自然な状態C
あなたは自然な状態に戻ったことを、すべての欲望と恐れの完全な不在によ
って自覚するだろう。
結局、すべての欲望と恐れの根本には、あなたがあるがままではないという
感覚があるのだ。
関節がはずれているかぎり、脱臼(だっきゅう)したところが痛むように、
そして関節がはめられたとたん、忘れ去られるように、すべての利己的関心
は、ひとたび正常な状態に戻れば消えてしまう精神的な脱臼の症候なのだ。(p350)
利己的関心
あなたは自然な状態に戻ったことを、すべての欲望と恐れの完全な不在によ
って自覚するだろう。
結局、すべての欲望と恐れの根本には、あなたがあるがままではないという
感覚があるのだ。
関節がはずれているかぎり、脱臼(だっきゅう)したところが痛むように、
そして関節がはめられたとたん、忘れ去られるように、すべての利己的関心
は、ひとたび正常な状態に戻れば消えてしまう精神的な脱臼の症候なのだ。(p350)
精神的な脱臼
あなたは自然な状態に戻ったことを、すべての欲望と恐れの完全な不在によ
って自覚するだろう。
結局、すべての欲望と恐れの根本には、あなたがあるがままではないという
感覚があるのだ。
関節がはずれているかぎり、脱臼(だっきゅう)したところが痛むように、
そして関節がはめられたとたん、忘れ去られるように、すべての利己的関心
は、ひとたび正常な状態に戻れば消えてしまう精神的な脱臼の症候なのだ。(p350)
感覚をつかむ
(自然な状態に達するためのサーダナとは)
「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。
こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新
しい知識とともに振動するのだ。
すべては自発的にやってくる。
ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。
眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは
休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがする
ようになったのか説明ができない。
真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽―苦痛から自由であ
ると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのか
を説明できないのだ。
あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。
「私には、もはや何も間違ったところがない」と。
ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。
そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。
ほかの人たちに伝えようとしてはならない。
もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。
沈黙しなさい。
そして、それは行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。(p350)
完全に沈黙
(自然な状態に達するためのサーダナとは)
「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。
こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新
しい知識とともに振動するのだ。
すべては自発的にやってくる。
ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。
眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは
休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがする
ようになったのか説明ができない。
真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽―苦痛から自由であ
ると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのか
を説明できないのだ。
あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。
「私には、もはや何も間違ったところがない」と。
ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。
そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。
ほかの人たちに伝えようとしてはならない。
もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。
沈黙しなさい。
そして、それは行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。(p350)
「私は在る」という感覚
「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。
こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新
しい知識とともに振動するのだ。
すべては自発的にやってくる。
ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。
眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは
休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがする
ようになったのか説明ができない。
真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽―苦痛から自由であ
ると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのか
を説明できないのだ。
あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。
「私には、もはや何も間違ったところがない」と。
ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。
そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。
ほかの人たちに伝えようとしてはならない。
もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。
沈黙しなさい。
そして、それは行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。(p350)
否定的な言語
(自然な状態に達するためのサーダナとは)
「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。
こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新
しい知識とともに振動するのだ。
すべては自発的にやってくる。
ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。
眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは
休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがする
ようになったのか説明ができない。
真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽―苦痛から自由であ
ると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのか
を説明できないのだ。
あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。
「私には、もはや何も間違ったところがない」と。
ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。
そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。
ほかの人たちに伝えようとしてはならない。
もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。
沈黙しなさい。
そして、それは行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。(p350)
何かに成る
何かに成るということなどないとき、どうして誰かに、あなたが何になるの
か言うことができるだろうか?
あなたはただ、あなたで在ることを発見するのだ。
自分自身をひとつのパターンに鋳造することなど、悲惨なる時間の浪費だ。
過去も未来も考えず、ただ在りなさい。(p350)
時間の浪費@
何かに成るということなどないとき、どうして誰かに、あなたが何になるの
か言うことができるだろうか?
あなたはただ、あなたで在ることを発見するのだ。
自分自身をひとつのパターンに鋳造することなど、悲惨なる時間の浪費だ。
過去も未来も考えず、ただ在りなさい。(p350)
不変の背景
変化の絶えないなかにあっては、変化は不可避だ。
だが、あなたがそれに支配されることはない。
あなたはそれに対して変化が知覚される、不変の背景なのだ。(p350)
不断の継続性
もちろん、記憶をもとにした自己は一時的なものだ。
しかし、そのような自己は、その背後に不断の継続性を必要とする。
あなたの体験からも、自己を忘れてしまう隙間があることを知っているだろ
う。
何がそれを蘇らせるのだろうか?
朝、あなたを目覚めさせるのは何だろうか?
意識のなかのその隙間を橋渡しする、何か不断の要因がなければならない。
もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れ
るひらめきのようなものでしかないと知るだろう。
その隙間のなかには何があるのだろうか?
ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。
それにとっては、マインドもノー・マインドもひとつなのだ。(p351)
隙間のなかには
もちろん、記憶をもとにした自己は一時的なものだ。
しかし、そのような自己は、その背後に不断の継続性を必要とする。
あなたの体験からも、自己を忘れてしまう隙間があることを知っているだろ
う。
何がそれを蘇らせるのだろうか?
朝、あなたを目覚めさせるのは何だろうか?
意識のなかのその隙間を橋渡しする、何か不断の要因がなければならない。
もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れ
るひらめきのようなものでしかないと知るだろう。
その隙間のなかには何があるのだろうか?
ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。
それにとっては、マインドもノー・マインドもひとつなのだ。(p351)
唯一、正しい場所
(霊的な成就のために行くべき特定の場所は)
唯一、正しい場所は内側だ。
外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。
どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れて
いきはしない。
未来へ向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。
完全に、今に集中するのだ。
起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさ
い。(p351)
外側の世界
(霊的な成就のために行くべき特定の場所は)
唯一、正しい場所は内側だ。
外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。
どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れて
いきはしない。
未来へ向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。
完全に、今に集中するのだ。
起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさ
い。(p351)
体系的方法
(霊的な成就のために行くべき特定の場所は)
唯一、正しい場所は内側だ。
外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。
どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れて
いきはしない。
未来へ向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。
完全に、今に集中するのだ。
起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさ
い。(p351)
夢から夢へ
夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
これが絶対的な真理なのだ。(p351)
絶対的な真理
夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。
夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。
いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。
これが絶対的な真理なのだ。(p351)
絶対なるもの@
絶対なるものの体験などありえない。
それはすべての体験を超えているからだ。
その反対に、自己はあらゆる体験のなかの体験要因だ。
それゆえ、それはある意味で体験の多様性を有効にするのだ。
世界は偉大な価値あるもので満ちているかもしれない。
だが、誰も買う人がいなければ、それに価値はない。
絶対なるものは、体験可能なあらゆるものを包含している。
体験を可能にするもの、それが絶対なるものだ。
それを現実のものにするのが真我なのだ。(p351)
絶対 と 真我
絶対なるものの体験などありえない。
それはすべての体験を超えているからだ。
その反対に、自己はあらゆる体験のなかの体験要因だ。
それゆえ、それはある意味で体験の多様性を有効にするのだ。
世界は偉大な価値あるもので満ちているかもしれない。
だが、誰も買う人がいなければ、それらに価値はない。
絶対なるものは、体験可能なあらゆるものを包含している。
体験を可能にするもの、それが絶対なるものだ。
それを現実のものにするのが真我なのだ。(p351)
深淵
欲望の間に段階はありうる。
しかし、もっとも崇高な欲望とすべての欲望から自由になることの間には、
渡らなければならない深淵がある。
実在ではないものが実在に見えることはあるかもしれない。
しかし、それは一時的なことだ。
実在は時間を恐れてはいないのだ。(p352)
実在の表現A
どうしてそう(非実在が実在の表現などということが)ありえよう?
