home > 通信 >私たちが無であるとき(J.K-5):『アセンション館通信』第983号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/02/12(第983号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.私たちが無であるとき(J.K-5)

2.編集後記
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■ 1.私たちが無であるとき(J.K-5)
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今日もまたたぶん日本全国晴天ですね。

寒い季節は暖かいのがありがたい。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

つい先日雪模様の日がありました。

朝方シャーラに呼ばれて

窓から敷地の西側の雪景色を見ました。

どうやら敷地の西側の端の方に何かがいるらしい。

眼鏡をかけて見直すと鹿の後ろ姿のようです。

何かに絡まったらしくじっと動かない。

この寒さのなかにそのまま放っておくわけにもいかず、

仕方なく物置から剪定ばさみをもち出して、

長靴にダウンを着て雪の降る外に出ました。

フェンスの外に出て近くまで降りてゆくと

相手の子鹿も気がついて猛烈に暴れ始めました。

しかしネットが首と足に絡まって抜けられません。

やれやれと雪の上に腰を下ろし、

さて網を切ってやろうと剪定ばさみを構えると、

狂ったように暴れた子鹿の首が網から抜けました。

じゃ、脚の部分の網だけ切ってやろうとすると、

なんと猛烈な力で引っ張った子鹿の脚まで網から抜けた。

子鹿は転げ落ちるように下の方に逃げてゆきました。

「火事場の馬鹿力」というのはあるものですね。

本当はあれぐらいの力が出たわけです。

それまでだって持っていた力だろうに、

それまで子鹿は雪の降るなかで

そんなことはできないと思っていたわけです。

そう思ってそのままでいたら、

やっぱり雪のなかで弱って死ぬしかないですよ。

親鹿が来て助けてくれるわけではないだろうから。

うーん。(-_-;)

頭の判断と身体の判断は違うのでしょうか。

やっぱり本来の能力というのは

未知からくる衝撃で開かれるのかもしれませんね。

ジャン・クライン師の

『われ在り』の前の方から

意味がわかりそうな部分を順にご紹介しています。

このところ続けてご紹介している

「5」章の最後の部分をご紹介します。

ジャン・クライン師が使う「聴く」という言葉は

聴覚だけに限った意味ではなく

五感すべての感覚に開くという意味らしいです。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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 【質問者】
 それは感覚を抑制するということではないのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 まったく違います。
 抑制は意志的なプロセスであり、
 深く集中する必要があります。
 抑制は結果を求めており、
 微細なレベルではありますが、
 主体と対象の二元性を維持しています。
 抑制を通してでは、
 決して無条件に聞くことができません。
 
 もちろん、
 抑制によって振動、
 すなわち感覚の自然な機能を
 減少させることはできます。
 それは一種のサマーディ(三昧)、
 あなたがそこから出たり入ったりできる、
 一つの経験です。
 しかし、
 なぜあなたはそのような経験を追い求めるのですか?
 サマーディとサハジャ(自然、生来)は
 何の関係もありません。
 瞑想という言葉は
 さまざまなテクニックを用いる数多くの伝統において、
 間違った使われ方をされてきたのです。
 
 【質問者】
 意識の中で顕現が起こるということですが、
 その意識は一つなのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 この観点に立つと、
 「あなた」、
 「私」などと言うことはできなくなります。
 「あなた」や「私」は
 それぞれの性質を持った心と体として現れ、
 消えてゆくからです。
 しかし、
 それらはそれ自体としては存在しない
 記憶の集積に過ぎません。
 波も泡も海に他ならないように、
 分離したものは一時的な存在でしかないのです。
 
 【質問者】
 これらの記憶があるのは
 その人格のおかげではありませんか?
 
 【ジャン・クライン】
 自分は「波」や「泡」だと思っている限り、
 あなたは真理を見ることができません。
 私があなたにお願いすることはただ一つ、
 それらと自己を同一視するのを
 やめてくださいということだけです。
 そうすれば、
 自分の本質、
 つまり「海」がわかります。
 
 【質問者】
 しかし、
 そうすれば今度は
 波が見えなくなるのではないですか?
 自分は海であると知りつつもなお、
 波を見ることはできるのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 海の観点に立ったときに初めて、
 人は波や泡について語ることができます。
 なぜなら、
 そのとき、
 それらは真に波や泡になるからです。
 それらはもう、
 個別の実体を持たなくなり、
 孤立した、
 記憶の投影物でもなくなります。
 それらは全体性の現れとして、
 真の意義と関係を獲得するのです。
 
