━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2023/02/05(第981号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.受容があなたの全体性です
2.編集後記
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■ 1.受容があなたの全体性です
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この季節、日が出たときと
日が陰ったときの差が大きいですね。
一面の曇天の下、
寒々とした光景が広がっていたのに、
雲間から日が出た瞬間に
あたり一面に温かな光景が広がります。
どちらも一瞬の光景です。
そしてどちらか一方だけということは
ありえないのでしょうね。
ましてやここは
分離幻想を信じるための物質次元なのですから。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
みなさま、この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
「下手の横好き」というのか
どうしてこんなにも
いわゆる悟ったと言われる方々、
覚者と言われる方々の言葉を追い続けてきたものか。
もちろん、
まっすぐ自分のなかに深く入ってゆくために
奨励されるような道でないことは確かです。
そのためにこんなにたくさんの
スピリチュアル情報が必要なはずもありません。
むしろそれは、
ツボを外すための手段としてこそ有効でしょうから。
しかしまた、だからといって
“自分”でその道を選べるわけでもありません。
その道を選ぶのが“自分”なのですから。
でもこんなふうにずっと
翻訳書でいろいろな覚者の言葉に触れてきて、
はっきりわかったこともあります。
それは
どの覚者の言葉にもそれぞれ音色があり、
似たような内容について語っても、
けっしてその表現は同じにはならないということです。
まあ当たり前といえばこれほど当たり前のこともない。
発見の名にも値しない陳腐な発見です。^^;;
でも、
普通の個人にいろいろな個性があるように、
その個人への自己同化が解除された意識にも
それなりの個性があるのがわかった……というのも、
これだけいろいろ触れて確認したのですから、
まあ発見と言えば発見です。
そしてそういった異なる意識たちの
それぞれ異なる表現のなかに
“自分”が深く共振できそうな理解、表現を
見つけたいと思ってきたのも嘘でもない。
このpariという個性の
それなりの特異性とも思われるのは、
水際でのエゴの防衛力がそれなりしたたかなことです。(*^_^*)
だから、
一見、かなり理解しているように見えるのに、
じつはなかなか降参していない。
そして次々とまた別の表現を求めつづける。
考えてみれば、これもまた
求道というもののごく一般的な姿なのかもしれません。
しかしそういう反省も込めて
いま現在のマイブームに目を向けると、
pariの共振能力との相性という意味で
ジャン・クライン師の表現はまさにすばらしい!
論理性と表現の意外性は抜群です。
『われ在り』の前の方から
意味がわかりそうな部分を順にご紹介しています。
前回・前々回と
「5」章の内容をご紹介してきました。
そこではわれわれエゴが
知覚がおのずから展開するのを待とうとしないこと。
環境がわれわれに何を与えてくれようと、
われわれはそれを歓迎せず、
さまざまな批判があって拒否しようとすること。
そして“自分”が知っているわずかな既知、
“自分”の記憶のなかに閉じこもって、
その人格のなかで生きようとすること。
それがわれわれを宇宙から切り離し、
孤独のなかに生きることを自らに強いている。
それすべての苦しみの根源なのだ
……ということでした。
ではどうすれば
その苦しみを終わらせることができるのか?
今回も「5」章の
それに続く部分をご紹介したいと思います。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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【質問者】
知覚は非二元的ですか?
また、
私たちは非二元性に近づくことができますか?
【ジャン・クライン】
知覚そのものは非二元的です。
それは知覚が生じる場所である、
気づきとともにあります。
【質問者】
どうすれば知覚が現れる場である
気づきそのものに気づくことができるのですか?
