home > 通信 >自己だけが在る(R.S):『アセンション館通信』第997号



━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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 ☆☆     ☆☆『アセンション館通信』2023/05/28(第997号)
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☆☆      ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇

 〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
 それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
 それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
 それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
 (『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
 
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇

1.自己だけが在る(R.S)

2.編集後記
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■1.自己だけが在る(R.S)
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爽やかな気候ですね。

今日は家のまわりの草刈りをしました。

このごろは一度に全部はやりません。

まあ、二回くらいでやるつもり。

さて、またまた一週間が過ぎて、

楽しい“アセンション噺”と

“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。

『アセンション館通信』配達人のpariです。

この永遠の<今>を

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

このところルパート・スパイラの渾身の一冊

『プレゼンス―第1巻』を読み続けています。

どこを読んでも違和感というのはありません。

でも自分から出てくる理解というのとも違うのかも。

まだマインドが防御して

マインドの手の内で処分しているのでしょうか。

これまで

【私とは誰なのか、何なのか】という一節では、

・自分は

 <いま・ここ>で「気づいている現存」であること

を確認しました。

これはもう疑問の余地がありません。

【「私-体と心」から「私-気づいている-現存」へ】では

・(われわれがふだん自分だと思っている)

 身体や思考や記憶というのは

 実際は知覚の対象物でしかないこと

を確認しました。

【自己には位置も限界もない】の一節では

・心が示す限界はすべて

 実際は対象物の限界であること

を確認しました。

【本質的な存在の忘却】の一節では

にもかかわらず、われわれは日常生活では

・自分が

 身体、思考、感覚に気づく者であること

を忘れて、

自分が身体、思考、感覚そのものであると信じ、

さらにそう感じるようになっていること

を確認したのでした。

今回はルパート・スパイラの導きに従って

【自己だけが在る】ことを

確認してゆきたいと思います。

(相変わらず長すぎる引用ですが、

 これが本書の出版に関われた方々の

 ご迷惑になる無断引用ではなく、

 本書の販促に貢献する

 無料宣伝となることを願っています。(-||-) )

──────────────────
 
  【自己だけが在る】
 
 
 私たちの存在(ビーイング)は、
 開かれた、空(くう)の、
 透明な現存(プレゼンス)です。
 
 注意はいつも何かに向けられています。
 けれど、
 私たちの自己には客観的なものが何もないため、
 注意を向けることはできません。
 注意はいつも、
 思考、感情、感覚、知覚といった
 対象物に向けられています。
 
 すべての方向性が取り除かれると、
 注意は、私たちの自己である、
 気づいている現存としての姿を現します。
 
 ここで私たちの自己に
 注意を向けようとするかもしれませんが、
 そこに見つかるのは、
 いかに微細であろうとも、
 また別の対象物にすぎません。
 私たちの注意、
 そのアイデンティティを、
 思考、感情、感覚、知覚といった
 対象物に与えるのをやめにしましょう。
 
 それらを消し去る必要はありません。
 そこに注意を向け、
 アイデンティティを付与するのを
 やめるだけでいいのです。
 するとやがて、
 私たちの本質は、
 思考、感情、感覚、知覚ではない
 ということがはっきりします。
 
 いわばこうして、
 私たちの自己に帰還するのです。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p68-69)
──────────────────

これまでの節が理論編、

あるいは理解編だったとすれば、

ここからは一挙に実践編ですね。

では何かできることはあるのか?

何をするべきなのかが端的に語られます。

われわれの存在自体は

限界をもたない、開かれた、空の、

「気づいている現存」であることは間違いない。

でも、われわれは

その「気づき」の端的な現れである「注意」を

いつも“何か”に向けているわけです。

そしてその注意を向けている

実質的な主体、つまり“当人”は、

いわば“何かに対する「興味」”なのです。

だから「注意」はいつも、

思考、感情、感覚、知覚といった

何らかの対象物に向けられています。

ところがわれわれの「自己」は

もちろん対象物ではありません。

「自己」には客観的なところが何もないからです。

たから「自己」に注意を向ける……

ということはできないわけです。

つまり従来のような

普段の「注意」の向け方をしているかぎり

われわれはいつも何らかの対象物に注目していて

自分自身を自覚することなどまずできない。

というのも、たとえわれわれが

何とか「自己」に注意を向けよう意図しても、

いかに微細であろうとも、

そこに見つかるのは別の対象物にすぎないからです。

ここでルパート・スパイラは端的に

【私たちの注意、
 そのアイデンティティを、
 思考、感情、感覚、知覚といった
 対象物に与えるのをやめにしましょう。】

と言います。

そうなると、

ふだんから自分を覚えているためには

注意からすべての方向性を取り除くしかない。

そんなことができるのでしょうか。

でもできるかどうかではない。

これはやるしかないわけです。

ルパート・スパイラは

【すべての方向性が取り除かれると、
 注意は、私たちの自己である、
 気づいている現存としての姿を現します。】

と言います。

一瞬一瞬にあらわれてくる

注意の対象物を消し去る必要はない。

ただ、

【そこに注意を向け、
 アイデンティティを付与するのを
 やめるだけでいいのです。】

と。

どうやら、要するにこれに尽きるらしい。

それはニサルガダッタ・マハラジが言っても、

ラマナ・マハルシが言っても同じことです。

言われたサーダナをやりなさい!

