━━━━☆☆☆☆━━━━━━━━━━━━━━ by paritosho ━
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☆☆ ☆☆『アセンション館通信』2023/06/04(第998号)
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☆☆ ☆★ 【気刊】──「私は在る」に導かれ♪──
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☆☆ ☆☆ https://www.ascensionkan.com
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◇◇ このメルマガの趣旨 ◇◇
〈自己〉は展開する宇宙的ドラマの壮大なショーを生み出し、
それを観ながら、そのなかに、そしてそれとして現れているが、
それは夢を見ている人が自分の夢を作り出すと同時に
それを見ながらそこに出演しているのと同じだ。
(『夢へと目覚める』レオ・ハートン)
内容は人畜無害、でも読む人は相当変わっていますね。
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◇◇ もくじ ◇◇
1.常にその誤解を手放せる(R.S)
2.編集後記
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■1.常にその誤解を手放せる(R.S)
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6月に入ったばかりですが、
このごろは“線状降水帯”とか言って
すごい集中豪雨が継続するところがあるようです。
この身体の近辺でそのことが起こったとき、
ただ起こるべきことが起こっているだけだと
淡々と受け容れるというのは難しいことです。
6月に入って
浄化槽のロータリーブロワーの騒音が気になって、
その防音対策をやりました。
今日はその仕上げをやって割合うまくできました。(^^)/
自分ではとても満足しています。
さて、またまた一週間が過ぎて、
楽しい“アセンション噺”と
“「私は在る」噺”を紡ぐ今がきました。
『アセンション館通信』配達人のpariです。
この永遠の<今>を
みなさま、いかがお過ごしでしょうか?
このところルパート・スパイラの渾身の一冊
『プレゼンス―第1巻』を読み続けています。
こうして写経まがいのことをするために
Googleドキュメントで音声入力しています。
身体にもマインドにも聞かせてやるつもり。(^_-)
ルパート・スパイラの理解の言葉を通して聞くかぎり
語られていることはごく当たり前のことです。
ほんとにそれほど特別のことを
聞いているという感じは起こりません。
でも、語られている内容は
少なくともこれまでのわれわれに常識とは
かけ離れた世界と言ってもいいと思います。
それに実際に普段その自覚で生きているかとなれは、
とうていそれは言いかねるのです。
だから、
マインドにも身体にも聞かせてやるつもりの
一種のマインドサーダナです。
今回はpariにとっては本書の核と思える章
【本質的な存在の忘却】の一部を取り上げたいと思います。
(相変わらず長すぎる引用ですが、
これが本書の出版に関われた方々の
ご迷惑になる無断引用ではなく、
本書の販促に貢献する
無料宣伝となることを願っています。(-||-) )
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【本質的な存在の忘却】
私たちの存在(ビーイング)を
あるがままにシンプルに知ることを忘れ、
それは体と心(マインド)の中に、
体と心(マインド)としてあると考えることで、
私たちは、
私たちの自己、
つまり気づいている現存(プレゼンス)は、
思考、感情、イメージ、感覚と
同じ性質をもつと思い込むようになります。
私たちは思考、感情、イメージ、感覚に
気づく者であるのに、
それを忘れ、
かわりに、
私たちは思考、感情、イメージ、
感覚であると信じ、
さらに重要なことに、
そう感じるようになるのです。
悲しい気分があらわれれば、
私は悲しいと感じる。
鏡を見て顔が老けたと感じたなら、
私は老けたと考える。
思考が「私は四十歳だ」と言うと、
私が四十歳なのだと考える。
イライラする考えが浮かんだのなら、
私はイライラしていると感じる。
空腹感が起こったのなら、
私はお腹が空いたと感じる。
学校の成績が悪かったら、
私は失敗したと考える。
成績が良ければ、
私はよくやったと感じる。
まわりに友だちがいなければ、
私は孤独だと感じる。
体が病気で、
死に向かっているとすれば、
私は病気で、
死にかけていると感じる。
もし現状に不満があり、
何かを変えたいと望んでいるとすれば、
私は不幸だと感じる。
このゲームはどこまでも続きます。
『プレゼンス―第1巻』(p42-43)
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ここまで、要するに
われわれは
実際は誕生した身体にまつわる出来事に
「気づいている存在」であるのに、
その誕生した身体にまつわる「出来事そのもの」を
自分だと思うようになる、
ということを言っています。