【ジャン・クライン】
純粋な知覚は
いわゆる「気づき」の中に含まれています。
この場合、
入れ物とその中身は同一です。
中身を知る人、
言い換えるなら気づいている人、
あるいは自分は精神ではなく
気づきであると自覚している人は
自覚的に気づき、
知覚の瞬間に現存(プレゼンス)しています。
彼は生き証人であり、
観客であると同時に役者でもあります。
しかし、
ひとたびこのような知覚が終わると、
あるいはそれが二つの思考にわかれると、
彼は存在していることに気づいてはいるものの、
それに結びついた感覚を失ってしまいます。
背景とは真っ白い紙のようなものです。
私たちがそこに描き始めると線が現れます。
絵が形になっても白い紙が跡形もなく
消えてしまうわけではありません。
絵は紙の白さを覆い隠してゆきますが、
白さはまだ、
その背後にあります。
感覚はちょうどその絵のように覆い隠します。
ですから自己を知らない人、
つまり「気づいていない人」には
一つひとつバラバラの線だけが見え、
白い紙は見えません。
彼は感覚に夢中になって、
自己を忘れているのです。
『われ在り I AM』(p46-47)
──────────────────
【知覚そのものは非二元的です。
それは知覚が生じる場所である、
気づきとともにあります。】
ジャン・クライン師は
知覚そのものは非二元的だと言います。
大ざっぱに言うと
「知覚」と「気づき」は同じもの
とも言えるようです。
そして「知覚」とは
より表現的側面を指す言葉で、
「気づき」とは
より主体的側面を指す言葉なのでしょう。
その主体的側面のなかのもっとも純粋な側面を
「純粋な知覚」と呼ぶことにすれば、
その「純粋な知覚」は
「気づき」のなかに含まれているわけです。
「純粋な知覚」とは、言葉を換えれば
「気づいている人」ということでしょう。
くどいようですが、もう一度いうと、
「気づいている人」は「気づき」のなかにいる。
そして、
「気づかれているもの」も「気づき」のなかにある。
同じことを、さらに言い換えると、
「知覚する人(純粋な知覚)」は「知覚」のなかにいる。
そして、
「知覚されるもの」も「知覚」のなかにある。
このことをジャン・クラインは、
【入れ物とその中身は同一です。】
と言います。
ここで「入れ物」とは「気づいている人」。
「その中身」とは「気づかれているもの」です。
実際に起こっていることはひとつです。
つまり、「知覚すること」が起こっている。
ただ、
ひとつのことが起こっているなかで、
そのなかの何を自分だと思うかは、
いわば“思う当人”にまかされている。(*^_^*)
この“思う当人”って誰?(?_?)
という話になりますが、
これがかの有名な
「私は誰か?」ということなのでしょう。
この「私は誰か?」という問いは、
この言葉を使う指導者や状況によって
与えられる文脈が異なるだろうと思います。
たとえば、
ラマナ・マハルシの場合だと
「私は誰か?」の「私」は
明らかに「エゴ」のことです。
だから、
その「私」というのは
本当に実体として存在するのか?
という話になるわけでしょう。
ジャン・クラインの場合は、
「自己(セルフ)」という言葉と、
「私(I)」という言葉を使うようで、
「自己」は「真我」を指し、
「私」は「自我」を指すようです。
まあ、そんな知ったかぶりはともかく、
要するに、
「気づいている人」と「気づかれているもの」は
今この瞬間に同時に現れているということです。
「知覚する人」と「知覚されるもの」は
今この瞬間に同時に現れている。
といっても、
顕在的に現れているのは
「知覚されるもの」(知覚の内容)だけです。
「知覚する人」は
「知覚されるもの」(知覚の内容)のなかに
潜在的に現れているだけです。
目に見えるわけじゃない。
耳に聞こえるわけではないのです。
しかしそれは、
見ている人として現れている。
聞いている人として現れている。
見ている人、聞いている人がいないのに、
見えているもの、聞こえているものだけが
存在するということはありえないわけですから。
その状況のなかで
自分は「知覚されるもの」だと自覚したら、
そのような(「知覚されるもの」だけの)世界が
まわりに展開することになる。
自分は「知覚する人」だと自覚したら、
そのような(「知覚する人」だけの)世界が
実現することになる。
【自分は精神ではなく
気づきであると自覚している人は
自覚的に気づき、
知覚の瞬間に現存(プレゼンス)しています。
彼は生き証人であり、
観客であると同時に役者でもあります。】
(-||-)
──────────────────
【質問者】
そのように自己に気づくこともまた、
ひとつの知覚ではありませんか?