それは、あたかも真理は夢のなかでそれ自体を表現すると言うようなものだ。
実在にとって、非実在は存在しない。
あなたがそれを信じるために、それは実在として現れるのだ。
疑ってみなさい。
そうすればそれは消え去る。
誰かを愛するとき、あなたはそれに実在を与える。
あなたはあなたの愛が全能で、永遠だと想像する。
それが終局を迎えるとき、あなたは言う、「わたしはそれが本物だと思って
いたが、そうではなかった」と。
一時性は非実在の最高の証拠なのだ。
時間と空間のなかに限定され、ひとりの人にしか適用しないものは実在では
ない。
実在はすべてのためにあり、永遠のものなのだ。(p352)
一時性 と 非実在
実在にとって、 非実在は存在しない。
あなたがそれを信じるために、それは実在として現れるのだ。
疑ってみなさい。
そうすればそれは消え去る。
誰かを愛するとき、あなたはそれに実在を与える。
あなたはあなたの愛が全能で、永遠だと想像する。
それが終局を迎えるとき、あなたは言う、「わたしはそれが本物だと思って
いたが、そうではなかった」と。
一時性は 非実在の最高の証拠なのだ。
時間と空間のなかに限定され、ひとりの人にしか適用しないものは実在では
ない。
実在はすべてのためにあり、永遠のものなのだ。(p352)
在ることへの欲望
ほかの何よりも、あなたはあなた自身を大切にする。
あなたはあなたの存在を、何ものとも交換することを許さないだろう。
在ることへの欲望は、すべての欲望のなかで最強のものだ。
そして、あなたが真我を実現したときだけ、それは去るだろう。(p352)
実在と見なす
それを実在と見なすことで、あなたはそれに実在性を分け与えるのだ。
あなたは自分を納得させた上で、自分の確信によって束縛されてしまうのだ。
日が照るとき、色彩が現れる。
日が沈むとそれらは消え去る。
光なしに、色彩はどこにあるだろうか?(p352)
本質 と 思考
考えることはすべて二元性のなかにある。
本質のなかではいかなる思考も生き残らないのだ。(p352)
名前 と 身体
あなたはあなた自身を名前と身体だと見なしている。
だから、あなたの知覚するものすべては名前と身体なのだ。(p353)
ラマナ・マハルシ
(もしラマナ・マハルシに出会うなら何が起こるか、というなら)
おそらく、私たちはまったく幸せに感じるだろう。
二、三の言葉を交わしさえするかもしれない。
人が人を認識するように、ジニャーニはジニャーニを認識するのだ。
あなたはあなたが体験したことのないものを賞賛することはできない。
あなたはあなた自身であると考えているものだ。
だが、あなたはあなたが体験していないものをあなた自身として考えること
はできないのだ。(p353)
欲望と知識の終焉
(神となるためには何を学ばなければならないのか、というなら)
あなたはすべてを忘れなければならない。
神はすべての欲望と知識の終焉なのだ。(p353)
欲望の形を取る
すべての欲望が放棄されなければならない。
なぜなら欲望を持つことで、あなたはあなたの欲望の形を取るからだ。
何の欲望も残っていないとき、あなたは自然な状態へと戻るのだ。(p353)
完成を知ること
(完成に到達したということをどうやって知るのか、というなら)
完成を知ることはできない。
あなたは未完成だけを知ることができるのだ。
知識が存在するには、そこに分離と不調和がなければならない。
あなたはあなたではないものを知ることができる。
だが、あなたの真の存在を知ることはできないのだ。
あなたはあなたであるものとしてだけ在ることができる。
そのアプローチ全体が理解を通してのものだ。
それは偽りを偽りとして見るというものだ。
しかし理解するために、あなたは外側から観察しなければならない。(p354)
知識が存在するには
(完成に到達したということをどうやって知るのか、というなら)
完成を知ることはできない。
あなたは未完成だけを知ることができるのだ。
知識が存在するには、そこに分離と不調和(*注)がなければならない。
あなたはあなたではないものを知ることができる。
だが、あなたの真の存在を知ることはできないのだ。
あなたはあなたであるものとしてだけ在ることができる。
そのアプローチ全体が理解を通してのものだ。
それは偽りを偽りとして見るというものだ。
しかし理解するために、あなたは外側から観察しなければならない。(p354)
(*注:翻訳書の「調和」は校正漏れ)
理解を通して
完成を知ることはできない。
あなたは未完成だけを知ることができるのだ。
知識が存在するには、そこに分離と不調和がなければならない。
あなたはあなたではないものを知ることができる。
だが、あなたの真の存在を知ることはできないのだ。
あなたはあなたであるものとしてだけ在ることができる。
そのアプローチ全体が理解を通してのものだ。
それは偽りを偽りとして見るというものだ。
しかし理解するために、あなたは外側から観察しなければならない。(p354)
偽りを偽りとして見る@
完成を知ることはできない。
あなたは未完成だけを知ることができるのだ。
知識が存在するには、そこに分離と不調和がなければならない。
あなたはあなたではないものを知ることができる。
だが、あなたの真の存在を知ることはできないのだ。
あなたはあなたであるものとしてだけ在ることができる。
そのアプローチ全体が理解を通してのものだ。
それは偽りを偽りとして見るというものだ。
しかし理解するために、あなたは外側から観察しなければならない。(p354)
非顕現の知識
非顕現の知識といったものはない。
それは不可知だ。
知ることができるのは現実のものだけなのだ。(p354)
反応すること
あなたはあなたが反応することだけを知っている。
誰が何に反応するかを知ってはいない。
あなたは、「私は在る」に接触することであなたの存在を知るのだ。
「私はこれだ」「私はあれだ」は想像なのだ。(p354)
「私はこれだ」
あなたはあなたが反応することだけを知っている。
誰が何に反応するかを知ってはいない。
あなたは、「私は在る」に接触することであなたの存在を知るのだ。
「私はこれだ」「私はあれだ」は想像なのだ。(p354)
意味を与える
ホタルが世界を照らすというのかね!
あなたが世界に意味を与えるのではない。
あなたはそれを見いだすのだ。
あなた自身のなかに深く潜っていきなさい。
そしてすべての意味があふれだす源を見いだしなさい。
間違いなく、意味を与えることができるのは表面的なマインドではないのだ。(p354)
全体
全体は開いていて、手に入るものだ。
だが、あなたはそれを手にしない。
あなたは自分自身だと考えている小さな個人に執着している。
あなたの欲望はかぎられていて、野望は取るに足らないものだ。
結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう?
