home > 通信 >苦しみから抜け出す唯一の道(R.S):『アセンション館通信』第993号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/04/30(第993号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.苦しみから抜け出す唯一の道(R.S)

2.編集後記
──────────────────

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■1.苦しみから抜け出す唯一の道(R.S)
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日本のサーファーのメッカとして

有名になり始めていた湘南の海沿いの地から

現在住んでいる山麓の地に移り住んで

来年でもう三十年にもなるようです。

引っ越してきたそもそもの動機は

じつは畑をやりたいということでした。

今となってはちょっと恥ずかしくて

口にもできないような言葉です。

はじめのうちこそほんのわずかですが

お米を作ったりしたこともあるのですが、

二年目には田圃をイノシシに荒らされて、

棚田づくりはそれっきりになってしまいました。

毎年この季節になると思い出したように

野菜の苗を買いに行っては

野菜づくりを始めるのですが、

けっきょく物にはならず、

一番真面目にやったのは

シシドメの修理ではないかと思われるほどです。

でも、いよいよ時代も押し迫ってきたようで、

今年こそは始めなくちゃと思っています。(*^_^*)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

何事もそれが現実になるためには

一定量のエネルギー的蓄積が必要なのかもしれません。

本屋の息子よろしく

スピリチュアル・ジレッタントとして

ずいぶん長いこと文字面ばかりを漁ってきました。

ところがここにきて

もう後戻りができないところに来たような気がします。

そうしたら、

急に現在の自分に必要なものが見え始めました。

前回に続いて、

ルパート・スパイラの渾身の一冊

『プレゼンス―第1巻』の文脈をなぞって
https://amzn.to/2PYQzlZ

彼が何を教えてくださっているのかを

学んでいきたいと思います。

前回の引用箇所に続く

「問題はない」という短い章については

以前ご紹介したことがあります。
https://www.ascensionkan.com/mm/vol941.html#1

ここでは

【空間にはボールに抵抗する仕組みがありません。
 空間に何か別の物体があらわれば、
 ボールに抵抗することができます。
 
 分離した自己も同じです。
 私たちの自己という空間に
 思考や感情が立ち上がり、
 現状に抵抗します。
 この抵抗が、
 中庸の状態を問題へと変えてしまいます。
 この抵抗が、
 私たちの自己を分離した実体に変え、
 世界を問題へと変えるのです。】

と、「問題」を生成し、

またそれを必要としているのが

われわれに湧いてくる思考や感情であることを

じつに秀逸な比喩で説明されています。

【問題は常に思考のためにあり、
 思考が思考と格闘し、
 感情が状況に抵抗するためのものです】と。

さて、われわれが日常的に対処している

「問題」というものが明らかにそういうものだとして、

ではその「問題」対処のための日常的行動を

われわれはやめることができるのか?

やめられるでしょうか?(@_@)

これって、

とっても恐ろしいことだと思いませんか?

少なくとも不要な対処だけでも

やめられないものでしょうか?

(もし“不要な対処”をやめられたら、

 われわれの大部分の行動は

 やめられるかもしれませんが。(*^_^*) )

この「問題はない」という章に続いて

「幸福は最も高度な、スピリチュアルな実践である」

という章があります。

長い長い間、

スピリチュアル・ジレッタントを続けてきた信念群が

ついにここを超えなければと覚悟を決めたのは

この章の記述を読んだからでした。

今回は、ここからご紹介したいと思います。

(相変わらず長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 幸福を求めることがなければ、
 言い換えるなら、
 もし現状に完全に満足していれば、
 そこに苦しみはありません。
 
 このため、
 「幸福を覆い隠すこと」、
 「苦しみ」、
 「幸福の追求」は、
 どれも同じです。
 この追求に与えられた別の名前が、
 「分離した自己」です。
 この分離した内側にある自己は
 実体ではありません。
 それは抵抗し模索する活動そのもの、
 つまり苦しみの活動です。
 
 見せかけの分離した実体が
 幸福を追求するのではなく、
 見せかけの分離した実体そのものが、
 幸福の追求なのです。
 
 もし、
 苦しみが他のすべてと同じように
 気づきにあらわれるのを見て、
 それに対して何もできることはないと
 信じるならば、
 私たちは自分を誤魔化しています。
 苦しみは定義上、
 現状に対する抵抗であり、
 代わりとなるものの必然的な追求です。
 現状に対するな抵抗がなければ、
 苦しみもありません。
 