【ジャン・クライン】
いいえ。
気づきは決して対象にはなりえません。
それを理解しておくことはきわめて重要です。
気づきは
あなたの内側にあるのでも外側にあるのでもなく、
時空からも自由です。
それは広がりであり、
入れ物であって、
その中にあらゆる状態、
あらゆる対象が現れます。
それはあなたの一番そばにありますが、
決して知覚されません。
目は目が見ている様子を
見ることができないのと同じです。
究極の認識者は自分で自分を認識します。
それは知るために何の手がかりも必要としません。
気づきは知覚ではありません。
それは統覚(訳注:apperception 哲学で知覚表象
などの意識内容を自己の意識として
統合し統一する作用。統合的意識的理解)
なのです。
『われ在り I AM』(p48-49)
──────────────────
ここで質問者は
「自分は気づきであると自覚すること自体も
知覚の一種ではないのか?」と確認します。
ここでジャン・クラインは
自分が「気づき」であると自覚することは
知覚ではないと、明確に否定します。
なぜなら「気づき」は
絶対に知覚の対象にはなりえないので、
知覚によって確認することはできないからです。
自分が何であるかの答えを、
現象のなかに探し求めているかぎり、
永遠に自分が姿を現すことはありえないわけです。
それは自分で自覚するしかない。
そしてその自覚は知的なレベルではなく、
あらゆる瞬間に
実際の行動で確証されるしかないわけです。
【究極の認識者は自分で自分を認識します。】
わたしは自分で自分が存在することを知っている。
【それは知るために何の手がかりも必要としません。】
他の誰にも、自分以外の何物にも、
自分の存在を保証してもらう必要はありません。
【気づきは知覚ではありません。】
「気づき」を自覚以外の
客観的な方法で確認することはできません。
【それは統覚なのです。】
一点の疑いもなくそれが了解されたとき、
それに見合った行動が現れるだけです。
(-||-)
──────────────────
【質問者】
ここで言われている統覚と、
いわゆる直接的な知覚との違いは何ですか?
【ジャン・クライン】
一般的な知覚は主体と対象の関係を呼び起こします。
しかし直接的な知覚は心を経由しません。
直接的な知覚は統覚と同じです。
【質問者】
なぜ知覚者の無限後退
(訳注:一つの事象の説明や正当化がどこまでも
さかのぼってなされ、結局わからない
ままに終わること)
はありえないのですか?
【ジャン・クライン】
意識は私たちの全体性です。
私たちのすべての表現は意識の中にあります。
もし、
意識が知覚されうるならば、
それは私たちの
全体性ではないことになってしまいます。
【質問者】
なぜ、私たちは
全体性を持たなくてはならないのでしょうか?
私たちは
無限後退として存在していてはならないのですか?
