感覚的必要性
その時と場所においては間違ったことなど何もない。
しかし真実に関心を持ち、実在に関心を持つならば、あなたはすべてを、あ
なたの人生そのものを疑わなければならない。
感覚的必要性、知的体験を主張することによって、あなたは真理の探究を安
楽の追求へと狭めてしまうのだ。(p150)
どんな欲望も
あらゆる衝動を疑いなさい。
どんな欲望も正当化してはならない。
身体的、精神的所有物を解き放ち、私利私欲を離れ、発見に対してオープン
でありなさい。(p150)
組織 と 囚人
(なぜアーシュラムを組織しないのか、というなら)
ある組織を設立したとたん、私はその囚人となる。
実際問題として、私はすべての人に開かれている。
共有の屋根や食事が人びとをより歓迎するわけではない。
「近くに生きること」とは、同じ空気を呼吸するという意味ではない。
それは信頼し、したがい、師の善意を無駄にしないことだ。
グルをつねにあなたのハートのなかに保ち、彼の教えを覚えていることが、
本当に真実とともに生きることだ。
身体的距離の近さが重要なのではない。
あなたの全人生を、師への信頼と愛の表現にするがいい。
これが真にグルとともに生きることだ。(p150)
グルとともに生きる
ある組織を設立したとたん、私はその囚人となる。
実際問題として、私はすべての人に開かれている。
共有の屋根や食事が人びとをより歓迎するわけではない。
「近くに生きること」とは、同じ空気を呼吸するという意味ではない。
それは信頼し、したがい、師の善意を無駄にしないことだ。
グルをつねにあなたのハートのなかに保ち、彼の教えを覚えていることが、
本当に真実とともに生きることだ。
身体的距離の近さが重要なのではない。
あなたの全人生を、師への信頼と愛の表現にするがいい。
これが真にグルとともに生きることだ。(p150)
ジニャーニにとって
彼(ジニャーニ=賢者)は生と死を超えている。
私たちが避けることができない生まれ、そして死ぬということは、彼にとっ
ては不動のなかの動、不変のなかの変化、永遠のなかの終焉(しゅうえん)
という表現として見なされる。
ジニャーニにとっては何も生まれず、何も死なず、何も続かず、何も変わら
ない。
すべては時を超えて、あるがままだということが明らかなのだ。(p151)
知識 と ジニャーニ
知識は現れては消える。
意識は存在のなかに立ち現れ、存在から立ち去る。
それは日々起こる出来事であり、観察されることだ。
私たちはみな、ときどき意識的であり、ときどきそうではない。
私たちが意識のないとき、それは暗黒、または空白として現れる。
だが、ジニャーニは彼自身が意識的でも無意識的でもなく、ただ純粋に気づ
いていて、マインドの三つの状態*とその内容の観照者だと知っているのだ。
( *訳注 「マインドの三つの状態」:目覚め、夢見、眠りの状態。)(p151)
智慧 と 非実在
ジニャーニにとっては、はじまりも終わりもない。
塩が水に溶けるように、すべては純粋な存在のなかに溶けていく。
智慧とは永遠に非実在を否定していくことだ。
非実在を見ることが智慧なのだ。
その彼方には表現不可能なものがある。(p151)
意識のはじまり
意識のはじまりに関して語ることはできない。
時間とはじまりという観念は意識のなかに在るのだ。
何であっても、そのはじまりに関して語るには、そこから外に足を踏みださ
なければならない。
そしてひとたび外に出れば、そのようなものはけっして存在していなかった
ことがわかる。
ただ実在だけが在り、そのなかにそれ自身として独立した存在を持つものは
ない。
波が海から分離することができないように、生きるものすべても存在に根づ
いているのだ。(p151)
偽りの質問
偽りの質問には答えられない。
それはただ偽りとして見られるだけだ。(p152)
一時的な状態
あなたの質問のどこが実在なのだろうか?
それはマインドの状態だ。
どんなマインドの状態も、マインドと同様実在ではありえない。
マインドは実在だろうか?
それはそれぞれが一時的な状態の集まりにすぎない。
一時的状態の連続をどうして実在として考えられるだろうか?(p152)
未調査という糸
「身体―精神」の存在という幻想がそこにあるのは、ただ、よく調査しなか
ったからだ。
未調査という糸にすべてのマインドの状態は連なっている。
それは暗室の暗闇のようなものだ。
一見、それはそこにあるように見える。
だが、ひとたび扉が開かれたら、暗闇はどこへ行くだろうか?
どこへも行きはしない。
なぜなら、それはそこにはなかったのだ。
すべてのマインドの状態、すべての名前と形のある存在は、未探求と未調査、
想像と軽信のなかにその根を下ろしている。
「私は在る」と言うことは正しいが、「私はこれだ、私はあれだ」と言うこ
とは、探求せず、確かめずにいたこと、精神的弱さ、無関心の現れだ。(p152)
暗室の暗闇
「身体―精神」の存在という幻想がそこにあるのは、ただ、よく調査しなか
ったからだ。
未調査という糸にすべてのマインドの状態は連なっている。
それは暗室の暗闇のようなものだ。
一見、それはそこにあるように見える。
だが、ひとたび扉が開かれたら、暗闇はどこへ行くだろうか?
どこへも行きはしない。
なぜなら、それはそこにはなかったのだ。
すべてのマインドの状態、すべての名前と形のある存在は、未探求と未調査、
想像と軽信のなかにその根を下ろしている。
「私は在る」と言うことは正しいが、「私はこれだ、私はあれだ」と言うこ
とは、探求せず、確かめずにいたこと、精神的弱さ、無関心の現れだ。(p152)
真我を忘れる
真我を忘れることが暗闇なのだ。
真我ではないものごとのなかに没頭するとき、私たちは真我を忘れてしまう。
それは不自然なことではない。
しかし、なぜ過剰な執着のために真我を忘れることがあろうか?
体験者と体験の両方の源である真我をけっして忘れないことのなかに智慧が
あるのだ。(p152)
真我 と 智慧
真我を忘れることが暗闇なのだ。
真我ではないものごとのなかに没頭するとき、私たちは真我を忘れてしまう。
それは不自然なことではない。
しかし、なぜ過剰な執着のために真我を忘れることがあろうか?
体験者と体験の両方の源である真我をけっして忘れないことのなかに智慧が
あるのだ。(p153)
サーダナ(修練)
サーダナ(修練)は自己の純粋な存在を強いて思い起こさせることにある。
何か特定の存在としてではなく、特定の存在の総計としてでもない。
宇宙を構成する、すべての特定のものの全体としてでもない。
すべてはマインドのなかに存在する。
この身体でさえ莫大な数の知覚感覚の統合でしかなく、そのそれぞれもまた
心理的状態にすぎないのだ。
もしあなたが「私は身体だ」と言うなら、見せてみなさい。
あなたがそれを想うときにだけあるのだ。
マインドも身体も断続的状態だ。
つかの間の記憶の総計が、存在しているという幻想をつくり出す。
はかなきもののなかで何が永遠なのか、非実在のなかの実在を調べなさい。
それがサーダナだ。(p153)
身体でさえ
この身体でさえ莫大な数の知覚感覚の統合でしかなく、そのそれぞれもまた
心理的状態にすぎないのだ。(p153)
マインドも身体も
マインドも身体も断続的状態だ。
つかの間の記憶の総計が、存在しているという幻想をつくり出す。
はかなきもののなかで何が永遠なのか、非実在のなかの実在を調べなさい。
それがサーダナだ。(p153)
身体という観念
あらゆる方法で自分自身を考えてみなさい。
ただ、身体という観念をもちこんではならない。
そこにはただ感覚、知覚、記憶、そして観念の流れがあるだけだ。
身体とは抽象的観念であって、多様性のなかに統合を見いだそうとする私た
ちの傾向にすぎず、それは何も間違ったものではない。(p153)
身体の観念
身体の観念は何も間違いではない。
「私は身体だ」という観念さえ間違いではない。
ただ自己をひとつの身体に限定することが過ちなのだ。
実際には、すべての存在、すべての形態は私自身のもの、私の意識のなかに
ある。(p153)
私は何か
私は何か、と言うことはできない。
なぜなら言葉は何が私ではないか、しか描写できないからだ。
私は在る。
そして、私が在るゆえにすべては在る。
私は意識を超えている。
それゆえ、私とは何かを意識のなかで表すことはできないのだ。
それでも、私は在る。
「私は誰か?」という質問に答えはない。
いかなる体験もそれに答えることはできない。
なぜなら、真我は体験を超えているからだ。(p153)
事実を質問に
あなたは「今ここに私は在る」と言った。
そこで止まりなさい。
これが実在だ。
事実を質問にすり替えてはいけない。
そこにあなたの過ちがあるのだ。
あなたは知ることでも、知らないことでもなく、マインドでも物質でもない。(p154)
真、善、美
(あなたはある表明をしたが、それは何に基づいていたのか、というなら)
人々が私に言うことに基づいてだ。
だが、その証明を求めているのはあなただ。
私には必要ない。
ものごとを正すのは私の本質なのだ。
それがサティヤム、シヴァム、スンダラム(真、善、美)なのだ。(p154)
多様な自己
(なぜ真我はあなたなしで彼を助けないのか、というなら)
だが私が自己なのだ!