 ですから、
 もし現状で苦しみを体験しているとしても、
 その苦しみに対する抵抗が
 完全になくなってしまえば、
 苦しみは長続きしません。
 苦しみは抵抗そのものだからです。
 こうして、
 苦しみは瞬く間に幸福に変容します。
 
 実際、
 苦しみに対するすべての抵抗が
 やむとすぐに、
 苦しみは幸福として姿をあらわします。
 このように、
 幸福は苦しみの本質ですらあるのです。
 幸福は、
 苦しみを含むすべての体験の中心に
 静かに横たわっていて、
 認識されることを待ち望み、
 私たちの抵抗がなくなることを待ち望み、
 私たちが勇気と愛をもって方向転換をし、
 苦しみに抵抗したり
 それを取り除こうとしたりすることを
 少しも欲することなく、
 それに向き合うことを待ち望んでいます。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p285-286)
──────────────────

まず彼の説明の前提から確認してゆきますね。

【幸福を求めることがなければ、
 言い換えるなら、
 もし現状に完全に満足していれば、
 そこに苦しみはありません。】

ここは完全に同意できると思います。

現状に完全に満足していたら、

そこに苦しみはないという当然の話しです。

【このため、
 「幸福を覆い隠すこと」、
 「苦しみ」、
 「幸福の追求」は、
 どれも同じです。
 この追求に与えられた別の名前が、
 「分離した自己」です。】

だから、

「幸福の追求」と「苦しみ」は同じものであり、

それが「分離した自己」なのだと。

なるほど。

そういうことになりそうです。

ルパート・スパイラの説明は了解できるし、

同意できます。

【この分離した内側にある自己は
 実体ではありません。
 それは抵抗し模索する活動そのもの、
 つまり苦しみの活動です。】

この「分離した自己」というのは、

これまで彼が詳細に説明してくれたように

「実体」として存在しているものではなく、

あるがままの現状に抵抗し模索する活動のことだと。

よくわかります。

【見せかけの分離した実体が
 幸福を追求するのではなく、
 見せかけの分離した実体そのものが、
 幸福の追求なのです。】

「分離した自己」という見かけ上の実体が

幸福を追求しているのではなく、

「幸福の追求」自体が「分離した自己」なのだと。

はい。完全に同意します。

> もし、
> 苦しみが他のすべてと同じように
> 気づきにあらわれるのを見て、
> それに対して何もできることはないと
> 信じるならば、
> 私たちは自分を誤魔化しています。

もしそのことが理解されているなら、

「苦しみ」があるのを実感しながら、

「できることは何もない」と言うのは

誤魔化しだという論理展開です。

> 苦しみは定義上、
> 現状に対する抵抗であり、
> 代わりとなるものの必然的な追求です。

「苦しみ」というのは

「現状に対する抵抗」です。

現状に代わる幸福な状態を

仮想の未来に実現することを追求している。

わかります。

> 現状に対するな抵抗がなければ、
> 苦しみもありません。

ところが、実際は

現状に対するな「抵抗」がなければ、

「苦しみ」は存在しないわけです。

> ですから、
> もし現状で苦しみを体験しているとしても、
> その苦しみに対する抵抗が
> 完全になくなってしまえば、
> 苦しみは長続きしません。

ということは、たとえ現状で

「苦しみ」(と思われるもの)を体験していても、

それに対する「抵抗」が完全になくなれば、

「苦しみ」は根拠を失うわけです。

「苦しみ」は消えるしかなくなる。

> 苦しみは抵抗そのものだからです。

というのも、

「抵抗」が「苦しみ」を存在させているのだから。

なるほど。わかります。

> こうして、
> 苦しみは瞬く間に幸福に変容します。

「抵抗」しなければ、

【苦しみは瞬く間に幸福に変容します。】

というのです。(@_@)

> 実際、
> 苦しみに対するすべての抵抗が
> やむとすぐに、
> 苦しみは幸福として姿をあらわします。

そして実際に、

「苦しみ」に対してまったく「抵抗」しなくなると、

たちまち、

「苦しみ」は「幸福」として姿をあらわす、と。

ホントですか?(*_*) ⌒★?

> このように、
> 幸福は苦しみの本質ですらあるのです。

「苦しみの本質」は「幸福」である、と。

なんと!?

