home > 通信 >私とは誰なのか、何なのか(R.S):『アセンション館通信』第994号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/05/07(第994号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.私とは誰なのか、何なのか(R.S)

2.編集後記
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■1.私とは誰なのか、何なのか(R.S)
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この連休は天気に恵まれて

今日も穏やかに晴れました。

いい夢を見させていただいています。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

このところルパート・スパイラの渾身の一冊

『プレゼンス―第1巻』を読み続けていますが、


この方が洗練したアプローチはじつに独特ですね。

類書はないと言っていいと思います。

そしてアドヴァイタへの誘い方が

読者が自分で身近に体験できるだけでなく、

マインドに対してじつに親切だという意味で

とても「論理的」なのです。

この方の案内に沿って理解を進めるかぎり

途中でこれといって大きな段差を感じることもなく、

特に違和感もないまま気がついたらいつのまにか

アドヴァイタの世界に招じ入れられている感じです。

招かれている世界の在りようそのものは

常識とはかけ離れているのにです。

というわけで、

その気分が続くあいだのことですが

ここでちょっとルパート・スパイラの説明を

最初からたどってみたいと思ったのです。

よろしければ、お付き合いください。

ルパート・スパイラは、

まずはわれわれが【自分】と言っているのは、

いったいどういうものなのかということから

確認してゆきます。

(相変わらず長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
  【私とは誰なのか、何なのか】
 
 
 「心(マインド)、体、世界について
 何を知っているのだろう?」
 と考えたとき、
 私たちが唯一確信できることは、
 それは自らの体験からしか知り得ない、
 ということです。
 体験は完全に私たちの自己という現存(プレゼンス)
 (今ここにいること。臨在、現前とも訳される)
 に委ねられており、
 自己が存在することなしに、
 体、心(マインド)、世界を
 体験することはできません。
 
 すべての体験は、
 私たちの自己によってしか捉えることはできず、
 したがって、
 体、心(マインド)、世界を知ることは
 自己を知ることと無関係ではいられません。
 
 詩人で画家のウィリアム・ブレイクは、
 「その人が見るものはその人自身である」
 と言いました。
 これは、
 その人が自分自身をどう知り理解するかが、
 その人が物、他者、世界を
 どのように理解するかを決めるという意味です。
 
 ですから、
 私たちの自己から始めることにしましょう。
 すべては自己に委ねられています。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p21)
──────────────────

普通の社会通念として、

われわれは通常

“自分”は「世界」のなかでこの「身体」として、

また「身体」に起こる「心(思考や感情」として

日常的に生活しているのは確かです。

その前提に立ってルパート・スパイラは、

では、われわれはその

【「心(マインド)、体、世界について

 何を知っているのだろう?」】と

問いかけることから始めます。

そして、心、体、世界について

われわれが何を知っているにせよ、

“自分”が体験によって直接知っていることしか

実際には信じられません。

だから「心、体、世界」について知ることは

「自分」を知ることと無関係ではない、

と彼は言います。

このルパート・スパイラの前提は

考えてみればどれも当然のことだと思います。

異議の出しようがありません。

というわけで、

「心、体、世界」について知るために

まずそれを知る「自分」とは何なのかを

確認することから彼は始めるのです。

──────────────────
 けれど、
 この自己について、
 私たちはいったいどれほど確かなことを
 知っているのでしょうか?
 
 それを知るためには、
 まず、
 他者や私たちが属している文化が貼り付けた
 自己のレッテルを剥がし、
 次に私たちの親密で直接的な体験に
 集中する必要があります。
 体験とはつまり、
 現実を試すことでなければなりません。
 
 私たちが確かなこととしてまず知っているのは、
 「私は在る(I am)」ということです。
 あまりに単純で明白であるため、
 時に見過ごされてしまいますが、
 これは誰にでも理解できる貴重な知識です。
 
 自分が何ものなのかわからなくても、
 「私は在る」ことは知っています。
 自分自身を否定するのであっても、
 私たちはまずそこに在る必要があるのですから、
 誰も自分の存在(ビーイング)そのものを
 否定することはできません。
 
