━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2023/02/26(第984号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.対象は対象のない状態を指し示す(J.K-7)
2.編集後記
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■ 1.対象は対象のない状態を指し示す(J.K-7)
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今日は曇天に見えて
外に出るとじつは霧雨が降っています。
けっこう寒い日。
それでもなんだか嬉しくて……。(*^_^*)
昔はこんな感じじゃなかったなぁ。
なんかいつも文句がありました。
何に文句があったんだろう。(?_?)
いやー、ただとっても真面目に
エゴをやっていただけじゃないのかなぁ。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
みなさま、この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
このごろ、理屈というのに
あまり真面目に取り合わなくなった気がします。
たしかに習慣的にこれまでと同じような
理屈が湧いてきてはいるのですが、
その瞬間の背景画面とでも言うか、
べつに気にするほどのことでもないような
そんな感じなのかもしれません。
もっともらしいことは言うんですけど、
そんなことを言うなら、
きっともっと上手に言う言い方があるだろうことは
間違いないわけですし、
いずれにせよ気にするほどのことでもありません。
……と、むろん、
そんなことを思っているわけでもありません。(^_-)
強いて言うなら、
そんな気分なのかしら、というだけです。
ただね、これも理屈なんですが、
魂って、ほんとにあるのなかぁ、
なんて思いが湧いてきたりもします。
ミナミAアシュタール情報によれば、
われわれは
すぐには思いが現実として実現しないという
物理次元のゲームを楽しみたくて
この惑星地球に来たのだそうです。
だからそのゲームを何らかの意味で満喫して、
もう十分だと魂のレベルで納得しているから
身体を脱ぐのだと。
そして身体を脱いだ魂は多少の差はあっても
やがては
たとえて言うなら銭湯の脱衣場のようなところで、
身につけたすべての個性の体験を脱いで
ただの素に戻って湯に浸かるのだと。
それなりにとても納得のゆく説明なので
それはそれでもいいのですが……。
その“魂”が次のゲームを選ぶときは
またまっさらなところから、
まったく新しいゲームを選んで
そこでのまったく新たな環境要素を見繕うのだとか。
それはそれでいいとしましょう。
しかし、その素の状態で
温泉というか生命の海のなかで安らいでいるとき、
どうやって個々の魂が自分の持続性と言うか
個別性を維持できるんでしょう?
絶対無限の存在の夢のなかで維持されているという
その“魂”とか“スピリット”とか言われる
経験の核のようなものは本当にありえるかなぁ。
“魂”ってやっぱり幻想なんじゃないかなぁ。
なんて理屈が湧いてきたりもします。(*^_^*)
たとえば、ですよ、
ミナミAアシュタールは、
この地球の支配者を長らくやってきた存在たちを
「それもまた貴重な体験」という言い方をします。
でもね、それも一つの言い方だけれど、
もしかして、
その自己愛の中心たる絶対無限の存在の中心を
いわばすべてを死の坩堝に巻き込む恐怖の中心
でもあるかのように想像して、
生き延びるためにそこから離れることを意図して
重い感情エネルギー(ルーシュ)の収穫に励む
地上の支配者たちのような存在こそが、
じつは全現象界の構造的領域を確保するために
必須のエネルギー的指向性なのかもしれないと、
考えられないこともありません。
もしそうなら、
彼ら地上の支配者のような在り方は
現象世界という大伽藍を支える基本構造の
まさに骨格部分にも相当する。
そのような絶対無限の存在の中心から遠ざかる
エネルギーがあってこそ維持されている現象世界ならば。
まるで「きつい・汚い・危険」の3K作業を
担ってくれている方々みたいじゃないですか。(^_-)
まあ、すべてはただの観念ですが。
ネオアドヴァイタの大御所トニー・パーソンズは
その著『オープン・シークレット』の「はじめに」で
次のように書いています。
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その夢見の状態においては、
何をしようとすべては見かけの上で
相対の法則に支配されていて、
その法則により、
いわゆる肯定的行為は
それと釣り合う正反対の行為によって
寸分の狂いもなく相殺される。
したがって、
人生をうまくいかせたい、
完璧を目指したい、
個人として解放されたい
といった動機でなされる個々の試みは、
そのすべてが中和されることになる。
『オープン・シークレット』(p1)
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と。
ラマナ・マハルシの
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無欲が智慧である。
二つは別のものではない。
それは同じである。
『あるがままに』(p405)
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という言葉が、
ボディブローのように効いてくるようです。
ジャン・クライン師の
『われ在り』の前の方から
意味がわかりそうな部分を順にご紹介しています。
今回は「7」章の
最初の部分をご紹介しようと思います。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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7
【ジャン・クライン】