あなたは私が分離していると考えている。
それゆえの質問だ。
「私の自己」と「彼の自己」というものはない。
ただ真我が、すべての存在の真我があるだけだ。
名前と形、マインドと身体の多様性に迷わされて、あなたは多様な自己を想
像するのだ。
私たちはともに自己なのだ。
ただ、あなたには確信がないだけだ。(p155)
光のきらめき
私にとっては、私はなく、人もなく、与えるということもない。
すべてはマインドのなかの光のきらめきにすぎない。
私は永遠の平和と沈黙だ。
そのなかには何も現れない。
なぜなら、現れるものはすべて消え去るからだ。
誰も助けを求めず、誰も助けを差しだしてはいない。
誰も救われてはいない。
それらはすべて意識のなかの現れにすぎないのだ。(p155)
意識のなかの泡
純粋なマインドはものごとをあるがままに意識のなかの泡としてみる。
その泡は現れては消え、それ自体実在を持たずにふたたび現れる。
それらに何の特定の原因を帰することもできない。
それぞれがすべての原因であり、すべてに影響を与えているからだ。
それぞれの泡が身体であり、それらすべての身体は私のものだ。(p155)
創造力
私から離れた力というものはない。
それは私のなかに本来固有のものなのだ。
創造力とも言えよう。
ひと塊(かたまり)の金から多くの装飾品をつくり出すことができ、それぞ
れがみな金として残る。
同様に、私が何の役で現れ、どんな演技をしようとも、私は私として残る。
「私は在る」は不動で、揺るがず、依存しない。
あなたが宇宙、自然と呼ぶものは私の自発的創造性だ。
何であれ、起こることは起こる。
だが、すべては喜びのなかに終わるのだ。(p155)
死 と 自由
人びとは死を恐れている。
彼らが死を知らないからだ。
ジニャーニは死以前にすでに死んでいる。
彼は何も恐れるようなことはないと知っているのだ。
あなたが真我を知る瞬間、何も恐れるものはなくなる。
死は自由と力を与える。
世界から自由となるためには、世界に対して死ななければならない。
そうすれば宇宙はあなた自身のものとなる。
それはあなたの身体、表現とその道具となる。
絶対的な自由としてある幸福は、どんな描写をも超えている。
その反対に、自由を恐れている人は死ぬことができない。(p156-157)
世界 と 自由 と 死
世界から自由となるためには、世界に対して死ななければならない。
そうすれば宇宙はあなた自身のものとなる。
それはあなたの身体、表現とその道具となる。
絶対的な自由としてある幸福は、どんな描写をも超えている。
その反対に、自由を恐れている人は死ぬことができない。(p156-157)
絶対的な自由
あなたが真我を知る瞬間、何も恐れるものはなくなる。
死は自由と力を与える。
世界から自由となるためには、世界に対して死ななければならない。
そうすれば宇宙はあなた自身のものとなる。
それはあなたの身体、表現とその道具となる。
絶対的な自由としてある幸福は、どんな描写をも超えている。
その反対に、自由を恐れている人は死ぬことができない。(p156-157)
執着 と 無執着
執着は束縛であり、無執着が自由だ。
切望することは奴隷となることだ。(p157)
束縛・自由・奴隷
執着は束縛であり、無執着が自由だ。
切望することは奴隷となることだ。(p157)
世界 と 助け
概して世界は助けを必要としない。(p157)
過ち と 不幸
人は過ちを犯して不幸となる。
それが気づき、ジニャーニの意識が入ったとき、それは正される。
それが彼の本性なのだ。(p157)
ひとりでに起こる@
私の視点から見れば、すべてはひとりでに起こる。
まったく自発的に。
だが、人はある動機のために、目的に向かって働いていると想像する。
彼はつねに見返りを考えて、そのために闘うのだ。(p157)
動機 と 目的
私の視点から見れば、すべてはひとりでに起こる。
まったく自発的に。
だが、人はある動機のために、目的に向かって働いていると想像する。
彼はつねに見返りを考えて、そのために闘うのだ。(p157)
世界への興味
存在の法則によって源へと戻る道を見いだしたとき、彼はすべてを放棄する。
なぜなら、世界への興味はもはやなくなっているからだ。
彼は何も欲しない。
他者からも、彼自身からも。
彼はすべてに対して死に、すべてとなる。
何も望まず、何もしない。
これが真の創造だ!
自分のハートのなかで宇宙が現れては消え去るのを見ることは驚きだ。(p157)
真の創造
存在の法則によって源へと戻る道を見いだしたとき、彼はすべてを放棄する。
なぜなら、世界への興味はもはやなくなっているからだ。
彼は何も欲しない。
他者からも、彼自身からも。
彼はすべてに対して死に、すべてとなる。
何も望まず、何もしない。
これが真の創造だ!
自分のハートのなかで宇宙が現れては消え去るのを見ることは驚きだ。(p157)
今死ぬ
努力が必要となるときは、努力が現れるだろう。
努力を要しないことが本質的となったときは、それが現れるだろう。
あなたが生を推し進める必要はない。
ただそれとともに流れなさい。
そして現在の瞬間の仕事に完全に自分を捧げなさい。
それが現在において、今死ぬということだ。
なぜなら生きることは、死ぬことだからだ。
死なしに生はありえない。(p157-158)
生きる と 死ぬ
あなたが生を推し進める必要はない。
ただそれとともに流れなさい。
そして現在の瞬間の仕事に完全に自分を捧げなさい。
それが現在において、今死ぬということだ。
なぜなら生きることは、死ぬことだからだ。
死なしに生はありえない。(p157-158)
世界 と 自分
要点をつかみなさい。
世界と自分はひとつであり、完全なのだということを。
誤りはあなたの姿勢にあり、そこに再調整の必要があるのだ。(p158)
必然的な成長
要点をつかみなさい。
世界と自分はひとつであり、完全なのだということを。
誤りはあなたの姿勢にあり、そこに再調整の必要があるのだ。
この再調整の過程があなたの言うサーダナだ。
怠惰に終わりを告げ、明晰性と慈愛のためにすべてのエネルギーを使って道
を整えることで、あなたはそこにたどり着く。
しかし実際には、それらはすべて必然的な成長の兆候なのだ。
恐れてはならない。
抵抗してはならない。
先延ばしにしてはならない。
あなたのままでありなさい。
恐れることは何もない。
信頼し、試みなさい。
誠実に試みなさい。
あなたの真我に、あなたの人生を形づくる機会を与えなさい。
けっして後悔しないだろう。(p158)
マインドの平和A
もう何年もの間、あなたはマインドの平和を探してきた。
それなのにあなたは見つけられなかった。
本質的に落ち着きのないものを、平和にさせることはできないからだ。
あなたが見いだしたという平和はとてももろいものだ。
ちょっとしたことでそれは砕かれてしまうだろう。
あなたの言う平和はただの不安の不在だ。
それに本当の価値はない。
真の平和は乱されることのないものだ。(p159)
不安の不在
あなたが見いだしたという平和はとてももろいものだ。
ちょっとしたことでそれは砕かれてしまうだろう。
あなたの言う平和はただの不安の不在だ。
それに本当の価値はない。
真の平安は乱されることのないものだ。(p159)
努力 と 不安
努力もまた不安の一形態だ。(p159)
自己 と 平和
自己を安心させる必要はない。
自己とは平和そのものであり、安らいでいるのではない。
ただマインドにだけ落ち着きがないのだ。
マインドが知っているのは、数多くの気分と異なった程度の落ち着きのなさ
だ。
心地よさが優れ、苦痛は劣っていると考えられる。
私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。
しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。
なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。
実在にははじまりはない。
ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの
発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。(p160)
落ち着きがない
自己を安心させる必要はない。
自己とは平和そのものであり、安らいでいるのではない。
ただマインドにだけ落ち着きがないのだ。
マインドが知っているのは、数多くの気分と異なった程度の落ち着きのなさ
だ。
心地よさが優れ、苦痛は劣っていると考えられる。
私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。
しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。
なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。
実在にははじまりはない。
ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの
発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。(p160)
進歩A
私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。
しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。
なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。
実在にはじまりはない。
ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの
発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。(p160)
変化 と 不変@
私たちが進歩と呼ぶものは、ただ不快から快適への変化にすぎない。
しかし、変化そのものが不変へと私たちを導くことはできない。
なぜなら、何であれはじまりがあることには終わりがあるからだ。(p160)
実在 と はじまり
実在にははじまりはない。
ただ、それ自身をはじまりなく終わりなく、遍在し、万能で、不動のなかの
発動力であり、永遠に不変なるものとして顕現するのだ。(p160)
自己 と 個人
人格(ヴィヤクティ)は想像の産物にすぎない。
自己(ヴィヤクタ)はこの想像の犠牲となっている。
あなたではないものを、あなた自身と見なすことが束縛するのだ。
個人はそれ自体で独自に存在できない。
個人というものが在ると信じ、個人としての存在を意識しているのは自己な
のだ。
すべての原因なき原因である非顕現(アヴィヤクタ)は、自己(ヴィヤクタ)
の彼方に在る。(p160)
個人 と 真我
個人を真我と再結合するということさえ正しいとは言えない。
なぜなら、個人というものは存在しないからだ。
ただ精神的画像が偽りの実在を与えただけだ。
何も分割されたものはなく、統合すべきものもない。(p160)
真の自己知識
真の自己知識は知識などではない。
それは探求によって、あらゆるところを探すことによって見つけられるよう
な何かではない。
それは時間や空間のなかに見いだすものでもない。
知識とは記憶にすぎない。
思考のパターン、ひとつの精神的習慣にすぎない。
これらすべては喜びと苦痛によって動機づけられている。
あなたが知識を追求するのは喜びと苦痛によって駆りたてられているからだ。
自分自身であるということは、すべての動機を完全に超えている。
あなたは、何かの理由からあなた自身になることはできない。
あなたはあなた自身なのだ。
そしてそれには何の理由も必要ない。(p160-161)
自己知識B
真の自己知識は知識などではない。
それは探求によって、あらゆるところを探すことによって見つけられるよう
な何かではない。
それは時間や空間のなかに見いだすものでもない。
知識とは記憶にすぎない。
思考のパターン、ひとつの精神的習慣にすぎない。
これらすべては喜びと苦痛によって動機づけられている。
あなたが知識を追求するのは喜びと苦痛によって駆りたてられているからだ。
自分自身であるということは、すべての動機を完全に超えている。
あなたは、何かの理由からあなた自身になることはできない。
あなたはあなた自身なのだ。
そしてそれには何の理由も必要ない。(p160-161)
知識を追求する
知識とは記憶にすぎない。
思考のパターン、ひとつの精神的習慣にすぎない。
これらすべては喜びと苦痛によって動機づけられている。
あなたが知識を追求するのは喜びと苦痛によって駆りたてられているからだ。
自分自身であるということは、すべての動機を完全に超えている。
あなたは、何かの理由からあなた自身になることはできない。
あなたはあなた自身なのだ。
そしてそれには何の理由も必要ない。(p161)
自分自身 と 動機
自分自身であるということは、すべての動機を完全に超えている。
あなたは、何かの理由からあなた自身になることはできない。
あなたはあなた自身なのだ。
そしてそれには何の理由も必要ない。(p161)
本による知識
あなたは自分自身の体験から話しているのか、それともただ本からだろうか?
