home > 通信 >体験の中心にあるもの:『アセンション館通信』第992号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/04/23(第992号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.体験の中心にあるもの(R.S)

2.編集後記
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■1.体験の中心にあるもの
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今日は午前中にいろいろあって、

ちょっと不思議な気分を体験しています。

人生いろいろ。(^_-)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

みなさま、この永遠の<今>を

いかがお過ごしでしょうか?

昔、読んだことですが、

曹洞宗の澤木興道老師の若いころは、

仲間の修行僧が「澤木はいつ寝るのか?」と言うほど

寝ている姿を見せなかったそうです。

夜の座禅の後、薬缶の水を飲んで

膀胱をいっぱいにして寝たというのです。

できるだけ朝早く起きられるように……。

こういう方もいたわけですよね。

確かに朝目覚めたばかりのときは

眠りの静寂の名残が残っているので、

考えられるかぎり最高のチャンスではあります。

暗いうちに目が醒めて、トイレから戻って

また寝床に潜り込んだときというのは、

自分にこんなことができるのかと驚くほどに、

「無心」と「気づき」の両方を維持することが可能です。

眠りの「静寂」の名残という

たいへんな“下駄”を履いた状態なのでしょうね。

想念が湧いてくるのに気づくたびに

ただ眉間の背後に意識を戻すだけなのですが、

そもそも“自分”にそんなことをができること自体が

驚きではあります。

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 努力は必要であり、
 それは目覚めの状態でのみ可能です。
 そこに努力があり、
 また気づきもあるとき、
 想念は静められます。
 眠りの状態における静寂はこうして得られるのです。
 それがジニャーニの境地です。
 それは眠りでも目覚めでもなく、
 その中間です。
 そこには目覚めの状態の気づきと
 眠りの状態の静寂があります。
 それがジャーグラト─スシュプティと呼ばれるものです。
 
 『ラマナ・マハルシとの対話3』(p220)
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ラマナ・マハルシはこれが「永遠」だとおっしゃる。

人は自分が価値を置いたものしか持てません。

ここで「人」というのは、

この身体を自分だと思っているわれわれ、

より正確には、

身体に自己同一化した立場から湧いてくる想念のことです。

架空の「自我」の修復活動と言ってもいいです。

身体に自己同一化した立場から湧いてくる想念は

一方では、「幸福」の追求のようでもあり、

また一方では、

架空の「自我」を継続・維持するための

「問題(不幸)」とその解決策の創造活動でもあります。

しかしそういう手段では

どうやっても“苦しみ”からは逃れられないから、

ついには賢者の言葉に耳を傾けるしかなくなるわけです。

それは最後の手段です。

すると賢者は、たとえば、こんなことを言います。

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 何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。
 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、
 意識しつづけることを望むのだ。
 この体験への欲望に逆らって、
 顕現すべてを手放さないかぎり、
 解放はありえない。
 私たちは罠にはまったままなのだ。
 
 『私は在る』(p346)
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こう聞かされても、

最初からその意味の包含すべてはわかりません。

でも、何かを感じざるをえない。

やっぱり、深いところでショックを受けるわけです。

そして、どこかで、

これはきっと、本当のことであるに違いない、

と思うわけです。

というのも、

自分が【あらゆる苦しみや屈辱を耐えて】いることに

間違いはないわけですから。

いったい、なぜ苦痛というものがあるんだろう?

どうして人は苦しまなければならいのか?

すると賢者はこんなことを言います。

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 苦痛と快楽は起こる。
 だが、苦痛は快楽の値段であり、
 快楽は苦痛の報酬なのだ。
 人生のなかでも、
 しばしばあなたは傷つけることで喜び、
 喜ばすことによって傷ついている。
 苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。
 
 『私は在る』(p182)
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これって、まさに事実じゃないですか!(@_@)

これは要するにどういうことなのか。

こういった知見はいったい

われわれをどういうところに導こうというのか?

