━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2023/02/12(第982号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.よく聞くことと意識は同じ
2.編集後記
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■ 1.よく聞くことと意識は同じ
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今日はたぶん日本全国晴天ですね。
寒い季節は暖かいのがありがたい。
そうなっているんですよね。(^_-)
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
みなさま、この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
いま、PCを起動したらamazonから
「Kindle Unlimited のおすすめ商品」
なんてメールが入っていました。
よせばいいのに表示してみたら、
「¥0 読み放題にてお楽しみいただけます」といって
ウェルカムレイン サヤカさんという方の
『これ以外のなにかはない:
悟りというのがなんなのかはわかりませんが』
という本がありました。
それでついついまた読んでしまった。(*^_^*)
時代の波動がどんどん軽くなっているんでしょうね。
もしかしたら去年だったら
ピンとこなかったのかもしれません。
でもいま読むと、それがごくふつうに入ってきてしまう。
全体の指揮に合わせてただ踊っているだけ。
そんな感じもします。
みんなそれぞれ浮上してくる理解が嬉しくて
ただただそれを歌ってみたくなるんですよね。
『夢へと目覚める』
の著者レオ・ハートンの母国オランダには
「口は心を占めていることについて語るほかない」
という諺があるそうです。
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恋をしていて、
その相手について話すのはやめられない男を
例にとって考えてみよう。
彼は友人を説得して
自分の恋人を口説かせようとしているわけではない。
恋人の話をしないということが単純にできないだけだ。
『夢へと目覚める』(p33)
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これはもう仕方がないですよね。
なんやかや理屈をつけてそれについて喋りたくなる。
まあ、
下手の横好きだって同じなんです。(^_-)
ジャン・クライン師の
『われ在り』の前の方から
意味がわかりそうな部分を順にご紹介しています。
このところ続けてご紹介している
「5」章のなかからまた少しご紹介します。
ジャン・クライン師は
医者であるだけではなく音楽学者でもあったので
「聴く」という言葉に
とても普遍的な意味を与えていらっしゃるようです。
そしてどちらかと言えば視覚系で
そのうえたいていの環境音より耳鳴りの音の方が
大きいと思われるこのわたしにとってさえ
このジャン・クラインの「聴く」という言葉は
とても可能性を感じさせてくれるのが不思議です。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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【質問者】
この聞くことは知覚ではないのですか?
【ジャン・クライン】
いいえ、
これは知覚ではありません。
この実在はそれ自身を知っていますが、
それは主体と対象の関係ではありません。
よく聞くこと、
すなわち無方向的な注意は自然で、
生得的な脳の機能です。
【質問者】
では聞くことと意識は同じものなのですか?
それとも意識の現れの一つなのですか?
【ジャン・クライン】
よく聞くことと意識は同じ性質を持っています。
無条件に聞くことは最も微細な機能です。
聞くことを続けると、
それはやがて意識の中で展開してゆきます。
【質問者】
どうすれば、
この意識、
あるいはこの静寂でありながら、
同時に記憶を要する活動をしたり、
概念や他の種類の注意を扱ったり
することができますか?
【ジャン・クライン】
自己認識の中で、
すなわちこの意識の中で、
あらゆる日常の活動は
その完全な意味と完全な可能性を見出します。
ひとたび自覚的にこの気づきになると、
あなたはもう自分と心を同一視しなくなります。
それから、
どんな活動しているときも、
強いエネルギーを経験するようになるでしょう。
ただし、
それはあなたを対象に縛りつけるような、
意志によって支配された推進力ではありません。
このエネルギーもまた、
意識の現れなのです。
『われ在り I AM』(p53-54)
──────────────────
ジャン・クラインは
「聴く」というのは知覚ではないといいます。
実在がそれ自身を知っていること自体は
けっして主体と対象の関係といった
二元性の出来事ではないのだと。
「聞こえる」という無方向的な注意も
自然で生得的な脳の機能なのだそうです。
たしかに言われてみれば、
「聞こえる」という能力には選択性はありませんね。
「聞こえる」能力には選択性はないけれど、
われわれは“自分”(or思い込み)として
その「聞こえる」能力に選択性を付与するのでしょう。
だから多くの環境音が聞こえていない。
きっと本来の無方向的な注意を取り戻すには
傾聴すること、
「聴く」ことが必要なのでしょう。
「聞くこと」と「意識」は同じものなのか
という質問者の問いに、
ジャン・クラインは、
【よく聞くことと意識は同じ性質を持っています。
無条件に聞くことは最も微細な機能です。】
と答えます。
しかも、
【聞くことを続けると、
それはやがて意識の中で展開してゆきます。】
と!(@_@) ⌒★?
