home > 通信 >プンジャジ再浮上:『アセンション館通信』第985号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/03/05(第985号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.プンジャジ再浮上

2.編集後記
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■ 1.プンジャジ再浮上
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すっかり暖かくなりましたね。

サンデッキでニイチェアに座って日を浴びていると

そのまま眠ってしまいますね。

酔生夢死とはこういうことをいうのかしら。(^_-)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

「くつろげる状態」というのを、

とりあえず誰もが同意できる形で表現してみるなら、

「気になることが何もない」という状態でしょうか。

でも、この状態は

つかの間の状態として現れることはあるでしょうが、

「気になること」が生まれたらそれで壊れます。

なのでほんの一時的な状態とも言えます。

人間はたいていこの一時的状態の実現を願って

身体の誕生から身体の崩壊まで、

一生を奮闘しつづけて過ごすわけです。

で、ご存知のように

そういう状態がどうも納得できなくて、

なかには一時的な状態としてではなく

もう少し根本的解決の実現を願う場合も出てきます。

で、そういう場合に目指されている状態は、

まあ、理屈で言うなら、

「気になることが何もない」状態を超えた状態

と言うことになるでしょう。

で、そういうものがあるとたらですね、

まあ、必ずしも誰もが納得できないかもしれませんが、

あえてもう少し突っ込んだ形で表現すると

「もともと気にすべきことなど何もない」ことが

わかっている状態ということではないでしょうか。(^_-)

これはもう、そういう状態というよりは、

そういう理解とか観点ということなのかもしれません。

われわれは、いわば

「もともと気にすべきことなど何もない」状況のなかで

ふと

「(自分が)存在する」ことに気がついたわけです。

この「(自分が)存在する」ことに気がついた状態が

「自分」の誕生とも言えます。

いわゆる「私は在る」が意味するものです。

この意味の「自分」、この意味の「私」は

自前で現存しています。

唯一これだけが実在しているわけです。

「もしもし、聞こえますか?」と聞かれたとき、

「はい。聞こえます」ち答える当人、というか、

そういう答えが湧いてくるところです。

聞こえるかどうかを思い悩む必要はありません。

聞こえたら、

「はい。聞こえます」という返事が起こる。

聞こえなかったら……、

何も起こりません。(*^_^*)

だから、もし聞こえるなら

この聞こえている当人が存在することは確かです。

そこまでは、何の問題もありません。

「(自分が)存在する」ことに疑問はありません。

「私は在る」です。

問題は、

「私は在る」のその「私」とは

「誰なのか?」と問うたときに起こります。

それが

「私は誰か?」です。

もっとも、

この「私は誰か?」は

使う人によって意味が違ってくるようです。

ラマナ・マハルシの「私とは何か?」

という問いのなかの「私」は、

「自我(エゴ)」の意味の「私」ですよね。

ラマナ・マハルシの手法のなかでは、

人間の苦しみの根本原因である「私」は

あくまでも一瞬生まれてくる想念、

いわば虚構の概念であって、

実際は、その「私」にあたる実体が

どこかに客観的に存在しているわけではない

ということを発見するための

方便として使われているわけです。

ですが、そういう用法の他に、

この「私は誰か?」という表現自体は

「私は在る」の意味の「私」を指して

使われることもあるようです。

その意味の「私」は、

上述の

「もしもし、聞こえますか?」と聞かれたら、

「はい。聞こえます」と答える当人ですよね。

この当人に関しては

本人が自分の存在を知っているわけですから

完全に自前で自律的に存在しています。

実際に実在しているのは

この現存する「私」だけです。

他の“わたし”はこの現存する「私」の

遠い反響のようなものです。

ちょっと脱線しましたが、

問題は、

「私は在る」のその「私」とは

「誰なのか?」と問うたときに起こります。

「誰なのか?」という話になると、

どうしてもその「私」を定義したいということになる。

この【「私」を定義したい】という願望は

なかなか危ういものを内蔵する願望なのです。

なぜなら、

定義するためには表現しなくてはならない

という縛りが生まれるからです。

ひとたび、その「私」を表現するという話になって

その表現のなかで「私」を定義するということになると

話はじつにややこしくなる。

それは多次元宇宙という永遠の変化を起動する

引き金を引いてしまうような話なのです。

それによって起動された

永遠に変化しつづける多次元宇宙のなかから

この現存する「私」が「誰であるか?」という

定義が生まれてくる可能性があると思いますか?