あなたの本による知識は、初歩の段階では有用だ。
だが、じきに直接体験のために捨て去らなければならなくなる。
その体験はその本性からして表現不可能なものなのだ。(p161)
言語的思考によって
平和があなたを離れて存在するだろうか?
あなたは自分自身の体験から話しているのか、それともただ本からだろうか?
あなたの本による知識は、初歩の段階では有用だ。
だが、じきに直接体験のために捨て去らなければならなくなる。
その体験はその本性からして表現不可能なものなのだ。
言葉は破壊のためにも用いられる。
言葉のイメージが構築され、言葉によってそれは破壊される。
あなたは言語的思考によって現在の状態に陥った。
あなたは同じ道を通って脱出しなければならないのだ。(p161)
同じ道を通って
平和があなたを離れて存在するだろうか?
あなたは自分自身の体験から話しているのか、それともただ本からだろうか?
あなたの本による知識は、初歩の段階では有用だ。
だが、じきに直接体験のために捨て去らなければならなくなる。
その体験はその本性からして表現不可能なものなのだ。
言葉は破壊のためにも用いられる。
言葉のイメージが構築され、言葉によってそれは破壊される。
あなたは言語的思考によって現在の状態に陥った。
あなたは同じ道を通って脱出しなければならないのだ。(p161)
真の平和
到達されたものはふたたび失われるかもしれない。
ただ、あなたがけっして失うことのなかった真の平和を実現したときだけ、
その平和はあなたとともに残るだろう。
それは一度も去ったことはなかったのだ。
あなたのもっていないものを探すよりも、あなたがけっして失わなかったも
のとは何かを見つけなさい。
すべてのはじまる以前、すべての終わった後に存在するもの、不死、不生の
ものだ。
身体やマインドの生死に影響されない、不動なる状態、あなたはそれを知覚
しなければならない。(p161)
動機が道を阻んでいる
生のなかでは障害を乗り越えずに得ることのできるものはない。
真我の明確な知覚を妨げるのは、快楽への欲望と苦痛への恐れなのだ。
快楽、苦痛という動機が道を阻(はば)んでいる。
すべての動機から自由で、何の欲望も立ち現れない状態が自然な状態なのだ。(p161)
自然な状態D
生のなかでは障害を乗り越えずに得ることのできるものはない。
真我の明確な知覚を妨げるのは、快楽への欲望と苦痛への恐れなのだ。
快楽、苦痛という動機が道を阻(はば)んでいる。
すべての動機から自由で、何の欲望も立ち現れない状態が自然な状態なのだ。(p161)
何百万年もが
もしあなたが時間にまかせるならば、何百万年もが必要になろう。
欲望をひとつひとつあきらめていくことは、果てしない過程となる。
欲望と恐れは捨て置き、欲望と恐れの背後にある主体に注意を向けなさい。
「誰が望んでいるのか?」と問いただしなさい。
欲望が起こるたびに、あなた自身へ注意を戻しなさい。(p161)
「誰が望んでいるのか?」
もしあなたが時間にまかせるならば、何百万年もが必要になろう。
欲望をひとつひとつあきらめていくことは、果てしない過程となる。
欲望と恐れは捨て置き、欲望と恐れの背後にある主体に注意を向けなさい。
「誰が望んでいるのか?」と問いただしなさい。
欲望が起こるたびに、あなた自身へ注意を戻しなさい。(p161)
精神的快楽
あなたが望む幸福はただの身体的、あるいは精神的満足にすぎない。
そのような感覚的、あるいは精神的快楽は真の、絶対の幸福ではない。
それらはその根を想像のなかにもっているのだ。
石をもらい、それが非常に貴重なダイヤモンドだと確信させられた人は、そ
れが間違いだったと悟るまではひどく喜ぶことだろう。
同様に、真我が知られたとき、快楽はその味を失い、苦痛はその刺を失う。
どちらもあるがままに、条件づけの感応、ただの反応、好感と反感、記憶と
先入観に基づいたものとして見られるのだ。
普通、快楽と苦痛は期待されたとき体験するものだ。
それはすべて習得された習慣と確信の問題だ。(p162)
苦痛と快楽B
苦痛と快楽はともに手を携えていくものだ。
一方からの自由はその両方からの自由を意味する。
もし快楽を気にかけなければ、苦痛を恐れることはないだろう。
だが、そのどちらでもなく、両方を完全に超えている幸福がある。
あなたの知っている幸福は、表現可能で予測できる、言ってみれば客観的な
ものだ。
しかし、客観的なものは、あなたのものではありえない。
外的なものと自己を同一視することは悲惨な過ちだ。
異なったレベルのものを混同しても、どこにも到達しない。
実在は主観、客観を超え、すべてのレベル、あらゆる区別を超えている。
もっとも明確なことは、実在は苦痛と快楽の源泉でも、原因でも、根源でも
ないということだ。
それらは存在と非存在を超えた表現不可能な実在そのものからではなく、実
在についての無知からやってくるのだ。(p162)
悲惨な過ち@
あなたの知っている幸福は、表現可能で予測できる、言ってみれば客観的な
ものだ。
しかし、客観的なものは、あなたのものではありえない。
外的なものと自己を同一視することは悲惨な過ちだ。
異なったレベルのものを混同しても、どこにも到達しない。
実在は主観、客観を超え、すべてのレベル、あらゆる区別を超えている。
もっとも明確なことは、実在は苦痛と快楽の源泉でも、原因でも、根源でも
ないということだ。
それらは存在と非存在を超えた表現不可能な実在そのものからではなく、実
在についての無知からやってくるのだ。(p162)
無知からやってくる
苦痛と快楽はともに手を携えていくものだ。
一方からの自由はその両方からの自由を意味する。
もし快楽を気にかけなければ、苦痛を恐れることはないだろう。
だが、そのどちらでもなく、両方を完全に超えている幸福がある。
あなたの知っている幸福は、表現可能で予測できる、言ってみれば客観的な
ものだ。
しかし、客観的なものは、あなたのものではありえない。
外的なものと自己を同一視することは悲惨な過ちだ。
異なったレベルのものを混同しても、どこにも到達しない。
実在は主観、客観を超え、すべてのレベル、あらゆる区別を超えている。
もっとも明確なことは、実在は苦痛と快楽の源泉でも、原因でも、根源でも
ないということだ。
それらは存在と非存在を超えた表現不可能な実在そのものからではなく、実
在についての無知からやってくるのだ。(p162)
何もほかのものを
もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望は
かならず満たされるだろう。
しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当にほかに何も求めては
ならないのだ。
もしあなたがほかに多くのものごとを求め、それらの追求に関わっていたな
ら、あなたがより懸命になり、矛盾した衝動に引き裂かれることをやめるま
で、本来の目的は先延ばしにされるだろう。
内側に入っていきなさい。
けっしてそれることなく、けっして外側を見ることなく。(p162)
本来の目的
もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望は
かならず満たされるだろう。
しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当にほかに何も求めては
ならないのだ。
もしあなたがほかに多くのものごとを求め、それらの追求に関わっていたな
ら、あなたがより懸命になり、矛盾した衝動に引き裂かれることをやめるま
で、本来の目的は先延ばしにされるだろう。
内側に入っていきなさい。
けっしてそれることなく、けっして外側を見ることなく。(p162)
先延ばしにされる
もしあなたが何もほかのものを求めなければ、自己を見いだすという欲望は
かならず満たされるだろう。
しかし、あなたは自分に正直でなければならず、本当にほかに何も求めては
ならないのだ。
もしあなたがほかに多くのものごとを求め、それらの追求に関わっていたな
ら、あなたがより懸命になり、矛盾した衝動に引き裂かれることをやめるま
で、本来の目的は先延ばしにされるだろう。
内側に入っていきなさい。
けっしてそれることなく、けっして外側を見ることなく。(p162)
欲望と恐れの根
それら(欲望と恐れ)はあなたの記憶以外のどこにあろう?
