home > 通信 >想念が湧き起こる源(対話3):『アセンション館通信』第990号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/04/09(第990号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.想念が湧き起こる源(対話3)

2.編集後記
──────────────────

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■ 1.想念が湧き起こる源(対話3)
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朝方の晴天に比べると午後になって

花曇り……そんな感じの今の瞬間です。

なにやら状況が動いているような

感じがなきにしもあらず。

いずれにしても揺れているのは

想念に自己同一化している何かでしょう。

その何かがどうあろうと、

その揺動を顕現として映し出している

純粋意識そのものは不動の静寂なのでしょう。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

『ラマナ・マハルシとの対話3』
https://amzn.to/3RyHkFz

すばらしいです。

われわれが生きているこの現象世界は

実際に存在する客観的現実ではなく、

われわれが放心しているときに湧いてくる想念が

一瞬一瞬にとる形態にすぎないという話は、

これまで何度も覚者がたから聞かされてきましたし、

ここでもそんな言葉をなぞり続けてもきました。

実際は神しか存在せず、

すべては神の一人芝居であるという

ヒンドゥー教の「リーラ」という言葉も聞き知っています。

前回もご紹介したように、

ラマナ・マハルシもこう述べていたのでした。

──────────────────
 ある人が夢を見ます。
 それは喜びや苦しみをともなった夢の世界です。
 しかし目を覚ますとともに、
 夢の世界に対する興味はすべて失われます。
 目覚めの世界もそれと同じことです。
 自分自身の一部であり自分自身と異ならない
 夢の世界に対して興味を失うのと同じように、
 もしあなたが目覚めと呼ばれる夢から目を覚ませば、
 この現在の世界に対しても興味を失うことでしょう。
 そして世界は自己の一部であって、
 客観的現実ではないということを悟るでしょう。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話3』(p267-268)
──────────────────

このことが単なる聞いた話ではなく

疑いようもない如実な実感なら、

この現れの世界に興味を失って当然だと思います。

そして自分が興味を失えば、

この世界そのものも滲んで溶解しはじめるのかもしれません。

しかしそんな噂話をいくら知的に理解しても、

それだけで“自分”という感覚が

蒸発して消えてしまうわけではないのは、

あなたもよくご存知のとおりです。

何が問題なのか?

そうです、想念が問題を創造するわけです。

そしてその想念に自己同一化する癖が

まだ一掃されていないのです。

湧いてくる想念に注目する能力自体は

けっして怪しいものではなく、

実在する純粋意識の本質に由来しているでしょう。

しかし実在する純粋意識は

けっして自己主張することはありえません。

急ぐどんな理由がありうるというのでしょう?

「リーラ(神性遊戯)」を演じる胴元は、

無限にピノッキオたちを遊ばせておくことでしょう。

実際は、彼ら自体が

蜃気楼のなかにしか存在しないわけですから。

こういう言葉遊びそのものもまた

無用な誤解と混乱を拡大再生産するのでしょうし。

それゆえ、その蜃気楼のなかでは、

誤解に苦しむピノッキオたちがいることも事実です。

こうしてわれわれがいるわけですから。

その幻想のなかで架空の苦しみを苦しむ

われわれピノッキオのために、

賢者ラマナ・マハルシは

われわれピノッキオがどんなふうに

夢のなかに取り込まれるのかを説明してくださいます。

(相変わらず

 常識の範囲を超えた長い引用ですが、
 
 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

今回ご紹介する「対話609」は

ベイトマン夫人という方が

 「人は目覚めの状態よりも深い眠りの中にいるとき、
  より純粋意識の状態に近いのでしょうか?」
 という質問を紙に書いて
 シュリー・バガヴァーンに手渡した。

という状況説明から始まります。

じつはベイトマン夫人はその前日、

「眠りは実に活気ない退屈な状態ですが、
 一方目覚めの状態は美しいものや興味深いもので
 いっぱいなのです。」

という見解を披露し、マハルシから

「あなたが美しいものや興味深いもので
 いっぱいだと考えているのは、
 実はジニャーニから見れば
 退屈で無知な眠りの状態なのです。」
 
という意外な言葉を聞かされていました。

それで、目覚めの状態と深い眠りの状態に

ついての上の質問となったのでしょう。

──────────────────
 マハルシ
 その質問は、
 「目覚めの状態よりも深い眠りの中にいるとき、
  私は私自身により近いのでしょうか?」
 と言ってもよいでしょう。
 
 真我は純粋な意識であるため、
 誰も真我から離れて在ることなどできません。
 そこに二元性があるときだけ、
 そのような質問は可能です。
 しかし純粋意識の状態の中に二元性はないのです。
 
 同じ人が眠り、夢を見、目覚めます。
 目覚めの状態は美しく、
 興味深いもので満ちていると考えられています。
 眠りの状態ではそのような体験が不在なため、
 眠りの状態は退屈なものだと人は言うのです。
 先に進む前に、
 この点について明確にしておきましょう。
 あなたは眠りの中でも存在しているということを
 認めますか?
 
