home > 通信 >『われ在り』エッセンス編(その1):『アセンション館通信』第987号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/03/19(第987号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.『われ在り』エッセンス編(その1)

2.編集後記
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■ 1.『われ在り』エッセンス編(その1)
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今日は朝から雨が降っています。

こうしていてもいかにも寒い日で、

昨日のうちに敷地西側のシシドメの修理を

終えられてよかったです。

ただちょっと頑張りすぎて最後はへたってしまって。^^;;

それで荷物を持って畦畔を上がってくるのは二回が限度で、

まだ下にある延長コードのドラムを持ち帰るために

畦畔を降りてゆく元気がありませんでした。

だから今頃はシシドメの下ですっかり濡れているはず。

まあ、仕方ないか。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

このところずっとジャン・クライン師の

『われ在り』の対話をご紹介しています。

そしてジャン・クライン師の言葉はすごい、

と感じ続けてもいます。

もちろん、一方には

こういう話は知的に理解しても仕方がない。

一瞬で起こる直感的理解、

いわゆる統覚が起こらなくれはならない、

ということがあるだろうとも感じてはいます。

そしてそれはそのとおりだとも思うし。

でも、それはそれ、これはこれ。

もうかれこれ何年だか何十年だか、

pariに起こっている全体表現はそれだけです。

まずはたとえ知的興味にすぎないとしても、

知的に理解することには意味があるはずです。

まあ、そんな思いひとつで来たわけです。

そういう意味から言うと、

読み続けてきたジャン・クライン師の言葉は

ある意味、読み終わって、喉元過ぎれば

まいかいただ通りすぎて

どんなことを読んだのかが微妙に蘇らない。

もう引き返せないというような

そんな決定的な話を聞いているはずなのに、

過ぎてみれば何を聞いたのか

はっきりわからないようなところもある。(*^_^*)

まあ、そういうのは

そのままでもいいのかもしれません。

覚者はたいてい、

「聞いた言葉はすべて忘れてください」、

なんておっしゃいますから。

でも、あれ?

『われ在り』のあの章では、

いったい何を聞いたんだったっけ?(?_?)

なんて気分が起ころないでもないのです。

いったい何を聞いたのだったか、

ちょっと交通整理したいような気分になりました。

こういうのは自我の防衛戦略なのかもしれません。

しかし自我がどうあがこうと

けっきょくは自縄自縛、

自らの首を絞めることしかできないはず、

という感じがないこともない。

だから、今回は

これまで『アセ通』でご紹介してきた

ジャン・クライン師の『われ在り』での言葉は

煎じ詰めたところいったいどういうことだったの?

というところを確認しておきたいと思います。

●まずは、「1」章から。

ここでご紹介していますね。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol967.html#1-1

われわれのあらゆる思いと行動は

けっきょく幸福の追求と言えるわけですよね。

生まれてこの方、

この身体が自分だと教えられ、

この身体にまつわるいろいろの記憶をつないで、

われわれは自分の物語を紡いできたわけです。

そんなわれわれの行動の根本動機を

ジャン・クライン師はこんなふうに叙述します。

──────────────────
 一人でいると、ふとした瞬間に、
 自分の中に深い欠如感を覚えることがあります。
 この欠如感は他のすべての欠如感を引き起こす、
 中心的な欠如感です。
 この欠如感を埋め、渇きを癒すために、
 私たちは考え、行動します。
 この物足りなさは何なのかと問いただすことさえせずに、
 私たちはやみくもにそこから逃げるのです。
 私たちはまず、その欠如感を埋めようと、
 次々とさまざまな対象を試し、絶望します。
 つまり、
 私たちは次々と色々な組み合わせを試し、
 失敗に失敗を重ね、次々と苦しみの原因を生み、
 戦いに次ぐ戦いを繰り返すのです。
 これは大部分の人が陥る運命です。
──────────────────