 また、
 親にそう言われたから、
 もしくは本で読んだから、
 「私は在る」と主張する人もいないでしょう。
 私たちが存在しているという事実は、
 最も直接的で馴染みのある親密な体験です。
 そこに疑いの余地はありません。
 言い換えれば、
 存在あるいは現存(プレゼンス)は
 私たちの自己の本質であって、
 自己についてこれ以上確かなことはないのです。
 私たちの自己が何であろうと、
 それは「私(I)」と呼ばれます。
 「私は在る」と宣言するためには、
 「私は在る」ことを知り、
 それに気づいていなければなりません。
 これは、
 確固として主張することのできる
 数少ない真実のひとつです。
 言い換えると、
 自分自身の存在に確かでいられるのは、
 それを直に体験して知っているからです。
 存在を確かめるために、
 自分以外の情報源に頼り、
 過去の情報を参照する必要はありません。
 今この瞬間、
 私たちの存在、
 現存(プレゼンス)は明らかなのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p22-23)
──────────────────

ルパート・スパイラは

「心、体、世界」について知るために

まずそれを知る「自分」とは何かを

疑問の余地のない確実さで確認しようとします。

そのために彼が採用する方法は

他者から教えられたいわゆる“聞かされた話”、

社会から押しつけられた

いわゆる“レッテル”をすべて排除して、

自分自身で経験で確証できることだけに

集中しようとします。

このあたりの手法は

彼から学ぼうとする意図のない人には

ちょっと唐突で受け入れがたいかもしれません。

しかし、彼から学ぼうとする意志がある者には

容易についてゆくことができる論理展開ではあります。

ルパート・スパイラは

「自分」について

まず最初に取り上げるのは次のことです。

【私たちが確かなこととしてまず知っているのは、
 「私は在る(I am)」ということです。】

たしかに、それはそうです。

そしてこれはあまりに当然なため

通常は見過ごされていることだと彼は言います。

しかしじつはこれは「自分」について

【誰にでも理解できる貴重な知識】なのだと。

たしかに、誰が考えても

【自分が何ものなのかわからなくても、
 「私は在る」ことは知っています。】

自分が存在することだけは同意できます。

【親にそう言われたから、
 もしくは本で読んだから、
 「私は在る」と主張する人もいないでしょう。】

プ!(>_<)

これは間違いないですよね。(*^_^*)

われわれは人から聞かされたから

自分の存在を信じているわけではありません。

かくてルパート・スパイラは

【存在あるいは現存(プレゼンス)は
 私たちの自己の本質であって、
 自己についてこれ以上確かなことはないのです】

と断定するのです。

「自分」は「いま・ここにいる」、

「自分」は「現存している」ということ以上に

確かなことはないと。

これについては誰もが無条件で同意できるはずです。

いま・ここで、

この文字を読んでいる「あなた」が、

誰であるかはわからない可能性があるとしても、

「自分がいる」ことは疑えません。

自分以外のどんな情報源に頼る必要もなく、

自分自身の体験そのものから

今この瞬間、自分が存在していること
 
自分が現存していることを

われわれは自分で知っているわけです。

「自分」の定義で

これ以上確実なものはありえないでしょう。

──────────────────
 では、
 私たちの存在を知り、
 それに気づいているのは誰なのでしょう?
 「私」が「私は在る」と知っているのでしょうか、
 もしくは、
 自分以外の何か、
 誰かが「私」の存在に気づいているのでしょうか?
 「私」が「私は在る」と知っているのは明らかです。
 言い換えるなら、
 存在している「私」と、
 存在することを知り、
 それに気づいている「私」は、
 同じなのだとわかります。
 
 言い換えるなら、
 気づき、知ることは、
 私たちの自己が本来持っている性質で、
 自己つまり「私」は、
 ここにありながら、
 それに気づいていることを知っています。
 
 現存し、
 気づいていると知るために、
 私たちの自己が何か特別なことを
 する必要はありません。
 気づき、
 知ることは自己の自然な性質であり、
 自己は自己であるだけで、
 自己を知っています。
 現存していると気づくために
 特別なことをする必要、
 たとえば、
 考える必要もありません。
 自分自身の存在を知ることは、
 体験における最も明らかでシンプルな事実です。
 思考、感情、知覚に先立つものなのです。
 