 質問者 はい。認めます。
 
 マハルシ 
 あなたは今ここで
 目覚めているその同じ人ではないでしょうか?
 
 質問者 そうです。
 
 マハルシ
 つまり眠りと目覚めの状態には
 継続性があるということです。
 その継続性とは何でしょう?
 それが純粋な存在状態なのです。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話3』(p216)
──────────────────

ここでマハルシの説明についてゆくために

決定的に重要なのは、

【あなたは眠りの中でも存在しているということを
 認めますか?】

【あなたは今ここで
 目覚めているその同じ人ではないでしょうか?】

というマハルシの質問に対して

誠心誠意、自分の本心の理解を確認しておくことです。

この二つの問いにまったく疑問の余地なく

肯定で返答できている必要がありそうです。

夜寝床のなかで夢も見ずにぐっすり眠っている存在とは

同じく寝床のなかで夢を見ている者でもあり、

その存在とは取りも直さず、

いま起きて目覚めている当人でもあるという理解です。

その三者がすべて同一存在であることに

同意するかというのです。

これについてはどうでしょう?

同意できますよね。

ではその前提で、以下のマハルシの

説明についてゆきたいと思います。

するとマハルシは、

だから眠りと目覚めの状態には継続性があるのだと言います。

【その継続性とは何でしょう?
 それが純粋な存在状態なのです。】

なんと!(@_@) ⌒★?

「眠り」と「目覚め」を通貫する継続性こそが

「純粋な存在状態」だと言うのです。

これはなんかすごい知見ですよね。

──────────────────
 二つの状態には違いがあります。
 何がその違いでしょう?
 出来事、つまり身体や世界や物事は
 目覚めの状態の中には現れても、
 眠りの中では消え去るということです。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話3』(p216)
──────────────────

では、

そこにいる当事者は同一存在だとして、

「眠りの状態」と「目覚めの状態」では

いったい何が違うのか?

それは、

「目覚めの状態」のなかには

身体や世界といった物事・出来事が現れ、

「眠りの状態」のなかでは

そういうものは現れないということだと

マハルシは言います。

これには誰も反対しないでしょうね。

誰もが簡単に同意できることです。

ここで質問者はちょっと異議を挟みます。

──────────────────
 質問者 
 しかし眠りの中では、
 私は気づいていませんでした。
 
 マハルシ 
 確かに、
 眠りの中では身体や世界に気づいていません。
 しかし今
 「眠りの中の私は気づいていなかった」
 と言うためには、
 眠りの中にあなたが存在していなければなりません。
 今、それを言うのは誰でしょうか? 
 それは目を覚ました人です。
 眠っている人がそう言うことはできないからです。
 ということは、
 真我と身体を同一視している個人が、
 「眠りの間にそのような自覚はなかった」
 と言うのです。
 
 あなたは自分自身と身体を同一視するために、
 あなたの周りに世界を見て、
 それから
 「目覚めの状態は
  美しいものや興味深いものでいっぱいだ」
 と言います。
 眠りの状態は退屈なように見えます。
 なぜなら、
 あなたがそこに個人として存在せず、
 それゆえ、
 それらのものもそこにないからです。
 しかし事実はどうでしょう? 
 三つの状態すべての中に
 「存在」は継続していますが、
 個人や物事の継続性はそこにないのです。
 
 質問者 そのとおりです。
 
 マハルシ
 継続するものは不変であり、永続します。
 継続しないものは一時的なはかないものものです。
 
 質問者 はい。
 
 マハルシ
 それゆえ、存在の状態は永久的であり、
 身体や世界は一時的なはかないものです。
 それらは不変不滅の「存在─意識」のスクリーン上を
 通り過ぎる束の間の現象にすぎないのです。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話3』(p217-218)
──────────────────

眠りのなかで自分は気づいていなかった、

というコメントを聞いて、マハルシは、

確かに、

眠りのなかであなたは【気づいていなかった】が、

そこに【存在はしていた】のだと言います。

でなければ、いったい誰が

「眠りのなかで自分は気づいていなかった」

と言えるのかと。

(-_-)

