━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2023/01/22(第979号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.非難や拒絶は拘束する
2.編集後記
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■ 1.非難や拒絶は拘束する
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昨日はサンデッキに椅子を出して
たっぷりと日向ぼっこして、
あんまり気持ちが良くて眠ってしまったものですが、
今日はそれをするにはちょっと寒すぎました。
でもやっぱりいい日でした。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
みなさま、この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
「世の中に 寝るほど楽は なかりけり
浮世の馬鹿は 起きて働く」
江戸時代の太田蜀山人の「狂歌」だそうです。
少なくともこの地球という惑星上の生活で
何が一番安楽と言って、
意識内容のないぐっすり眠った状態ほど
楽なことはありません。
子供の頃はそんなことはなかったけれど、
肉体年齢の上でいわゆる“大人”になってからは
朝の目覚めではじゃっかん残念な思いが
浮かばないこともありません。(^_-)
このまま目が覚めなければよかったのに、
などという思いも湧きます。
ジャン・クラインは『われ在り I AM』の中で
【深い眠りは真我の最も純粋な表現です。】
と述べています。
【なぜなら、
深い眠りは二元性の中にはないからです。
いわゆる「深い眠り」は
──時間について言うならば──
長続きしません。
そして、
それに続くまどろみの中で、
私たちはまた自分が主体と対象の関係の中に
戻っていることに気づきます。】
と。
どうやら、
「主体と対象の関係」という幻想の中に
われわれの「苦しみ」という幻想もあるらしい。
あるいは両者は同じ幻想に与えられた
異なるラベルなのかもしれません。
「自我」という誤解の中にいるわれわれは
“自分”が“何か”だという
深い習慣的思い込み(癖)にどっぷりと浸かっています。
朝、目が覚めて“自分”が蘇り、
起き上がった身体が重く感じられたりしたら、
反射的に“苦々しい思い”が湧いてきます。
まさにこれをこそ「苦」というのでしょう。
ジャン・クラインは
【意識がその対象と自分を同一視すると、
主体と対象の関係が生まれます。
そして、
私たちは苦しむ者と苦の対象について
語ることができるようになります。
しかしこれらを知る者は対象ではありません。】
と語ります。
そしてまた
【対象そのものには喜びも苦痛もありません。
苦痛や喜びは完全に
その背後にある人格に依存します。
私たちは
一つの状況にあるすべての要素を
単なる事実として見ること、
つまり
状況を受け入れることができません。
それは人格という幻が選択を行うせいです。
私たちは苦しみます。】
とも。
現象世界における相対的“主体”も“対象”も、
ともに絶対的主体である<気づき>の中の対象物
であることによって顕現しています。
現象中の相対的“主体”にも“対象”にも
対象そのものには喜びも苦痛もありません。
またそれらの表現に気づいている
絶対的主体である<気づき>にも
喜びも苦痛もありません。
【苦痛や喜びは完全に
その背後にある人格に依存します。】
苦しみなど実在しない意識の中で、
苦しみという注意喚起の幻想を生み出すことを
遊びにしている何者かが
誤解あるいは幻想として湧いてくるのでしょう。
ジャン・クラインの『われ在り I AM』を
読むようになってから……、
何も失われてはいないのだということ、
ただ自分が自分であることが
自明になりつつあるのだということが
たとえ知的にではあっても了解されてきたのか、
焦りのようなものはあまり湧かなくなりました。
それもこれもただ波動宇宙全体の中で
自然現象として起こっているのかもしれませんが。
本書の前の方から意味がわかりそうな部分を
順にご紹介しています。
今回は「5」章の前回に続く後半部分を
ご紹介したいと思います。
この本は1981年に出版された本の全面改訂版のようですから、
欧米世界にアドヴァイタを普及したパイオニアである
ジャン・クライン師が
今から40年前の西洋人に語りかけている言葉です。
特にこの箇所は
語られる言葉の概念を知ろうとする質問者の言葉と
ジャン・クライン師の解答の言葉が細かく交互に現れます。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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【質問者】
スピリチュアルな問題といえば、
神についてはどうお考えですか?
【ジャン・クライン】
神は一つの概念です。
【質問者】
概念とは何ですか?
【ジャン・クライン】
一つの観念、あるいは思考です。
【質問者】
では、思考とは何ですか?
【ジャン・クライン】
視覚や聴覚、触覚などの
記憶から引き起こされたイメージであり、
一つの対象です。
【質問者】
思考はすべて、対象なのですか?
