━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2023/04/02(第989号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.心は誰のために働いているか?(対話3)
2.編集後記
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■ 1.心は誰のために働いているか?(対話3)
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今日はすばらしい天気の日でした。
以前切り倒してあった何本かの杉の木を
1メートル半ほどの長さに切断して、
それを使って敷地の西側から畦畔を降りる
階段づくりをしました。
まだ完成はしていないけれどゆっくりやります。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
みなさま、この永遠の<今>を
いかがお過ごしでしょうか?
このごろ『ラマナ・マハルシとの対話3』
https://amzn.to/3RyHkFz
をよく眺めています。
以前、『ラマナ・マハルシとの対話1』を買ったとき
当時続いて発売された『対話2』『対話3』を
買いそびれたんですよね。(*-_-*)
これはケチらずに当時買うべきでした。
どうすべきだったなんて行為者は
夢のなかに存在しないとは聞いていますが。(^_-)
端的に言うなら、
身体に一体化した夢の登場人物pariは
それだけの理解に達していなかったわけです。
「サッチタナンダ」という言葉がありますよね。
「サット・チット・アーナンダ」。
「存在・意識・至福」。
「真我」とか「実在」と言われる、
われわれの本質を指して表現する言葉です。
実際はわれわれは「サッチタナンダ」です。
それしか存在しないわけですから。
「真我」しか実在しないのですから。
それ以外はすべて実在しないわけです。
ただしその「実在」は
実際は“存在しないもの”が【見かけ】として
現れることを可能にしているわけです。
その【見かけ】を現すための道具が
身体というわけなのでしょう。
われわれは身体という感覚器官が提供する
感覚印象を信じることで“聖なる催眠”の下
無限の多様性を展開する分離幻想の“世界”に入ります。
ラマナ・マハルシはこんなふうに説明します。
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ある人が夢を見ます。
それは喜びや苦しみをともなった夢の世界です。
しかし目を覚ますとともに、
夢の世界に対する興味はすべて失われます。
目覚めの世界もそれと同じことです。
自分自身の一部であり自分自身と異ならない夢の世界に対して
興味を失うのと同じように、
もしあなたが目覚めと呼ばれる夢(サンサーラ)から目を覚ませば、
この現在の世界に対しても興味を失うことでしょう。
そして世界は自己の一部であって、
客観的現実ではないということを悟るでしょう。
自分の周りにある物事が自分自身から分離していると考えるため、
あなたは物を欲しがるのです。
しかし、もしすべての物事は
「想念でできた形態」でしかないことを理解すれば、
もはや物を欲しがることもなくなるでしょう。
『ラマナ・マハルシとの対話3』(p267-268)
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こういうシンプルな説明を聞くと、
これがわからないはずはないのにと思います。
でも、知的に理解しただけではダメなんですよねぇ。(;_;)
そうやってわれわれは
いつも何かしなければならないそんな虚構の現実に
対処していたりするわけです。
でも……。
実際はわれわれは「サッチタナンダ」なのです。
それしか存在しないのですから。
「真我」しか実在しないわけですから。
でもどういうわけか、
われわれはその「存在・意識・至福」を
どこかの聖者の境地として遠ざけて、
それ以外のものに夢中になることに決めている…。
そんなことを感じさせられたのは
若き日のラマナ・マハルシの
こんな場面を読んだからだと思います。
同じ福間巌さんが訳されたアーサー・オズボーンの
『ラマナ・マハルシの伝記 賢者の軌跡』
にも同じ場面があるのですが、
『ラマナ・マハルシとの対話3』には
福間巌さんご自身の手になる
「ラマナ・マハルシの生涯」という章があって
そこでは在りし日の少年聖者を救出した
ヴェンカタチャリ・ムダリ本人の言葉が引用されています。
(相変わらず
常識の範囲を超えた長い引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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大寺院内で奉仕をしていたヴェンカタチャリ・ムダリは、
パーターラ・リンガムの中にいる少年聖者のことを聞いて、
狭い地下室の中に入って行った。
そのときのことを彼はこう語っている。
階段を降りて行くにつれ、
初めは真っ暗闇で何も見えなかった中に、
うっすらと少年の顔が見えてきました。
何やら恐ろしくなり、私は一度外に出て、
花壇にいたサードゥとその弟子たちに
このことを告げに行きました。
彼らを連れてパーターラ・リンガムに戻って来ましたが、
少年は私たちの足音にも気づかずに、
不動のまま目を閉じて坐っていました。
そこで私たちはスワミを
そのままの姿勢で担ぎ上げると階段を上がって、
スブラマニヤ神の神殿の前に降ろしました。
意識はまだ戻っておらず、
彼が深いサマーディの中にいることは明らかでした。
私たちは彼の両足、
両腿が血と膿に覆われていることに気づきました。
いったいこれほどの拷問に遭いながら、
どうして身体に無意識のままでいられるのかと驚愕し、
無礼にならないようにと、
私たちはこの偉大な少年聖者の御足元にひれ伏した後、
静かに彼のもとを離れたのでした。
『ラマナ・マハルシとの対話3』(p335)
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(-||-)
これこそが「サッチタナンダ」が
われわれの夢のなかに現れた姿なのでしょう。
言葉以上のものが伝わってくるのを感じます。
ありがたいことです。
(-||-)
次の引用箇所はわれわれがふだん対応している
日常生活空間のごくごく簡単な素描です。
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映画のスクリーンに生命意識はないため、
それは見る者を要します。
一方、真我のスクリーンは
見る者と見られるものをその中に含んでいます。
と言うよりも、
むしろそれは光に満ちているのです。