それら(欲望と恐れ)の根は記憶から生じた期待のなかにあるのだと悟り
なさい。
そうすれば、それらがあなたにつきまとうことはないだろう。(p162-163)
着手した仕事
何であれ、あなたが着手した仕事を完成させなさい。
状況が明らかに苦しみと苦しみからの救済を求めるかぎりは、新しい仕事に
手を着けてはならない。
まずあなた自身を見いだしなさい。
そうすれば、かぎりない祝福が続くだろう。(p163)
新しい仕事
何であれ、あなたが着手した仕事を完成させなさい。
状況が明らかに苦しみと苦しみからの救済を求めるかぎりは、新しい仕事に
手を着けてはならない。
まずあなた自身を見いだしなさい。
そうすれば、かぎりない祝福が続くだろう。(p163)
非暴力的な人
利益を放棄することほど世界に利益をもたらすことはない。
もはや損得でものごとを考えない人は、真に非暴力的な人だ。
なぜなら、彼はすべての葛藤(かっとう)を超えているからだ。(p163)
アヒンサー(非暴力)
本来、アヒンサー(非暴力)は「傷つけてはならない」という意味だ。
善を行うことがはじめに来るのではなく、傷つけるのをやめ、苦しみを加え
ないということなのだ。
他者を喜ばせることがアヒンサーなのではない。(p163)
非暴力(アヒンサー)
本来、アヒンサー(非暴力)は「傷つけてはならない」という意味だ。
善を行うことがはじめに来るのではなく、傷つけるのをやめ、苦しみを加え
ないということなのだ。
他者を喜ばせることがアヒンサー(非暴力)なのではない。(p163)
他者を助ける話
与える価値のある唯一の助けとは、さらなる助けの必要性からの自由にある。
繰り返される援助は、まったく助けになっていない。
他者が援助の必要性を超える地点にあなたが連れていくまでは、他者を助け
る話はしない方がいい。(p163)
すべての存在
すべての存在は分離と限界のなかにあり、苦痛に満ちていると理解したとき、
そして、あなたが純粋な存在として、すべての生命と「ひとつであること」
のなかに完成されて生きようとする意志をもったとき、あなたはすべての助
けの必要性を超えたのだ。(p163)
助けの必要性
すべての存在は分離と限界のなかにあり、苦痛に満ちていると理解したとき、
そして、あなたが純粋な存在として、すべての生命と「ひとつであること」
のなかに完成されて生きようとする意志をもったとき、あなたはすべての助
けの必要性を超えたのだ。
あなたは規範と実例によって、とりわけあなたの存在によって、他者を助け
ることができる。
あなたがもっていないものを与えることはできないし、あなたは、あなたで
ないものはもっていないのだ。
あなたであるものしか与えることはできない。
そしてそれは、あなたがかぎりなく与えられるものなのだ。(p163)
助けるA
すべての存在は分離と限界のなかにあり、苦痛に満ちていると理解したとき、
そして、あなたが純粋な存在として、すべての生命と「ひとつであること」
のなかに完成されて生きようとする意志をもったとき、あなたはすべての助
けの必要性を超えたのだ。
あなたは規範と実例によって、とりわけあなたの存在によって、他者を助け
ることができる。
あなたがもっていないものを与えることはできないし、あなたは、あなたで
ないものはもっていないのだ。
あなたであるものしか与えることはできない。
そしてそれは、あなたがかぎりなく与えられるものなのだ。(p163)
存在は苦痛に満ちている
(すべての存在は苦痛に満ちているというのは本当か、というなら)
この世界的な快楽の探求の原因が、何かほかにあるだろうか?
幸せな人が幸せを探すだろうか?
なんと人びとは落ち着かないのだろう!
なんとつねに動きまわっているのだろうか!
彼らは苦痛のなかにいるから快楽のなかに解放を探しているのだ。
彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ。(p163-164)
世界的な快楽の探求
(すべての存在は苦痛に満ちているというのは本当か、というなら)
この世界的な快楽の探求の原因が、何かほかにあるだろうか?
幸せな人が幸せを探すだろうか?
なんと人びとは落ち着かないのだろう!
なんとつねに動きまわっているのだろうか!
彼らは苦痛のなかにいるから快楽のなかに解放を探しているのだ。
彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ。(p163-164)
快楽の探求の原因
(すべての存在は苦痛に満ちているというのは本当か、というなら)
この世界的な快楽の探求の原因が、何かほかにあるだろうか?
幸せな人が幸せを探すだろうか?
なんと人びとは落ち着かないのだろう!
なんとつねに動きまわっているのだろうか!
彼らは苦痛のなかにいるから快楽のなかに解放を探しているのだ。
彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ。(p163-164)
幸せな人が幸せを
(すべての存在は苦痛に満ちているというのは本当か、というなら)
この世界的な快楽の探求の原因が、何かほかにあるだろうか?
幸せな人が幸せを探すだろうか?
なんと人びとは落ち着かないのだろう!
なんとつねに動きまわっているのだろうか!
彼らは苦痛のなかにいるから快楽のなかに解放を探しているのだ。
彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ。(p163-164)
快楽の保証
(すべての存在は苦痛に満ちているというのは本当か、というなら)
この世界的な快楽の探求の原因が、何かほかにあるだろうか?
幸せな人が幸せを探すだろうか?
なんと人びとは落ち着かないのだろう!
なんとつねに動きまわっているのだろうか!
彼らは苦痛のなかにいるから快楽のなかに解放を探しているのだ。
彼らが想像できうる幸福のすべてとは、繰り返される快楽の保証なのだ。(p163-164)
個人 と 幸福
(個人が幸福になれないのなら、どうすればいいのかというなら)
現在のあなたとしての在り方をやめるだけだ。
私の言うことは何も残酷なことではない。
悪夢から人を目覚めさすことは慈悲だ。
あなたは苦痛で苦しんでいるために、ここに来たのだ。
そして、私が言えることは、「目覚めなさい。あなた自身を知りなさい。あ
なた自身で在りなさい」ということだけだ。(p164)
目覚めなさい
(個人が幸福になれないのなら、どうすればいいのかというなら)
現在のあなたとしての在り方をやめるだけだ。
私の言うことは何も残酷なことではない。
悪夢から人を目覚めさすことは慈悲だ。
あなたは苦痛で苦しんでいるために、ここに来たのだ。
そして、私が言えることは、「目覚めなさい。あなた自身を知りなさい。あ
なた自身で在りなさい」ということだけだ。(p164)
苦痛の終焉(しゅうえん)
苦痛の終焉は快楽のなかにはない。
あなたが自分を苦痛も快楽も超えたものだと、超然として屈することなく気
づくとき、幸福を追求することはやみ、結果として悲しみも消え去る。
なぜなら、苦痛は快楽のあとを追い、快楽は容赦なく苦痛に終わるからだ。(p164)
不幸からの自由
(究極の状態には幸福もありえないのか、というなら)
不幸もまたありえない。
ただ自由だけがある。
幸福は何かに依存し、やがて消え去る。
すべてからの自由は何にも依存せず、失われることはない。
不幸からの自由には原因がなく、それゆえ破壊されない。
その自由を実現しなさい。(p164)
終わりなき快楽
誕生と死は、意識内の一連の出来事のはじまりと終わりにすぎない。
分離と限界という観念のために、それらは苦痛となるのだ。
苦痛からの一時的な解放を、私たちは快楽と呼ぶ。
そして、いわゆる幸福と呼ばれる終わりなき快楽を期待して、私たちは空中
に城を築くのだ。
それはみな誤解であり、誤用だ。
目を覚ましなさい。
それらを超えていきなさい。
真に生きはじめなさい。(p164)
観察可能なもの
自己は知識と力の両方の源であり、またそれらを超えている。
観察可能なものはマインドのなかにある。
自己の本性は純粋な気づき、純粋な観照であり、知識の存在や不在に影響さ
れることはない。(p164)
自己の本性
自己は知識と力の両方の源であり、またそれらを超えている。
観察可能なものはマインドのなかにある。
自己の本性は純粋な気づき、純粋な観照であり、知識の存在や不在に影響さ
れることはない。(p164)
個人ではない
自己は知識と力の両方の源であり、またそれらを超えている。
観察可能なものはマインドのなかにある。
自己の本性は純粋な気づき、純粋な観照であり、知識の存在や不在に影響さ
れることはない。
この身体の誕生と死の外に、あなたの存在を置きなさい。
そうすれば、あなたの問題は解決するだろう。
それらの問題が存在するのは、あなたは死ぬために生まれてきたと信じてい
るからだ。
迷いから覚め、自由になりなさい。
あなたは個人ではないのだ。(p164-165)
真我実現の第一条件
(欲望とその傾向からの自由というのが真我実現の第一条件のようだが、そ
れを満たすのは不可能に見える、というなら)
満たさなければならない条件などない。
するべきこともなければ、あきらめることもない。
ただ見て、そして覚えておきなさい。
何であれあなたが知覚するものは、あなたでも、あなたのものでもないのだ。
それは意識の領域内に在る。
だが、あなたは領域でも、その内容でも、領域を知る者でさえない。
何かをしなければならないという観念が、努力の結果のなかへとあなたを巻
き込むのだ。
動機、欲望、目標達成の失敗、挫折感……これらすべてがあなたを引き止め
る。
何が起ころうと、だた見守りなさい。
そしてあなたはそれを超えて在る、ということを知りなさい。(p165)
条件などない
満たさなければならない条件などない。
するべきこともなければ、あきらめることもない。
ただ見て、そして覚えておきなさい。
何であれあなたが知覚するものは、あなたでも、あなたのもので
もないのだ。
それは意識の領域内に在る。
だが、あなたは領域でも、その内容でも、領域を知る者でさえな
い。
何かをしなければならないという観念が、努力の結果のなかへと
あなたを巻き込むのだ。
動機、欲望、目標達成の失敗、挫折感……これらすべてがあなた
を引き止める。
何が起ころうと、だた見守りなさい。
そしてあなたはそれを超えて在る、ということを知りなさい。(p165)
知覚するもの
何であれあなたが知覚するものは、あなたでも、あなたのものでもないのだ。
それは意識の領域内に在る。
だが、あなたは領域でも、その内容でも、領域を知る者でさえない。
何かをしなければならないという観念が、努力の結果のなかへとあなたを巻
き込むのだ。
動機、欲望、目標達成の失敗、挫折感……これらすべてがあなたを引き止め
る。
何が起ころうと、だた見守りなさい。
そしてあなたはそれを超えて在る、ということを知りなさい。(p165)
何かをしなければならない
何であれあなたが知覚するものは、あなたでも、あなたのものでもないのだ。
それは意識の領域内に在る。
だが、あなたは領域でも、その内容でも、領域を知る者でさえない。
何かをしなければならないという観念が、努力の結果のなかへとあなたを巻
き込むのだ。
動機、欲望、目標達成の失敗、挫折感……これらすべてがあなたを引き止め
る。
何が起ころうと、だた見守りなさい。
そしてあなたはそれを超えて在る、ということを知りなさい。(p165)
超えて在る
満たさなければならない条件などない。
するべきこともなければ、あきらめることもない。
ただ見て、そして覚えておきなさい。
何であれあなたが知覚するものは、あなたでも、あなたのもので
もないのだ。
それは意識の領域内に在る。
だが、あなたは領域でも、その内容でも、領域を知る者でさえな
い。
何かをしなければならないという観念が、努力の結果のなかへと
あなたを巻き込むのだ。
動機、欲望、目標達成の失敗、挫折感……これらすべてがあなた
を引き止める。
何が起ころうと、だた見守りなさい。
そしてあなたはそれを超えて在る、ということを知りなさい。(p165)
何かをすること
(私は何かをすることを慎むべきなのか、というなら)
それはあなたにはできない!
