home > 通信 >「私-気づいている現存」へ(R.S):『アセンション館通信』第995号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/05/14(第995号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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 ☆☆   ☆☆   https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
──────────────────
◇◇ もくじ ◇◇

1.「私-気づいている現存」へ(R.S)

2.編集後記
──────────────────

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■1.「私-気づいている現存」へ(R.S)
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大型連休が終わると

また土日が雨のパターンが戻ってきました。

今日はずいぶん降りましたね。

なんでこんなに寒いんだろうという感じ。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

揺らがないマインドはありません。

マインドというものは揺らぐものですから。

身体があるあいだは

そこに何らかのマインドが湧く可能性があり

マインドに注目すればそれは変化し続けます。

それが「自分」を定義するとみなしているかぎり

「自分」は揺れに揺れ続けることになる。

晩年のマハラジはぶっきらぼうに

こんなことを言います。

──────────────────
 マハラジに会いに来たそれ、
 あなたはそれを認識しているのだろうか?
 それは肉体だろうか?
 それとも、肉体の外側にある何かだろうか?
 
 質問者 内側か外側か、私には分かりません。
 
 マハラジ
 非常にいい答えだ。
 その肉体をわきによけて、
 それを描写してみなさい。
 
 質問者 私にはできません。

 マハラジ
 あなたがそれを描写できないとすれば、
 それは何の役に立つのか?
 
 質問者 何の役にも立ちません。
 
 マハラジ
 いったんこれを理解したら、
 あなたは真理を得ることだろう。
 ここで聞いているもの、
 つまりあなたの知らないものがあなただ。
 そしてあなたが自分だと思っているものは、
 あなたではない。
 
 最高の霊性の目的はパラマートマンだという知識は
 肉体と「私は在る」に内在するが、
 それは描写できないものだ。
 そのことに確固として同意するなら、
 それはあなたが霊的知恵を持っていることを
 意味するのではないだろうか?
 
 『意識に先立って』(p168-170) 
──────────────────

ちょっとここで

自分がマハラジに質問する気になって

もう一度上に戻ってこの問答を読んでみてください。

……

読みました?

知ったかぶりで

「私は身体ではありません」などと答えたら、

この質問者ほど褒めてはもらえないかも。(^_-)

考えてみると

この『アセ通』で書いているようなことを

マハラジ本人を前にして言うことを想像したら

そりゃもう冷や汗をかくでしょうね。

それともただただ素直になれるか……。(-_-;)

この質問者は

肉体をわきによけて自分を描写することは

「できません」と答えます。

マハラジは

「それ」が何なのかを描写できないのなら、

「それ」はいったい何の役に立つのか?

と畳みかける。

自分でそれが何かを描写もできないのに

それが何かの役に立つとは誰にも言えません。

質問者は

「何の役にも立ちません」と答えるしかない。

急転直下、

【いったんこれを理解したら、
 あなたは真理を得ることだろう。】

とマハラジは言います。

この事実があなたの存在の深みで響いたら、

あなたは真理を得ていることだろう、と。

いま、ここで質問しているあなたが

あなたの「自己」だ。

あなたは「それ」が何かを知らないと言う。

あなたの知らない「それ」があなただ。

あなたが「それ」が何かを知らないと言うのだから。

そして自分が誰かを知っている気でいるあなた、

「あなたが自分だと思っているもの」は

あなたではない。

そんなものはただの一場の光景にすぎない。

人が成熟の最後に求めるものはパラマートマンだ。

つまり、

最高の霊性の目的がパラマートマンだという知識は

肉体と「私は在る」に内在しているのだ。

そのパラマートマン(至高の真我)は

けっして描写の対象となることはない。

そのことに確固として同意するなら、

それはあなたが霊的知恵を持っている

ということではないかね?

さてさて、虎の威を借りるのは

ちょっと気持ちのいいところもある。(*^_^*)

このところルパート・スパイラの渾身の一冊

『プレゼンス―第1巻』を読み続けています。
https://amzn.to/2PYQzlZ

今回は最も重大な一段を苦もなく超えてゆく一節

【「私-体と心」から「私-気づいている-現存」へ】

の展開をたどりたいと思います。

(相変わらず長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
  【「私-体と心」から「私-気づいている-現存」へ】
 
 
 私たちの自己、
 気づいている現存は、
 存在し、
 気づいていること以外に
 どのような性質を有しているのでしょう?
 