あなたは「われ知る」(I know)を生きること、
つまり認識そのものになることを
まったく記憶できません。
あなたが記憶できるのは、
ある一定の時間に精神的な次元で理解したこと、
つまり経験だけです。
しかし、
生(せい)そのものは時間や空間に束縛されません。
それは経験ではなく、
客観化することもできません。
心(マインド)にまったく縛られずに生きることは、
非二元的で純粋な在ることです。
生を知っている本物の師は
自分が教える内容を超越しています。
真我(セルフ)を知ることは
知識そのものになることであり、
言葉だけではそれを伝えることができません。
言葉とは真我という説明不可能なものの
ぼんやりした影にすぎません。
ですから、
決して言葉によるコミュニケーションに
とどまってはならないのです。
教えは弟子に新たな聞き方をさせるため、
つまり考えや期待を抱かずに
完全に自分を開いて
受動的に聞くようにさせるための
「口実」にすぎません。
そして、
この開放性(オープンネス)は聞く者自身の真の本質、
すなわち清寂、
究極の知識です。
その指導は肉体的にも精神的にも
決して固定化してはなりません。
師が師であることから完全に自由ならば、
指導は時空の中で行われるけれど揺らぐことなく、
その本源である真の存在を指示し続けます。
いわゆる師はいわゆる弟子を
心と身体のパターンから解き放ち、
彼が真の自律と究極の安心、
および継続的な無の状態を
見つけられるようにするのです。
客観的に物事を学ぶと、
その過程はいつも断片的になってしまいます。
しかし、
グルは真理についての知識を全体的に伝えます。
なぜなら、
グルとその教えは一つだからです。
師はただ目の前にいるだけで役に立ちます。
なぜなら、
師の現存(プレゼンス)は探求者に
彼自身の現存(プレゼンス)を思い出させるからです。
現存(プレゼンス)は師と弟子に共通したものであり、
その中にすべての存在が現れます。
それゆえ、
意図せずして全体性を思い出させるようなものが生じ、
弟子はそれに引き付けられるのです。
永遠なるものは一瞬で現実の中に確立します。
そうなれば、
心身のエネルギーが再統合されるのも時間の問題です。
『われ在り I AM』(p73)
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ジャン・クラインは
われわれが「われ知る」(I know)を生きるとき、
認識そのものになるとき、
つまりは真我を生きるとき、
そのことをまったく記憶できない、と言います。
われわれが赤ん坊のころのことを
思い出せないのはそのためなんでしょうね。
赤ん坊は真我として生きているんでしょう。
記憶できるのは、
時間を意識するような
精神的な次元で理解したことだけ、
つまり経験したことだけだと。
しかし赤ん坊が生きている生そのものは
時間や空間に束縛されていないのだと。
それは経験ではないので、
客観化することもできない。
思考空間に映し絵が存在しないのでしょう。
そんなふうに
思考空間の束縛をまったく受けずに生きることが、
非二元的な生、純粋な在ることなのだと。
だから本物の師が伝えようとしているのは
本質的には言葉では伝えられないことなのだと。
本物の師が使う言葉は
真我という説明不可能なものの
ぼんやりした影にすぎない。
それは実際は
弟子に新たな聞き方をさせるための、
「口実」にすぎないのだと。
では、
弟子はどんな聞き方をしなくてはならないのか?
ちょっと敷居が高いです。(^_-)
弟子は自分の予想とか期待を抱くことなく
しかも完全に自分を開いて受動的に
聴くことが必要らしいのです。
だからジャン・クラインは
けっして言葉によるコミュニケーションに
とどまってはならないと言います。
そしてじつは、
弟子の側のこの開放性こそが
開く者自身の真の本質、
すなわち清寂、究極の知識なのだと。
だから師の側のこの指導は
肉体的な意味でも精神的・言語的な意味でも
けっして客観的な何かに固定化してはならない。
師が師であることから完全に自由なら、
その指導が時空のなかで行われるものであっても
けっして揺らぐことなく、
その本源である真の存在を指示し続けられる。
形の上でのいわゆる師は
形の上でのいわゆる弟子を心身パターンから解き放ち、
弟子が真の自律と究極の安心を、
そして継続的な無の状態を発見できるようにする。
師の現存が決定的に重要なのは
それが探求者に当人自身の現存を思い出させるから。
現存は師と弟子に共通しており、
その中にすべての存在が現れるから。
だからこそ意図せずに
全体性を思い出させるようなものが生じ、
弟子はそれに引き付けられるのだと。
永遠なるものは一瞬で現実の中に確立する。
そうなれば心身のエネルギーが再統合されるのも
時間の問題なのだと。
──────────────────
【質問者】
私たちの成就を妨げている最大の障害は何ですか?
【ジャン・クライン】
私たちが可能性を実現しきることを
妨げる主たる障害は、
私という概念です。
それは記憶や
私たちがそこに属すると思っている
社会的文脈などによって生み出された
想像の断片に過ぎません。
確かに、
望んでいた対象が手に入ると、
無欲になる瞬間、
つまりいかなる意図からも私や知る者、
知られるものからも自由な一瞬が訪れます。
「私」がこの経験は自分のものであると主張したり、
それを「私は幸せである」という考えに変化させ、
主体と対象の関係の中に持ち込んだりするのは、
あくまでもその後です。
「私」は決して現存しません、
「私」は記憶からできており、
記憶を使って存在しています。
そのため、
何かを経験している瞬間には、
「私」も主体と対象の関係もないのに、
記憶はこの驚きや無欲の状態を
何らかの対象のせいにします。
そうすることによって、
記憶は私たちが対象の中に充足を求める
プロセス全体を強化するのです。
『われ在り I AM』(p75-76)
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このとき質問者には、
自分の成就を妨げている最大の障害は何か?