──────────────────
私たちの自己に対する理解は、
何を信じ、
感じるかに根ざしていると言ってよいでしょう。
私たちはこれまで、
限界のある体、
心(マインド)に私たちの存在を預けてきました。
ちょうど、
映し出される映像に
スクリーンそのものが覆い隠されてしまうように、
私たちの本質的な存在は、
体と心(マインド)の性質に
覆い隠されてしまったかのように見えます。
スクリーンに青空が映れば、
スクリーンは青くなったように見えます。
けれど、
青は一時的にスクリーンを彩るだけで、
その青さはスクリーンの本質とは
何ら関係ありません。
私たちの存在も同じように、
心(マインド)と体の性質に色づけされてしまい、
その性質に実際になってしまったかのように
思われるほどです。
スクリーン自体は無色で、
だからこそ、
何色にも染まることなく、
さまざまな色を受け入れることができます。
同じように、
私たちの本質的な存在は、
客体をもたす、
透明で、
開かれた、
空(くう)の、
気づいている現存(プレゼンス)であり、
体や心(マインド)に属する
客観的な性質はもち合わせていません。
まさにそうであるからこそ、
私たちは思考、感情、知覚になることなく、
あらゆる思考、
感情、知覚を受け入れることができるのです。
どんな映像でも
スクリーンの光によって輝くように、
思考、感情、知覚は、
それらの特徴に関係なく、
私たちの本質の光によって照らされ、
つまり知られ、
何よりもまずその光とともに輝いています。
映画の上映が始まると、
私たちはスクリーンの存在を忘れ、
映画に集中します。
実際、
スクリーンは映像になったように見えます。
私たちの本質的な存在にも
これと同じことが起こります。
思考、感情、イメージが
存在を持ったとかのように見え、
それらとの区別ができなくなってしまうのです。
このように
思考、感情、イメージ、感覚の集合体と
自己との混同が深く根を下ろし、
文化や教育がそれを後押しすると、
こうした思考、感情、イメージ、感覚の
コラージュこそが自己なのだと考え、
さらに問題なことに、
そう感じることが当たり前になります。
私たちは、
純粋な気づきの存在としての
本質的なアイデンティティを忘れ、
それを、
体や心(マインド)を定義する特徴や性質と
混同してきました。
大部分の人々は、
多くの時間をこの記憶喪失の状態で過ごし、
この単純な忘却を
人生に反映させてしまっています。
∞
『プレゼンス―第1巻』(p43-44)
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映画で青空が映し出されるとき
その青は一瞬スクリーン上に投影されているだけ。
けっしてスクリーンが青に染まるわけではない。
スクリーンの本質は青とは関係がない。
それと同じく、
「気づいている現存」であるわれわれは
気づきの対象である身体にまつわる出来事に
染まることはけっしてない。
われわれ「気づいている現存」には
いかなる客観的な性質とも無縁だ。
スクリーン自体は無色だからこそ、
さまざまな色を受け入れることができるように、
われわれ「気づいている現存」も、
どんな客観的性質ももたないからこそ
思考、感情、知覚になることなく、
あらゆる思考、感情、知覚を
受け入れることができる。
しかし、
映画の上映が始まると、
スクリーンの存在を忘れて映画に集中するように、
われわれ「気づいている現存」も、
自分が思考、感情、イメージになったかのように
それらとの区別ができなくなってしまう。
かくて大部分の人間は、
多くの時間をこの記憶喪失の状態で過ごし、
この忘却を人生に反映させてしまう。
──────────────────
ではいったい、
誰が忘れ去っているのでしょう?
私たちの自己はそこに思考があろうとなかろうと、
思考よりもまず先に、
思考に依存することなく、
いつもそれ自体として存在しています。
私たちの自己が
気づきのスイッチをオンにしたり
オフにしたりすることはありません。
気づきは自己の本質です。
それはいつもそこにあって、
気づいており、
つまり定義上、
いつもそれ自身に気づいています。
スクリーンそのものが
映像によって消し去られることは、
仮にそのように見えたとしても
決してないのと同じで、
この自己による気づき、
気づきによるそれ自体の知は、
思考や感情の登場によって
覆い隠されることはあっても、
消されることはありません。
私たちの本質的な存在を忘れ、
それが闇に覆われることで
私たちがたどり着く自己は、
架空の存在です。
それは実体でも、
自己でもなく、
単なる思考で、
この思考が、
体と心(マインド)という対象物と
自己とを一対一で結びつけたのです。
この思考が、
私たちの本質的な存在を、
体や心(マインド)がもつ特徴と
同等のものと捉え、
同一視し、
そしてそれらから、
体の内に自己る、
分離し独立した実体、
自己と見なされるものを作り上げます。
この思考が、
本質的な存在の内に、
それとしてある気づきを、
限界を抱える
体と心(マインド)の性質と混ぜ合わせ、
その結果、
体と心(マインド)の中に住む、
架空の、
限界を抱えた分離した自己が
生み落とされるのです。
『プレゼンス―第1巻』(p45-46)
──────────────────
ではいったい、
「気づいている現存」である自分を
誰が忘れ去っているのか?