知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。
あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。
全体としてのあなた自身を知りなさい。(p355)
知覚の中心@
全体は開いていて、手に入るものだ。
だが、あなたはそれを手にしない。
あなたは自分自身だと考えている小さな個人に執着している。
あなたの欲望はかぎられていて、野望は取るに足らないものだ。
結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう?
知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。
あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。
全体としてのあなた自身を知りなさい。(p355)
無次元の源
結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう?
知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。
あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。
全体としてのあなた自身を知りなさい。(p354)
無限の宇宙
ひとつの点のなかには、無限の宇宙を包むに充分な空間がある。
許容量に欠けることはない。
自己限定だけが唯一の問題なのだ。
しかし、あなた自身から逃げだすことはできない。
どれほど遠くへ行こうとも、あなたは自分自身に、そして無であり、しかも
すべての源であるこの点を理解する必要性に戻ってくるのだ。(p355)
自己限定だけが
ひとつの点のなかには、無限の宇宙を包むに充分な空間がある。
許容量に欠けることはない。
自己限定だけが唯一の問題なのだ。
しかし、あなた自身から逃げだすことはできない。
どれほど遠くへ行こうとも、あなたは自分自身に、そして無であり、しかも
すべての源であるこの点を理解する必要性に戻ってくるのだ。(p355)
唯一の問題@
ひとつの点のなかには、無限の宇宙を包むに充分な空間がある。
許容量に欠けることはない。
自己限定だけが唯一の問題なのだ。
しかし、あなた自身から逃げだすことはできない。
どれほど遠くへ行こうとも、あなたは自分自身に、そして無であり、しかも
すべての源であるこの点を理解する必要性に戻ってくるのだ。(p355)
獲得のヨーガ
どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか?
獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか?
一方は隷属させ、他方は解放する。
動機がもっとも重要なのだ。
自由は放棄を通してもたらされる。
すべての所有は束縛なのだ。(p355)
放棄のヨーガ
どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか?
獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか?
一方は隷属させ、他方は解放する。
動機がもっとも重要なのだ。
自由は放棄を通してもたらされる。
すべての所有は束縛なのだ。(p355)
動機がもっとも重要
どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか?
獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか?
一方は隷属させ、他方は解放する。
動機がもっとも重要なのだ。
自由は放棄を通してもたらされる。
すべての所有は束縛なのだ。(p355)
自由 と 放棄
どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか?
獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか?
一方は隷属させ、他方は解放する。
動機がもっとも重要なのだ。
自由は放棄を通してもたらされる。
すべての所有は束縛なのだ。(p355)
所有は束縛
どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか?
獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか?
一方は隷属させ、他方は解放する。
動機がもっとも重要なのだ。
自由は放棄を通してもたらされる。
すべての所有は束縛なのだ。(p355)
分別ある行為
(放棄は弱者のためのものだ、というなら)
もしあなたが放棄する智慧(ちえ)と力をもっていないのなら、ただあなた
の所有物を見てみなさい。
ただ見るという行為がそれらを焼き尽くすだろう。
もしあなたがマインドの外側に立つことができるなら、じきに所有物と欲望
を放棄することがもっとも明白な分別ある行為だと知ることだろう。
あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。
利己的になることはあなたを弱くする。
あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若
く、経験不足だからだ。
例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。
そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。
結局、すべては最善の結果をもたらす。
なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。(p355-356)
欲望の対象物
あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。
利己的になることはあなたを弱くする。
あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若
く、経験不足だからだ。
例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。
そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。
結局、すべては最善の結果をもたらす。
なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。(p355-356)
獲得する手段
あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。
利己的になることはあなたを弱くする。
あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若
く、経験不足だからだ。
例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。
そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。
結局、すべては最善の結果をもたらす。
なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。(p355-356)
最善の結果
もしあなたがマインドの外側に立つことができるなら、じきに所有物と欲望
を放棄することがもっとも明白な分別ある行為だと知ることだろう。
あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。
利己的になることはあなたを弱くする。
あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若
く、経験不足だからだ。
例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。
そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。
結局、すべては最善の結果をもたらす。
なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。(p355-356)
無欲の訓練
(どのようにして無欲の訓練をすればいいのか、というなら)
訓練の必要はない。
放棄という行為さえ必要ない。
ただ、あなたのマインドをそらしなさい。
それだけだ。
欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。(p356)
マインドをそらしなさい
(どのようにして無欲の訓練をすればいいのか、というなら)
訓練の必要はない。
放棄という行為さえ必要ない。
ただ、あなたのマインドをそらしなさい。
それだけだ。
欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。(p356)
欲望とは単に…
欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。(p356)
欲望 と 注意
(無欲の)訓練の必要はない。
放棄という行為さえ必要ない。
ただ、あなたのマインドをそらしなさい。
それだけだ。
欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。(p356)
注意を払わない
(無欲の)訓練の必要はない。
放棄という行為さえ必要ない。
ただ、あなたのマインドをそらしなさい。
それだけだ。
欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。(p356)
欲望と恐れを追い払う
欲望や恐れが何であれ、それにとどまっていてはならない。
自分で試みてみなさい。
ときおり、あなたは忘れてしまうかもしれない。
だが、それは問題ではない。
すべての欲望と恐れを追い払うまで、すべての反応が自動的になるまで試み
ることだ。(p356)
自動的になるまで
(無欲の)訓練の必要はない。
放棄という行為さえ必要ない。
ただ、あなたのマインドをそらしなさい。
それだけだ。
欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。
それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。
(それだけ?)