──────────────────
 快楽と苦痛自体が悟りをもたらすことはない。
 ただ理解だけがそれをもたらすのだ。
 ひとたびあなたが世界は苦しみで満ち、
 生まれてくること自体が
 災いだという真実を把握すれば、
 それを超えていこうとする衝動と
 エネルギーを見いだすだろう。
 快楽はあなたを眠らせ、苦痛は目覚めさせる。
 至福を通してだけでは
 あなた自身を知ることはできない。
 あなたの本性そのものが至福だからだ。
 悟りを得るためには、
 あなたではないもの、
 対極と向き合わなければならないのだ。
 
 『私は在る』(p325)
──────────────────

なるほど。

そういうことか。(-_-)

こういう言葉を聞くだけで、

ピンとくる人も、もちろんいることでしょう。

ピンともカンとも来ない人もいるでしょう。

そもそもそういう人は、

こういう言葉に出会わないだろうし、

たまたま出会ってもそれと認識しないでしょう。

でも厄介なのは、

このpariのように半ばその意味を感じながらも、

トータルに呑み込まない中途半端な輩です。

こういう人はその身体の限度まで行くしかない。

そうなってみてやっと、

やっぱりそれしか道はないんだと気づくわけです。

こんなことをムキになって書いているのは、

じつはしばらくぶりに落ち込んだからです。(*^_^*)

落ち込んだというか……、

むしろ傷ついたというべきか。

胸のところが目いっぱいで

なかなか落ち着けなかったのです。(^_-)

“自分”のキャパシティがわかって、

「お里が知れる」貴重な体験だったのでしょう。

こうやって身体の終わりまで

苦しむことをやめられず、

幻想の“自己”への一体化をやめられない、のか。

深く傷つき、深く苦しむとき、

ラマナ・マハルシの言葉はあまりにも高級で、

取り付く島もない感じがするかもしれません。

──────────────────
 ハートとしてすべての人の内に輝く自己の実在は、
 純粋な至福の大海である。
 それゆえ、空の青さが実在ではないように、
 苦しみも実在ではなく、
 単なる想像のなかにしか存在しない。
 無知の暗闇に妨げられることのない
 ジニャーナの太陽は、
 自ら幸福として輝いている。
 それこそが自己の実在であり、
 苦しみとは
 個人という偽りの感覚から生まれた幻でしかない。
 
 実際、
 幻として以外に苦しみを体験した者は誰もいない。
 もし至福である真我を探究すれば、
 生涯苦しみを味わうことはないだろう。
 身体が「私」であるという観念、
 ただその妄想だけが苦しみの原因なのである。
 
 『あるがままに』(p366-367)
──────────────────

これが真理の言葉であることを疑いませんが、

この言葉の真実に打ち震えるには

pariなどの実存はあまりにも混濁しているようです。

そういう状態にはルパート・スパイラの言葉が

助けになるかもしれません。

(相変わらず長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 実際のところ、
 あらゆる執着は、
 思考への執着の延長線上にあるか、
 もしくはその変形です。
 過去や未来へと飛び回る連続的な思考が、
 不快な感情、つまり、
 欠乏感、不快感、無価値感、不全感、
 不適切感、失望、絶望を静める力を失うと、
 こうした感情を直視しないようにするため、
 私たちは物質や活動への執着のような、
 より極端な手段を講じるのです。
 
 不快感が生じるやいなや、
 私たちは特定の物質や活動に手を伸ばします。
 すると、
 不快感は一時的に弱まり、
 束の間の休息が訪れ、
 私たちの本質である平安が少しの間輝き、
 そのため
 心と体における不安と緊張が和らぎます。
 心(マインド)は、
 この束の間の平安と満足を
 物質や活動のおかげだと考え、
 この習慣が次第に強化されます。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p271-272)
──────────────────

そうでした。

真実はそこにあった。

確かに間違いありません。

(-||-)

──────────────────
 もし私たちが勇気と明晰さをもって、
 活動や物質によって、
 もしくは、退屈、予測、恐れ、期待、
 疑いと言った、より巧妙な逃避によって
 このような感情から
 逃げ出さないようにすれば、
 幾層にもわたる感情の層は、
 現存の光に照らされるようになります。
 これらすべての感情は、
 分離した内側にある自己の多様な姿であり、
 架空の自己が耐えられない唯一のこととは、
 はっきりと見つめられることです。
 架空の自己は、
 私たちの不注意によって育ちます、
 影のように、
 光には耐えられないのです、
 