この途方もなくすばらしいヒントを知ったら
ここに可能性を感じない手はないと思います。
もっとも、
この「聞くことを続ける」というのは、
テレビを見続けるという意味じゃないと思うけど。(^_-)
ここで質問者は
ではどうすれば日常生活をこなしながら
つまり記憶を要する活動をしたり、
概念や他の種類の注意を扱ったりしながら
そのような「聞くことを続ける」というか、
静寂であり続けることができるのか?
と問います。
ジャン・クラインは
どういうふうにすればそれができますよ、
というような方法については語りません。
ニサルガダッタと同じく、
方法について語ることはできない、
ということなのかもしれません。
それはおそらく、
あなたにそれが起こっているなら……とか
あるいは、
あなたにそのような熱意(or熟度)があるなら、
ということなのかもしれません。
日常生活のなかで
もしあなたがこの「聞くことを続ける」ような
自己認識のなかにいつづけるなら、
【あらゆる日常の活動は
その完全な意味と完全な可能性を見出します。】
たしかに、機能的に動いているときには
その活動自体にエゴは介在していないわけですよね。
ラメッシ・バルセカールのいう
「機能的知性」が働いているだけですから。
機能的活動が終わったら
ただ「聞くことを続ける」ような自己認識に
戻っていればいいわけです。
それ以上何を心配する必要もないわけだから。
心配する当人であるエゴは
どこにも実体として存在していはいないのですから。
どこからも誰からも命令が来るわけではない。
【ひとたび自覚的にこの気づきになると、
あなたはもう自分と心を同一視しなくなります。】
これが起こればそれだけでももういいですね。
そして、
【どんな活動しているときも、
強いエネルギーを経験するようになるでしょう。】
すばらしい。
しかも、
【それはあなたを対象に縛りつけるような、
意志によって支配された推進力ではありません。
このエネルギーもまた、
意識の現れなのです。】
(-||-)
──────────────────
【質問者】
自己認識はどのような感じがするのですか?
私は何の味わいもないだろうと思いますが。
【ジャン・クライン】
何ものにも邪魔されなければ、
真我(セルフ)はおのずと自分自身を知ります。
それを説明することはできません。
なぜなら、
それは比較や相互補完性の領域に
属していないからです。
お香の匂いを嗅いだり、
草の葉を見たりするには、
それに対応する感覚器官を使わなくてはなりません。
しかし意識は、
それがどんな様相をとって現れようとも、
常に自分自身を知っています。
水底にさまざまな魚たちが住んでいても、
それによって水が変わることはありません。
水は水のままです。
他のたとえをしてみましょう。
あなたは口の中のさまざまなもの、
つまり対象を味わいますが、
それだけです。
口にはそれ自体の味があります。
おそらく、
あなたは物事の真のありようを
完全に理解することはできないでしょう。
なぜなら、
あなたはまだ、
あなたの外に
それ自体として存在するものは何もないということ、
すべてはあなたの中にあるのだということを
確信していないからです。
あなたが見たりしたりすることはすべて、
その瞬間に生まれたものです。
ただ記憶が連続性という幻想を
作り出しているだけなのです。
「昨日も一昨日も私はここにいた」
と主張するのは記憶です。
【質問者】
では、
「この知識は甘美であり、
私たちは同時にそれを味わうことができる」
と言ってもいいでしょうか?
