home > 通信 >自己には位置も限界もない(R.S):『アセンション館通信』第996号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/05/21(第996号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.自己には位置も限界もない(R.S)

2.編集後記
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■1.自己には位置も限界もない(R.S)
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今日は山里は比較的涼しい日でした。

子供のころは「光陰矢の如し」という言葉は、

まるで不思議な神秘的な言葉に聞こえたものでした。

時間が飛ぶように過ぎ去ってゆくなんて

どう考えたって、ありっこない話でしたから。

ところがなんと、今となってみれば

それは不思議でもなんでもない……、

ただの日常的実感にすぎないものでした。(^_-)

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

このところルパート・スパイラの渾身の一冊

『プレゼンス―第1巻』を読み続けています。
https://amzn.to/2PYQzlZ

これまで本書の

「Part 1─私たちの本質」のなかで、

最初の

【私とは誰なのか、何なのか】という一節では、

われわれは自分について

自分が何なのかはわからなくても、

・自分が「<いま・ここ>に存在している」こと

・そして「気づいている」こと

・つまり自分とは「気づいている現存」であること

これだけは誰に保証してもらう必要もなく、

自分だけで確実に体験的に知っている

ということを確認したのでした。

また次の

【「私-体と心」から「私-気づいている-現存」へ】

という一節では

われわれが通常自分だと思っている

身体や思考、イメージや記憶は

じつは世界やモノや他者と同じ、

知覚の対象物でしかないことを確認したのでした。

さて、では今回はその次の

【自己には位置も限界もない】という一節の内容を

ルパート・スパイラの導きに従って

確認してゆきたいと思います。

(相変わらず長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

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  【自己には位置も限界もない】
 
 
 心(マインド)は対象物だけに、
 つまり、体、心(マインド)、世界だけに
 注意と関心を向けることに慣れ切っているため、
 自分自身をもささやかな対象物として
 扱おうとすることは避けられません。
 気づいている現存(プレゼンス)を探し求め、
 体験の、
 知識の対象物にしようとするのです。
 
 けれど、
 私たちの自己はあらゆる対象物を知る者、
 目撃する者であるという
 体験的な理解に何度も立ち返ると、
 自己自身が対象物になることはできないことが
 はっきりします。
 
 私たちの自己はここにあり、
 気づいていて、
 そこに客観的な性質はないというのは、
 私たちのシンプルな体験です。
 この体験的な理解が深まると、
 自己を対象物として見出そうとする欲求は
 自然と薄れていきます。
 
 対象物を知るように
 私たちの自己を知ることはできませんが、
 これは自己が知られることはない
 という意味ではありません。
 通常の対象物が知られるように、
 主客の関係の中で自己を知ることは
 できないということです。
 
 私たちの真の自己は、
 親密で直接的な体験を通じて、
 つまり、
 ただ存在することを通じて知られます。
 実際、
 自己について知る唯一の方法は、
 自己そのものであること、
 そして、
 自己をいかなる対象物とも混同しないことです。
 
 体の感覚、
 心(マインド)の中の考えやイメージ、
 世界の中の物体に注意を払うのは、
 この本に書かれている言葉に
 注意を払うのと同じように、
 難しいことではないはずです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p35-36)
──────────────────

ここでルパート・スパイラが

われわれに確認を促しているのは、

われわれが言う「自分」というのは

対象物にはなりえないという事実です。

公式のように定義するなら

「自己」は「対象物」ではない

ということです。

「自分」を見定めるために

何らかの限界や定義で制限して、

対象物として虫ピンで止めるようなことはできない、

ということです。

では、

その「自分」である「気づいている現存」に

注意を向けるにはどうしたらいいのか?

注意を向けるというのは、

その対象に対する「自分」の感覚を鋭敏に感じる、

いわば感覚に耳を澄ますということです。

でも、

その感覚に気づいているのが「自分」なのですから、

その「自分」が感覚でないのは自明です。

つまりその「自分」に

「自分」が気づくのは無理だということです。(*^_^*)