何であれ起こっていることは、続いていかなければならない。
もし突然あなたが止まったら、衝突してしまうだろう。(p165)
精神的レベル
精神的レベルのなかに真我を探し求めるのは不毛なことだ。
探求をやめなさい。
そして見なさい。
それは今ここに在る。
あなたも承知のように、それは「私は在る」なのだ。
あなたがすべきことは、自分自身を意識の領域内に在るものと見なすことを
やめることだけだ。
この問題についてあなたが熟考しないかぎり、私から一度聞いただけではだ
めだろう。
過去の体験や達成を忘れ、人生の雨風に裸でさらされて立つがいい。
そうすれば、あなたにもチャンスがあるだろう。(p166)
精神的レベル
精神的レベルのなかに真我を探し求めるのは不毛なことだ。
探求をやめなさい。
そして見なさい。
それは今ここに在る。
あなたも承知のように、それは「私は在る」なのだ。
あなたがすべきことは、自分自身を意識の領域内に在るものと見なすことを
やめることだけだ。(p166)
あなたがすべきこと
精神的レベルのなかに真我を探し求めるのは不毛なことだ。
探求をやめなさい。
そして見なさい。
それは今ここに在る。
あなたも承知のように、それは「私は在る」なのだ。
あなたがすべきことは、自分自身を意識の領域内に在るものと見なすことを
やめることだけだ。(p166)
意識の領域内に在るもの
精神的レベルのなかに真我を探し求めるのは不毛なことだ。
探求をやめなさい。
そして見なさい。
それは今ここに在る。
あなたも承知のように、それは「私は在る」なのだ。
あなたがすべきことは、自分自身を意識の領域内に在るものと見なすことを
やめることだけだ。(p166)
医師ではない
身体がすぐれないとき、あなたは病名と治療法を告げてくれる医者のもとへ
行くだろう。
もしあなたが医者に信頼を置いているならば、順調にいく。
薬を受け取り、食事制限にしたがって良くなることだろう。
だが、あなたが彼を信頼しないときは、それでもやってみるかもしれない、
あるいは自分で医学の勉強をするかもしれない。
どちらにしても、回復への欲望があなたを突き動かすのだ。
医師ではない。(p166)
信頼なしに
信頼なしに平和はない。
つねに誰かしらにあなたは信頼を置く。
母親か妻かもしれないが。
あらゆる人のなかで、真我を悟った人がもっとも信頼に足る人だ。
だが、ただの信頼では充分ではない。
あなたは強く望まなければならない。
自由への欲望なくして、自由を獲得できるという確信が何の役に立つという
のか?(p166)
熱心さと真剣さ
欲望と確信はともに手と手を取り合って行かねばならない。
欲望が強いほど、助けは難なくやってくる。
最も偉大なグルも、弟子が学ぶことに熱心でなければ、まったく無力となる。
熱心さと真剣さが重要なことのすべてだ。
自信は体験とともにやってくるだろう。
あなたが目的に対して献身的であれば、あなたを導く人への献身もそれにし
たがってくるだろう。
もし欲望と自信が強ければ、それらが作用し、あなたをゴールへ導くだろう。
なぜならためらいや妥協による先送りをしないからだ。(p166)
先送りをしない
欲望と確信はともに手と手を取り合って行かねばならない。
欲望が強いほど、助けは難なくやってくる。
最も偉大なグルも、弟子が学ぶことに熱心でなければ、まったく無力となる。
熱心さと真剣さが重要なことのすべてだ。
自信は体験とともにやってくるだろう。
あなたが目的に対して献身的であれば、あなたを導く人への献身もそれにし
たがってくるだろう。
もし欲望と自信が強ければ、それらが作用し、あなたをゴールへ導くだろう。
なぜならためらいや妥協による先送りをしないからだ。(p166)
最も偉大なグル
あなたの内なる真我が最も偉大なグルだ。
本当に、彼が至高の師なのだ。
彼だけがあなたを導くことができる。
道の終にあなたが出会うのも彼だけだ。
彼を信頼しなさい。
そうすれば外側のグルは必要ない。
しかしまた、彼を見いだすための強い欲望をもたねばならず、障害や遅れを
つくり出すことを何もしてはならない。
そして、後悔することにエネルギーと時間を浪費してはならない。
過ちから学び、それらを繰り返してはならない。(p166-167)
暴力的な世界で
(あなたはレイヨーの皮の上に座っているが、それが非暴力と一致するのか、
というなら)
私は人びとの健康を害する手助けをするタバコ職人として今まで働いてきた。
その上、市の自治体は、私の家の前に公共のトイレを設けて、私の健康を害
している。
この暴力的な世界でなんらかの類(たぐい)の暴力をどうやって避けること
ができようか?(p167)
ヨーギのレイヨーの皮
(避けられる暴力はすべて避けるべきだが、インドではすべての聖者は虎や
ライオンやヒョウやレイヨーといった皮の上に座っている、というなら)
昔はビニールがなく、皮が湿気を防ぐのに最適だったのだろう。
関節炎は聖者にとってもやっかいなものだ。
このように、長時間の瞑想には皮が用いられたのだ。
ヨーギのレイヨーの皮は、寺院の太鼓の皮のようなものなのだ。
私たちは気にかけることもない。(p167)
最大の損害
真我を忘れることは最大の損害だ。
すべての災はそこからやってくる。
最も重要なことの面倒を見なさい。
それ以下のことはそれ自体が世話をするだろう。
あなたは暗い部屋を片づけたりはしない。
まず、窓を開ける。
光をもたらすことがすべてを容易にするのだ。
自分をあるがままに見ることで自分自身が変わるまでは、他者を改善するこ
とは待とうではないか。
かぎりない質問で堂々巡りをする必要はない。
あなた自身を見つけなさい。
そうすれば、すべては正しい場所に落ち着くだろう。(p167)
他者を改善する
真我を忘れることは最大の損害だ。
すべての災はそこからやってくる。
最も重要なことの面倒を見なさい。
それ以下のことはそれ自体が世話をするだろう。
あなたは暗い部屋を片づけたりはしない。
まず、窓を開ける。
光をもたらすことがすべてを容易にするのだ。
自分をあるがままに見ることで自分自身が変わるまでは、他者を改善するこ
とは待とうではないか。(p167)
外向性 と 内向性
(源へ帰り着こうとする衝動はたいへんまれなこと、それは一体全体自然な
ことなのか、というなら)
はじめのうちは外向性が自然だが、最後には内向性が自然となる。
しかし、息を吸うことと吐くことがひとつであるように、実在においてそれ
らはひとつなのだ。(p167)
身体に宿るもの
(外向性と内向性が実在においてひとつであるなら、身体と身体に宿るもの
もひとつではないのか、というなら)
時間と空間のなかの出来事、誕生と死、原因と結果――これらはひとつであ
ると見なされるだろう。
だが、身体と身体に宿るものは同じ実在の理法上にはないのだ。
身体は時間と空間のなかに存在する。
はかなく、かぎりあるものだ。
一方、身体に宿るものは時間と空間を超え、永遠で、普遍のものだ。
この二つを同一視することは悲惨な過ちであり、果てしない苦しみの原因だ。
マインドと身体がひとつだと言うことはできる。
だが、「身体―精神」は実在の基礎をなすものではないのだ。(p168)
とても楽なのだ
(それが誰であれ、身体に宿るものが身体をコントロールし、身体に責任が
あるはずだ、というなら)
普遍的力がコントロールをし、責任をもっているのだ。
(では、何でも好きなことをして、普遍的な力に避難を浴びせればいいのか、
なんと楽なことだろう、というなら)
そうだ。
とても楽なのだ。
すべての動きを司るものの存在を悟り、彼にすべてをまかせなさい。
もしあなたがためらわず、ごまかすこともなければ、これが真我の実現への
最短の道だ。
欲望と恐れなしにすべてのコントロールと責任を放棄しなさい。(p168)
最短の道
(それが誰であれ、身体に宿るものが身体をコントロールし、身体に責任が
あるはずだ、というなら)
普遍的力がコントロールをし、責任をもっているのだ。
(では、何でも好きなことをして、普遍的な力に避難を浴びせればいいのか、
なんと楽なことだろう、というなら)
そうだ。
とても楽なのだ。
すべての動きを司るものの存在を悟り、彼にすべてをまかせなさい。
もしあなたがためらわず、ごまかすこともなければ、これが真我の実現への
最短の道だ。
欲望と恐れなしにすべてのコントロールと責任を放棄しなさい。(p168)
責任を放棄しなさい
(それが誰であれ、身体に宿るものが身体をコントロールし、身体に責任が
あるはずだ、というなら)
普遍的力がコントロールをし、責任をもっているのだ。
(では、何でも好きなことをして、普遍的な力に避難を浴びせればいいのか、
なんと楽なことだろう、というなら)
そうだ。
とても楽なのだ。
すべての動きを司るものの存在を悟り、彼にすべてをまかせなさい。
もしあなたがためらわず、ごまかすこともなければ、これが真我の実現への
最短の道だ。
欲望と恐れなしにすべてのコントロールと責任を放棄しなさい。(p168)
狂気の沙汰
(すべての責任を放棄しろとは、何という狂気の沙汰だろう、というなら)
そうだ。
神聖な狂気だ。
ただの幻想である個人的コントロールと、個人的責任を放棄することの何が
悪いのだろうか?