いやー、たしかに、

深い眠りのなかにもいまここで目覚めている

その同じ自分が存在していたわけです。

これは同意せざるをえません。

たしかに、夢のなかにいた自分は

いま起きて目覚めている個人の自覚を持ってはいない。

それでも、いやそれだからこそ、

「眠り」と「目覚め」を通貫して

継続性を維持しているのは「存在」のほうであって、

【個人や物事】のほうではないわけです。

だからわれわれが自分として自己同一化するべきは

不変であり永続する継続性の「存在」のほうであって、

通りすぎるつかの間の風景である

【個人や出来事】のほうではないわけです。

そしていよいよ、ここからマハルシは、

眠りの状態から目覚めの状態に移るとき

何が起こるのかを説明してくれます。

──────────────────
 質問者 
 比較して言えば、
 目覚めの状態よりも深い眠りの状態のほうが、
 より純粋意識の状態に近いのではないでしょうか?
 
 マハルシ
 その意味においては、そのとおりです。
 眠りから目覚めへと移行するとき、
 「私」という想念が立ち現れ、
 心が活動し始めます。
 それから想念が湧き起こり、
 身体の機能が作用し始めます。
 これらすべてがわれわれに目覚めたと言わせるのです。
 このような展開すべての不在が眠りの特徴であり、
 それゆえ、
 目覚めの状態よりも
 純粋意識の状態に近いと言えるのです。
 
 しかしだからといって
 常に眠りの中にいることを望むべきではありません。
 第一に、それは不可能です。
 それは他の状態と
 必然的に交替しなければならないからです。
 第二に、
 それは真我を実現したジニャーニがいる
 至福の状態ではありません。
 なぜなら彼の状態は永久的で、
 交替するようなものではないからです。
 しかも眠りの状態は
 人々から気づきの状態として認識されてはいません。
 しかし賢者は眠りの状態でも常に気づいています。
 それゆえ、眠りの状態は
 賢者が安住する境地とは異なったものなのです。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話3』(p218)
──────────────────

先のマハルシの説明では

「眠り」と「目覚め」をつなぐ継続性こそが

「純粋な存在状態」なのでした。

ではその移行の過程で何が起こるのか?

【眠りから目覚めへと移行するとき、
 「私」という想念が立ち現れ、
 心が活動し始めます。
 それから想念が湧き起こり、
 身体の機能が作用し始めます。】

毎朝われわれが目覚めて起きるときに

(1)「私」という想念が立ち現れ

(2)心が活動し始め

(3)身体の機能が作用し始める

深い眠りという静かな安らぎ状態から、

いよいよ「想念」という問題児の活躍場面に

風景が切り替わるわけです。

できることなら、

ずっと眠っていたかった、と言いたいところです。(*^_^*)\ゴン

(;_;)

しかし、そうは問屋が卸さない。

第一に、それは不可能だからです。

【眠り、夢見、目覚めの状態は、
 不動の真我の上に現れた単なる現象にすぎ】ないので、

それは不可避的に

他の状態と交替しなければならないからです。

われわれは自分の“本籍”がどこなのかを

自分で確証しなければならないわけです。

第二に、

(これはありがたいことですが)

マハルシは、

それは真我を実現したジニャーニがいる

至福の状態ではないと言います。

【なぜなら彼の状態は永久的で、
 交替するようなものではないからです。】

(ニサルガダッタ・マハラジが、

 深い眠りが覚者の状態とは違うということを
 
 強調していたのが思い出されますね。)

さて、

ここからラマナ・マハルシは、

非常に重要な観点を説明してくださいます。

──────────────────
 さらに、
 眠りの状態は個人的な想念や印象から自由です。
 その状態を
 人の意志によって変えることはできません。
 なぜなら、
 その状態では努力することが不可能だからです。
 純粋意識により近いにもかかわらず、
 眠りの状態は
 真我を実現するための努力と
 相容れないものなのです。
 
 実現したいという衝動は
 目覚めの状態にのみ起こります。
 そしてそのための努力ができるのも
 目覚めているときだけです。
 私たちは、
 「眠りの状態の静寂を得るのに障害をもたらすのは、
  目覚めの状態における想念である」
 ということを学びました。
 「静かに在りなさい。
  そして私は神だと知りなさい」
 と聖書は言います。
 それゆえ、
 静寂が探究者の目的です。
 ただ一つの想念を静めるための一瞬の努力でさえ、
 静寂の境地に達する長い道のりへの
 一歩となるのです。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話3』(p219-220)
──────────────────

なんと!?