 もし誰かが
 「あなたは現存していますか?」
 と尋ねたなら、
 私たちは少し間を置いて、
 「はい」と答えるでしょう。
 間を置きながら、
 私たちは自己の親密で直接的な体験を確認し、
 その体験から、
 「はい」と答えることができます。
 思考、感情、知覚にではなく、
 私たちの自己に直接確認します。
 自己は自己自身を参照するのです。
 
 言い換えるなら、
 私たちの自己は、
 自己だけを通じ、
 自己だけによって、
 それが現存していることに気づいています。
 そこに、
 心(マインド)や体は必要ありません。
 気づいている現存(プレゼンス)を
 確証してくれる外的な何かも、
 もちろん必要ありません。
 自己は自己自身を直に知っています。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p23-24)
──────────────────

ルパート・スパイラは

ここでその「自分」の確実な定義を

よりいっそう厳密なものにします。

つまり、では

“いま・ここに「自分」は存在している”

“「自分」は現存している”と

知っているのは誰なのか?、と。

それを知っているのは

自分以外の誰かなのだろうか?。

もちろん、言うまでもないことですが、

“「自分」は現存している”と

知っているのは「自分」です。

だからそのことを彼は

【存在している「私」と、
 存在することを知り、
 それに気づいている「私」は、
 同じなのだとわかります。】

とここで確認しておくわけです。

つまり、

「存在する」ということと、

「(存在に)気づいている」ということは

同じことだよとわれわれに伝えているわけです。

かくて、

「自分」つまり「私」というのは、

「存在する」ということであり、

「(存在に)気づいている」ということだと

確認されました。

その上、ルパート・スパイラは

われわれが現存していると気づくために

特別なことをする必要がないことに

われわれの注意を喚起します。

たとえば、

そのために考える必要もないわけです。

“「自分」は存在する”という

思考を想起する必要もなければ、

哲学を確立する必要もありません。

どこのことかはわかりませんが、

「そこにいる?」と聞かれたら、

「うん、いる」と答えるわけです。(*^_^*)

だから、

【自分自身の存在を知ることは、
 体験における最も明らかでシンプルな事実です。
 思考、感情、知覚に先立つものなのです。】

とルパート・スパイラは断定するのです。

【思考、感情、知覚にではなく、
 私たちの自己に直接確認します。
 自己は自己自身を参照するのです】と。

「自分」というのは

「自分自身」に確かめれば

「自分」が現存していることを知っています。

ここでルパート・スパイラは

後々の探究のために重要なことを

確認しています。

つまり、

われわれが「自分」の現存に気づくために

【心(マインド)や体は必要ありません】と。

ちょっと、ゾクッときませんか。(^_-)

──────────────────
 このように、
 親密で直接的な体験から、
 「私」はただ現存するだけでなく、
 気づいているのだということが
 はっきりとわかります。
 このため、
 私たちの自己は時に気づきと表現されるのです。
 現存しているそれは、
 気づいている、
 という意味です。
 「気づき」という言葉は、
 私たちが親密に、
 自己がそれであると知っている存在、
 それがそれ自体であると知っている存在は、
 そもそも現像しながらにして
 気づいていることを示しています。
 
 この本では自己を、
 「気づいている現存(プレゼンス)」、
 またはシンプルに
 「現存(プレゼンス)」と表現することもあります。
 「意識」、
 「存在」と呼ばれることもありますが、
 気づいている現存(プレゼンス)の
 最もシンプルな表現は「私」でしょう。
 
 呼び方はどうであれ、
 存在することの親密さ、
 つまり、
 気づきがそれ自体に気づいていることは、
 私たちの誰もがもつ最も明らかで馴染みのある、
 直接的な知識なのです。
 
 他のすべてを知る前に、
 私たちは自身の存在を知っています。
 存在は、
 それ自体を知っています。
 私たちが親密に、
 直接的にそれであると知っている、
 この気づいている現存(プレゼンス)は、
 気づき、
 そして現存することを知っています。
 存在することをシンプルに知ることに、
 「私」という名前が与えられています。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p24-25)
──────────────────