ということなんでしょうね。(^_-)

何か特定の対象物に注目することがなくなると、

そして自分がただ「気づいている現存」であることを

覚えていると、注意から方向性が失われる。

それが起これば……、

【するとやがて、
 私たちの本質は、
 思考、感情、感覚、知覚ではない
 ということがはっきりします。】

というわけです。

それが起こった者から、

自己に帰還することが起こるのでしょう。

──────────────────
 すると、思考、感情、感覚、知覚が私たちを、
 私たちがすでにそうであるもの以外に
 変えることはできないのだとわかります。
 そして、
 現状に対する実用的な反応として
 求められないかぎり、
 目に見える課題は消失します。
 
 思考、感情、感覚、知覚との関わりが
 穏やかになるなかで、
 私たちはいつのまにかそれらの影響力を
 軽減させることになります。
 私たちの存在は、
 思考が存在と反目させてきた、
 思考、感情、感覚、知覚のもつれから解かれ、
 常にそうである、
 ありのままの姿を現します。
 
 しかしながら、
 分離した自己と真の自己の
 ふたつの自己があるのではありません。
 真の自己が存在する唯一の自己であり、
 思考、感情、感覚、知覚に
 がんじがらめになることで、
 別の自己、
 限界を抱え、分離し、内側に位置づけられた
 自己が存在するかのように見えていただけなのです。
 
 けれど、
 限界のある自己など存在しません。
 映画の上映が始まったときに
 スクリーンが景色にはならないように、
 気づきである私たちの真の自己が
 分離した自己になることはありません。
 
 体と心(マインド)の対象物に注意を向け、
 アイデンティティを付与するのをやめると、
 存在からはこれらの付着物が徐々に
 削ぎ落とされていきます。
 
 私たちが注意を向けるものが栄えます。
 私たちが注意を向けるものが
 私たちの現実になるのです。
 
 気づいている現存(プレゼンス)という
 私たちの自己に注意を向けると、
 注意は方向性や焦点、
 緊張から解き放たれ、
 現存(プレゼンス)そのものとしての姿を現します。
 
 探されていた何かは、
 探しているそのものであったことが
 明らかになるのです。
 
 ∞
 
 『プレゼンス―第1巻』(p69-70)
──────────────────

われわれの注意が何も求めなくなると、

やがて、

思考や感情、感覚や知覚が

「自己」を変えることなどできないことが

自明になってくるのだと。

そうなれば、

現れのなかに起こる

現状に対する実用的反応を求めてくるものに

応答する以外の課題は消えてしまうと。

まあ、そうなったら

思考、感情、感覚、知覚との関わりが

穏やかなものになるだろうこともわかります。

自然な反応だけが残るのでしょうから。

それまでだって

思考や感情、感覚や知覚に

がんじがらめになっていただけのことで、

限界を抱え、分離した内側の自己が

実際に存在していたわけではないのですから。

例によってルパート・スパイラは

【映画の上映が始まったときに
 スクリーンが景色にはならないように、
 気づきである私たちの真の自己が
 分離した自己になることはありません。】

と、見事な視覚的比喩で語っています。

身体や思考といった対象物に注意を向けのをやめると、

そういう付着物そのものが

徐々に削ぎ落とされていくのだと。

ここで、ルパート・スパイラは

極めつけのメッセージを吐き出します。

【私たちが注意を向けるものが栄えます。
 私たちが注意を向けるものが
 私たちの現実になるのです。】

(*_*) ⌒★?

一日の内、どれほどの時間、

自分が「気づいている現存」であることを

意識しているだろうか。(*-_-*)

(-||-)

【私たちが注意を向けるものが栄えます。】

(*@_@*)

自分が気づいている現存であることに注意を向けると、

注意は方向性や焦点から解き放たれて、

現存そのものとしての姿を現す……。

求めていたものは

求めている当人自身であったことが明らかになる。

──────────────────
 私たちの自己に帰還することで、
 体と心(マインド)は、
 「私−分離した内側にある自己」
 という考えがもたらしたさまざまな緊張と収縮から
 解き放たれます。
 
 この弛緩は自己の体験ではなく、
 体と心(マインド)のレベルにおける余韻です。
 体と心(マインド)は普段、
 「私−分離した内側にある自己」という考えの
 表現であり派生である、
 緊張と収縮の状態にあります。
 