そんなものあるわけがありません。

ただ唯一の実在として静まっていた

唯一無二のエネルギーのなかで

無限の玉突きが生じるだけです。

もしまかり間違って

その永遠に変化しつづける多次元宇宙のなかから

何らかの決定的な結論が生まれるようなことがあったら、

その瞬間に永遠の変化である多次元宇宙は

消滅しなければならないでしょう。

しかし、幸か不幸か

夢が(その展開する夢の物語のなかから)

他動的に夢を観る人を終わらせるというような

そんなことは起こりません。(*^_^*)

まあ、もしそんなことが起こるようなら、

その瞬間まで夢に登場していた無限無量の登場人物たちが

じゃあ、俺たちの物語は

この瞬間にたどり着くための手段だったとでもいうのか?(\/U)

と言ってストライキでも起こすかもしれません。(*^_^*)

もしその人たちが実在していたらですが。

まあ、実際はそんなことは起こらないわけで、

実際に起こることは、

夢を観ていた人が夢から覚めて、

夢の世界が存在していなかったことが明らかになる

というだけのことです。

だから、目覚めているラマナ・マハルシは

想念が誕生する瞬間に注意するように教えたのでしょう。

そしてひとたび本当に「私」が目覚めたら

その圧倒的な光のなかで

「私」は「私−私」としてとどまって、

「私は在る」は立ち上がってこないのでしょう。

ところがこういう話はじつはかなり珍しい話なのか、

ラマナ・マハルシの弟子の覚者プンジャジは

『覚醒の炎―プンジャジの教え』のなかで

こんなふうに語っています。

──────────────────
 質問者 すべての人が自由で、しかも自分が
     自由であることを知っているような惑星が
     どこか他に存在するのでしょうか?
 
 パパジ
 いいや。
 自由が手に入るのはこの惑星だけだ。
 もし自由を求めるなら、
 神をも含めた誰もがここに来なければならない。
 神でさえもここに来なければならないのだ。
 自由が起こるのはこの地球だけだ。
 ほかの場所はすべて快楽と苦痛のために存在している。
 最終的には、誰もがここに来なければならない。
 これら何生にもわたる転生の神秘は、
 ほんの一瞬のうちに起こる。
 それは長く複雑な物語が
 一瞬の夢の中に現れるようなものだ。
 
 『覚醒の炎―プンジャジの教え』(p167)
──────────────────

なんと。(-_-;)

ただですね……

多次元宇宙のすべてが、

【ほかの場所はすべて快楽と苦痛のために存在している。】

というこの一点に関しては、

これまで読んできたチャネリング本や、

ミナミAアシュタール情報を勘案しても

本当だと思わざるをえません。

わたしがこのプンジャジの

【自由が手に入るのはこの惑星だけだ】

という言葉を情報としてお伝えしたのは

今からちょうど15年前のことでした。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol204.html#1

しかも15年前のそのとき

わたしはこのプンジャジの言葉をご紹介したあとで、

いかにも知ったかぶりに

マハラジのこんな文章までご紹介しています。

──────────────────
 あなたが全宇宙の深遠な原因なのだ。
 すべてはあなたが在るゆえに在る。
 この要点を深く、確実につかみなさい。
 そしてそれについて繰り返し熟考しなさい。
 このことが絶対的な真実だと悟ることが解放なのだ。
 
 『私は在る』(p267)
──────────────────

なんとまた。(-_-)

しかもその情報の価値を知らないわたしは

それから15年ものあいだこうして油を売り続けてきたわけです。

まあ、しかしそんなものでしょう。

どんな情報に触れようが、

渡された情報の価値は

それを受け取る者がその情報に与える価値……

以上ではありえないでしょうから。

それはこれをいま書いているpariにとっても、

これをいま読んでいるあなたにとっても同じです。

ジャン・クライン師の

『われ在り』の前の方から

意味がわかりそうな部分を順にご紹介しています。

今回は「7」章の

最初の部分をご紹介しようと思います。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-))

──────────────────
 【質問者】
 どうすれば自我の考えを捨てることができますか?
 