 『われ在り I AM』(p58-60)
──────────────────

ジャン・クライン師は

われわれが注意していなくても

環境にある音は耳の機能が聴いているといいます。

それは感覚を抑制するということかと聞く質問者に

ジャン・クラインは、

それはまったく違う、と答えます。

抑制は意志的プロセスなので集中が必要で、

結果を求めているために

主体と対象の二元性を維持している。

だから抑制を通しては、

無条件に聞くことは起こらない。
 
感覚の自然な機能を減少させられるのは

確かかもしれないけれど、

それは一種のサマーディ(三昧)ではあっても、

ただの一つの経験にすぎない。

そして、

サマーディとサハジャ(自然、生来)は

実際は何の関係もないのだと言います。

それを聞いた質問者は

顕現(経験)が起こるというその意識は

一つなのかと聞きます。

ジャン・クラインの答えはこうです。

顕現が起こる意識の観点に立つと、

そもそも誰の経験と言うことはできなくなる。

「あなた」とか「私」というのは

それぞれの性質を持った心や身体として

一時的に現れては消えてゆくものだから。

そのような顕現は

それ自体としては存在しない記憶の集積にすぎない。

波も泡も海に他ならないように、

分離したものは一時的な存在でしかない。

自分は「波」や「泡」だと思っているかぎり、

あなたは真理を見ることができない。

だから自分(ジャン・クライン)が

お願いしていることはただ一つ、

そういう顕現と自己を

同一視するのをやめることだけだ、と言うのです。

そうすれば、

自分が「海」であることがわかると。
 
こう聞いて質問者は、

個人としての感覚がなくなるのを心配したらしい。

でも、それだと今度は、

波が見えなくなるのではないですか?

自分は海であると知っていながら、

かつ波を見ることはできないのか、と尋ねます。
 
ジャン・クラインは、

それは話が逆で、

じつは海の観点に立ったときに初めて、

人は波や泡について語ることができるのだと説きます。

なぜなら、そのときはじめて、

それらは孤立した記憶の投影物ではなくなり、

全体性の表現として

真の意義と関係を獲得するからだと。

──────────────────
 【質問者】
 日常生活では記憶が必要なのではありませんか?
 
 【ジャン・クライン】
 いいえ。
 記憶ではなく、
 常にその場の状況が
 あなたに適切な態度を取らせてくれます。
 あなたはあらゆる記憶の所有者であって、
 記憶そのものではありません。
 あなたは今、
 因習や習慣のかたまりであり、
 あなたをそのようにしたのは社会です。
 あなたはそのことをわからなくてはなりません。
 それらの因習や習慣のすべてが
 あなたから消え去ったとき、
 あなたはわかるでしょう。
 それらは存在すらしない、
 この自我(エゴ)を保つためにだけ蓄積された
 防衛と攻撃なのだと。
 それから、
 真我が輝き出てきます。
 それを見てください!
 聞いてください!
 あなたはこの記憶ではありません。
 自分が無になる瞬間を知ってください。
 あなたはこの上ない自由を感じるでしょう。
 そのとき、
 すべてが可能になります。
 
 【質問者】
 記憶と自由との間に中間状態はありますか?
 
 【ジャン・クライン】
 いいえ。 
 中間状態はありません。
 今、私たちが話している静寂において、
 私たちは無条件に自由です。
 この静寂の中では、
 私たちは厳格に無です。
 記憶が介入してくるのは、
 「自分は何者かである」
 と私たちが思っているときだけです。
 私たちが無であるとき、
 すべてが可能です。
 この自由にはそれ特有の味があります。
 また、
 この自由は政治的、
 あるいは社会的観点の結果で生れるものではなく、
 逆にそれらを生み出すものです。
 この経験が生きられないかぎり、
 政治的なものであれ、
 社会的なものであれ、
 他のいかなる自由もありえません。
 ただ独裁あるのみです。
 
 【質問者】
 この自由と恩寵は何か違うところがありますか?
 
 【ジャン・クライン】
 自由は恩寵であり、
 恩寵は自由です。
 
 【質問者】
 この恩寵は永続しますか?

 【ジャン・クライン】
 恩寵はこれまでも、
 これからも、
 いつもあります。
 そして、
 受け入れられるのを待っています。
 恩寵が確立されると、
 私たちはもうそれについて語らなくなります。
 さもなければ、
 それは概念のまま、
 とどまります。
 私たちに言えるのは、
 その瞬間、
 恩寵が真に生きているということだけです。
 恩寵の中にあることは理由のない喜びであり、
 安心です。
 このようにして時間のない瞬間に生きることには
 理由がないからです。 

 『われ在り I AM』(p60-61)
──────────────────

全体の表現になるという言葉を聞いて

質問者は、

しかしそれでは日常生活の状況に

対応できなくなるのでは、と心配になります。

日常生活では記憶が必要なのではないか、と。

この質問に対するジャン・クラインの

解答は明瞭です。

そのとき状況に応答するのは

記憶ではなくその場の状況なのだと。

その場の状況が適切な態度を取らせてくれる。

というのも

あなたはあらゆる記憶の所有者であって、

記憶そのものではないからだと。

現在のわれわれは

社会から教え込まれた因習や習慣のかたまりを

自分だと思いこんでいる。

しかしそれは

自我の維持のためにだけ蓄積された

防衛と攻撃のマインドセットにすぎず

実際には存在していない。

だからそれを喪失した瞬間に真我が輝き出す。

そのとき初めてすべてが可能になるのだと。

われわれの代弁者である質問者は、

エゴの喪失に備えてさらなる保証を求めます。

記憶と自由との間に中間状態はあるりますか?