そうだ。
それだけだ。
欲望や恐れが何であれ、それにとどまっていてはならない。
自分で試みてみなさい。
ときおり、あなたは忘れてしまうかもしれない。
だが、それは問題ではない。
すべての欲望と恐れを追い払うまで、すべての反応が自動的になるまで試み
ることだ。(p356)
感情の反応
あなたは欲しいだけすべての感情をもつことができる。
だが、引き起こされた感情の反応に注意しなさい。
完全に自己決定し、外面からではなく、内面から導かれなさい。(p356)
本当の放棄
より良いものを確保するために、ひとつのものをあきらめるのは本当の放棄
ではない。
あきらめなさい。
なぜなら、あなたはそれが無価値であることを理解するからだ。
放棄していくにしたがって、あなたは自然に知性と、力と、無尽蔵の愛と、
喜びのなかに成長していく自分を見いだすだろう。(p356)
無価値
より良いものを確保するために、ひとつのものをあきらめるのは本当の放棄
ではない。
あきらめなさい。
なぜなら、あなたはそれが無価値であることを理解するからだ。
放棄していくにしたがって、あなたは自然に知性と、力と、無尽蔵の愛と、
喜びのなかに成長していく自分を見いだすだろう。(p356)
放棄 と 愛
より良いものを確保するために、ひとつのものをあきらめるのは本当の放棄
ではない。
あきらめなさい。
なぜなら、あなたはそれが無価値であることを理解するからだ。
放棄していくにしたがって、あなたは自然に知性と、力と、無尽蔵の愛と、
喜びのなかに成長していく自分を見いだすだろう。(p356)
無尽蔵の愛
より良いものを確保するために、ひとつのものをあきらめるのは本当の放棄
ではない。
あきらめなさい。
なぜなら、あなたはそれが無価値であることを理解するからだ。
放棄していくにしたがって、あなたは自然に知性と、力と、無尽蔵の愛と、
喜びのなかに成長していく自分を見いだすだろう。(p356)
欲望と恐れB
(欲望と恐れは自然なものではないのか、というなら)
それらは自然なものではない。
完全にマインドによって作られたものだ。
あなたに必要なものは何もないということを知るために、すべてを放棄しな
ければならないのだ。
あなたが必要とするものは非実在であり、あなたの努力は無意味だ。
あなたは所有物があなたを守ると想像している。
実際は、それらがあなたを傷つきやすくするのだ。
あなた自身が「あれ」や「これ」として指し示すことができるすべてから離
れたものであることを自覚しなさい。
あなたは感覚的体験や言語的解釈によって到達することのできないものだ。
それから立ち去りなさい。
人格化を拒否しなさい。(p356)
作られたもの
それら(すべての欲望と恐れ)は自然なものではない。
完全にマインドによって作られたものだ。
あなたに必要なものは何もないということを知るために、すべてを放棄しな
ければならないのだ。(p356)
必要とするもの
あなたが必要とするものは非実在であり、あなたの努力は無意味だ。
あなたは所有物があなたを守ると想像している。
実際は、それらがあなたを傷つきやすくするのだ。
あなた自身が「あれ」や「これ」として指し示すことができるすべてから離
れたものであることを自覚しなさい。
あなたは感覚的体験や言語的解釈によって到達することのできないものだ。
それから立ち去りなさい。
人格化を拒否しなさい。(p356)
努力は無意味だ
あなたが必要とするものは非実在であり、あなたの努力は無意味だ。
あなたは所有物があなたを守ると想像している。
実際は、それらがあなたを傷つきやすくするのだ。
あなた自身が「あれ」や「これ」として指し示すことができるすべてから離
れたものであることを自覚しなさい。
あなたは感覚的体験や言語的解釈によって到達することのできないものだ。
それから立ち去りなさい。
人格化を拒否しなさい。(p356)
感覚的体験や言語的解釈
あなた自身が「あれ」や「これ」として指し示すことができるすべてから離
れたものであることを自覚しなさい。
あなたは感覚的体験や言語的解釈によって到達することのできないものだ。
それから立ち去りなさい。
人格化を拒否しなさい。(p356)
理解しようとしてみなさい
聞くことだけでは本当の助けにならないだろう。
それを心にとどめ、熟考し、私が語っていることを私に語らせようとするマ
インドの状態を理解しようとしてみなさい。
私は真理から話している。
両手を開き、受け取りなさい。
あなたはあなたが考えているものではないのだ。
私が保証しよう。
あなたがもっているあなた自身のイメージは記憶によってつくられたまった
く偶然の産物なのだ。(p356)
偶然の産物
あなたはあなたが考えているものではないのだ。
私が保証しよう。
あなたがもっているあなた自身のイメージは記憶によってつくられたまった
く偶然の産物なのだ。(p357)
あなた と カルマ
一見、あなたであるように見えるもの、それはあなたではない。
カルマは、あなたが繰り返し学んできたひとつの言葉にすぎない。
あなたはけっして今まで、そしてこれからもひとりの個人ではないのだ。
あなた自身を個人だと考えることを拒絶しなさい。
自分が誰それだということを疑わないかぎり、希望はもてない。
あなたが目を開くことを拒むとき、何を見せられるというのだろう?(p357)
カルマ と あなた
カルマは、あなたが繰り返し学んできたひとつの言葉にすぎない。
あなたはけっして今まで、そしてこれからもひとりの個人ではないのだ。
あなた自身を個人だと考えることを拒絶しなさい。
自分が誰それだということを疑わないかぎり、希望はもてない。
あなたが目を開くことを拒むとき、何を見せられるというのだろう?(p357)
完成 と あなた
(カルマが完成へとつき動かす神秘の力だというなら)
それは人びとがあなたに言ったことだ。
あなたはすでに今ここで完成している。
完成することができるようなものはあなたではない。
あなたはあなた自身ではないものをあなただと想像しているのだ。
やめなさい。
重要なのは停止そのものであって、あなたが何をやめようとするかではない
のだ。(p357)
あなた と 完成
あなたはすでに今ここで完成している。
完成することができるようなものはあなたではない。
あなたはあなた自身ではないものをあなただと想像しているのだ。
やめなさい。
重要なのは停止そのものであって、あなたが何をやめようとするかではない
のだ。(p357)
あなただと信じるもの
(カルマが自分である者に成るよう駆りたてたのだ、というなら)
何も駆りたててはいない。
あなたはあなただと信じるものだ。
信じるのを止めなさい。(p357)
強いるものはない
何ひとつ、私に強いるものはない。
私はする必要のあることをするだけだ。
だが、あなたはたくさんの不必要なことをする。
調べることを拒むことがカルマをつくり出すのだ。
あなた自身の苦しみに無関心であることが、それを永続させるのだ。(p357)
慈悲の波
(自分の苦しみへの無関心に終止符を打てるのは何かというなら)
無執着、あるいは慈悲の波が内面から衝動として起こらなければならない。(p357)
無執着への衝動
(無執着への衝動に自分から出会いに行くことができるか、というなら)
もちろんだ。
あなた自身の状態を見てみなさい。
世界の状態を見てみるがいい。(p357)
概念や信念の重荷
(カルマ、輪廻、進化、ヨーガ、師と弟子、といったすべての知識をどうす
ればいいのか、というなら)
すべてを捨て去っていくがいい。
忘れるのだ。
概念や信念の重荷を捨て去って、先へと進んでいきなさい。
すべての言語的構造、すべての相対的真実、すべての実体的な対象物を放棄
しなさい。
絶対なるものは、絶対的な献身によってだけ到達できるのだ。
半端な気持ちではいけない。(p357-358)
絶対的な献身
概念や信念の重荷を捨て去って、先へと進んでいきなさい。
すべての言語的構造、すべての相対的真実、すべての実体的な対象物を放棄
しなさい。
絶対なるものは、絶対的な献身によってだけ到達できるのだ。
半端な気持ちではいけない。(p357-358)
絶対的な真実A
(そこから始められるような何か絶対的な真実があるか、というなら)
ある。
それが「私は在る」という感覚だ。
それからはじめなさい。(p358)
現れると真実のように
(「私は在る」という感覚以外の何も真実ではないのか、というなら)
ほかのすべては真実でもなければ、偽りでもない。
それが現れると真実のように見え、否定されるとそれは消え去るのだ。
一時的なものは神秘的だ。(p358)