どちらもマインドのなかにあるだけだ。
もちろん、あなたがコントロールを握っていると想像するかぎりは、あなた
に責任があると想像するべきだ。
その逆もまたしかりだ。(p168)
神聖な狂気
(すべての責任を放棄しろとは、何という狂気の沙汰だろう、というなら)
そうだ。
神聖な狂気だ。
ただの幻想である個人的コントロールと、個人的責任を放棄することの何が
悪いのだろうか?
どちらもマインドのなかにあるだけだ。
もちろん、あなたがコントロールを握っていると想像するかぎりは、あなた
に責任があると想像するべきだ。
その逆もまたしかりだ。(p168)
個人的責任A
(すべての責任を放棄しろとは、何という狂気の沙汰だろう、というなら)
そうだ。
神聖な狂気だ。
ただの幻想である個人的コントロールと、個人的責任を放棄することの何が
悪いのだろうか?
どちらもマインドのなかにあるだけだ。
もちろん、あなたがコントロールを握っていると想像するかぎりは、あなた
に責任があると想像するべきだ。
その逆もまたしかりだ。(p168)
普遍 と 特定
(普遍なるものが、どうして特定のものの責任をもてるのか、というなら)
地上のすべての生命は太陽に依存している。
それが究極の原因だとしても、地上で起こることのすべてに関して太陽を非
難することはできない。
花の色を表す原因は光にあるが、それはコントロールするわけでも、直接責
任があるわけでもない。
光はそれを可能にする、ただそれだけだ。(p168)
光はそれを可能にする
(普遍なるものが、どうして特定のものの責任をもてるのか、というなら)
地上のすべての生命は太陽に依存している。
それが究極の原因だとしても、地上で起こることのすべてに関して太陽を非
難することはできない。
花の色を表す原因は光にあるが、それはコントロールするわけでも、直接責
任があるわけでもない。
光はそれを可能にする、ただそれだけだ。(p168)
自由@
私は自由だ、と言うとき、私はただ事実を告げているだけなのだ。
もしあなたが大人なら、あなたは幼児であることから自由だ。
私はすべての自己同一から自由なのだ。
何であれあなたが見、聞き、考えるもの、それは私ではない。
私は知覚の対象、あるいは観念としての存在から自由なのだ。(p170)
私ではない
私は自由だ、と言うとき、私はただ事実を告げているだけなのだ。
もしあなたが大人なら、あなたは幼児であることから自由だ。
私はすべての自己同一から自由なのだ。
何であれあなたが見、聞き、考えるもの、それは私ではない。
私は知覚の対象、あるいは観念としての存在から自由なのだ。(p170)
誕生 と 死@
繰り返そう。
私は今までも、現在も、これからも身体ではない。
私にとってはこれが事実なのだ。
私もまた、生まれてきたという幻想のもとにいた。
だが私のグルが、誕生と死はただの観念だということを私に見せてくれたの
だ。
誕生は「私は身体だ」というただの観念であり、死は「私は身体を失った」
という観念なのだ。
今、私が身体でないと知ったとき、身体がそこにあろうと、なかろうと、い
ったいどんな違いがあるというのだろうか?
「身体―精神」は部屋のようなものだ。
それはそこにある。
しかし、いつもそこに住む必要はないのだ。(p170)
誕生と死は観念
繰り返そう。
私は今までも、現在も、これからも身体ではない。
私にとってはこれが事実なのだ。
私もまた、生まれてきたという幻想のもとにいた。
だが私のグルが、誕生と死はただの観念だということを私に見せてくれたの
だ。
誕生は「私は身体だ」というただの観念であり、死は「私は身体を失った」
という観念なのだ。
今、私が身体でないと知ったとき、身体がそこにあろうと、なかろうと、い
ったいどんな違いがあるというのだろうか?
「身体―精神」は部屋のようなものだ。
それはそこにある。
しかし、いつもそこに住む必要はないのだ。(p170)
不安@
なぜそんなにあなたは不安なのだろうか?
なぜなら、あなたは自分が身体だと考えているからだ。
あなたはそれが不滅であってほしい。
適切な修練によって、かなりの時間人生を延ばすことはできる。
だが、究極的にそれが何になるというのか?(p170)
あなた と 証明
あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。
あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさい。
あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。
あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。(p178)
証明@
あなたがあなたを含むすべての証明なのだということを、まず悟るべきだ。
あなたの存在を証明できるものは何もないのだ。
なぜなら、他者の存在もあなたによって確認されなければならないからだ。
あなたは完全に、あなた自身によって在るのだということを覚えておきなさ
い。
あなたはどこからも来なかったし、どこへも行かない。
あなたは時間を超えた存在、そして気づきなのだ。(p178)
隙間
これがあなた自身であるという考えを放棄しなさい。
そうすれば隙間はなくなるだろう。
自分自身を分離していると考えることで、あなたは隙間をつくり出したのだ。
隙間を埋める必要はない。
ただ、隙間をつくらないことだ。
すべてはあなたであり、あなたのものなのだ。
そこにはほかに誰もいない。
これが事実なのだ。(p178)
洗脳 と ヨーガ
問題はあなた自身についてあなたが持っている考えなのだ。
なぜなら、それがあなたを妨げているからだ。
それを捨て去りなさい。
あなたは洗脳と呼び、私は轍を平らにするためのヨーガと呼ぶ。
何度も同じ思考を思いめぐらすように強(し)いられてはならない。
進みなさい。
子どもみたいなことを言ってはならない。
苦しむより変えることのほうが易しいのだ。
幼稚さから脱却しなさい。
それだけだ。(p178)
用意 と 成熟
すべてはつねに起こっている。
だが、あなたはそれに用意ができていなければならない。
用意のできていることが成熟なのだ。
あなたが真理を見ないのは、マインドに用意ができていないからだ。(p179)
用意 と 恐れ
用意ができていないのは、恐れているからだ。
あなたはあなたが何であるかを恐れている。
全体性があなたの目的地だ。
だがあなたは自己のアイデンティティを失うのが恐い。
これが幼稚さだ。(p179)
用意
用意ができていないのは、恐れているからだ。
あなたはあなたが何であるかを恐れている。
全体性があなたの目的地だ。
だがあなたは自己のアイデンティティを失うのが恐い。
これが幼稚さだ。
あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついているのだ。
すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。
この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。
それ以外何も存在をもってはいないのだ。
これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。(p179)
目的地@
用意ができていないのは、恐れているからだ。
あなたはあなたが何であるかを恐れている。
全体性があなたの目的地だ。
だがあなたは自己のアイデンティティを失うのが恐い。(p179)
自己のアイデンティティ
あなたはあなたが何であるかを恐れている。
全体性があなたの目的地だ。
だがあなたは自己のアイデンティティを失うのが恐い。(p179)
幼稚さ
あなたはあなたが何であるかを恐れている。
全体性があなたの目的地だ。
だがあなたは自己のアイデンティティを失うのが恐い。
これが幼稚さだ。(p179)
おもちゃ
あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついている。
すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。
この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。
それ以外何も存在をもってはいないのだ。
これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。(p179)
絶対の確信
あなたは欲望と恐れ、意見と観念というおもちゃにしがみついている。
すべてをあきらめ、真実がそれ自身を主張できるよう用意をしなさい。
この自己主張は、「私は在る」という言葉にもっともよく表されている。
それ以外何も存在をもってはいないのだ。
これに関しては、あなたは絶対の確信をもてるはずだ。(p179)
動 と 不動
だが、あなたのマインドが動いている。
現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。
あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。
マインドを裏表にひっくり返しなさい。
動を無視しなさい。
そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しか
し岩のように確固たるものとして見いだすだろう。(p179)
動を無視しなさい
だが、あなたのマインドが動いている。
現在のなかで、あなたは動であり不動でもある。
あなたはあなた自身を動と見て、不動を見落としたのだ。
マインドを裏表にひっくり返しなさい。
動を無視しなさい。
そうすれば、あなたはあなた自身を常在で不変の実在、言語を絶する、しか
し岩のように確固たるものとして見いだすだろう。(p179)
不変の実在
(あなた自身を常在で不変の実在である岩のようなものと気づかないのは)
あなたがそれに気づかないという考えに固執しているからだ。
その考えを捨て去りなさい。(p179)
壁の両側
待ちなさい。
あなたは同時に壁の両側にいることを望んでいる。
それはできる。
だが、壁を取り去らなければならないのだ。
あるいは壁とその両側はひとつの単一の空間であり、そこに「ここ」と「そ
こ」という観念は適応しないということを自覚しなさい。(p180)
あなた と 苦痛
苦痛以前にあなたは存在し、苦痛が去った後もあなたは残る。
はかないのは苦痛であり、あなたではない。(p180)
客観意識
存在は意識に浸透し、そして超越する。
客観意識は純粋な意識の一部分であり、それを超えることはないのだ。(p181)
「私は在る」 と マインド
観照者だけが出来事を記録する。
マインドの停止状態では、「私は在る」という感覚さえも消え去る。
マインドなしに「私は在る」はないのだ。(p181)
マインド と 体験
マインドとともにすべての体験は静まる。
マインドなしには体験者も体験もありえない。(p181)
観照者 と 体験
観照者は単に体験の存在と不在を記録するだけだ。
それは、それ自体では体験ではないが、「私は観照者だ」という思いが立ち
現れたとき、それは体験となる。(p181)
沈黙の体験
それ(精神的沈黙の体験)を沈黙、または虚空、あるいは停止とでも呼ぶが
いい。
事実は体験者、体験すること、体験の三つが不在だということだ。
観照のなか、気づきのなかでは、自意識、あれやこれとしての存在の感覚は
ない。
自己同一化されない存在が残るのだ。
それは何とでも関係している。
それは対極のものだ。
それはまた、すべての対極の中間であり、その彼方でもある。
それは意識でも無意識でもなく、その中間でもその二つを超えたものでもな
い。
それはそれ自体で在り、体験やその不在といった何かとの関係はない。
私がそれについて考えたとき、それは体験になるのだ。(p181)
実在 と 意識@
あなたの困難は、実在を意識の状態と考えることから生じるのだ。
あたかも実在が多様な尺度をもった属性か特質かのように、あなたは「これ
は真実で、あれは真実ではない。
