home > 通信 >わたしは死ぬのが怖い?:『アセンション館通信』第980号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/01/29(第980号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.わたしは死ぬのが怖い?

2.編集後記
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■ 1.わたしは死ぬのが怖い?
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今朝起きたときは外は真っ白でしたが

わたしの夢の中でこのあたりは快晴なので、

サンデッキの雪は午前中に融けて

午後は硝子戸の中で温かい日差しを浴びました。

穏やかな夢を見せてもらっています。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

こうしてふだん穏やかな夢を観ていることに

感謝はしているのですが……。

……とはいえ、

こうしてせっかく毎週巡ってくる休日を、

誰に頼まれたわけでもないのに

こんなふうにマインドを求めて過ごすのはどうなのか?

という思いが湧かないこともありません。(^_-)

まことにご苦労さまとしか言いようはありません。

そしてこの事態は、

(改めて言うまでもありませんが)

今ここに湧いてきているマインドと、

そのマインドの通路になっているこの身体を、

現在モニターに向かっている意識が、

“自分”だと思っているからこそ起こっている。

このことに疑いの余地はありません。

現象として日常的に湧いているこの場面のなかに

“自分”がいると思っているのでなければ、

そんなことが起こるはずもないわけですから。

ただ静かになりたい、

ただ静寂のなかに埋没したい……

というふうに……なぜならないのか?(-_-;)

なぜこうして

寸暇を惜しんで懸命にマインドを求め続けるのか?

ジャン・クラインによれば、

じつは、その理由はごく単純らしいのです。

ちょっと、認めたくはないのですが、(*^_^*)

どうやらそれはわたしが死を恐れているかららしい。

ここで「わたし」と言ったのは

もちろん、真の「私」のことではありません。

いわゆる人生を生きている“自分”のこと、

ふだん日常生活を送っているこの“自分”です。

あるいは、

ふだん日常生活を送っている“あなた”のことでも

あるかもしれません。

「いやー、自分はもう

 死ぬことを恐れるには年を取りすぎましたよ」

とあなたはおっしゃるかもしれません。

わたしもそう思っていました。

でも、なかなかそうでもないらしい。

この「寸暇を惜しんで懸命にマインドを求め続ける」

という事態には、

とても必然的な理由があるらしいのです。

以前「私たちの行動の根本動機」
https://www.ascensionkan.com/mm/vol967.html#1

に関してのジャン・クラインの説明を

ご紹介したことがあります。

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 【質問者】
 私たちの行動の根本動機は何でしょうか?
 
 【ジャン・クライン】
 一人でいると、
 ふとした瞬間に、
 自分の中に深い欠如感を覚えることがあります。
 この欠如感は他のすべての欠如感を引き起こす、
 中心的な欠如感です。
 この欠如感を埋め、
 渇きを癒すために、
 私たちは考え、
 行動します。
 この物足りなさは何なのかと
 問いただすことさえせずに、
 私たちはやみくもにそこから逃げるのです。
 
 『われ在り I AM』(p8)
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【この物足りなさは何なのかと
 問いただすことさえせずに、
 私たちはやみくもにそこから逃げるのです。】

その「やみくもにそこから逃げる」

「私たち」とは誰でしょうか?

その「私たち」は

【何から】やみくもに逃げようとするのでしょうか?

やみくもに逃げようとする「私たち」が

記憶から織り出された想像上の“個人”、

いわゆるエゴであることに異論はないでしょう。

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 それは絶えず動揺し、
 何かを望み、
 不満を持ち、
 何かを集めようとし、
 承認と安心を探し求めます。
 基本的に、
 それはおびえていて
 自分自身について深く問おうとはしません。
 
 『われ在り I AM』(p19)
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なぜ想像上の“個人”は

それほどおびえなければならないのか?

なぜなら、

それは現象に対する反応として

絶えず“自分”の存在を確認し、

延命する必要があるからです。

つねに新たな経験を積み重ね、

それを記憶し、

その想像上の物語のなかで自分の存在を

再確認し続けることに駆り立てられているのです。

なぜ?

なんでそんなに忙しくしなければならないの?(?_?)