だいたい「自分」を特定するのに

どっちを向けばいいのかすらわからない。

そのことを何度も試みて失敗したら、

ついにはある瞬間

「自分」をマインドの対象物として

探そうとする試みが自然に崩壊します。

つまりは、

けっして対象化できない

この“気づいている自分”が「自分」だというわけです。

でも、これは

対象物に関わる「体験」ではないため

マインドはこのことを記憶できません。

このことを体験として憶えておくことはできないのです。

ただ、ふっとそのことが垂直に蘇るだけです。

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 しかしながら、
 この本質との融合は
 忘れ去ることのできない余韻となって、
 時に何十年にもわたり私たちの内に残り続けます。
 かつて、
 たいていは子供時代に体験した何かとして、
 懐かしく、
 思い焦がれるような何かとして、
 静寂の瞬間に、
 もしくは日々の暮らしが
 何らかの壁にぶつかった際に、
 それは私たちの内で大きく膨れ上がるのです。
 
 この余韻は過去にあるのではありません。
 今ここに、
 私たちの自己の内にあります。
 これこそが私たちの自己なのであり、
 はじめて出会った瞬間と同じように、
 今ここにあって、
 今すぐに触れることができます。
 
 はじめて出会ったのにはじめてではないような、
 この懐かしい体験に触れ続けると、
 やがて私たちは自己を、
 つまり自己は自己自身を、
 空間に位置する対象物を見つけるように
 見つけることはできないのだという
 深い気づきを得るはずです。
 私たちは対象物や場所に気づく側であって、
 私たちの自己は対象物でもなければ、
 特定の場所に位置するという
 実際の体験をすることもないのだとわかります。
 
 言い換えるなら、
 存在をシンプルに直接的に知ること、
 つまり
 存在がそれ自体を知ることと離れずにいれば、
 私たちには、
 自己がどこかに位置しているという
 知識はないのだとわかります。
 
 思考だけが、
 気づいている現存である自己を体と同一視し、
 体の内に私たちが位置すると想像するのです。
 この思考は、
 気づいている現存(プレゼンス)であるという
 私たちの真の性質に押しつけられていいますが、
 だからといって、
 実際に自己を
 そこに位置づけているわけではありません。
 
 思考は、
 自己を体と同一視することで、
 気づいている現存(プレゼンス)である私たちは、
 体の性質と限界を共有すると思い込みます。
 
          ∞

 『プレゼンス―第1巻』(p38-39)
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ルパート・スパイラは

シュリー・アートマナンダ・クリシュナ・メノン

のダイレクトパスの流れをくむ方ですから

「自己」を“第三の目”の位置にも、

“ハート”の位置にも関連づけません。

どんな現象的・空間的位置とも結びつけません。

ただ、

【私たちには、
 自己がどこかに位置しているという
 知識はないのだとわかります。】

と言うだけです。

──────────────────
 では、
 私たちの自己、
 つまり気づいている現存(プレゼンス)には
 限界があるのでしょうか?
 心(マインド)は
 限界を見つけ出そうとするかもしれませんが、
 私たちが実際に
 その限界を体験したことはあるでしょうか?
 何が知られ、
 体験されるのであっても、
 それを体験し、
 知るのは、
 私たちの自己、
 つまり気づいている現存(プレゼンス)です。
 では、
 質問の仕方を変えてみましょう。
 私たちの自己、
 気づいている現存(プレゼンス)は、
 それ自身が制限される体験を
 したことがあるのでしょうか?
 
 はじめのうちは、
 心(マインド)が課す想像上の限界は
 真実であるように感じられ、
 私たちの実際の体験は
 闇に隠れてしまうかもしれません。
 けれど、
 この信念を追いやり、
 私たちの自己、
 つまり気づいている現存(プレゼンス)自体に、
 制限された体験が実際にあるかどうかを
 しっかりと探ると、
 そんな体験はないことがわかります。
 
 心(マインド)が示す限界はすべて、
 ある種の対象物であることがわかります。
 心(マインド)は、
 自己は体だと主張します。
 そして、
 その最初の想定に基づいて、
 自己には形があり、
 年齢があり、履歴があり、未来があり、
 体重があり、人種があり、国籍があり、
 性別があり、サイズがあると続けます。
 
 しかし、
 これらはすべて体の特徴であって、
 自己の特徴ではありません。
 これらは自己によって知られていますが、
 自己に属してはいません。
 スクリーンに映し出された映像が
 スクリーン自体を制限することがないように、
 それらの特徴が自己を制限することはありません。
 
 このように、
 何度も何度も私たちの自己に立ち返り、
 制限を与える要素のひとつひとつに対峙すると、
 自己はいまだかつて何の限界も
 体験したことがないのだとわかります。
 事実、
 気づいている現存(プレゼンス)は、
 いつであっても限界なしにそれ自身を体験します。
 けれど、
 通常は心(マインド)が生み出す信念が、
 この体験に影を落とします。
 