【ジャン・クライン】
認識はそれ自身だけを知ります。
認識はその周囲のものに気づいていて、
同時に自分が気づいているということにも
気づいています。
『われ在り I AM』(p54-55)
──────────────────
質問者は、
自己認識の感じを知りたかったんでしょうね。
しかしジャン・クラインは、
その味を語ったりすることはしません。
まあ、そんなことをしなくても、
自分がいることを知っている意識は、
自前で存在しているわけだし、
それ以外に客観的に存在しているものなど
何ひとつないわけですよね。
【何ものにも邪魔されなければ、
真我(セルフ)はおのずと自分自身を知ります。】
ただし、
それは比較や相互補完性の領域に属するものではない。
意識はどんな様相をとって現れようとも、
常に自分が存在することを知っている。
【水底にさまざまな魚たちが住んでいても、
それによって水が変わることはありません。】
湧いてくる形や想念がどのようなものであろと、
自分が存在することを知っているのは意識自体。
現象する形や想念自体が
自らの存在を知っているわけではない。
とは言え
“自分”が身体や想念だと思っているかぎり
そのことを完全に理解することはできない。
【なぜなら、
あなたはまだ、あなたの外に
それ自体として存在するものは何もないということ、
すべてはあなたの中にあるのだということを
確信していないからです。】
すべてはその確信にかかっている……。
見たりしたりすることはすべて、
その瞬間に生まれている。
ただ記憶が
連続性という幻想を作り出しているだけ。
【「昨日も一昨日も私はここにいた」
と主張するのは記憶です。】
そして自らが存在していることを知っているのは、
たったいま自らが存在していることを知っている
この現存だけです。
それ以外には何も存在しない。
【認識はそれ自身だけを知ります。
認識はその周囲のものに気づいていて、
同時に自分が気づいているということにも
気づいています。】
(-||-)
──────────────────
【質問者】
私にとって最大の障害は、
瞑想して得る直感と、
ひとたび日常の活動を始めると
それをすべて忘れてしまうという現実との間に
大きな違いがあるということです。
ついには、
そもそも何のために瞑想しているのかさえ、
わからなくなってきます。
瞑想してもその一時間後には、
何もかも忘れて、
また対象の中に埋没してしまうのですから。
【ジャン・クライン】
問題はこういうことです。
瞑想中、
あなたは心が空っぽの状態を経験し、
それを観照します。
そこであなたが知覚するのは活動性の不在です。
あなたは活動性の不在を知っていますが、
まだそれを知る者を知りません。
ひとたびあなたがこの知る者になると、
心が能動的であろうと受動的であろうと、
常に覚知そのものであり続けるようになるでしょう。
そこにはいかなる違いも変化もありません。
そのときから、
この気づきはゆるぎなく確実なものになります。
瞑想中にあなたが経験する完全な無は、
ある意味ではまだ一つの対象です。
思考の不在は必然的に
それが結果として補われること、
すなわち思考の存在を暗示するからです。
ですから、
たとえ活動性のない深い平安を感じても、
その白紙状態、
あるいは空っぽの心を
あまり重視し過ぎないようにすることが大切です。
真の瞑想は
心が活動しなくなることではなく、
心の活動と不活動の両方の「支え」なのです。
空っぽの心そのものではなく、
空になった心を知る者を重視していると、
いつの日か、
この虚無、
あるいはこの白紙状態さえも消えて、
あなたは究極の静かさに出会うでしょう。
この静けさはどんな活動をしているときも続きます。
それまでずっと、
あなたは心を静めようとし続けてきました。
しかし、
鳥がさえずったり、
誰かが話したりすると、
あなたの内なる静寂は破られてしまいます。
ですから、
あなたはそのような質問をするのです。
本来、
心は時々空っぽになるようにできています。
しかし、
それでもやはり心は単なる道具に過ぎません。
『われ在り I AM』(p55-56)
──────────────────
質問者はこの対話で語られる内容と
自分のふだんの日常生活のリアリティとの
ギャップに後ろめたさを感じています。
彼は瞑想者なので
瞑想中の自分とふだんの生活上の自分の
ギャップの大きさにいたたまれないのかもしれません。
ジャン・クラインは