【眠りの状態は
 真我を実現するための努力と相容れない】(@_@)

眠りのなかでは努力することが不可能だから。

そして、

【実現したいという衝動は
 目覚めの状態にのみ起こります。】

(-_-)

これこそが苦しみが起こる必然性なのでは……。

自分がほんとうは誰なのかを思い出しなさいと、

実在は夢を見ている者をプッシュするのかも。。

「静かに在りなさい。
 
 そして自分が神であることを知りなさい」

と。

そしてついにマハルシは

ここで「想念の源」を言葉で明かします。

──────────────────
 努力は必要であり、
 それは目覚めの状態でのみ可能です。
 そこに努力があり、
 また気づきもあるとき、
 想念は静められます。
 眠りの状態における静寂はこうして得られるのです。
 それがジニャーニの境地です。
 それは眠りでも目覚めでもなく、
 その中間です。
 そこには目覚めの状態の気づきと
 眠りの状態の静寂があります。
 それがジャーグラト─スシュプティ
 と呼ばれるものです。
 それを「目覚めた眠り」、
 あるいは「眠りながらの目覚め」、
 あるいは「眠りのない目覚め」、
 あるいは「目覚めのない眠り」
 と呼んでもいいでしょう。
 それは眠りの状態とも目覚めの状態とも異なります。
 それは「目覚めを超えたもの」
 あるいは「眠りを超えたもの」で、
 完全な気づきと完全な静寂を
 一つにした状態なのです。
 それは眠りと目覚めの間の状態であり、
 二つの想念の合い間でもあります。
 それはそこから想念が湧き起こる源です。
 私たちは眠りから目覚めたときにそれを見ます。
 言葉を換えれば、
 想念の源は眠りにおける静寂にあるのです。
 眠りの静寂と目覚めの混乱との違いは
 すべて想念にあります。
 想念の源に行きなさい。
 そうすれば眠りの静寂に行き着くでしょう。
 最大限の精神力、
 つまり完全な気づきをともなった探究によって、
 あなたはそれに到達するのです。
 
 それがジャーグラト─スシュプティです。
 それは退屈な状態ではなく、
 至福です。
 それははかない一時的なものではなく、
 永遠の状態です。
 想念はそこから現れます。
 私たちのあらゆる体験は、
 想念以外の何ものでもありません。
 快楽も苦痛も単なる想念でしかありません。
 それらは私たち自身の内にあるのです。
 もしあなたが想念から自由で、
 しかも気づいているなら、
 あなたは「あの完全な存在」なのです。
 
 ベイトマン夫人は
 シュリー・バガヴァーンの教えを讃え、
 彼に感謝した。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話3』(p220-221)
──────────────────

【努力は必要であり、
 それは目覚めの状態でのみ可能です。】

(-_-)

努力は必要なんですね。

勝手に夢想で彷徨いだした分だけは

自分で努力して戻らなければならないようです。

【そこに努力があり、
 また気づきもあるとき、
 想念は静められます。】

(-||-)

【それは眠りでも目覚めでもなく、
 その中間です。
 そこには目覚めの状態の気づきと
 眠りの状態の静寂があります。】

眠りと目覚めの中間に、

努力することが可能な目覚めの状態の「気づき」と、

眠りの状態のなかにのみ存在していた「静寂」の

両方が存在できるそんな領域があるようです。

想念はそこから立ち上がるというのです。

それを自分で見つけなければならないのでしょうね。

それは完全な気づきと完全な静寂を

一つにした状態だと言います。

【想念の源に行きなさい。
 そうすれば眠りの静寂に行き着く】……。

われわれのあらゆる体験は想念以外のものではない。

われわれを舞い上がらせる快楽も

われわれを突き落とす苦痛も

実際はただの想念でしかない。

それがただの自分の内面にすぎないことを

自分で発見して、実感して、

湧き起こる想念から自由になりなさい、と。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


「ニサルガ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/ndic/

「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………

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■ 2.編集後記:
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【想念の源に行きなさい。
 そうすれば眠りの静寂に行き着く】

われわれのような未熟者ののために

ここまで言葉にしてくださっていたんですね。

マハルシの沈黙の遠い遠い反響なのでしょうが。

マハルシの老婆親切の迫力を初めて知りました。

ありがたいことです。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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