 私たちの自己が現存し、
 気づいていることに疑いの余地はありません。
 にもかかわらず、
 私たちは、
 私たちの存在をシンプルに知っていることに
 さまざまな要素を付け足そうとします。
 この本は、
 直接的で親密な知識だけを参照し、
 そして、
 付け足す要素があるとすれば、
 何らかの信念からではなく、
 自己がそれ自身を体験することから生まれた
 要素だけを参照しながら、
 とてもゆっくりと進んでいきます。
 
 私たちが通常、
 自己、存在を
 シンプルに知ることに付け足すのは、
 この存在は、
 体と心の中にあり、
 それらから成り、
 それらに限定されるという信念です。
 私たちは、
 自己は体と心の内側にあり、
 それ以外のすべては外側の世界にあると考えます。
 
 この最初の信念がもととなって、
 私たちの文化の土台となっている
 基本的な想定が生じます。
 そこでは、
 体験は
 知り、感じ、知覚する、
 分離した内側にある主体と、
 知られ、感じられ、自覚される、
 分離した外側にある客体、他者、世界の
 ふたつの領域に振りわけられます。
 
 「私 - 気づいている - 現存」
 (私は今ここにいると気づいている意識)は
 体と同義であり、
 体に限定され、
 ゆえにその性質をもつという
 この基本的な信念が、
 気づいている現存という
 私たちの真のアイデンティティを覆い隠し、
 私たちにそれを忘れさせます。
 
 私たちの存在をシンプルに知ることが、
 この信念により実際に覆い隠され、
 忘れ去られるのではありません。
 スクリーンが映像に覆われていても、
 そう見えるだけなのと同じです。
 この幻影は実際には生じていないのですが、
 非常に強力で、
 私たちが
 どう考え、感じ、行動し、関係するかに
 大きな影響を与えます。
 
 自己が体の内にあり、
 その性質を共有するという、
 この一見したところの事実を
 詳細に見ていくことにしましょう。
 
 見たところ外の世界にあるもの、
 たとえば走る車の音、
 ビルの姿や景色などに注意を向けてみましょう。
 音や光景は私たちの自己、
 すなわち気づいている現存によって
 体験されています。
 ここで私たちは、
 見たところ体の内側にあり、
 体に限定されている「私」、
 気づいている現存が車の音を聞き、
 建物や景色を見るのだと考えます。
 
 しかしながら、
 私は音や景色ではありません。
 私は車の音や建物や景色に気づく存在です。
 音や景色はやってきては消えますが、
 「私 - 気づいている - 現存」は残ります。
 だからこそ、
 私は車や建物、景色ではないとわかるのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p27-29)
──────────────────

【私たちの自己が現存し、
 気づいていることに疑いの余地はありません。】

私たちの自己について、

ルパート・スパイラはまず最初に

それが「現存する(いま・ここに在る)こと」、

そしてそれが「気づいていること」を確認します。

こういう表現に慣れているかどうかを別にすれば、

本質的にはこれに異論はありえないでしょう。

ところが、われわれはその単純な事実に

さまざまな要素を付け足すのだと

ルパート・スパイラは言います。

そしてご存知のように

その付加物が大きな変化を引き起こすのです。

身体が誕生して以来われわれが身につけるのは

「自分」が身体と心の内側にいるという信念です。

以来われわれは身体と心の内側に限定され、

それ以外のすべては外側の世界にあると

考えるようになります。

ここから実際に起こっている体験は

知り、感じ、知覚する分離した内側にある主体と、

知られ、感じられ、自覚される

分離した外側にある客体、他者、世界の

ふたつの領域に振りわけられることになると。

この観念に対応する事実を

われわれが実際に体験しているだろうか?

とルパート・スパイラは確認してゆきます。

このあたりの確認手法に関しては

シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノン師に

由来するダイレクトパスの手法をつうじて

ルパート・スパイラは得心を深めたのでしょうが、

彼はここではその細部には立ち入らず、

ただ

「見たところ外の世界にあるもの、
 たとえば走る車の音、ビルの姿や景色など」は

気づいている現存によって体験されていることを

確認するにとどめています。

そして、

「自分」は音や景色ではなく、

車の音や建物や景色に気づく存在だと。

理由は単純で、

【音や景色はやってきては消えますが、
 「私 - 気づいている - 現存」は残ります。
 だからこそ、
 私は車や建物、景色ではないとわかる】のだと。

ここでも異論が出てくる余地はなさそうです。

次に、ルパート・スパイラは

身体について同じことを確認します。

──────────────────
 では、体はどうでしょう?
 私たちは、
 体についても、
 音や景色と同じように
 気づいているのではないでしょうか?
 