ここまで確認して、ルパート・スパイラは

【このため、
 私たちの自己は時に気づきと表現されるのです。】

と確認してゆきます。

われわれが「自分」と言っているのは

「いま・ここに存在している」、

「現存している」という意味であり、

それは同時に

「気づいている」という意味だったわけです。

つまり、

「自分」(「私」)というのは、

いま・ここに現象しながら

「気づいている存在」だというわけです。

かくてルパート・スパイラは

この本の中では「私」「自己」を

【「気づいている現存(プレゼンス)」、
 またはシンプルに
 「現存(プレゼンス)」と表現することもあります】

と宣言するのです。

これはルパート・スパイラふうの

「自己」の定義と言ってもいいでしょう。

そして、こういうたぐいの本で

よく使われる

「現存」「意識」「存在」「私」というのは

どれも同じ意味だと彼は言うわけです。

【存在することをシンプルに知ることに、
 「私」という名前が与えられています】と。

まあ、ここまでで

われわれが普通さほど意識せずに使っている

「自分」という言葉が本来意味していたことは

明らかになったと言っていいでしょう。

それ以外の「自分」に付加された意味合いは、

すべて他者や社会から“聞かされた話”、

いわばお仕着せにすぎなかったわけです。

──────────────────
 私たち自身の存在を知ることは、
 あまりにシンプルで、
 明白で、
 重要ではなさそうに見えるため、
 往々にして見過ごされてしまいます。
 最も親密な存在を忘れ、
 見落とすということは、
 表面的には些細なことかもしれませんが、
 これがきっかけとなって、
 ほとんどの思考、感情、行動、関係性などが生まれ、
 それらはやがて不幸の種となるのです。
 
 ではなぜ、
 私たちは、
 存在、気づきがそれ自体を知っていることを忘れ、
 見過ごしてしまうのでしょう?
 存在することを知ること、
 それは、
 私たちがすることではなく、
 私たちそのものです。
 私たちの存在がそれ自体を忘れたり、
 見過ごしたりすることはあり得ません。
 実際のところ、
 存在をシンプルに知ることを曇らせるのは思考です。
 思考によって、
 私たちの自己は
 気づきの現存(プレゼンス)ではないように見えます。
 この思考はやがて感情が絡まり、
 自己を真に知ること、
 それがそれ自体を真に知ることは、
 覆い隠され、
 損なわれ、
 私たちは気づいている現存(プレゼンス)以外の
 何ものかであると信じ、
 感じるようになるのです。
 
 個人における、
 そして人類全体における私たちの歴史とは、
 真のアイデンティティの喪失と
 再獲得の物語であると言えます。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p25-26)
──────────────────

ところがわれわれは

この「自分」の本来の体験、

つまり最も親密な「現存」のほうを忘れ、

他者や社会から押しつけられた

レッテルの方を信じることによって

とんでもないミスリードに誘い込まれます。

【これがきっかけとなって、
 ほとんどの思考、感情、行動、関係性などが生まれ、
 それらはやがて不幸の種となるのです。】

われわれが日常的に対処している

あらゆる“問題”はすべて

この【思考、感情、行動、関係性】から

生まれたものであることは間違いないでしょう。

では、なぜそういうことが起こるのか?

ルパート・スパイラは端的に断言します。

【実際のところ、
 存在をシンプルに知ることを曇らせるのは思考です。
 思考によって、
 私たちの自己は
 気づきの現存ではないように見えます。】

と。

その思考にはやがて感情が絡まってきます。

ついには

【私たちは気づいている現存以外の
 何ものかであると信じ、
 感じるようになる】のだと彼は言います。

ルパート・スパイラはこの最初の章を

【個人における、
 そして人類全体における私たちの歴史とは、
 真のアイデンティティの喪失と
 再獲得の物語であると言えます。】

という言葉で締めくくるのです。

いやー、なんかもう、これだけで

すべてを聞いたような気もしますね。

ありがたいことです。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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■ 2.編集後記:
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われわれが本来の「自分」でありさえすれば、

実際は、どんな問題もなかったのですね。

でも、

「現存」を曇らせる「思考」のいたずらに乗って

われわれは実際はありもしない

虚構の問題を抱えることになり、

蜃気楼のなかの架空の迷路のなかで

途方に暮れているわけです。

迷い込んでいるのは単なる

思考や感情が捏造した状況にすぎないけれど、

その夢に投資したエネルギーだけは

引き戻さなければなりません。

じつはただ

夢を観ているだけとも言えますが。(^_-)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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