【ジャン・クライン】
もし全体性を生きなければ、
私たちは部分として、
主体と対象の関係の中で、
不連続性の中で生きることになります。
このことは私たちの人生に葛藤をもたらします。
まず、
このあらゆるものの現れの状態、
つまり存在の不連続性を受け入れてください。
この受容があなたの全体性です。
しかしそれは単なる概念、
つまり受け売りの情報であってはなりません。
それは直接的に、
生きられなくてはならないのです。
『われ在り I AM』(p48-49)
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質問者はここで、
「統覚」と「直接的な知覚」との違いを確認します。
ジャン・クラインは、
ふつうにいう「知覚」は
主体と対象という概念を創造してしまうが、
「直接的な知覚」はそのような
マインドの抽象作用による概念化をともなわないので、
【直接的な知覚は統覚と同じ】だと確認します。
ここで質問者が尋ねている
「無限後退」という概念化については
わたしはあまり馴染みがないので
そのこだわり方はよく理解できませんが、
要するに、
直接的な知覚も全体のなかの小部分であり、
どこまで積み重ねても
全体にはなりようがないのではないか?、
といった雰囲気の疑問ではないかと思います。
しかし、
ここでジャン・クラインは
「意識」と「知覚」という二つの言葉の
背景にある意味合いの違いを説明することで
解答しています。
まずは、「意識」について。
【意識は私たちの全体性です。】
ジャン・クラインが使う「意識」とは
存在するものの「全体性」を指しているようです。
したがって、
【私たちのすべての表現は意識の中にあります。】
ということになります。
そして「知覚」ですが、
ジャン・クラインが使う「知覚」は
「意識」の機能とという意味合いのようです。
その意味で「知覚」という言葉を使うなら、
【もし、
意識が知覚されうるならば、
それは私たちの
全体性ではないことになってしまいます。】
ということになります。
「意識」は存在する全体であり、
「知覚」はその「意識」がもつ機能であると。
したがって「知覚」の対象物は
何らかの定義を担った「意識」内容の少部分であると。
もし「意識」が
「知覚」の対象物になるということになると、
「意識」は存在する全体ではありえない。
この解答を聞いて、
質問者はさらに、
では、なぜ私たちは全体性でなくてはならないのか?
と尋ねます。
私たちは見かけどおりの
無限小の対象物であってもいいではないか?、と。
ここで
ジャン・クラインが答える言葉は
あなたにはどんなふうに聞こえますか?
ちょっと自分に即して聴いてみてください。
【もし全体性を生きなければ、
私たちは部分として、
主体と対象の関係の中で、
不連続性の中で生きることになります。】
「主体と対象の関係」というのは、
主体と対象は相互に分離した別のもの
という概念を前提にしています。
となると当然、
不連続性(分離幻想)のなかで生きることになります。
これは間違いないでしょうね。
そして、
【このことは私たちの人生に葛藤をもたらします。】
このことにも疑問の余地はありません。
そして、
このあとに来るジャン・クラインの言葉は、
本当に意表をつくというか、
まことに驚きに満ちたものです。
ジャン・クラインは
この不連続性とは
実際は存在しない虚構の分離幻想によるものです。
この不連続性を拒否して排除してください……
とは言わないのです。(@_@)
では、何と言うか?
【まず、
このあらゆるものの現れの状態、
つまり存在の不連続性を受け入れてください。】
なんとナントの難破船!?(@_@) ⌒★?
(-_-;)
われわれは
この不連続性によって実現している現れの世界を
受け容れなければならない。
【この受容があなたの全体性です。】
そうか!?
たしかに、全体性が受け容れているからこそ
この現れの世界が実現しているわけです。
全体性はこのすべての現れを受容している。
でも、われわれは
この現れに対して異存がある。
不満もあれば嫌悪もある。
いろいろ好き嫌いがある。
だから当然、
われわれは現れの世界の一部になるわけです。
だって、
現れの世界の一部に自己同化しようと
自分で選ぶわけですから。
誰に頼まれたわけでも、
誰に強制されたわけでもないのに。
自分からです。
これこそは自己責任!(*^_^*)
でも、
ただ口でこんなことを言っても意味がない。
【しかしそれは単なる概念、
つまり受け売りの情報であってはなりません。】
単に知的にそのことを受け容れても、
そのような受容には何の意味も働きもない。
【それは直接的に、
生きられなくてはならないのです。】
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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すべてここに置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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ジャン・クライン
すばらしいですね。
文字でなぞっているだけですが、
他の文字をなぞっているわけではない。(^_-)
今日も晩くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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