 頭痛を例に挙げてみましょう。
 車の音がやってきては消えるように、
 私たちは、
 あらわれては消える頭痛の感覚に気づいています。
 だからこそ、
 頭痛は自己の本質ではないとわかるのです。
 私たちの自己の体験、
 つまり、
 気づきによる気づきの体験は、
 常に今ここにあります。
 そのため、
 私たちにとって本質的なことは、
 いつでも、
 今ここになければなりません。
 
 頭痛はあらわれてが消えますが、
 自己は頭痛が消えてもここに残ります。
 こうして、
 頭痛は自己の本質ではないことがわかります。
 頭痛は、
 私そのものではありません。
 このように考えたことは
 今までなかったかもしれませんが、
 頭痛は、
 あらわれては消えることで、
 私たちの存在にとって本質的ではないことを
 自ら示してくれています。
 
 顔や手、
 足のちりちりするような感覚に
 注意を払ってみましょう。
 私たちは、
 車、建物、景色、頭痛と同じように
 こうした感覚に気づいていることがわかります。
 音や景色があらわれては消えるように、
 こうした感覚もまた、
 やがて私たちから去っていきます。
 そして、
 そこには気づいている現存だけが残ります。
 
 言い換えるなら、
 体、ここでは、顔、手、足は、
 世界における音や光景と同じく、
 私たちが注意を向ける対象であり、
 私たちはそれを知る主体、
 気づいている現存であるのだとわかります。
 
 ここに、
 シンプルで画期的な真実が姿を現します。
 「私 - 体」が
 体験し、知る主体なのではなく、
 「私 - 気づいている現存」が
 体験し、知る主体であり、
 体という対象物は、
 世界という対象物と同じく、
 体験され、知られるものなのです。
 言い換えるなら、
 私たちは、
 世界に対する知覚に気づいているのと同じように、
 体の感覚に気づいているのです。
 
 頭痛はいつもあるわけではないので
 自己の本質ではないけれど、
 体はいつもここにあるから自己の本質の一部だ
 と主張する人もいるかもしれません。
 けれど、
 体の感覚、
 知覚のひとつひとつを紐解いてみると、
 それらは
 いつもここにあるのではないことがわかります。
 
 体についてのアイディアではなく、
 その実際の体験に焦点を当てると、
 体の体験は、
 今受けている感覚や知覚でしかないのだと
 わかります。
 感覚や知覚はあらわれては消えますが、
 私たちの自己、
 すなわち気づいている現存はいつもここに残ります。
 いつもここにある「私」が、
 感覚や知覚のように
 あらわれたり消えたりする対象物から
 できているはずはありません。
 