一時的なものは神秘的
(「私は在る」という感覚以外の何も真実ではないのか、というなら)
ほかのすべては真実でもなければ、偽りでもない。
それが現れると真実のように見え、否定されるとそれは消え去るのだ。
一時的なものは神秘的だ。(p358)
実在はシンプル@
(実在は神秘的なのだと思っていた、というなら)
どうしてそうありうるだろう。
実在はシンプルで、オープンで、明らかで、優しく、美しく、そして喜ばし
いものだ。
それは矛盾からの完全な自由なのだ。
それはつねに新しく、つねに新鮮で、かぎりなく創造的だ。
存在と非存在、生と死、すべての区別がそのなかで溶けあっている。(p358)
矛盾からの完全な自由
(実在は神秘的なのだと思っていた、というなら)
どうしてそうありうるだろう。
実在はシンプルで、オープンで、明らかで、優しく、美しく、そして喜ばし
いものだ。
それは矛盾からの完全な自由なのだ。
それはつねに新しく、つねに新鮮で、かぎりなく創造的だ。
存在と非存在、生と死、すべての区別がそのなかで溶けあっている。(p358)
マインドとはそれが考えていること
(すべてが偽りだと認めてもそれでマインドは消え去らない、というなら)
マインドとはそれが考えていることなのだ。
マインドを真実にするために、真実を考えなさい。(p358)
マインドを真実にする
(すべてが偽りだと認めてもそれでマインドは消え去らない、というなら)
マインドとはそれが考えていることなのだ。
マインドを真実にするために、真実を考えなさい。(p358)
知覚だけがある
(形が単なる現れでしかないなら実際には物事とは何なのか、というなら)
実際には、知覚だけがある。
知覚する者と知覚されるものは観念であり、知覚しているという事実は現実
のものだ。(p358)
絶対なるものA
絶対なるものは知覚の誕生する場所だ。
それが知覚を可能にするのだ。(p358)
分析のしすぎは
しかし、分析のしすぎはあなたをどこへ導きもしない。
あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の確信がある。
あなたはそれを行為のなかでだけ知ることができる。
日常生活のなかで、それを表現しなさい。
そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。(p358)
存在の核心
あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の核心がある。
あなたはそれを行為のなかでだけ知ることができる。
日常生活のなかで、それを表現しなさい。
そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。(p358)
行為のなかでだけ
あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の確信がある。
あなたはそれを行為のなかでだけ知ることができる。
日常生活のなかで、それを表現しなさい。
そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。(p358)
マインドの真正な機能
マインドの真正な機能とは、あなたに何が存在しないのかを伝えることだ。
だが、もしあなたが明確な知識を望むなら、マインドを超えた彼方へ行かな
ければならない。(p358)
唯一価値あるもの
(すべての宇宙のなかにただひとつでも価値あるものがあるか、というなら)
ある。
愛の力だ。(p358)
グル
グルは基本的に欲望をもたない。
彼は選択をせず、決定もしない。
純粋な観照者として起こっていることを見守り、感化されないままなのだ。
勝利はつねに彼のものだ――最終的には。
グルは、もし弟子がグルの言葉から学ばなければ、自分たちの過ちから学ぶ
だろうということを知っているのだ。
内面的には、彼は静かに沈黙している。
彼には分離した個人という感覚がない。
彼の弟子と彼らの取るに足らない計画も含めた、宇宙全体が彼のものなのだ。
何ひとつ特定のものが彼に影響を与えることはない。
あるいは同じことで、宇宙全体が同じ度合いで彼に影響を与えるのだ。(p359)
グルの恩寵@
彼(グル)の恩寵は絶えることなく遍在している。
それはひとりに与えられ、ほかを拒むようなものではないのだ。
あなたのマインドが真理の探究に従事しているのも、グルの恩寵によるもの
なのだ。
そして、グルの恩寵によってあなたは真理を見いだすのだ。
それはあなたの究極の目標に向かって意図することなく働いている。
そして、それはすべての人にとってそうなのだ。(p359)
グル と 弟子
グルは究極なるものを知っている。
そして、それに向けて弟子を容赦なく駆りたてる。
弟子は自分自身で超えなければならない障害物でいっぱいなのだ。
グルは弟子の表面的な人生にはそれほど関心をもたない。
それは重力のようなものだ。
果実はもうこれ以上もちこたえられないとき、落ちなければならないのだ。
目的地はグルによって示される。
障害は弟子によって発見されるのだ。
グルに選り好みはない。
だが、克服しなければならない障害をもつ者たちは、遅れをとるように見え
るのだ。
実際には、弟子はグルと異ならない。
彼は行為における愛と知覚の、同じ無限の中心なのだ。
彼の想像と想像したものとの自己同一化が、彼を包み込み、個人に変えてし
まうだけだ。
師は個人には関心がない。
彼の注意は内面の見守る者に合わせられている。
理解をし、それによって個人を消し去るのは見守る者の仕事なのだ。
一方では恩寵があり、もう一方では修練への献身がなければならない。(p359)
弟子 と グル
実際には、弟子はグルと異ならない。
彼は行為における愛と知覚の、同じ無限の中心なのだ。
彼の想像と想像したものとの自己同一化が、彼を包み込み、個人に変えてし
まうだけだ。
師は個人には関心がない。
彼の注意は内面の見守る者に合わせられている。
理解をし、それによって個人を消し去るのは見守る者の仕事なのだ。
一方では恩寵があり、もう一方では修練への献身がなければならない。(p360)
個人を消し去る
実際には、弟子はグルと異ならない。
彼は行為における愛と知覚の、同じ無限の中心なのだ。
彼の想像と想像したものとの自己同一化が、彼を包み込み、個人に変えてし
まうだけだ。
師は個人には関心がない。
彼の注意は内面の見守る者に合わせられている。
理解をし、それによって個人を消し去るのは見守る者の仕事なのだ。
一方では恩寵があり、もう一方では修練への献身がなければならない。(p360)
恩寵 と 修練
実際には、弟子はグルと異ならない。
彼は行為における愛と知覚の、同じ無限の中心なのだ。
彼の想像と想像したものとの自己同一化が、彼を包み込み、個人に変えてし
まうだけだ。
師は個人には関心がない。
彼の注意は内面の見守る者に合わせられている。
理解をし、それによって個人を消し去るのは見守る者の仕事なのだ。
一方では恩寵があり、もう一方では修練への献身がなければならない。(p360)
個人@
個人とは単なる誤解の結果だ。
実際には、そのようなものはないのだ。
果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡を残し、継
続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人
は一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
実際には、個人というものは存在しない。
ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。(p360)
継続性
個人とは単なる誤解の結果だ。
実際には、そのようなものはないのだ。
果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡(こんせき)
を残し、継続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人
は一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
実際には、個人というものは存在しない。
ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。(p360)
見守る者
個人とは単なる誤解の結果だ。
実際には、そのようなものはないのだ。