 【ジャン・クライン】
 私たちの中には、
 錯覚による根深い信念体系があります。
 それは、
 対象や私たちの周りにあるものは
 すべて自分とは分離していて、
 自分の外にあるというものです。
 さらに私たちは自分を身体や感覚、
 心などと同一視し、
 私とあなたが分離した世界を作り出します。
 この私たちの信念を最大限に広げ、
 自分の感情や身体、思考などを、
 他の木や馬や鳥などのような対象として見ることは、
 初めのうちは非常に役に立ちます。
 そうすることによって、
 私たちと心身との非合理で密接な関係の間に
 いくらか距離を置くことができるからです。
 
 やがて私たちは、
 自分の思考、「私」という考え、
 感情、好き嫌いなどは皆等しく、
 知覚の対象なのだとわかります。
 そして、
 この観点によって、
 私たちは自然に「自分は知る者である」と認識し、
 個人的な実体であるという考えは
 まったく無意味になります。
 
 自分の周りにあるものを
 対象の集まりだとする考え方も変化するでしょう。
 対象はもはや、
 正確に言うと対象ではなくなります。
 このときから、
 それは知る者、
 すなわち意識の延長、
 あるいは表現となります。
 これは一瞬でとらえられた全体的理解の結果です。
 この経験は一歩一歩進む分析的過程とは
 まったく異なります。
 
 『われ在り I AM』(p77)
──────────────────

まずは、

【自分の感情や身体、思考などを、
 他の木や馬や鳥などのような対象として見ること】

他者、他の動物、植物、鉱物のみならず、

自分の身体や自分の想念、

自分の好み、馴染んだ観念のすべてを含めて

森羅万象すべての現れが

知覚の対象であることを理解すること。

まずは自分が知る者であることを理解すること。

そうすればこの身体にまつわる

すべての物語がただの対象物だったことがわかる。

するとやがて、

それらすべての現れが対象というよりは

現れという形での意識の延長だったこと、

意識の表現だったことがわかってくる。

──────────────────
 【質問者】
 このような理解はいつでも起こりうるのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 目覚めているとき、
 夢を見ているとき、
 深い眠りから目覚めようとしているときなど、
 いついかなるときでも
 この瞬間的理解は起こりえます。
 この理解は(そして、この理解だけが)
 あらゆるお決まりのパターンを消し、
 それらを全体に再統合します。
 
 大部分の人は、
 注意とは何かに向かって集中すること、
 またある対象の魅力に引き込まれることとしか
 理解できません。
 私たちの興味を引く対象を重視すると、
 そのことによって連続性の幻想が生まれます。
 しかし、
 無方向的な注意は対象が静かな平安、
 つまり究極の非二元的な意識の中へ
 溶け込んでゆくことを可能にします。
 そして、
 この意識はあらゆる見かけ上の二元性の背景です。
 
 全体的な理解は瞬時に起こり、
 解釈や疑念の余地を残しません。
 この明瞭な視野のひらめきの中で、
 時間と空間は消滅します。
 長短や善悪の選択は、
 私たちが自己を物事の物質的な側面、
 つまり肉体と同一視していることによって起こる、
 概念的な過程です。
 しかし、
 理解はそれとはまったく異質であり、
 対立や相互補完性を超越しています。
 そして、
 この全体的な知識だけが、
 すべての条件づけを消し去ることができるのです。

 『われ在り I AM』(p78)
──────────────────

多くの人の注意は対象物に焦点を合わせている。

それは当然のこと、それはそれでいい。

そのとき自分の注意が無方向的で、

静かな平安としてその状況を迎え入れているか?