どうやら夢のなかの登場人物としてのわれわれは、

本当の自分に直面することを避けるために

あらゆる虚構の興奮を追い求めているらしい。

ところが、ジャン・クライン師によると、

対象物によって一瞬の幸福が得られたと思われるとき

われわれはその対象をまったく意識していない。

つまり、その対象物は

けっしてわれわれの幸福の原因ではなかった、

とジャン・クライン師は言うのです。

その瞬間の幸福は、

じつはわれわれが何ひとつ求めていないときの在り方、

あらゆる現象の背景にある静寂に浸った瞬間の

いわば音色のようなものだというのです。

そして、

──────────────────
 私たちの心身の性質を変えることができるのは
 静かな気づきだけです。
 この変化は完全に自発的です。
──────────────────

と。

実際は、われわれは自分の本来の在り方である

この【静かな気づきに戻りたい】だけらしい。

うーむ。(-_-;)

これはしかし、大変な知見ですよね。


●では、「2」章ではどんなことが語られていたのか?

まず、こんな基本情報が語られます。

──────────────────
 自由は人格と無関係です。
 なぜなら、
 自由とは人格から解放されることだからです。
──────────────────

つまり、

われわれのふだんの日常生活でのどんな努力も画策も

自由とはまったく関係がないというのです。

ジャン・クライン師が勧めるのは次のことです。

──────────────────
 あなたは機会の許す限りできるだけ多く、
 この非個人的な背景に帰らなくてはなりません。
 自分の注意が
 常に何らかの対象か思考に向けられていることに
 気づいていてください。
 条件づけすることなく在るという感覚を
 あなたはまったく知りません。
 傍観者になってください。
 生命の自然な流れ、自分の行動やその動機、
 そしてそれから生じる結果に気づいていてください。
──────────────────

と。

たしかに。(-_-;)

ここにはたいていのわれわれにとっての

最大のバリアが存在している。

もしわれわれが本当に自由を回復したいのなら、

【あなたは機会の許す限りできるだけ多く、
 この非個人的な背景に帰らなくてはなりません。】

という状況にいるわけです。

しかも、ミナミAアシュタールが言うように

われわれは自分の現実を自分の思考で創造している。

ところがわれわれは自分の現実の大部分を

自分の思考をつねに何らかの対象物に向けることで

創造しようとしている。

まさに、

【自分の注意が
 常に何らかの対象か思考に向けられていることに
 気づいていてください。】

とジャン・クライン師が注意を促しているところです。

われわれはほとんどの時間を

見かけの現実を自分の都合に合わせて動かすための

無意識の画策のなかで過ごしている。

しかし、ジャン・クライン師は

どうにかなろうと努力したりせずに、

【生命の自然な流れ、自分の行動やその動機、
 そしてそれから生じる結果に】

ただ気づいていてくださいというのです。

うーむ。

まあ、pariなどはこのあたりのバリアが突破できなくて

一生を浪費することになるのか。(*-_-*)


●では「3」章ではどんなことが語られているのか?

──────────────────
 私たちはおもに感覚として身体を経験します。
 私たちは身体を感じるのです。
 私たちに現れる感覚は実にさまざまです。
 たとえば、私は重い、軽い、暖かい、寒い、
 緊張している、リラックスしているなどと感じます。
 これらの感覚は私たちが慣れ親しんだ記憶と習慣です。
 それらは「私は身体である」という観念が
 自分の存在を再確認するための手段に過ぎません。
 それらはいわば、本来の自然な状態にある身体の上に
 重ねて合成された画像のようなものです。
──────────────────

ひえー。(>_<)

われわれはつねに現実創造楽器である身体を

感覚として体験している。

そしてその体験の仕方は

【それらは「私は身体である」という観念が
 自分の存在を再確認するための手段に過ぎません】

と描写されるような仕方で体験している。

(;_;)