 しかしながら、
 私たちはこの緊張と収縮の状態に
 あまりに慣れすぎており、
 もはやそれをそのように認識していません。
 普通になっているのです。
 これは、
 身を守るために長い間拳を握っていて
 そのことに気づかなくなり、
 拳を握っているにもかかわらず
 リラックスしていると錯覚するのに似ています。
 「私−分離した内側にある自己」
 という考えが引き起こす緊張と収縮が
 体と心(マインド)に浸透しているにもかかわらず、
 私たちはそのことに気づかずにいるのです。
 
 私たちの自己に帰還することにより、
 体と心(マインド)には弛緩の波が訪れ、
 緊張と収縮は解かれて、
 軽やかで広がりのある性質が立ち上がります。
 これは強力で、
 涙や笑いといった
 際立った体の反応を伴う場合もあれば、
 穏やかな場合もあります。
 
 いずれにせよ、
 軽やかで広がりにあるこの性質は
 やがて普通のこととなり、
 そのように感じることもなくなります。
 緊張と収縮という
 慣れ親しんだ状態とは異なるために、
 はじめは異常に感じられたのです。
 そして、
 それはやがて当たり前の状態になります。
 
 解放された自己は、
 開かれた、空(くう)の、
 透明な現存(プレゼンス)へと還ります。
 そして、
 自己に本来備わっている幸福と平安が、
 体、心(マインド)、世界の
 あらゆるあらわれににじみ出てきます。
 
 体と心(マインド)は、
 開かれた、空の、
 透明な性質を表現し始め、
 さらには世界も真の自己の親密さを反映して、
 親しみを表現し始めます。
 
 分離した内側にある自己という信念と、
 それにまつわる感情にはいつか終わりが来ますが、
 この悟りが体、心(マインド)、世界の
 現れにおいて持つ影響力には終わりがありません。
 
 それはどこまでも続き、
 決して終わらない、
 啓示の旅です。
 
 『プレゼンス―第1巻』(p70-72)
──────────────────

内側にある自己という幻想が解体すると

いろんな緊張や収縮から解放されるのですね。
 
ルパート・スパイラは

この弛緩は「体験」ではないと言います。

それは身体と想念レベルの一種の余韻だと。

普段われわれはあまりに

この緊張と収縮の状態に慣れすぎているため、

それを緊張と収縮だと認識していないだけだと。

「身を守るために長い間拳を握っていて
 そのことに気づかなくなり、
 拳を握っているにもかかわらず
 リラックスしていると錯覚するのに似ています。」

と。

この緊張と収縮からの解放感は

人によっては涙や笑いといった

際立った体の反応を伴う場合もあるそうですが、

自分にそんなことが起こりそうな気はしません。(*^_^*)

> 穏やかな場合もあります。

そういうことならありうるかも。(^_-)

> それはやがて当たり前の状態になります。

そうだといいな。(*-_-*)

> 分離した内側にある自己という信念と、
> それにまつわる感情にはいつか終わりが来ますが、
> この悟りが体、心(マインド)、世界の
> 現れにおいて持つ影響力には終わりがありません。

嬉しいです。

> それはどこまでも続き、
> 決して終わらない、
> 啓示の旅です。

ありがとうございます。

(-||-)

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 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。
 
 『私は在る』(p421) 
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(-||-)

──────────────────
 永久的なもの、
 それはあなた自身の存在である。
 真我として在りなさい。
 それが至福である。
 あなたはいつもそれなのである。
 
 『あるがままに』(p58) 
──────────────────

……。(-_-)

ありがとうございました。<(_ _)>

(-||-)

今日はこんなところで。

……。

m(_ _)m


   ………○…………○…………○………


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https://www.ascensionkan.com/rdic/

おこがましくも『アセ通』既刊号は
すべてここに置いてあります。
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   ………○…………○…………○………

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■ 2.編集後記:
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【私たちが注意を向けるものが栄えます。
 私たちが注意を向けるものが
 私たちの現実になるのです。】

マハラジだとこんなふうに言うのかもしれません。

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 注意を過小評価してはならない。
 それは関心であり、愛なのだ。
 知るため、行うため、発見するため、
 あるいは創造するためには、
 それにハートを捧げなければならない。
 それが注意力を意味する。
 あらゆる祝福はそこから流れだすのだ。
 
 『私は在る』(p143-144)
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(-||-)

これはやることがないんじゃなくて、

やめなきゃならないことがたくさんある。(*@_@*)

(*^_^*)

今日も晩くなりました。

おやすみなさい。

<(__)>


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■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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  メール: pariアットマークjk2.so-net.ne.jp
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mag2:http://www.mag2.com/m/0000126287.html
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