> 幸福は、
> 苦しみを含むすべての体験の中心に
> 静かに横たわっていて、

「苦しみ」を含むすべての「体験の中心」には

「幸福」が静かに横たわっている。

このことが本当だとすれば……。(-_-)

でも、

ラマナ・マハルシをはじめ

古来多くの賢者が請け合っているのは、

まさにこのことですよね。

> 認識されることを待ち望み、
> 私たちの抵抗がなくなることを待ち望み、

われわれが「抵抗」さえしなければ

それは自らの体験として認識できる。

> 私たちが勇気と愛をもって方向転換をし、
> 苦しみに抵抗したり
> それを取り除こうとしたりすることを
> 少しも欲することなく、
> それに向き合うことを待ち望んでいます。

われわれが勇気を出して方向転換し、

少しも「苦しみ」に逆らったり

「苦しみ」を排除しようとしたりせずに

愛を持ってその体験に向き合いさえすれば

それは自分で認識できることだと。

──────────────────
 このため、
 絶望の淵にあっても、
 私たちが不幸に完全に取り込まれて
 しまうことはありません。
 完全に取り込まれてしまったら、
 思考が自己を切り離し、
 苦しみを眺め、
 苦しみを取り除こうとする
 隙間さえもないはずです。
 もしそうであるなら、
 それは完全な非二元であり、
 つまり、
 完璧な幸福であるはずです。
 
 言い換えるなら。
 完全な苦しみなど存在しません。
 苦しみは常に、他の何か、
 架空の未来において
 それを取り除こうとする欲求、
 つまり、
 幸福への希求と混ざり合っています。
 
 一方で、
 他の何かが一切混ざっていない、
 絶対的な幸福は存在します。
 それは、
 私たちの自己です。

 『プレゼンス―第1巻』(p286)
──────────────────

【完全な苦しみなど存在しません。
 苦しみは常に、他の何か、
 架空の未来において
 それを取り除こうとする欲求、
 つまり、
 幸福への希求と混ざり合っています。】

現在の体験を否定して

それを取り除こうとしたり、

現在の体験以外の状態に

仮想の幸福を追い求めることが

「苦しみ」という幻想を捏造しているのだと。

──────────────────
 もしそこに不幸があるのなら、
 それは、
 私たちが分離した内側にある自己としての
 立場をとっているからです。
 その場合
 架空の自己は、
 不幸を含むすべての物事が
 気づきにおいて起こっていると
 主張することはできません。
 なぜなら、
 分離した自己は、
 あるもの──私たちの自己──が
 気づきであり、
 他のもの──対象や世界──は
 気づきではない
 とする信念だからです。
 
 このため、
 不幸になって、
 「すべきことは何もない」
 と主張することは矛盾しています。
 分離した実体はすでにひとつの動きであり、
 現状の否定、
 幸福の追求だからです。
 それこそが、
 苦しみや模索の活動そのものです。
 
 もし見かけ上の個人として
 すべきことは何もないと考えるのなら、
 私たちは自分自身を欺いています。
 勇気も知性もないために
 向き合うことができない不快な感情の上に、
 「非二元」のベニヤ板を
 貼りつけているのです。
 
 こうなると非二元は新たな宗教となり、
 実際の体験に正直に勇気をもって
 向き合うのを避けるために、
 私たちはこれを利用するようになります。
 この場合は、
 見かけ上の分離した内側にある自己が
 非二元の教えを都合よく盗用し、
 自身を守るために利用しているのです。
 
 こうした立場は単なる信念であり、
 体の中の感覚として残っている
 苦しみの真相に触れることはありません。
 「すべきことは何もない」という
 この新しい宗教を熱心に信奉すればするほど、
 分離した自己はより安全に
 体の中に埋め込まれたままになります。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p287-288)
──────────────────

> もしそこに不幸があるのなら、
> それは、
> 私たちが分離した内側にある自己としての
> 立場をとっているからです。

これは間違いないでしょう。

> その場合
> 架空の自己は、
> 不幸を含むすべての物事が
> 気づきにおいて起こっていると
> 主張することはできません。

え!(?_?)