そしてこれは部分的に真実で、部分的に偽りだ」と言う傾向がある。(p182)
意識/限定/苦痛
すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。
意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。(p182)
意識 と 欲望
すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。
意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。(p182)
体験への衝動
すべての意識は限定され、そしてそれゆえ苦痛に満ちているのだ。
意識の根底には体験への衝動という欲望が横たわっている。(p182)
至福A
苦痛と快楽の彼方に至福があるのだ。(p182)
意識は重荷
意識は重荷なのだ。
身体とは重荷だ。
感覚、欲望、思考、これらはみな重荷なのだ。
すべての意識は葛藤だ。(p182)
苦痛と快楽@
苦痛と快楽は起こる。
だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。
人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによっ
て傷ついている。
苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。(p182)
値段 と 報酬
苦痛と快楽は起こる。
だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。
人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによっ
て傷ついている。
苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。(p182)
平和@
苦痛と快楽は起こる。
だが、苦痛は快楽の値段であり、快楽は苦痛の報酬なのだ。
人生のなかでも、しばしばあなたは傷つけることで喜び、喜ばすことによっ
て傷ついている。
苦痛と快楽がひとつだと知ることが平和なのだ。(p182)
対極 と 自己同化
意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。
対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。(p182)
意識 と 「私は在る」
意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。
対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。(p182)
自己同一化@
意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。
対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。(p182)
意識の本性@
意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。
対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。(p182)
「私は在る」の本性
意識がそこにあるかぎり、苦痛と快楽は避けられない。
対極のものと自己同一化することが、意識の、「私は在る」の本性なのだ。(p182)
苦痛・快楽・至福
苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。
私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。
苦痛と快楽は、至福の海の波の頂と谷間だ。
その底深くには完全な充足があるのだ。(p183)
至福の海
苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。
私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。
苦痛と快楽は、至福の海の波の頂と谷間だ。
その底深くには完全な充足があるのだ。(p183)
アーナンダ
苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。
私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。
苦痛と快楽は、至福の海の波の頂と谷間だ。
その底深くには完全な充足があるのだ。(p183)
マインドの義務
あなたが習慣をただちに打ち破れないなら、あなたが慣れ親しんできた考え
方に注目し、その偽りを見破りなさい。
習慣を問いただすことはマインドの義務だ。
マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。
あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。
そして外側にとどまりなさい。(p183)
マインドの外側
マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。
あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。
そして外側にとどまりなさい。(p183)
理解 と 誤解@
言葉なしでは、理解する何がそこにあるというのだろうか?
理解する必要は誤解から起こるのだ。(p183)
真実 と 障害
私の言うことは真実でも、あなたにとっては、それはただの理論となってし
まう。
どうすれば、あなたはそれが真実だと知るようになるだろうか?
聞きなさい、覚え、熟考し、視覚化し、体験しなさい。
あなたの日々の生活においてそれを生かしなさい。
私に対して忍耐強くありなさい。
特に自分自身に対して忍耐強くありなさい。
なぜなら、あなたがあなたのただひとつの障害だからだ。
道はあなたを通ってあなたを超えていく。
特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非
二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私
が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。
しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表して
きたことが、あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだとい
うことがわかるだろう。(p183)
道 と あなた
道はあなたを通ってあなたを超えていく。
特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非
二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私
が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。
しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表して
きたことが、あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだとい
うことがわかるだろう。(p183)
非二元性の実在
特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非
二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私
が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。
しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表して
きたことが、あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだとい
うことがわかるだろう。(p183)
抽象的理念
特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非
二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私
が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。
しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表して
きたことが、あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだとい
うことがわかるだろう。(p183)
違いを見ない
私はすでに、あなたが違いを見るとき私は見ないという、とても意味深い手
がかりを与えた。
私にとってはそれで充分だ。
もしあなたがそれで充分ではないと思うならば、私はただ繰り返そう。
それで充分だ。
それについて深く熟考しなさい。
そうすれば、私が見ているものをあなたも見るだろう。(p186)
幻想 と マインド
結局、幻想をつくり出すのはマインドであり、それから自由になるのもマイ
ンドなのだ。(p192)
言葉 と 幻想
言葉は幻想を悪質なものにするかもしれないし、それを追い払う助けをする
かもしれない。
同じ真実の言葉を、それが真実となるまで何度も繰り返すことは何も間違い
ではない。
母の役目は子供の誕生で終わるわけではない。
彼女は来る日も来る日も、何年も子供が彼女を必要としなくなるまで養う。
人は言葉を聞く必要があるのだ。
事実が言葉よりも声高に彼に語りだすまで。(p192)
真実の言葉@
同じ真実の言葉を、それが真実となるまで何度も繰り返すことは何も間違い
ではない。
母の役目は子供の誕生で終わるわけではない。
彼女は来る日も来る日も、何年も子供が彼女を必要としなくなるまで養う。
人は言葉を聞く必要があるのだ。
事実が言葉よりも声高に彼に語りだすまで。(p192)
言葉 と 子供
言葉を重視するかぎり、あなたは子供なのだ。(p192)
常在の事実
何億もの朝露に映しだされる太陽のように、永遠なるものは果てしなく繰り
返される。
私が「私は在る、私は在る」と繰り返すとき、私はただ常在の事実を主張し、
再主張しているだけだ。
あなたは私の言葉にうんざりしてしまう。
それは、あなたはその背後にある、生きた真実を見ないからだ。
それに触れなさい。
そうすれば、言葉とその沈黙の完全な意味を見いだすだろう。(p192)
潜在性 と 現実
潜在性は考えることによって現実になる。
身体とその出来事は、マインドのなかに存在するのだ。(p193)
世界に背を向け
外側の関心事に夢中になることが、内側に焦点を合わせることを妨げている
のだ。
それは救いようがない。
サーダナ(修練)を避けることはできないからだ。
世界に背を向け、内側に向かいなさい。
そうすれば、内と外は溶けあい、あなたは内と外という条件づけを超えるこ
とができる。(p193)
不在性
それ自体で独立した存在はない。
すべてのものはそれ自体の不在性を必要とするのだ。
在ることとは、区別することができるように在るということだ。
そこではなく、ここに在り、その時ではなく、今に在ること。
何かほかのものにではなく、このように在ること。
水が容器によって形づくられるように、すべてのものは条件(グナ)によっ
て決定されるのだ。
容器に関わらず、水が水として残り、光が色をもたらしてもそれ自体は光と
して残るように、実在も、それが反映される条件に関わらず実在としてとど
まる。
なぜ意識の焦点のなかにだけ反映を残そうとするのだろう?