         ∞
 
 『プレゼンス―第1巻』(p29-30)
──────────────────

身体についても

ルパート・スパイラは異論の出ようがない

単純な「頭痛」を例にして説明してゆきます。

車の音がやってきては消えるように、

われわれは、

頭痛の感覚があらわれては消えるのに気づいている。

だから、

【頭痛は自己の本質ではないとわかる】のだと。

われわれの「自己」にとって本質的なことは、

いつでも「今ここに」なければならない。

頭痛はあらわれては消えるが、

自己は頭痛が消えてもここに残る。

だから

頭痛は自己の本質ではないことがわかる。

頭痛は「自分」そのものではない。

【頭痛は、
 あらわれては消えることで、
 私たちの存在にとって本質的ではないことを
 自ら示してくれています。】

と。

この単純簡明な説明は

まるで天才的外科医の手術の手さばきを見るようです。

ルパート・スパイラは

顔や手や足の感覚についても同じことだと言います。

音や景色があらわれては消えるように、

こうした感覚もまた、

やがてわれわれから去ってゆく。

そして気づいている現存だけが残るのだと。

だから

身体(顔や手や足)の感覚体験も、

世界における音や光景と同じく、

われわれが注意を向ける対象であり、

われわれの「自己」はそれを知る主体、

気づいている現存であるのだとわかる、と。

だから実際は、

「身体(である自分)」が知る主体なのではなく、

「気づいている現存」が体験し、知る主体なのだと。

体という対象物は、世界という対象物と同じく、

体験され、知られるものなのだと、言います。

われわれは、

【世界に対する知覚に気づいているのと同じように、
 体の感覚に気づいているのです。】

「体の体験は、
 今受けている感覚や知覚でしかない」ことがわかる。

【いつもここにある「私」が、
 感覚や知覚のように
 あらわれたり消えたりする対象物から
 できているはずはありません。】

異議の出しようがないと思います。

次に、ルパート・スパイラは

「心」と言われる湧いてくる想念について説明します。

──────────────────
 では、
 多くの人が自己と同一視している
 心はどうでしょう?
 心は、
 思考とイメージからできています。
 けれど実際のところ、
 思考、イメージ、記憶、恐れ、希望、
 欲望などがすべて収められた、
 永遠の入れ物としての心を体験した人はいません。
 これはアイディアにすぎないのです。
 言い換えるなら、
 このような心の有り様を、
 私たちは直接的には知りません。
 私たちが見かけ上の心として知っているのは、
 今ここにある、
 思考やイメージとしての心だけです。
 
 「今日の夕飯は何にしよう?」
 という考えが浮かんだとします。
 このような考えは、
 世界に対する知覚や、
 体の中の感覚と同じように、
 かすかな対象物としてあらわれます。
 言い換えるなら、
 「私 - 心」が体験を知る主体なのではなく、
 「私 - 気づいている現存」が知る主体であり、
 それが世界を、体を、
 そしてこの場合は、
 心の対象物を知るのです。
 
 実際の体験を振り返り、
 体が体験を知る主体になったことがあったかどうか、
 自分自身に尋ねてみてください。
 顔が、手が、足が、何かを知り、
 体験することはできるでしょうか?
 顔が、手が、足が、
 聞き、味わい、匂いを嗅ぎ、
 この本に書かれた文字を理解するでしょうか?
 顔、手、足は、
 他のすべてと一緒に、
 知られ、体験されているのではないでしょうか?
 
 思考やイメージはどうでしょう?
 思考やイメージが何かを知り、
 体験するのでしょうか?
 思考が何かを見て、
 イメージが何かを聞くのでしょうか?
 思考がこの本に書いてある文字を
 理解するのではなく、
 思考は自己によって知られ、
 理解されるのではないでしょうか?
 
 体験にじっくりと対峙し、
 真実もしくは現実を試す手段として
 実際の体験にのみ焦点を当てると、
 体や心が知り、
 体験することはないのだとわかります。
 体や心は、
 知られ、体験されるのです。
 
 「私 - 体と心」が世界に気づくのではなく、
 「私 - この気づいている現存」が
 体、心、世界に気づいているのだと
 はっきり理解しましょう。
 
 私たちの自己は体や心ではなく、
 実際には気づいている存在、
 現存であり、
 それが体や心を知り、目撃する。
 この発見には、
 根源的かつ深遠な含みがあります。
 
         ∞

 『プレゼンス―第1巻』(p31-32)
──────────────────

心というのは実際は

いま湧いてくる思考とイメージであり、

【思考、イメージ、記憶、恐れ、希望、
 欲望などがすべて収められた、
 永遠の入れ物としての心を体験した人はいません。
 これはアイディアにすぎないのです。】

とルパート・スパイラは言います。

「心」についての説明でも彼の

簡明・素朴な例示の手法は一貫しています。

たとえば、

「今日の夕飯は何にしよう?」という考えは、

世界に対する知覚や、

身体のなかの感覚と同じように、

かすかな対象物としてあらわれるのだ、と。

「心」という自己が体験を知る主体なのではなく、

「気づいている現存」が知る主体であり、

それが世界や身体の感覚や

思考やイメージという心の対象物を知るのだと。

そして、この理解を後退させないために、

彼は逆の観点からも確認しておきます。

思考やイメージが何かを知り、

体験することがあるだろうか?

思考が何かを見て、

イメージが何かを聞くのことがあるだろうか、と。

そしてルパート・スパイラは

身体やマインドがわれわれの「自己」ではなく

実際には「気づいている現存」が

身体やマインドを知るのだというこの発見には、

根源的かつ深遠な含みがあると言います。

名人の手にかかれば、

こんなに単純なことだったのか!?

と思われるほどです。

不可逆的かつ自然な流れに入ってゆきましょう。

ありがたいことです。

(-||-)

──────────────────
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
──────────────────

(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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すべてここに置いてあります。
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■ 2.編集後記:
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「塵も積もれば山となる」で

架空の自我が存在することになったわけですから、

『アセ通』の「塵も積もれば山となる」努力も

まんざら無意味でもないかもしれません。(^_-)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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