その質問者の状態を一言で、
それは、
あなたが活動性の不在を知っているだけで、
まだそれを知る者を知らないからだと言います。
【ひとたびあなたがこの知る者になると、
心が能動的であろうと受動的であろうと、
常に覚知そのものであり続けるようになるでしょう。】
なぜなら、
【そこにはいかなる違いも変化もありません。
そのときから、
この気づきはゆるぎなく確実なものになります。】
と。
知る者である純粋な気付きには
いかなる違いも変化も起こらない。
そういうわけなので、
活動性がないという意味での平安を
あまり重視し過ぎないようにすることが大切だと。
【真の瞑想は
心が活動しなくなることではなく、
心の活動と不活動の両方の「支え」なのです。】
現象の背景にある「これ」が
現象を照らし出し、かつ現象に気づいている
絶対の主体性、現存なのだからと。
【空っぽの心そのものではなく、
空になった心を知る者を重視していると、
いつの日か、
この虚無、
あるいはこの白紙状態さえも消えて、
あなたは究極の静かさに出会うでしょう。
この静けさはどんな活動をしているときも続きます。】
(-||-)
──────────────────
【質問者】
瞑想中、
他のことが気になって仕方がないときには、
どうすればよいですか?
【ジャン・クライン】
ただそのことを観察していてください。
すると、
まもなくあなたの注意は
観察している対象ではなく、
観察することそのものへと移るでしょう。
あなたが注意、
すなわち対象のない注意に「なる」のです。
私たちは
何かに対して注意を向けることに慣れているので、
対象のない注意などというのは
ナンセンスのように思われるかもしれません。
しかし、
純粋な注意とは、
いかなる方向へも向けられないものなのです。
それはどんな対象にも焦点を当てません。
また、
いかなる記憶からも自由です。
それは実に拡大された鋭敏さです。
【質問者】
音のことを話されましたね。
もし音をまったく重視しないようになっても、
私たちにはまだ音が聞こえるのでしょうか?
【ジャン・クライン】
子どもが泣き続けている限り、
あなたにはまだその声が聞こえます。
なぜなら、
耳の機能がそれを聞いているからです。
あなたが音を重視しなくなったとき、
つまりもはやあなたが音に注意を向けることも、
それを選んだり
名づけたりすることもなくなったとき、
何が残るでしょうか?
あなたに内在する機能は働き続けます。
それは振動です。
特定の音は消え去り、
純粋な聞くことだけが残るのです。
『われ在り I AM』(p57)
──────────────────
瞑想者である質問者は
では、瞑想中に
他のことが気になって仕方がないときには、
どうすればよいのでしょうか?
と尋ねます。
ジャン・クラインの忠告は単純です。
【ただそのことを観察していてください。
すると、
まもなくあなたの注意は
観察している対象ではなく、
観察することそのものへと移るでしょう。】
われわれはふだん
何かに対して注意を向けることに慣れているので、
対象のない注意などというのは
ナンセンスだと思うかもしれない。
しかし、
純粋な注意はどちらの方向にも向けられていない。
ただ「耳が開いている」ようなものなのでしょう。
質問者には、
もし音をまったく重視しくなっても、
それでもまだ音が聞こえるのだろうか?
という疑問が湧いたようです。
ジャン・クラインは、
聞こえる音があるかぎり
その声は聞こえると返答します。
なぜなら、
耳の機能がそれを聞いているからだと。
そして音を重視しなくなったとき、
つまりもはや音に注意を向けることも、
それを選んだり、
名づけたりすることもなくなったときには
なにが残るか?
【あなたに内在する機能は働き続けます。
それは振動です。
特定の音は消え去り、
純粋な聞くことだけが残るのです。】
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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ジャン・クライン
すばらしいですね。
このすばらしいヒントを知ったら
それに従わない手はない。
今日も晩くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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