「気づいている現存」は
気づいていることが本質であり、
その働きを忘れたり思い出したりはできない。
気づいていることは自己の本質であり、
それはいつもそこにあって、
いつもそれ自身に気づいていいる。
われわれが「気づいている現存」であることを
忘れるのは単なる思考なのだ。
この思考が、
身体や想念という対象物と自分とを
一対一で結びつけたのだ。
そして「気づいている現存」を、
限界を抱える身体や想念の性質と混ぜ合わせ、
その結果、
身体や想念の中に住むという
架空の限界を抱えた分離した自己が捏造された。
──────────────────
気づきのある私たちの自己と、
体と心(マインド)という限界を抱えた性質は、
ひとつの実体、
ひとつの自己になったかのように
見えるかもしれません。
しかし、
この見たところ分離した内側にある自己は、
あくまで、
そのように考えた思考が
生み出したものにすぎません。
それは、
酢と油を混ぜ合わせて
ドレッシングを作るようなものです。
混ぜ終えると沈殿が始まり、
酢と油は分かれてしまいます。
その時私たちは、
それらは同化したように見えただけだった
ことを知るのです。
ここで私たちが行っているような、
体験を黙想的に調べ探究することも、
混ぜ合わさったふたつの要素、
つまり
私たちの本質的な存在として本来あるものと
体や心(マインド)という
あらわれに属するものとを分ける作業です。
「私とは、分離した内側にある自己である」
と想像し、
こうした考えを巡らすことは、
脆く儚い単純な思考を、
重苦しく複雑な実体のようなものに
変えることでしかなく、
結果として
さまざまな副産物を生み出すことになります。
本質的な自己の真の性質を忘れるこの体験は、
実際の自己の体験ではありません。
これは常にただの思考です。
言い換えるなら、
私たちの自己、
つまり存在する唯一真の自己は、
それ自身の視点、
つまり存在する唯一本物の視点において、
自己自身を忘れることは決してありません。
本質の忘却は思考のゆえであって、
自己のゆえではありません。
このため、
「分離した内側にある自己としての私」
という思考から派生する
さまざまな思考や感情もまた、
思考が自分であると想像する、
分離した内側にある自己のゆえにあるのであって、
私たちの真の自己のゆえにあるのではありません。
『プレゼンス―第1巻』(p46-47)
──────────────────
この“分離した内側にある自己”というのは、
単に思考が想像したものにすぎない。
「自分は分離した内側にある自己である」
と想像することはただの単純な思考を、
重苦しく複雑な実体のようなものに変えること。
それがさまざまな副産物を生み出す
深刻な事態を招くことにもなる。
本質的な自己の真の性質を忘れるという
実際の体験を自己がしているわけではない。
これは常にただの思考にすぎない。
けっして実在する唯一真の自己が、
それ自身の視点において、
存在する唯一本物の視点において、
自己自身を忘れているわけではない。
本質を忘却することは思考に起こっているだけで、
自己に起こっているわけではない。
「分離した内側にある自己としての私」
という思考から派生する
さまざまな思考や感情もまた、
“分離した内側にある自己”という想念ゆえに
起こっているだけであって、
われわれの「気づいている現存」ゆえに
起こっているわけではない。
──────────────────
後ほど、
すべての心理的苦痛は
「分離した内側にある自己としての私」
という思考が生み出しており、
それゆえ苦痛は架空の自己によるものであって、
私たちが常にそうである、
唯一真の自己によるものではない
ということを見てい
くことにします。
現実においては、
真の自己は、
悲しまず、
年齢もなく、
イライラせず、
お腹も空かず、
孤独でなく、
病気でもなく、
死にかけてもいません。
そういった信念や感情があったとしても、
自己はそれらから完全に自由です。
私たちの自己はそういった性質を知り、
体験する側にあるのであって、
それらでできているのではありません。
一方、
スクリーンと映像が
一体化しているように見えるのと同じで、
そうした思考や感情があらわれると、
自己と親密にひとつになります。
自己は、
思考や感情を知る側にあり、
もともと自由であり独立しながら、
同時に、
思考や感情と親密にひとつになっています。
体験のこの親密さが、
愛です。
だからこそ、
真の親密さ、
真の愛は、
いつも自由とともにあるのです。
テレビが映像に支配されることはないように、
私たちの本質的な存在が
これらの思考や感情に曇らされることはありません。
ですから、
私たちの存在の真の性質を探すのではなく、