果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡(こんせき)
を残し、継続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。
マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人
は一見独立したように見える存在を獲得するのだ。
実際には、個人というものは存在しない。
ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
師は見守る者に言う。
「あなたはこれではない。このなかには、見守る者と彼の夢を橋渡しする
『私は在る』という小さな点以外、あなたのものは何ひとつないのだ」と。
「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。
一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。
あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた――だが、すべては無
に帰したのだ。
ただ、「私は在る」だけが変わることなく存続している。
あなたが彼方へと超えていけるようになるまで、変化の絶えないもののなか
で、不変なるものとともにとどまりなさい。(p360)
私はこれだ、は夢
実際には、個人というものは存在しない。
ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
師は見守る者に言う。
「あなたはこれではない。このなかには、見守る者と彼の夢を橋渡しする
『私は在る』という小さな点以外、あなたのものは何ひとつないのだ」と。
「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。
一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。
あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた――だが、すべては無
に帰したのだ。(p360)
すべては無に帰した
「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。
一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。
あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた――だが、すべては無
に帰したのだ。
ただ、「私は在る」だけが変わることなく存続している。
あなたが彼方へと超えていけるようになるまで、変化の絶えないもののなか
で、不変なるものとともにとどまりなさい。(p360)
無に帰した
「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。
一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。
あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた――だが、すべては無
に帰したのだ。
ただ、「私は在る」だけが変わることなく存続している。
あなたが彼方へと超えていけるようになるまで、変化の絶えないもののなか
で、不変なるものとともにとどまりなさい。(p360)
いつ起こるのか
(彼方へと超えていくことはいつ起こるのか、というなら)
それはあなたが障害を取り去ったとたんに起こるのだ。
(どの障害か、というなら)
偽りへの欲望と真実への恐れだ。(p360)
障害
(彼方へと超えていくことはいつ起こるのか、というなら)
それはあなたが障害を取り去ったとたんに起こるのだ。
(その障害とは、というなら)
偽りへの欲望と真実への恐れだ。(p360)
あなたA
個人としてのあなたは、グルが個人としてのあなたに興味を持っていると想
像している。
まったくそうではない。
彼にとって、あなたは排除すべき厄介な障害だ。
彼は実際に、意識のなかの要因であるあなたを排除することを目指している
のだ。(p360)
排除すべき障害
(彼方へと超えていくことはいつ起こるのか、というなら)
それはあなたが障害を取り去ったとたんに起こるのだ。
(その障害とは)偽りへの欲望と真実への恐れだ。
個人としてのあなたは、グルが個人としてのあなたに興味を持っていると想
像している。
まったくそうではない。
彼にとって、あなたは排除すべき厄介な障害だ。
彼は実際に、意識のなかの要因であるあなたを排除することを目指している
のだ。(p360)
アイデンティティの感覚A
(もし自分が排除されたなら何が残るのか、というなら)
何も残らない。
あるいはすべてが残るのだ。
アイデンティティの感覚は残る。
だが、特定の身体との同一化はもはやなくなる。
存在―気づき―愛が最高度に輝きだすだろう。
解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解
放されることなのだ。(p360-361)
解放とはB
解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解
放されることなのだ。(p360-361)
個人 と 解放
(もし個人が排除されたなら何が残るのか、というなら)
何も残らない。
あるいはすべてが残るのだ。
アイデンティティの感覚は残る。
だが、特定の身体との同一化はもはやなくなる。
存在―気づき―愛が最高度に輝きだすだろう。
解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解
放されることなのだ。(p360-361)
個人の痕跡
(解放のあと個人の痕跡は何も残らないのか、というなら)
夢や子ども時代の記憶のような、漠然とした記憶は残る。
結局、覚えておくような何がそこにあるというのだろうか?
たいてい偶然の、そして無意味な一連の出来事でしかない。
欲望と恐れの連鎖と、愚かな失敗だ。
覚えておくような何かがそこにあるだろうか?
個人とは、あなたを監禁する殻(から)でしかないのだ。
殻を破りなさい。(p361)
理解すべきこと
そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。
あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではな
く、あなたが実在を与えるということだけだ。
あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。(p361)
実在の源
記憶と自己同一化の拘束を破りなさい。
そうすれば、殻(から)はひとりでに破れるだろう。
そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。
あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではな
く、あなたが実在を与えるということだけだ。
あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。(p361)
あなたが実在を与える
あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではな
く、あなたが実在を与えるということだけだ。
あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。
ものごとはそのままだ。
なぜなら、あなたがそれをそれとして受け入れるからだ。
受け入れるのをやめなさい。
そうすればそれは消え去る。
何であれ、あなたが欲望と恐れとともに考えることは、現実となってあなた
の前に現れる。
それを欲望と恐れなしに見なさい。
そうすればそれは実体を失う。
快楽と苦痛はつかの間のものだ。
そのために行動を起こすよりも、無視する方が単純でたやすいのだ。(p361)
支持も確証も
そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。
あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではな
く、あなたが実在を与えるということだけだ。
あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。(p361)
必要ない
そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。
あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではな
く、あなたが実在を与えるということだけだ。
あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。(p361)
欲望と恐れなしに
何であれ、あなたが欲望と恐れとともに考えることは、現実となってあなた
の前に現れる。
それを欲望と恐れなしに見なさい。
そうすればそれは実体を失う。
快楽と苦痛はつかの間のものだ。
そのために行動を起こすよりも、無視する方が単純でたやすいのだ。(p361)
無視する方が
何であれ、あなたが欲望と恐れとともに考えることは、現実となってあなた
の前に現れる。
それを欲望と恐れなしに見なさい。
そうすればそれは実体を失う。
快楽と苦痛はつかの間のものだ。
そのために行動を起こすよりも、無視する方が単純でたやすいのだ。(p361)
創造
創造は意識の本性そのものなのだ。
意識が現れを起こす原因なのだ。
実在は意識を超えた彼方にある。(p361)
意識の本性A
創造は意識の本性そのものなのだ。
意識が現れを起こす原因なのだ。
実在は意識を超えた彼方にある。(p361)
意識が現れを起こす
創造は意識の本性そのものなのだ。
意識が現れを起こす原因なのだ。
実在は意識を超えた彼方にある。(p361)
意識 と 現れ
創造は意識の本性そのものなのだ。
意識が現れを起こす原因なのだ。
実在は意識を超えた彼方にある。(p361)
無知と幻想
無知も幻想も、けっしてあなたには起こらなかったのだ。
あなたが無知と幻想をもつと見なす、その自己を見いだしなさい。
そうすればあなたの質問は答えられるだろう。
あなたはあたかも自己を知っているかのように話し、それが無知と幻想に揺
り動かされているかのように見ている。
だが実際には、あなたは自己を知らず、己の無知にも気づいていないのだ。
気づきなさい。
これがあなたを自己へと連れていくだろう。
そうすればあなたは無知も妄想もなかったことを認識するだろう。
それは、「光あるところ、いかにして闇あらん」という格言のようなものだ。
どんなに日の光が強くとも、石の下には影ができるように、「私は身体だ」
という意識の影のなかには、無知と幻想がかならず現れるのだ。(p361-362)
あたかも自己を
無知も幻想も、けっしてあなたには起こらなかったのだ。
あなたが無知と幻想をもつと見なす、その自己を見いだしなさい。
そうすればあなたの質問は答えられるだろう。
あなたはあたかも自己を知っているかのように話し、それが無知と幻想に揺
り動かされているかのように見ている。
だが実際には、あなたは自己を知らず、己の無知にも気づいていないのだ。
気づきなさい。
これがあなたを自己へと連れていくだろう。
そうすればあなたは無知も妄想もなかったことを認識するだろう。
それは、「光あるところ、いかにして闇あらん」という格言のようなものだ。
どんなに日の光が強くとも、石の下には影ができるように、「私は身体だ」
という意識の影のなかには、無知と幻想がかならず現れるのだ。(p361-362)
あなたは自己を知らず
無知も幻想も、けっしてあなたには起こらなかったのだ。
あなたが無知と幻想をもつと見なす、その自己を見いだしなさい。
そうすればあなたの質問は答えられるだろう。
あなたはあたかも自己を知っているかのように話し、それが無知と幻想に揺
り動かされているかのように見ている。
だが実際には、あなたは自己を知らず、己の無知にも気づいていないのだ。
気づきなさい。
これがあなたを自己へと連れていくだろう。
そうすればあなたは無知も妄想もなかったことを認識するだろう。
それは、「光あるところ、いかにして闇あらん」という格言のようなものだ。
どんなに日の光が強くとも、石の下には影ができるように、「私は身体だ」
という意識の影のなかには、無知と幻想がかならず現れるのだ。(p361-362)
光あるところ
無知も幻想も、けっしてあなたには起こらなかったのだ。
あなたが無知と幻想をもつと見なす、その自己を見いだしなさい。
そうすればあなたの質問は答えられるだろう。
あなたはあたかも自己を知っているかのように話し、それが無知と幻想に揺
り動かされているかのように見ている。
だが実際には、あなたは自己を知らず、己の無知にも気づいていないのだ。
気づきなさい。
これがあなたを自己へと連れていくだろう。
そうすればあなたは無知も妄想もなかったことを認識するだろう。
それは、「光あるところ、いかにして闇あらん」という格言のようなものだ。
どんなに日の光が強くとも、石の下には影ができるように、「私は身体だ」
という意識の影のなかには、無知と幻想がかならず現れるのだ。(p361-362)
石の下には影
無知も幻想も、けっしてあなたには起こらなかったのだ。
あなたが無知と幻想をもつと見なす、その自己を見いだしなさい。
そうすればあなたの質問は答えられるだろう。
あなたはあたかも自己を知っているかのように話し、それが無知と幻想に揺
り動かされているかのように見ている。
だが実際には、あなたは自己を知らず、己の無知にも気づいていないのだ。
気づきなさい。
これがあなたを自己へと連れていくだろう。
そうすればあなたは無知も妄想もなかったことを認識するだろう。
それは、「光あるところ、いかにして闇あらん」という格言のようなものだ。
どんなに日の光が強くとも、石の下には影ができるように、「私は身体だ」
という意識の影のなかには、無知と幻想がかならず現れるのだ。(p361-362)
身体意識
(どうして身体意識は存在のなかに現れたのか、というなら)
「なぜ」や「どうして」を尋ねてはならない。
それ自身を創造と同一化することは、創造的想像の本性なのだ。
あなたは注意をそらすことで、あるいは究明することによって、いつでもそ
れを止めることができる。(p362)
「なぜ」や「どうして」
(どうして身体意識は存在のなかに現れたのか、というなら)
「なぜ」や「どうして」を尋ねてはならない。
それ自身を創造と同一化することは、創造的想像の本性なのだ。
あなたは注意をそらすことで、あるいは究明することによって、いつでもそ
れを止めることができる。(p362)
創造的想像
それ自身を創造と同一化することは、創造的想像の本性なのだ。
あなたは注意をそらすことで、あるいは究明することによって、いつでもそ
れを止めることができる。(p362)
想像の本性
それ自身を創造と同一化することは、創造的想像の本性なのだ。
あなたは注意をそらすことで、あるいは究明することによって、いつでもそ
れを止めることができる。(p362)
はじめに
はじめに、あなたが世界をつくり出すのだ。
それから、「私は在る」が個人となる。
彼はさまざまな理由から幸福ではないのだ。
彼は幸福を探し求めて外へと出ていき、ひとりのグルに出会う。
そしてグルは彼に言うのだ。
「あなたは個人ではない。あなたとは誰なのかを見いだしなさい」と。
彼はそれを為(な)し、彼方へと超えていくのだ。(p362)
幸福ではない
はじめに、あなたが世界をつくり出すのだ。
それから、「私は在る」が個人となる。
彼はさまざまな理由から幸福ではないのだ。
彼は幸福を探し求めて外へと出ていき、ひとりのグルに出会う。
そしてグルは彼に言うのだ。
「あなたは個人ではない。あなたとは誰なのかを見いだしなさい」と。
彼はそれを為(な)し、彼方へと超えていくのだ。(p362)
マインドをきれいに
(どうすればマインドをきれいにできるか、というなら)
容赦なく、それを見守ることによってだ。
不注意が鈍くさせ、注意が明晰にさせるのだ。(p362)
無為を唱道する
(どうしてインドの師たちは無為を唱道するのか、というなら)
ほとんどの人びとの行為は、あからさまに破壊的でないにしても、無価値な
のだ。
欲望と恐れに支配され、彼らは何も適切なことができない。
悪を為さないことが善をはじめることに先立つ。
それゆえ、すべての活動をひとまず止める必要があるのだ。
人の衝動とその動機を調べ、人生のなかでそれらはみな偽りであることを見
て、あらゆる悪のマインドを清浄にし、その上でようやく自分の明白な義務
から仕事を再開するのだ。