 これらの感情に対して
 何かをする必要はありません。
 私たちの自己、
 気づいている現存は、
 それらとの間に何の問題も抱えていません。
 私たちの自己にとっては
 何の問題もないのです。

 それらを取り除きたいと願うのは、
 架空の自己だけです。
 実際、分離した自己を取り除きたい
 という気持ちもまた、
 分離した自己が自らを永続させようとする、
 巧妙な手口です。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p273-274)
──────────────────

そうそう、そういうことだったですね。

【これらの感情に対して
 何かをする必要はありません。】

そうか。(-_-)

【それらを取り除きたいと願うのは、
 架空の自己だけです。】

ああ、そうだった。⌒★?

(-||-)

──────────────────
 私たちは、
 悲しみは避けなければならない
 と考えています。
 実際はその逆です。
 悲しみにとって耐えがたいのは、
 抱きしめられることです。
 物質や活動に逃げ込んだり、
 霊的な完璧主義という
 象牙の塔に逃げ込んだりしても、
 悲しみが終わることはありません。
 その状況を親しく抱きしめ、
 抵抗する余地がまったくなくなることで、
 悲しみは終わるのです。
 
 抵抗なく完全に受け入れられると、
 悲しみには何が起こるのでしょう?
 抵抗しようとする衝動が少しもない体験は、
 幸福や平安と呼ばれます、
 悲しみを避けようとする
 薄いベールに覆われた幸福と平安こそが
 悲しみです。
 
 私たちが
 これまで絶望していたことのすべては
 体験の中心にあり、
 認められることをずっと待っていました。
 必要なのは、
 架空の未来や過去のために、
 あるがままを回避するのを止めることだけです。
 悲しみは、
 今には耐えられません。
 それは、過去や未来がなければ
 生き延びることはできないのです。
 
 あらゆる模索は、
 私たちを未来へ連れ去り、
 定義上、
 すべての体験の中心にいつもある
 平安と幸福を覆い隠してしまいます。

 私の師が最初に言ったのは、
 「瞑想は、
  すべてに対する普遍的な肯定である」
 という言葉でした。
 しばらくは気づきませんでしたが、
 その後に述べられたことはすべて、
 この言葉の補足にすぎませんでした。
 すべてはそれに始まり、
 それに溶けていきます。
 人生のあらゆる時点で、
 愛と瞑想の区別はなくなります。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p279)
──────────────────

【私たちは、
 悲しみは避けなければならない
 と考えています。】

はい、たしかに。

【実際はその逆です。
 悲しみにとって耐えがたいのは、
 抱きしめられることです。】

あああ。(*_*) ⌒★?

【抵抗しようとする衝動が少しもない体験は、
 幸福や平安と呼ばれます、
 悲しみを避けようとする
 薄いベールに覆われた幸福と平安こそが
 悲しみです。】

そうでした、そうでした。

(また、忘れるのかなぁ。(;_;))

【必要なのは、
 架空の未来や過去のために、
 あるがままを回避するのを止めることだけです。】

(-_-)

【私たちが
 これまで絶望していたことのすべては
 体験の中心にあり、
 認められることをずっと待っていました。】

そうだったのか。

今度は入ったと思うからね。

【悲しみは、
 今には耐えられません。
 それは、過去や未来がなければ
 生き延びることはできないのです。】

(-||-)

今回の強い苦しみが

この言葉がより深く入ってくるための

恩寵であったことがわかりました。

ありがとうございました。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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【私たちが
 これまで絶望していたことのすべては
 体験の中心にあり、
 認められることをずっと待っていました。】

これまでごめん。m(_ _)m

今度こそ聞こえたからね。

そういえば、以前ルパート・スパイラの

このあたりの文章を引用したとき、
https://www.ascensionkan.com/mm/vol814.html#1

当時はすっかり落ち込むことがなくなっていて、

はっきり「落ち込みたい!」って思ったんだった。

そうか、だから今日の体験があったのか。

恩寵とはそういうことなのか。

ありがとうございました。(-||-)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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