──────────────────
 私たちが「感覚」として知っている諸感覚は
 「私は身体である」という考えに属する、
 条件づられた感覚です。
 そして人格、つまり「私」は
 この重ね合わせられた画像を支えにしています。
 なぜなら、人格は感覚か観念のいずれかを
 住処(すみか)としなくてはならないからです。
 条件づけから自由になる唯一の方法は、
 記憶抜きで、
 つまり条件づけの共犯者抜きで見ることです。
 心の中にどんな感情が浮かんでも、
 それを視覚化したりそれに集中したりせず、
 放っておくことです。
 観照者である「私」の前に、
 つまり中心も周辺もない注意の前に感情が現れるのを、
 現れるままに放っておくと、
 身体は何段階かの消去の過程を超えてゆくことになります。
──────────────────

シーン。(-_-;)

【心の中にどんな感情が浮かんでも、
 それを視覚化したりそれに集中したりせず、
 放っておくことです。
 観照者である「私」の前に、
 つまり中心も周辺もない注意の前に感情が現れるのを、
 現れるままに放っておく】

クソー、これをやらずにおくものかー!

(*^_^*)


●では「4」章ではどんなことが語られていたのか?

──────────────────
 真理へ近づくには
 基本的に二つの既知の方法があります。
 段階的な方法と直接的な方法です。
 直接的なアプローチでは、
 「あなたは真理であり、何も獲得する必要はない」
 ということが前提になっています。
 何かを得ようとして努力することはすべて、
 心理から離れてゆくことに他なりません。
 「道」は厳密には
 どこかから別のどこかへ行くというような道ではなく、
 単に真理、
 つまり「われ在り」(I AM)に対して自分を開き、
 それを喜んで受け入れることです。
──────────────────

なるほど。

で、もう一つの方は?(?_?)

──────────────────
 他方、
 段階的に真理に近づく方法では、
 あなたは心に縛られたままです。
──────────────────

あ、つまり実際上は、

方法はひとつしかないということか……。

──────────────────
 あなたには気づく能力があります。
 ですから、自分が不完全さや不満、不足、
 倦怠などを感じている瞬間、
 それに気づいてください。
 ……
 それらを知覚することに全神経を集中してください。
 それには時間がかかるでしょう。
 なぜなら最初、
 あなたは自分を見つめることに慣れていないからです。
 しかし、倦怠感や絶望感を探求しているうちに、
 あなたはいつしかそれらの中で
 自分を見失うことがなくなるでしょう。
 あなたはそれらの対象よりも
 探求することのほうに夢中になるからです。
──────────────────

【あなたはそれらの対象よりも
 探求することのほうに夢中になるからです】

そこまでいけるかどうかか。(-_-;)

──────────────────
 現れては消えていく思考の流れを
 ひたすら観察してください。
 それらを拒絶したり助長したりしてはなりません。
 決してそれらを導こうとしてもなりません。
 ただ、淡々と注意深く見ていてください。
 そうすればすぐに、あなたは思考や感情、
 感覚などがこの無方向的で注意深い意識、
 つまりあなたの開放性(オープンネス)の中に
 現れるのを感じられるようになるでしょう。
 それらはあなたがいるからこそ存在するのです。
──────────────────

可能なかぎり反応することなく、

【現れては消えていく思考の流れを
 ひたすら観察してください。】

(-_-)

しかも、

【決してそれらを導こうとしてもなりません。
 ただ、淡々と注意深く見ていてください。】

……。

こんな方向性が確立すること自体、

大変なことですね。

あんまり言葉だけ先走らないで、

このあたりをじっくり身体に浸透させたいですね。

今回はエッセンス編は

まずここまでにしておきます。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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【自由が手に入るのはこの惑星だけだ。
 もし自由を求めるなら、
 神をも含めた誰もがここに来なければならない。
 神でさえもここに来なければならないのだ。
 自由が起こるのはこの地球だけだ。
 ほかの場所はすべて快楽と苦痛のために存在している。】

プンジャジのこの言葉が本当かどうかなど

そんなことを断定できる人は

プンジャジ以外にはいないかもしれません。

わかりません。

ただこれまで触れてきたすべての情報が

それが真実であるらしいことを

指し示しているように思われます。

すでに引き返せない流れのなかに

祖師たちが導いてくださっているのでしょう。

導かれているような気がします。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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