【ジャン・クライン】
はい。
「われ在り」(I AM)という思考以外はそうです。
しかし、
「われ在り」という思考は
物質的な実体を持っていません。
それは対象化できない、
生そのものから直(じか)に湧き起こります。
『われ在り I AM』(p79)
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神とは一つの概念、一つの思考だということ。
そして思考とは
視覚、聴覚、触覚といった五感の
記憶から引き起こされたイメージであり、
一つの対象であるといった、
このあたりのジャン・クライン師の言葉は、
当時の道を求めていたウェスタンの方々に
強烈な刺激と解放感を与える表現だったでしょうね。
(今の時代のわれわれ、
特にニサルガダッタの言葉に触れているわれわれは
いわば岡目八目の後出しじゃんけんみたいなものですから、
特に違和感なく理解できます。)
その上でジャン・クライン師は
ただし、「私は在る」という思考だけは、
普通のいわゆる観念ではないのだと言います。
「私は在る」という思考にだけは
対応する物質的な表現形態がない。
言葉を換えると、対象化できない思考なのだと。
このあたりの理解の仕方については、
マハラジの言葉に触れてきたわれわれには
観念として違和感なく了解できると思います。
この言葉を初めて聞いた質問者は、
では、
どうすればその「私は在る」を経験できるのか?
と尋ねます。
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【質問者】
どうすればそれを経験することができますか?
【ジャン・クライン】
それは時間と空間を超えているので、
経験することはできません。
【質問者】
私にも理解できるように、
もう少し詳しく説明していただけませんか?
【ジャン・クライン】
信念や観念、概念、
つまりあなたにとって最も身近なもの、
今この瞬間の自分の肉体的および心理的状態から
離れてください。
あなたの環境はあなた自身の身体、
すなわちあなたの生命力から始まります。
何が現れようと、
それは現れた瞬間に、
全体として受け入れられなくてはなりません
(「受け入れられる」とは、
そこに意志が関与しないことを意味します。
私たちはここで、
受容と拒絶という対語について
話しているのではありません)。
非難したり拒絶したりすることによって、
自由になることはできません。
それどころか、
非難や拒絶はあなたに重くのしかかり、
あなたを拘束します。
誰も選択する者がいなくなったとき初めて、
あなたは事実を見ることができるようになります。
そして、
事実を通してのみ、
あなたは完全な自由を見出せるのです。
あなたが攻撃的にも拒絶的にもならずに聞くと、
耳のみならず全身がこの聞くことになります。
そして、
あなたを囲むすべてのものが、
この包括的な聞くことの中に含まれてゆき、
最終的には聞く者も聞かれるものもなくなります。
そのとき、
あなたは非二元性の戸口に立っています。
あなたはすでに概念的なパターンを後にしたのです。
それについて話すだけではなく、
自分自身でそれを生きてください。
『われ在り I AM』(p80-81)
──────────────────
その「私は在る」というのは
どうすれば経験できるのかという問いに、
まずジャン・クラインは
それは時間と空間を超えたものであり、
経験することはできないと答えます。
自分にもわかるようにもうすこし詳しく
説明してほしいという問いに対して、
質問者の理解力を感じたためなのか
ジャン・クラインからは質問に直接答える形での
解答は返ってこなかったようです。
ジャン・クラインはこんなふうに答えます。
普段あなたが“自分”だと思っているもの、
日常のあなたに最も身近な“自分”とは、
実際は今この瞬間のあなたの肉体的・
心理的状態から生まれた信念や観念であり
あなたはそれらの個人的な信念や観念で
自分自身の生命力から始まっている
あなたの環境や自身の身体に起こる現実を
非難したり拒絶したりしているのだと説明します。
しかし
【非難したり拒絶したりすることによって、
自由になることはできません。】
それどころか逆に、
【非難や拒絶はあなたに重くのしかかり、
あなたを拘束する】ことになる。
誰も選択する者がいなくなって初めて、
あなたは事実を見ることができるのだ、と。
そして、
あなたが完全な自由を見出すことができるのは
事実を通してしか起こりえないこと。
そして
あなたが攻撃的にも拒絶的にもならずに
自分の周囲で起こっている現実を
聞くことができるようになると、
耳だけでなく全身がこの聞くことになる。
そうすれば
あなたを囲むすべてのものが、
この包括的な聞くことの中に含まれてゆき、
最終的には聞く者も聞かれるものもなくなるのだと。
そうなったとき、
あなたは非二元性の戸口に立っている。
そのときあなたは
これまで習慣的な癖になっていた
概念的なパターンを後にしたのだと。
そして、
ただそういう聞いた言葉を口にするだけでなく、
現実に自分でそれを生きることが必要なのだと。
どうやら
何かを非難したり拒絶したりするのは、
その幻想の自分を強化する役にしか立たないらしい。
幻想の中ではひどく高くつくようです。
──────────────────
【質問者】
私の理解が正しければ、
生とはすべての思考が終わり、
すべての感覚が静まったときに残るものである
ということですね。
【ジャン・クライン】
あなたはすでに
出来上がった思考パターンを持っています。
生は決して対象化できない連続体であり、
常に現存(プレゼンス)する「今」です。
あらゆる思考や感情、感覚は
この生から自発的に湧き上がってきます。
意識は思考や感覚の不在に依存していません。
ですから、
対象の不在を重視してはなりません。
ただ意識と生の現存(プレゼンス)だけを
重視してください。
意識は思考や感覚があってもなくても常にあります。
『われ在り I AM』(p81-82)
──────────────────
そのようなジャン・クラインの言葉を聞いて
質問者は、
それでは、すべての思考が消えて、
すべての感覚が静まらなければ
「生」は起こらないということですね?