暗闇なしに映画の画像を見ることはできません。
なぜなら、
日中の光の中で映画を見ることはできないからです。
それと同じように、
心は内在する無知(暗闇)ゆえに物事を考え、
対象物を見るのです。
真我は二元性のない純粋な知識、
純粋な光です。
二元性は無知を暗示しています。
真我の知識は相対的な知識と無知を超えたものであり、
真我の光は通常の光と暗闇を超えています。
ただ真我だけが存在するのです。
『ラマナ・マハルシとの対話3』(p282-283)
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【心は内在する無知(暗闇)ゆえに物事を考え、
対象物を見るのです。】
【真我は二元性のない純粋な知識、
純粋な光です。】
【二元性は無知を暗示しています。】
【ただ真我だけが存在するのです。】
(-||-)
マハルシは無知を破壊できるのは
気づきの方向の転換しかないと言います。
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無知(アジニャーナ)を破壊できるのは
ヴリッティ・ジニャーナ* だけです。
絶対的な叡知(ジニャーナ)は無知に対立しないのです。
心の様態(ヴリッティ)には二種類あります。
対象に向かう心(ヴィシャヤ・ヴリッティ)と
主体に向かう心(アートマ・ヴリッティ)です。
後者が前者に取って代わらなければなりません。
これがアビヤーサ(修練)の目的であり、
それはまず人をプリー・アシュタカムへと導き、
それから一なる真我へと導くのです。
* ヴリッティ・ジニャーナ:この対話では
「ブラフマカーラ・ヴリッティ・ジニャーナ」を意味する。
気づきを対象に向けると、
心はその対象物の形を取る。
その同じ気づきを主体に向けると、
心は無形のブラフマンの形を取る。
それは「気づきが気づき自体に気づいている状態」である。
『ラマナ・マハルシとの対話3』(p274)
──────────────────
【気づきを対象に向けると、
心はその対象物の形を取る。
その同じ気づきを主体に向けると、
心は無形のブラフマンの形を取る。】
(-||-)
──────────────────
想念がどこから立ち現れるのかを見いだしなさい。
それは心です。
心あるいは知性は誰にとって機能するのでしょうか?
自我です。
知性を自我の中に融かし去りなさい。
そして自我の源を探し出しなさい。
そうすれば、自我は消え去るでしょう。
「私は知っている」と「私は知らない」は、
主体と対象の存在を示唆しています。
それらは二元性ゆえに存在するのです。
真我は純粋で絶対、単一で単独です。
一つの自己がもう一つの自己を知るというような
二つの自己が存在するわけではありません。
では二元性とは何でしょうか?
それは単一で単独である真我ではありえません。
それは真我ではないものに違いありません。
二元性は自我の特徴です。
想念が起こるとき、そこには二元性があります。
それが自我なのです。
その源を探りなさい。
想念の不在の度合いが、
真我実現への進歩の度合いを示しています。
しかし真我実現自体は進歩というものを認めません。
それは常に同じです。
真我は常に実現されているからです。
障害は想念だけであり、
進歩の度合いは
真我が常に実現されているという理解への障害を
どの程度取り除いたかによって知られるのです。
それゆえ、
想念は誰に起こっているのかと探究することによって、
想念を止めなければなりません。
源に向かいなさい。
そこでは想念は起こらないのです。
『ラマナ・マハルシとの対話3』(p255-256)
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【心あるいは知性は誰にとって機能するのでしょうか?
自我です。】
(-_-)
【知性を自我の中に融かし去りなさい。】
知性が自我の下僕であることを知りなさい。
【そして自我の源を探し出しなさい。】
その自我が現れる現場を押さえなさい。
【想念の不在の度合いが、
真我実現への進歩の度合いを示しています。】
(-||-)
【想念は誰に起こっているのかと探究することによって、
想念を止めなければなりません。】
想念は誰に起こっているのか?
【源に向かいなさい。
そこでは想念は起こらないのです。】
(-||-)
──────────────────
聖典は『汝それなり *』と述べています。
この確言の中の『汝』は直接体験されるものです。
それにもかかわらず、
人々は『汝』を無視して『それ』を探し回るのです!
* 『汝それなり』(Tat Tvam Asi:タット・トヴァム・アシ):
『サーマ・ヴェーダ』の『チャーンドーギャ・ウパニシャド』
に見られる偉大な確言。「あなたは『それ』である」。
『ラマナ・マハルシとの対話3』(p255-256)
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【「あなたは『それ』である」】
われわれは「サッチタナンダ」である。
(-||-)
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あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
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(-||-)
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永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
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……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
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■ 2.編集後記:
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【心あるいは知性は誰にとって機能するのでしょうか?
自我です。】
これほどシンプルなことだったんですね。
今日も晩くなりました。
おやすみなさい。
<(__)>
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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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