という疑問がわきます。
ジャン・クラインの解答はまことに簡潔です。
主たる障害は、
「私という概念」だといいます。
その「私という概念」は
実際は記憶や社会的文脈などによって生み出された
想像の断片にすぎない。
生きている過程のなかには
確かに望んでいた対象が手に入ると、
無欲になる瞬間がくるときがあるかもしれない。
いかなる意図からも解放された
欲望する自分からも自由な一瞬が訪れるかもしれない。
しかし何かを経験している瞬間には、
実際はその「私」もいなければ、
主体と対象の関係もそこに存在してはいない。
主体と対象の関係が持ち込まれるのは、
実際はあくまでもその体験の瞬間の後のこと。
「私」という想念が参照されて、
この経験は自分のものだと主張する想念が現れ、
それを「私は幸せである」という考えに変化させるから。
現実に起こった驚きや無欲の状態を
記憶はこうして何かの対象のせいにしてしまう。
実際は、「私」はけっして現存していない。
「私」は記憶からできており、
記憶を使って存在している観念にすぎない。
そうやって記憶は、
つまり「私」はその観念自体のサバイバルのために
われわれが対象のなかに充足を求めて
そこにエネルギーを流すように誘導している。
──────────────────
【質問者】
しかし、いつもエゴが
一体性(ワンネス)を破壊しているならば、
いったいどこから
成就や無欲の状態への欲求が起こるのですか?
【ジャン・クライン】
自我がその源から少ししか離れていないならば、
もう一度源を見つけたいと切望するでしょう。
この探求は一体性と充溢の記憶から生じます。
あらゆる経験は
私たちの真の在り方である無の経験から発します。
「私」もまた、
その源の香りを漂わせています。
私たちは無欲になった瞬間や
深く眠っているときに源を思い出します。
そのため、
自我は常に葛藤状態にあります。
つまりいつも自我は
一体性の中で我を忘れたいと憧れると同時に、
存在し続けるために戦っているのです。
驚きの原因として対象を思い起こすと、
主体と対象の関係を助長することになります。
そして、
主体と対象の関係の中では「私」が王です。
しかし、
対象は対象のない状態を指し示すものに過ぎない
と理解されれば、
もう対象は重視されなくなります。
そしてこのことは奥深い目覚め、
つまり全体性の予感を生みます。
やがて、
その予感も自我とともに消え、
ひとりでに真我が明らかになります。
『われ在り I AM』(p76)
──────────────────
こう聞いて質問者には一つの疑問が浮かびます。
しかし、
そうやっていつもエゴが一体性を破壊しているのなら、
成就や無欲の状態を求めるこの欲求は
いったいどこから起こるのか?
ジャン・クラインはこんなふうに説明します。
たしかに、
「私」は記憶からできているけれど、
一体性の成就や無欲の状態を求めるこの探究自体もまた
一体性と充溢の記憶から生じているのだと。
自我が源から少ししか離れていなければ、
もう一度その源を見つけたいと切望することだろう。
あらゆる経験は
われわれの真の在り方である無の経験から発している。
その意味では
「私」もその源の香りを漂わせている。
われわれは無欲になった瞬間や
深く眠っているときに源を思い出している。
だから、
自我は常に葛藤状態にあるとも言える。
つまり自我はいつも
一体性の中で我を忘れたいと憧れながら
同時に自我のサバイバルのために戦っている。
自我の存続のためには
何が何でも自我の生存領域である記憶に
われわれの意識エネルギーを呼び寄せたい。
そのためには
実際の体験内実である「驚き」の原因として
客観領域である「対象」を思い起こさせるのが
いちばん有効な「記憶」の強化方法。
だから「私」は
主体と対象の関係を助長することになる。
そして、
主体と対象の関係こそは「私」の固有領域。
ここでは「私」が王様だから。
しかし、それは
われわれの意識エネルギーが
対象を追いかけているからこそできること。
いったんわれわれが
「対象」とは「対象」のない状態を思い出すための
シンボルにすぎないと理解したら、
もう対象は重視されなくなる。
そしてその理解は、
ある奥深い目覚め、つまり全体性の予感を生む。
そしてやがて、
その予感も自我とともに消えて、
ひとりでに真我が明らかになる。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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■ 2.編集後記:
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【対象は対象のない状態を指し示すものに過ぎない
と理解されれば、
もう対象は重視されなくなります。】
ジャン・クライン、
すばらしいですね。(-||-)
もう大丈夫。
すでに引き返せない流れのなかに
導かれているような気がします。
今日も晩くなりました。
おやすみなさい。
<(_ _)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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