なぜ実在そのものではないのだろうか?(p193)
意識とその内容
意識とその内容はただの反映であり、変化し、はかないものだと知ることが
実在に焦点を当てることになるのだ。
ロープのなかに蛇を見ることを拒否することが、ロープを見ることの必要条
件なのだ。(p193)
ロープ と 蛇
意識とその内容はただの反映であり、変化し、はかないものだと知ることが
実在に焦点を当てることになるのだ。
ロープのなかに蛇を見ることを拒否することが、ロープを見ることの必要条
件なのだ。(p193)
真理 と 観照
ロープが存在すること、そしてそれが蛇に似ていることも知らなければなら
ない。
同じように、真理が存在し、そしてそれが観照意識の本質だと知らなければ
ならない。
もちろん真理は観照の彼方にある。
だが、真理に入っていくには、まず純粋な観照状態を自覚しなければならな
い。
条件づけに気づくことがあなたを無条件な状態に連れていくのだ。(p193)
純粋な観照状態
ロープが存在すること、そしてそれが蛇に似ていることも知らなければなら
ない。
同じように、真理が存在し、そしてそれが観照意識の本質だと知らなければ
ならない。
もちろん真理は観照の彼方にある。
だが、真理に入っていくには、まず純粋な観照状態を自覚しなければならな
い。
条件づけに気づくことがあなたを無条件な状態に連れていくのだ。(p193)
無条件なるもの@
条件づけを条件づけとして知ること、それが無条件なるものについて言える
ことのすべてだ。
肯定的言語は単に示唆するだけであり、かえって迷わせるのだ。(p194)
観照 と 実在
(観照を実在として語ることはできるか?、というなら)
それはできない。
私たちに語ることができるのは、ただ非実在、幻想、一時的なもの、条件づ
けされたものだけだ。
その彼方へと行くには、私たちは独立した存在をもつとされるすべてを完全
否定していかなければならない。
すべてのものごとは依存しているのだ。(p194)
独立した存在@
私たちに語ることができるのは、ただ非実在、幻想、一時的なもの、条件づ
けされたものだけだ。
その彼方へと行くには、私たちは独立した存在をもつとされるすべてを完全
否定していかなければならない。
すべてのものごとは依存しているのだ。(p194)
ものごと
すべてのものごとは依存しているのだ。
(それは)意識に依存する。
そして意識は観照者に依存するのだ。
観照者は実在の純粋な反映だ。
それはマインドの状態に依存する。
明晰(めいせき)性と無執着が支配すると、観照意識が現れる。
それは水が澄んで静かならば、月の影が映るような、あるいはダイヤモンド
のなかで太陽の光線がきらめきを放つようなものだ。(p194)
意識 と 観照者
そして意識は観照者に依存するのだ。
観照者は実在の純粋な反映だ。
それはマインドの状態に依存する。
明晰(めいせき)性と無執着が支配すると、観照意識が現れる。
それは水が澄んで静かならば、月の影が映るような、あるいはダイヤモンド
のなかで太陽の光線がきらめきを放つようなものだ。(p194)
観照意識
観照者は実在の純粋な反映だ。
それはマインドの状態に依存する。
明晰(めいせき)性と無執着が支配すると、観照意識が現れる。
それは水が澄んで静かならば、月の影が映るような、あるいはダイヤモンド
のなかで太陽の光線がきらめきを放つようなものだ。(p194)
無限の能力
無条件なるものなしで、どうして条件づけされたものの知識がありうるだろ
う?
そこには、これらすべてが現れだす源、すべてが存在するための土台がなけ
ればならない。
自己の条件づけの知識、そして条件づけの無限の多様性は、私たちの条件づ
けされることと多様性を起こさせる無限の能力に依存している。
真我の実現とは、根本的にそれに気づくことなのだ。
条件づけされたマインドには、無条件なるものは完全性として現れるか、あ
るいはすべての不在性として現れるのだ。
どちらも直接体験はありえない。
しかし、それが非存在を意味しているわけではないのだ。(p194)
真我の実現A
自己の条件づけの知識、そして条件づけの無限の多様性は、私たちの条件づ
けされることと多様性を起こさせる無限の能力に依存している。
真我の実現とは、根本的にそれに気づくことなのだ。(p194)
無条件なるものA
条件づけされたマインドには、無条件なるものは完全性として現れるか、あ
るいはすべての不在性として現れるのだ。
どちらも直接体験はありえない。
しかし、それが非存在を意味しているわけではないのだ。(p194)
無条件なるものB
健康な身体は注意を呼び起こさない。
同様に体験から自由な無条件なるものもまたそうなのだ。
死の体験をとってみなさい。
普通の人は死を恐れる。
なぜなら、彼は変化を恐れるからだ。
ジニャーニは恐れない。
なぜなら、彼のマインドはすでに死んでいるからだ。
彼は「わたしは生きている」と考えない。
彼は「そこに生命が在る」と知っている。
そこには何の変化もなく、死もない。
死は時間と空間のなかの変化として現れる。
時間も空間もないところに、どうして死がありうるだろう?
ジニャーニは名前と形に対してすでに死んでいる。
時間と空間を失うことがどうして彼に影響を与えるだろうか?(p194)
列車を降りた人
列車に乗った人は、ひとつところからつぎへと旅していく。
だが、列車を降りた人はどこへも行かない。
なぜなら、彼は目的地に縛られないからだ。
彼はどこへも行くところはなく、何もすることはなく、何になることもない。
計画を持つ人は、それを実行するために生まれてくるだろう。
計画を持たない人は生まれてくる必要はない。(p195)
苦痛と快楽A
苦痛と快楽は、誤った知識と誤った感情の結果の単なる兆候にすぎない。
結果がそれ自体の目的をもつことはできない。(p195)
結果 と 目的
苦痛と快楽は、誤った知識と誤った感情の結果の単なる兆候にすぎない。
結果がそれ自体の目的をもつことはできない。(p195)
永遠 と 創造
(あなたが永遠の生として創造された、というなら……)
なぜ未来における永遠であって、過去への永遠ではないのだろうか?
はじまりあるものは終わらなければならない。
はじまりのないものだけが無窮(むきゅう)なのだ。(p195)
過去への永遠
(あなたが永遠の生として創造された、というなら……)
なぜ未来における永遠であって、過去への永遠ではないのだろうか?
はじまりあるものは終わらなければならない。
はじまりのないものだけが無窮(むきゅう)なのだ。(p195)
外側の神
(神が有効な概念だというなら……)
それならば、内なる矛盾から自由になるべきだ。
だが、それは無理だろう。
どうしてあなた自身があなたの創造者であり創造物だという理論を調べない
のだろうか?
少なくともそこには争うべき外側の神はいないだろう。(p195)
自分の力
(こんなにも豊かで複雑な世界を作る力は自分にはない、というなら……)
何ができ、何ができないのかを知るほど、あなたは充分あなた自身を知って
いるだろうか?
あなたは自分の力を知らないのだ。
あなたは一度も調べたことがない。
自分自身とともに、今はじめなさい。(p195)
神がいるならば
私にとっては、あなたがあなた自身の神だ。
だが、あなたが別の考え方をするならば、最後までそう考えるがいい。
もし神がいるならば、すべてが神のものであり、すべては最上の目的のため
にある。
やってくるものは何であれ、喜びと感謝の心をもって歓迎しなさい。
そしてすべての創造物を愛しなさい。
これもまたあなたを真我へと導くだろう。(p196)
空虚なショー
世界は華麗にきらめく空虚なショーだ。
それは在り、しかもそれはない。
私が見たいと欲し、それに参加したいと望むかぎり、それはそこに在る。
私が気にかけるのをやめるとき、それは溶け去る。
それは原因がなく、何の目的にも仕えない。
それは私たちが放心しているときに起こる。
まったく見たとおりに現れはするが、そこには何の深みも意味もない。
ただその傍観者だけが実在なのだ。
彼は真我ともアートマとも呼ばれる。
真我にとって世界は、それが続くかぎり楽しみ、終われば忘れられてしまう、
ただの色鮮やかなショーにすぎない。
何であれ、舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、あるいは
笑い転げさせようと、常に彼はそれがただのショーだと知っている。
欲望や恐れなしに、彼は起こるがままに楽しむのだ。(p196)
強烈な光の点
あなたは私の内的状態が、外的出来事によって形づくられると主張しつづけ
ている。
それはただそうではないのだ。
何が起ころうと、私は変わらないままだ。
私の存在の根底には気づきが、強烈な光の点が在る。
この点がその本性によって輝き、空間のなかには画像を、時間のなかには出
来事を、努力することなく自発的につくり出す。
それを単に気づいているだけならば、問題はない。
しかし、分別心が存在の中に現れ、区別をつくり出すと、苦痛と快楽が立ち
現れる。
眠りの間、マインドは停止しているため、苦痛や快楽も停止している。
創造の過程は継続するが、注目はされない。
マインドは意識のひとつの形であり、意識は生命のひとつの相だ。
生命がすべてをつくり出す。
しかし、至高なるものはすべてを超えた彼方にあるのだ。(p196)
劇 と 世界
劇は作品として書かれ、計画され、稽古されたものだ。
世界はただ無から存在の中へと立ち現れ、無へと帰っていく。(p197)
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