 長短や善悪の選択は、
 私たちが自己を物事の物質的な側面、
 つまり肉体と同一視していることによって起こる、
 概念的な過程です。
 しかし、
 理解はそれとはまったく異質であり、
 対立や相互補完性を超越しています。
 そして、
 この全体的な知識だけが、
 すべての条件づけを消し去ることができるのです。

 『われ在り I AM』(p78)
──────────────────

このような理解はいつでも起こりうるか?
 
ジャン・クラインは答えます。

【目覚めているとき、
 夢を見ているとき、
 深い眠りから目覚めようとしているときなど、
 いついかなるときでも
 この瞬間的理解は起こりえます。
 この理解は(そして、この理解だけが)
 あらゆるお決まりのパターンを消し、
 それらを全体に再統合します。】

(-||-)

世の中に生きる大部分の人間にとっては、

注意とは対象物の魅力に引き込まれること。

そしてそのタイプの注意によって

現象世界の連続性の幻想が生まれている。

しかし、

ジャン・クラインのようなグルの教によって

“対象物を重視する”注意ではないところの

“見ること自体を重視する”無方向的注意があると知って、

その注意の面白さに従った者には、

新たな可能性が開かれる。

対象物が静かな平安の中へ溶け込んでゆく可能性、

究極の非二元的な意識の中へ溶け込んでゆく可能性が。

なぜなら、

この意識はあらゆる見かけ上の二元性の背景だから。

そのとき全体的な理解は瞬時に起こり、

解釈や疑念の余地を残さない。

【この明瞭な視野のひらめきの中で、
 時間と空間は消滅します。】

(-||-)

これまで世界を現象させていた

諸々の比較・判断・選択は

われわれが自分を肉体と同一視することで起こっていた

概念的な過程。

非二元性の理解はそれとはまったく違う。

それは対立や相互補完性を超越している。

この全体的な知識だけが、

すべての条件づけを消し去ることができる。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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ありがたいことです。

エゴの解体を望みます。

それ以外のことを望む意味がないから。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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