それを認識することが大切なのです。
体や心(マインド)の現れと
私たちの本質的な存在とが
排他的に混ざり合うという
このたったひとつの出来事が、
この見かけ上の実体の、
思考、感情、状況、関係性を規定します。
けれど、
これは過去に起こった出来事ではなく、
今に刻まれていることです。
それは、
あらゆる瞬間、
繰り返し起こっています。
ゆえに、
私たちが本当は何者であるかを
シンプルに認識することで、
常に手放すことができるのです。
『プレゼンス―第1巻』(p47-48)
──────────────────
すべての心理的苦痛は
「分離した内側にある自己としての私」
という思考が生み出している。
実際は、
われわれという「気づいている現存」は
悲しまず、
年齢もなく、
イライラせず、
お腹も空かず、
孤独でなく、
病気でもなく、
死にかけてもいない。
そういった信念や感情が
気づきの対象物として起こったとしても、
われわれ「気づいている現存」は
そういうものから完全に自由だ。
われわれ「気づいている現存」は
そういった性質を知り、
体験する側にあるのであって、
それらの属性からできているのではない。
われわれ「気づいている現存」は
思考や感情を知る側にあり、
もともと自由であり独立しながら、
同時に、
思考や感情と親密にひとつになっている。
体験のこの親密さが愛。
だからこそ、
真の親密さ、
真の愛は、
いつも自由とともにある。
われわれ「気づいている現存」が
これらの思考や感情に曇らされることはない。
だから、
自分の存在の真の性質を探すのではなく、
ただそれを認識することが大切なのだ。
身体や想念といった現れと
われわれの本質的な存在、
つまり「気づいている現存」が
混ざり合ってしかも一方でしかありえないという
このたったひとつの出来事が、
この見かけ上の実体(個人)の、
思考、感情、状況、関係性を規定することになる。
しかし、
それは過去に起こった出来事ではなく、
いまこの瞬間に起こっていることでもある。
だから、
自分が本当は何者であるかを
ただシンプルに認識するだけで、
常にその誤解を手放すことができる。
(-||-)
──────────────────
あなたは在る。
ほかのすべては現れにすぎない。
『私は在る』(p421)
──────────────────
(-||-)
──────────────────
永久的なもの、
それはあなた自身の存在である。
真我として在りなさい。
それが至福である。
あなたはいつもそれなのである。
『あるがままに』(p58)
──────────────────
……。(-_-)
ありがとうございました。<(_ _)>
(-||-)
今日はこんなところで。
……。
m(_ _)m
………○…………○…………○………
「ニサルガ辞書」はここです。
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「ラマナ・マハルシ辞書」はここです。
https://www.ascensionkan.com/rdic/
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すべてここに置いてあります。
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………○…………○…………○………
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■ 2.編集後記:
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【私たちが注意を向けるものが栄えます。
私たちが注意を向けるものが
私たちの現実になるのです。】
何に注意を向けるかというのは、
何に興味を持つかというのと同じことです。
すべては循環なのでしょう。
実在する唯一のものが
分離の夢を観ているのですから、
夢の場面に興味を失えば、
「実際は何も起こっていない」
ということになるのでしょう。
しかしまだこうして
夢の場面に興味をもっているから、
動揺も問題も湧いてくるのでしょう。(*^_^*)
でも、
自分が本当は何者であるかを
ただシンプルに認識するだけで、
常にその誤解を手放すことができる。
メンタルな解除はもう十分かなぁ。
今日も晩くなりました。
おやすみなさい。
<(__)>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 【作者】 『アセンション資料館』主人 pari
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