起こるすべてのことを歓迎しているか?

(-||-)

──────────────────
 【質問者】
 スピリチュアルな問題といえば、
 神についてはどうお考えですか?
 
 【ジャン・クライン】
 神は一つの概念です。
 
 【質問者】
 概念とは何ですか?
 
 【ジャン・クライン】
 一つの観念、あるいは思考です。
 
 【質問者】
 では、思考とは何ですか?

 【ジャン・クライン】
 視覚や聴覚、触覚などの
 記憶から引き起こされたイメージであり、
 一つの対象です。
 
 【質問者】
 思考はすべて、対象なのですか?
 
 【ジャン・クライン】
 はい。
 「われ在り」(I AM)という思考以外はそうです。
 しかし、
 「われ在り」という思考は
 物質的な実体を持っていません。
 それは対象化できない、
 生そのものから直(じか)に湧き起こります。
 
 『われ在り I AM』(p79)
──────────────────

すべての現れは

感覚への入力信号から構成された

イメージにほかならない。

「(自分は)存在する」という

生そのものから湧き起こる根源の想念以外は。

──────────────────
 
 【質問者】
 どうすればそれを経験することができますか?

 【ジャン・クライン】
 それは時間と空間を超えているので、
 経験することはできません。
 
 【質問者】
 私にも理解できるように、
 もう少し詳しく説明していただけませんか?
 
 【ジャン・クライン】
 信念や観念、概念、
 つまりあなたにとって最も身近なもの、
 今この瞬間の自分の肉体的および心理的状態から
 離れてください。
 あなたの環境はあなた自身の身体、
 すなわちあなたの生命力から始まります。
 何が現れようと、
 それは現れた瞬間に、
 全体として受け入れられなくてはなりません
 (「受け入れられる」とは、
  そこに意志が関与しないことを意味します。
  私たちはここで、
  受容と拒絶という対語について
  話しているのではありません)。
 非難したり拒絶したりすることによって、
 自由になることはできません。
 それどころか、
 非難や拒絶はあなたに重くのしかかり、
 あなたを拘束します。
 誰も選択する者がいなくなったとき初めて、
 あなたは事実を見ることができるようになります。
 そして、
 事実を通してのみ、
 あなたは完全な自由を見出せるのです。
 
 あなたが攻撃的にも拒絶的にもならずに聞くと、
 耳のみならず全身がこの聞くことになります。
 そして、
 あなたを囲むすべてのものが、
 この包括的な聞くことの中に含まれてゆき、
 
 最終的には聞く者も聞かれるものもなくなります。
 そのとき、
 あなたは非二元性の戸口に立っています。
 あなたはすでに概念的なパターンを後にしたのです。
 それについて話すだけではなく、
 自分自身でそれを生きてください。
 
 『われ在り I AM』(p80-81)
──────────────────

見かけの現れを

【非難したり拒絶したりすることによって、
 自由になることはできません。
 それどころか、
 非難や拒絶はあなたに重くのしかかり、
 あなたを拘束します。】

自分が見ているすべてを歓迎すること。

すべてが歓迎されているからこそ

それは自分の感覚に入ってきているのだから。

もしほんのわずかでもそこに好悪の選択が起こったら

「自分」は“自分”という登場人物になって

観られている夢のなかに迷い込んでいる。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
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おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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【自由が手に入るのはこの惑星だけだ。
 もし自由を求めるなら、
 神をも含めた誰もがここに来なければならない。
 神でさえもここに来なければならないのだ。
 自由が起こるのはこの地球だけだ。
 ほかの場所はすべて快楽と苦痛のために存在している。】

プンジャジのこの言葉が本当かどうかなど

そんなことを断定できる人は

プンジャジ以外にはいないかもしれません。

わかりません。

ただこれまで触れてきたすべての情報が

それが真実であるらしいことを

指し示しているように思われます。

すでに引き返せない流れのなかに

祖師たちが導いてくださっているのでしょう。

導かれているような気がします。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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