 体の限界が自己の限界だと考え、
 感じることに私たちは慣れすぎており、
 それを当たり前のこととして捉えています。
 そうして、
 すべてでないとしてもほとんどの場合、
 私たちの思考、感情、活動、人間関係は
 この想定を基にできあがっています。
 
 この悟りは、
 すべての真の理解が訪れるときと同じように、
 突然やってきます。
 私たちの自己が自己自身を体験するとき、
 心(マインド)が関与していないため、
 それは時間を超えたところで起こります。
 心(マインド)がそこになければ
 時間も存在しません。
 かといって、
 必ずしも瞬時に起こるわけではありません。
 黙想的に、
 繊細に自らの体験に対峙するなかで、
 この理解と巡り合うこともあります。
 
 自己には限界がないと知ることが、
 私たちの人生に、
 劇的で即時的な影響をもたらすこともあります。
 これまでの信念体系が説得力を失うものの、
 この新たな体験に対する解釈を見つけていないため、
 心(マインド)がかなり混乱することも
 あるかもしれません。
 一方、
 しばらくの間この変化に気づかないこともあり、
 この場合、
 心(マインド)は少しずつ自己についての
 新たな理解に慣れていきます。
 
 いずれにしても、
 この体験的理解が探求され、
 私たちの人生に浸透すると、
 それは私たちが手にすることのできる
 最も大きな発見となります。
 そして、
 ほとんどすべての人の
 人生の中心に居座っているさまざまなジレンマ、
 つまり、
 幸福、平安、愛を求め続ける終わりの探求に、
 解決の糸口を与えてくれるのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p39-41)
──────────────────

そしてルパート・スパイラは

われわれの「自己」、

つまり「気づいている現存」には

何らかの限界があるだろうか?

と問いかけます。

そして

マインドはいろいろ「自己」の限界を想像したがるけれど、

どんな限界が想像されたとしても

その限界が知られるとき、

「自己」はその限界を知る側、

その限界を体験する側であることに注意を促します。

「自己」はどんな制限にも

気づいている側なのですから、

「自己」が制限される側になることは

ありえないわけです。

つまり、

自己自身が制限される体験を

することはできないのです。

「自己」は制限された感覚に気づくことはできます。

しかし自己自身が制限されることは

実際の体験に即して調べてみると

ありえないのだとわかります。

マインドが想像する限界はすべて

なんらかの対象物の限界です。

年齢とか、履歴とか、未来とか、

体重とか、人種とか、国籍とか、

性別とか、サイズとかいうのはすべて

身体の特徴であって、

「自己」の特徴ではありません。

そういうものはすべて自己によって知られる

対象物の属性であって、

「自己」の属性ではないわけです。

マインドが想像する“自分”の限界は、

すべて対象物の限界だということです。

「気づいている現存」は

どんな限界も体験したことはないのです。

われわれが考える「自分」の限界というのは

すべて身体の限界だということです。

長い長い時間をかけて積み重ねてきた習慣なので

一挙に崩壊とはいかないかもしれませんが、

それは「突然やってきます」

とルパート・スパイラは言います。

【心(マインド)が関与していないため、
 それは時間を超えたところで起こります】

と。

ただし、

それは必ずしも瞬時に起こるわけではなく、

繊細に自らの体験に対峙するなかで、

この理解と巡り合うこともあるのだと。

そして、

自分には限界がないと知ることが、

劇的で即時的な影響をもたらすこともあれば、

しばらくの間この変化に気づかないこともあるのだと。

そして彼は

【この体験的理解が探求され、
 私たちの人生に浸透すると、
 それは私たちが手にすることのできる
 最も大きな発見となります。】

と保証します。

そして、この発見が

人生の中心に居座っているジレンマ、

幸福、平安、愛を求め続けるという「探求」に

終わりをもたらす糸口を与えてくれる、と。

可能性を感じませんか?(*^_^*)

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

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 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
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……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


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■ 2.編集後記:
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この地球という惑星は

とんでもない重圧のもとに在る領域だそうです。

しかし、この悪夢の世界は

「圧縮学習」のシステムでもあるそうです。

とんでもない思考波動の加圧と騒音のなかで

しかもなお

じっとその意味に耐えることもありうる。

できそうなことと言えば

マインドの限界まで行くことだけです。

『アセ通』の「塵も積もれば山となる」です。(^_-)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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