というふうに確認します。
ジャン・クラインはその見解を否定します。
それはあなたがすでに持っている
一種偏見的な思考パターンです。
あらゆる思考や感情、感覚は
この生から自発的に湧き上がってくるのです。
思考や感覚が存在しないところに
意識があるのではありません。
だから感覚や思考といった対象物が
存在しないことを重視してはいけません。
意識は思考や感覚があってもなくても常にあります。
意識と生の現存だけを重視してください、と。
どうやら無心であろうと努力する必要はなさそうです。(*^_^*)
瞑想不得手人間にとってはありがたい言葉。(^_-)
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【質問者】
その場合、
私たちを取り囲む諸対象や世界とは何なのですか?
【ジャン・クライン】
朝、身体が目を覚ますと世界が現れます。
世界は五感で知覚され、
第六感である脳によって思考されます。
そして、
対象には無限の形と名前があります。
しかし、
それらは意識の外には存在しません。
禅の言葉で言い換えると、
初めに概念の山々があり、
それから概念がなくなると、
今度は知覚の山々があるということです。
(訳注:中国の禅僧、青原惟信(せいげんいしん)
の言葉からの抜粋)
『われ在り I AM』(p81-82)
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じゃあ、この森羅万象を含む
現象世界というのはいったい何なのですか?
と質問者は尋ねます。
それに対してジャン・クライン師は、
朝、目を覚ますとわれわれは身体の中にいて、
そのわれわれに
現象は世界として現れるように見える。
その世界は肉体のセンサーである五感で知覚され、
第六感である脳によって思考され観念化される。
かくて知覚された対象は
無限の形と名前をもった諸対象となる。
しかし実際は、
それらは意識の中に現れた意識内容であり、
意識の外側にそれらの実体が存在するわけではない。
この現象のあり方を禅ではこのように描写する。
はじめわれわれが
世界を現実として見ていたとき、
その世界には山々があった。
しかしじつはそれらは概念にすぎなかった。
次いで、それらの山々が
単なる概念にすぎないと了解されたとき、
実際に在るのは唯一<気づき>だけであり、
そこには山々というものは存在していなかった。
しかし今、
仮初の相対的“主体”も“対象”も消え失せ、
すべての知覚現象は<気づき>である自分の
表現なのだと了解されると、
今度はまた山々は山々として存在していた、と。
──────────────────
【質問者】
「私」と世界との関係には何か意味があるのですか?
【ジャン・クライン】
そこには何の目的もありません。
神は完全であり、
それ以上発達することがないからです。
しかし、
あえて目的について語るならば、
世界と対象は究極の主体である「われ在り」を
開示するためにだけあるのだと言えます。
【質問者】
あなたにとって、神と意識は同じものですか?
私たちの本質は神なのですか?
【ジャン・クライン】
そうです。
二つのものはありません。
何者かとしての私たちが存在しないとき、
神が在ります。
そして、
この不在もまた神に属しています。
神だけが在るのです。
『われ在り I AM』(p82)
──────────────────
客観的に存在すると思われた世界は
じつは意識の中に現れた概念だった。
ゆえにそれが<気づき>に対する概念として
理解されたとき世界は消失する。
しかしそれがさらに<気づき>の表現なのだと
理解されたとき世界は再び現れる……と聞いた質問者には
新たな質問が湧いてきたようです。
もし「私」と世界の関係がそのようなものなら、
そのような「真我」と世界との関係に
「何か意味があるのか?」という疑問です。
質問者のこの「意味」という言葉を、
「目的」という言葉に置き換えて、
ジャン・クラインはこう答えます。
いや、そこには何の目的もない。
というのも、もともと神は完全なので、
それ以上発達のしようがないからだと。
しかし、それを承知の上で
あえて目的について語るなら、
それは、
究極の主体である「私は在る」という意識が、
自分の存在を現象として開示するためだとも
言えるだろうと。
質問者は念を押します。
それは神と意識は同じものだということか?
私たちの本質は神なのか?と。
ジャン・クラインは肯定します。
実在するものは二つのものではない。
私たちが何者かであるとき、
神は存在しない。
何者かとしての私たちが存在しないとき、
神が在るのだと。
そして、
この神の不在自体も神に属しているのだと。
つまり、神だけが存在するのだと。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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週の終わりに毎回
このような言葉を書き連ねたからと言って、
神しか存在しないという
統覚が実現するわけではありません。
しかし、
そうでありながらも、
こんなふうな言葉を書き連ねる以外の
在り方ができない。
そうであるなら、それでいいわけです。
神がそうして遊んでいるのなら。
(*^_^*)
今日も晩くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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