この点に関しても

ジャン・クラインはじつに明確です。

いや、中間状態というのははありません。

【今、私たちが話している静寂において、
 私たちは無条件に自由です。
 この静寂の中では、
 私たちは厳格に無です。】

しかし、

「自分は何者かである」と思ったとたんに

記憶が介入してくる。

そして解放を求める不自由が入ってくる。

しかし、自由というのは

政治的あるいは社会的観点の結果で生れるものではなく、

逆にそれらを生み出すものなのだと。

だから、

【私たちが無であるとき、
 すべてが可能です。】と。

そしてまた

この経験が生きられないかぎり、

実際はいかなる自由もありえず、

ただ独裁あるのみだけなのだと。

それを聞いた質問者は、

ではその自由というのは

恩寵のようなものなのかと質問します。

ジャン・クラインは首肯します。
 
【自由は恩寵であり、
 恩寵は自由です。】
 
質問者は、

この恩寵は永続するものなのか、と聞きます。

ジャン・クラインは、

【恩寵はこれまでも、
 これからも、いつもあります。
 そして、受け入れられるのを待っています。】

と答えます。

そして、

いったん恩寵が確立されると、

私たちはもうそれについて語らなくなるのだと。

そうならないかぎり、

恩寵はただ概念のままとどまる。

われわれが恩寵のなかに生きるのを

実際に妨げているものは存在しない。

それを妨げているのは

ただ社会から教え込まれた

自我の維持のために蓄積されている

防衛と攻撃のマインドセットにすぎない。

実在する覚醒の視点からは

真に生きているのは恩寵だけ。

恩寵のなかにあることは

理由のない喜びであり安心なのだと。

(-||-)

──────────────────
 【質問者】
 しかし、
 それについて聞くだけで
 実際にそれを生きられなければ、
 苦痛なだけです!
 
 【ジャン・クライン】
 あなたが恩寵を生きることを妨げている唯一の障害は、
 あなたの苦痛という観念です。
 
 【質問者】
 この経験を一つの概念に変えると、
 つまりそれを対象化すると、
 とたんに私は真理から離れ、
 人生の混乱の中に戻ってしまいます。
 それはそうだと感じるのですが、
 なぜそんなことが起こるのか、
 理解できません。
 
 【ジャン・クライン】
 真理にはもともと対象として現れる性質があります。
 しかし、
 その対象は真理から出てきたものなので、
 探求者は直感的にその源を知ることができます。
 真理を知った探究者は、
 もはや他のことに気を散らすことなく、
 真理に集中します。
 その現実の予兆がとても強く感じられるからです。
 そして、
 この洞察は手放しをもたらします。
 つまりあなたに来た道を引き帰らせ、
 純粋意識、
 すなわち努力せずにただ在ることへと導くのです。
 
 『われ在り I AM』(p62)
──────────────────

こう聞いて

われわれの代表者である質問者は、

そう聞かされるだけで

実際にそう生きられないのは苦痛なだけです!

と訴えます。

そのときジャン・クラインは

【あなたが恩寵を生きることを妨げている唯一の障害は、
 あなたの苦痛という観念です。】

と答えます。

でもそう聞いたからと言って

誰もが一瞬で恩寵に生きられるわけではありません。

質問者もこう聞いて、

その言葉が自分のなかで一つの概念に

変わるのを感じたのでしょう。

今こうして聞いた言葉は、

自分でも確かにそうだと思えるのに、

でもこうして聞いた言葉が

自分のなかでひとつの概念に変化してしまうと、

そのとたんに私は真理から離れて

また人生の混乱のなかに戻ってしまうのを感じます。

なぜそうなるのか私には理解できません、

と尋ねます。

これはまさにわれわれの立場ですよね。

というか毎週こんなふうに

覚者の言葉を同意しながら書き写している

わたしの思いそのものです。(*^_^*)

だっていつもこんなに

ほんとにそうだと思いながら筆写してるんですから。

ここでジャン・クラインの解答はとても優しく響きます。

真理にはもともと

対象として現れる性質があるのだと。

その対象がいかにも客観的に存在して見えるため

われわれはついつい

その虚構の客観性に巻き込まれてしまう。

しかしその対象は

実際は真理そのものから出てきているので、

探求者は直感的にその源を知ることができる。

そうやって真理を知った探究者は、

その現実の予兆がとても強く感じられるため、

もはや他のことに気を散らすことなく

真理に集中することができるのだと。

そして、やがてこの洞察は

この真理を知った探究者に手放しをもたらす。

誰もが自然で究極の

安らぎのなかにくつろぎたいのだから。

かくてわれわれは

遅かれ早かれ、来た道を引き帰し、

純粋意識へと、

努力せずにただ在ることへと導かれるのだと。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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【私たちが無であるとき、
 すべてが可能です。】

ジャン・クライン、

すばらしいですね。(-||-)

もう引き返せない流れのなかに

導かれているような気がします。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(_ _)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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