> なぜなら、
> 分離した自己は、
> あるもの──私たちの自己──が
> 気づきであり、
> 他のもの──対象や世界──は
> 気づきではない
> とする信念だからです。

なるほど。たしかに。

> このため、
> 不幸になって、
> 「すべきことは何もない」
> と主張することは矛盾しています。
> 分離した実体はすでにひとつの動きであり、
> 現状の否定、
> 幸福の追求だからです。

「すべきことは何もない」どころか、

「分離した自己」の立場に立つことで、

すでに現状の否定し、

「幸福」を追い求めているわけです。

> それこそが、
> 苦しみや模索の活動そのものです。

なるほど。

「分離した自己」の立場に立つこと自体が

「苦しみ」の創造活動であり、

「幸福」を「模索する」という活動そのものだと。

> もし見かけ上の個人として
> すべきことは何もないと考えるのなら、
> 私たちは自分自身を欺いています。

たしかに。

> 勇気も知性もないために
> 向き合うことができない不快な感情の上に、
> 「非二元」のベニヤ板を
> 貼りつけているのです。

的確な表現ですねぇ。

> こうなると非二元は新たな宗教となり、
> 実際の体験に正直に勇気をもって
> 向き合うのを避けるために、
> 私たちはこれを利用するようになります。

やばいかも。(-_-;)

> この場合は、
> 見かけ上の分離した内側にある自己が
> 非二元の教えを都合よく盗用し、
> 自身を守るために利用しているのです。

うーむ。(*-_-*)

> こうした立場は単なる信念であり、
> 体の中の感覚として残っている
> 苦しみの真相に触れることはありません。
> 「すべきことは何もない」という
> この新しい宗教を熱心に信奉すればするほど、
> 分離した自己はより安全に
> 体の中に埋め込まれたままになります。

なるほど。

よくわかりました。

──────────────────
 苦しみにとって唯一耐えがたいのは、
 理解されること、
 はっきりと見つめられることです。
 苦しみは結局は幻影ですが、
 そのように見定めるためには、
 勇気をもってそれに対峙し、
 はっきりとそれを見つめなければなりません。
 苦しみから抜け出す唯一の道は、
 その真ん中を通っています。
 もし、
 この可能性を否定するなら、
 私たちは行き場を失ってしまいます。
 それは、
 受け入れるふりをした否定であり、
 平安のふりをした恐れです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p288-289)
──────────────────

【苦しみにとって唯一耐えがたいのは、
 理解されること、
 はっきりと見つめられることです。】

いつまでも苦しみの感覚を

避けていてはならない。

【苦しみは結局は幻影ですが、
 そのように見定めるためには、
 勇気をもってそれに対峙し、
 はっきりとそれを見つめなければなりません。】

はっきりと苦しみ(と思われるもの)の感覚を

親密に体験しなければならない。

【苦しみから抜け出す唯一の道は、
 その真ん中を通っています。】

苦しみ(だと思われる)感覚の

真ん中を通り抜けなければならない。

──────────────────
 では、
 何をすべきなのでしょう?
 理解を求めましょう。
 知的な理解ではなく、
 体験的な理解であり、
 はっきりと見定めることです。
 
 ……
 
 いくつかの非常に稀なケースを除いては、
 体験的理解にたどり着くためには、
 心のレベルにおける分離への信念を探り、
 自己が体の内に、
 体として位置づけられているという感覚を
 より深く探求することが必要不可欠です。
 これなしでは、
 「すべきことは何もない」、
 「それをすべき人は誰もいない」は
 単なる新たな信念となり、
 「非二元」も「無二一元」も、
 生きた体験的な理解から
 宗教へと堕してしまいます。
 
 ……
 
 すべての感覚、
 それゆえ、
 すべての感覚的知覚には、
 頭に、
 それに対応する「私」の感情があります。
 そしてまた、
 胸の領域の感じ愛する「私」、
 手の中の作る「私」、
 動く「私」、
 歩く「私」、
 何かをする「私」……は、
 体全体に広がる「私であること」の
 密度ある多層の布に織り込まれています。
 体における「私であること」の探求とは、
 まずはこの分厚い布の正体を明らかにし、
 続いてそれをほどくことなのです。 
 
 『プレゼンス―第1巻』(p293)
──────────────────

【体験的理解にたどり着くためには、
 心のレベルにおける分離への信念を探り、
 自己が体の内に、
 体として位置づけられているという感覚を
 より深く探求することが必要不可欠です。】

わかりました。

ありがとうございました。m(_ _)m

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………

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   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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【苦しみから抜け出す唯一の道は、
 その真ん中を通っています。】

できることはある。

苦しみの体験そのものの中に入っていくって

かえって楽しみになってきたかも。

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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