なぜなら、そうしなければ、

空想上の“自分”は死んでしまうからです。

だって、それは単なる

<いま>現れた一瞬の想念にすぎないのですから。

……。

やっぱり、

わたしは死ぬのが怖い……みたい。

これからも、

せっせと、頑張って生きなくちゃ。(*^_^*)\ゴン(\/U)

(>_<)

どんなに頑張っても、

この身体がいつまでも生きられるわけでもないのに。

そんな無理・無用な努力で

永遠の変化の中の空想上の“自分”を保とうとするより、

むしろ永遠の生命のリズムのなかに

身を任せたらいいだろうに。

今日もちょっとだけ

ジャン・クラインの雰囲気に触れましょうか。

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 5
 
 
 【ジャン・クライン】
 日常生活の中に、
 時々心(マインド)が揺れ動かない瞬間があります。
 それは、
 そこから真理が流れ込む窓です。
 私たちはそういう瞬間に気づかなくてはなりません。
 意志や訓練によって
 このような瞬間を生じさせることはできません。
 むしろ、
 外的な状況が心に静けさをもたらすのです。
 心が何かをとらえようとすることや、
 何かを獲得し、
 何かになろうとするのをやめると、
 もはやエネルギーが戦略や目標達成のために
 充てられることがなくなり、
 心は平衡状態に戻ります。
 そこではすべてが安らかであり、
 静かな気づき(アウェアネス)を目指します。
 そして、
 その静かな気づきの中で、
 あらゆる思考や知覚が去来するのです。
 
 【質問者】
 しかし、瞑想によって心を鎮めることも
 できるのではないですか?
 
 【ジャン・クライン】
 今私が話している「静かな心」とは、
 何も考えていないということではありません。
 何も考えていない状態は
 人為的に作り出すことができます。
 しかし、
 動揺のない心にはそれ独自のリズム、
 あるいは脈動があります。
 そして、
 これらの脈動の間には合間(あいま)があります。
 私たちはそれに気づかなくてはなりません。
 その合間は不在でも空白状態でもありません。
 それは完全な現存(プレゼンス)です。
 その合間に身を任せ、
 それに呑まれてください。
 
 真理を知覚することはできません。
 それは非二元的な連続、
 すなわち見る者も見られるものもない、
 無の状態の中で生きることができるだけなのです。
 
 『われ在り I AM』(p41-42)
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そんな静かな気づきのなかで、

あらゆる思考や知覚が去来する様子を

眺めているほうが楽かもしれないんだなぁ。

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 【質問者】
 概念よりも知覚のほうが真理に近い
 とおっしゃるのはなぜですか?
 
 【ジャン・クライン】
 知覚とは、
 脳によって名づけられたり、
 心理的な心によって識別されたりする以前の、
 感覚から与えられた最初のメッセージです。
 ほとんどの人の身体感覚は
 非常に退化してしまっています。
 なぜなら、
 彼らは知覚を離れ、
 すぐに概念化してしまうからです。
 知覚は常に今、
 直接的にありますが、
 概念化は記憶です。
 そして、
 たいていの時間、
 私たちは記憶を通して感じ、
 機能しています。
 
 日常生活で、
 私たちが感覚するものを感じるために
 時間を取ることはめったにありません。
 私たちはあまりにも早く感覚に介入し、
 概念化し、
 それを識別してしまうのです。
 知覚と概念は同時に存在することはできないのに、
 私たちは知覚が十分に満ち溢(あふ)れる前に
 それを中断してしまう傾向があります。
 
 【質問者】
 つまり感覚は
 私たちの周囲にあるものと直接関係しているが、
 私たちは過去の感覚の記憶の中に生きているせいで、
 この周囲のものとの関係を見失っている
 ということですか?
 
 【ジャン・クライン】
 そうです。
 私たちは感覚を概念化し、
 結晶化し、
 識別してきました。
 知覚、
 すなわち認知し、
 名づけ、
 再認知することは自然な機能であり、
 照合の中枢にして意見の発信者である
 「私」に問い合わせる必要なく、
 ひとりでに起こります。
 しかし、
 私たちはこれらの直感的な機能から
 すぐに離れてしまいます。
 私たちは知覚がおのずから展開するのを
 待とうとしません。
 また、
 私たちの周囲のものが
 私たちに与えてくれるものを歓迎しません。
 私たちは記憶の中に生きようとするのです。
 記憶の中に生きると、
 私たちは自分を宇宙から切り離し、
 孤独の中に生きることになります。
 これがすべての苦しみの根源です。
 
 『われ在り I AM』(p44-46)
──────────────────

【記憶の中に生きると、
 私たちは自分を宇宙から切り離し、
 孤独の中に生きることになります。
 これがすべての苦しみの根源です。】

そうなんだ……。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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いろんな状態のなかで、

こうして漂いながら続けています。

ご苦労さまなことですね。(^_-)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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