もちろん、もしあなたが誰かを助ける機会があるなら、ぜひそうしなさい。
それも敏速にしなさい。
あなたが完全になるまで彼を待たせる必要はない。
だが、善行を職業にしてはいけない。(p362)
悪 と 善
悪を為さないことが善をはじめることに先立つ。
それゆえ、すべての活動をひとまず止める必要があるのだ。
人の衝動とその動機を調べ、人生のなかでそれらはみな偽りであることを見
て、あらゆる悪のマインドを清浄にし、その上でようやく自分の明白な義務
から仕事を再開するのだ。
もちろん、もしあなたが誰かを助ける機会があるなら、ぜひそうしなさい。
それも敏速にしなさい。
あなたが完全になるまで彼を待たせる必要はない。
だが、善行を職業にしてはいけない。(p362)
自己覚醒の成果
(自己覚醒の成果とは何か、というなら)
あなたはより知的に成長するのだ。
気づきのなかであなたは学ぶ。
自己覚醒のなかで、あなたは自分自身について学ぶのだ。
もちろん、あなたはあなたではないものだけを学ぶことができる。
あなたが何であるのかを知るには、マインドを超えた彼方へ行かなければな
らない。(p363)
気づきとは
気づきとはマインドがそれ自身の彼方にある実在のなかへ届こうとする点な
のだ。
気づきのなかで、あなたはあなたを喜ばすものを探すのではなく、真実なる
ものを探すのだ。(p363)
喜ばすものを探す
気づきとはマインドがそれ自身の彼方にある実在のなかへ届こうとする点な
のだ。
気づきのなかで、あなたはあなたを喜ばすものを探すのではなく、真実なる
ものを探すのだ。(p363)
感覚的な生にしがみつく
身体的崩壊は無意味だ。
感覚的な生にしがみつくことがあなたを束縛するのだ。
もしあなたが内面の虚空を完全に体験するなら、全体性のなかへの爆発は間
近なのだ。(p363)
内面の虚空を
感覚的な生にしがみつくことがあなたを束縛するのだ。
もしあなたが内面の虚空を完全に体験するなら、全体性のなかへの爆発は間
近なのだ。(p363)
意識における変化
意識における変化はすべて、「私は身体だ」という観念によるものだ。
この観念を取り除くことで、マインドは安定する。(p363)
マインドは安定する
意識における変化はすべて、「私は身体だ」という観念によるものだ。
この観念を取り除くことで、マインドは安定する。(p363)
純粋な存在A
意識における変化はすべて、「私は身体だ」という観念によるものだ。
この観念を取り除くことで、マインドは安定する。
特定の体験から自由な、純粋な存在がある。
だが、それを実現するには、あなたは師の言うことをしなければならない。
ただ聞くだけ、あるいは覚えることさえ充分ではないのだ。
日常生活のなかで、師の一言ひとことを適用するよう懸命に専念しないかぎ
り、あなたに進歩がないと不平を言ってはならない。(p363-364)
本当の進歩
本当の進歩とは、みな後戻りできないものだ。
上がったり下がったりは、教えがマインドに届いていず、完全に行動に移さ
れていないことを示しているのだ。(p364)
無数の原因
あなた自身を身体だと見なすかぎり、あなたはすべてに原因を帰するだろう。
私はものごとに原因がないとは言ってはいない。
それぞれのものごとには無数の原因がある。
それはあるがままだ。
なぜなら世界はあるがままだからだ。
すべての原因とその支流は宇宙を覆っている。(p364)
承諾するものになる
あなたにはあなたが承諾するものになる絶対の自由があり、あなたがあなた
であるように見えるのは無知あるいは無関心のためだと自覚したなら、反抗
し、変わることはあなたの自由だ。(p364)
絶対の自由
あなたにはあなたが承諾するものになる絶対の自由があり、あなたがあなた
であるように見えるのは無知あるいは無関心のためだと自覚したなら、反抗
し、変わることはあなたの自由だ。(p364)
無知 と 無関心
あなたにはあなたが承諾するものになる絶対の自由があり、あなたがあなた
であるように見えるのは無知あるいは無関心のためだと自覚したなら、反抗
し、変わることはあなたの自由だ。(p364)
あなたの自由
あなたにはあなたが承諾するものになる絶対の自由があり、あなたがあなた
であるように見えるのは無知あるいは無関心のためだと自覚したなら、反抗
し、変わることはあなたの自由だ。(p364)
原因 と 無知
あなたはあなた自身ではないものとして在ることを許している。
あなたはあなたではないものの存在の原因を探しているのだ!
それは無駄な探求だ。
すべての因果関係を超えた、完全なる真の存在に対するあなたの無知以外に
原因などない。
なぜなら、何が起ころうとも、責任はすべての宇宙にあり、そしてあなたが
宇宙の源だからだ。(p364)
無駄な探求
あなたはあなた自身ではないものとして在ることを許している。
あなたはあなたではないものの存在の原因を探しているのだ!
それは無駄な探求だ。
すべての因果関係を超えた、完全なる真の存在に対するあなたの無知以外に
原因などない。
なぜなら、何が起ころうとも、責任はすべての宇宙にあり、そしてあなたが
宇宙の源だからだ。(p364)
因果関係A
あなたはあなたではないものの存在の原因を探しているのだ!
それは無駄な探求だ。
すべての因果関係を超えた、完全なる真の存在に対するあなたの無知以外に
原因などない。
なぜなら、何が起ころうとも、責任はすべての宇宙にあり、そしてあなたが
宇宙の源だからだ。(p364)
無駄な行動
あなたが「私は身体だ」という病原体に侵されたとき、宇宙全体が存在のな
かに現れるのだ。
だが、あなたがもうこれ以上はたくさんだというほどそれを味わったとき、
解脱(げだつ)についての空想的な考えをマインドに抱いて、まったく無駄
な行動を追求しはじめる。
あなたは集中し、あなたは瞑想し、あなたはマインドと身体を苦しめて、あ
らゆる類(たぐい)の不必要なことをする。
だが、個人を消去するという本質的なことは見逃してしまうのだ。(p364)
個人を消去する
あなたが「私は身体だ」という病原体に侵されたとき、宇宙全体が存在のな
かに現れるのだ。
だが、あなたがもうこれ以上はたくさんだというほどそれを味わったとき、
解脱(げだつ)についての空想的な考えをマインドに抱いて、まったく無駄
な行動を追求しはじめる。
あなたは集中し、あなたは瞑想し、あなたはマインドと身体を苦しめて、あ
らゆる類(たぐい)の不必要なことをする。
だが、個人を消去するという本質的なことは見逃してしまうのだ。(p364)
本質的なことA
あなたが「私は身体だ」という病原体に侵されたとき、宇宙全体が存在のな
かに現れるのだ。
だが、あなたがもうこれ以上はたくさんだというほどそれを味わったとき、
解脱(げだつ)についての空想的な考えをマインドに抱いて、まったく無駄
な行動を追求しはじめる。
あなたは集中し、あなたは瞑想し、あなたはマインドと身体を苦しめて、あ
らゆる類(たぐい)の不必要なことをする。
だが、個人を消去するという本質的なことは見逃してしまうのだ。(p364)
時間の浪費A
(真我の探求の用意ができるまで、しばらく祈りと瞑想をするべきかも、というなら)
もしあなたがそう信じるなら、そうすればいい。
私にとっては、あらゆる遅れは時間の浪費だ。
あなたはすべての準備を飛び越え、内なる究極の探求に直接進むことができ
るのだ。
すべてのヨーガ(修練)のなかで、それがもっとも簡単で、最短なのだ。(p364)
不動性 と 無為
不動性と沈黙は無為ではないのだ。
花は空間を芳香で満たし、ロウソクは輝きで満たす。
それらは何もしないのに単なる存在だけですべてを変えてしまう。
あなたはロウソクの写真を撮ることはできても、輝きは撮れない。
あなたはその人の名前や姿を知ることはできても、彼の影響を知ることはで
きないのだ。
彼の存在自体が行為なのだ。(p365)
沈黙 と 無為
不動性と沈黙は無為ではないのだ。
花は空間を芳香で満たし、ロウソクは輝きで満たす。
それらは何もしないのに単なる存在だけですべてを変えてしまう。
あなたはロウソクの写真を撮ることはできても、輝きは撮れない。
あなたはその人の名前や姿を知ることはできても、彼の影響を知ることはで
きないのだ。
彼の存在自体が行為なのだ。(p365)
行為の根元
誰もが行動的でありたい。
だが、彼の行為の根元はどこにあるのだろうか?
そこに中心点なるものはないのだ。
無意味に、苦しみながら、果てしない連続の中でそれぞれの行為が別の行為
を生みだしていく。
働きと休息の交代はそこにはない。
あなたは車輪が車軸のまわりをまわっていくように周辺を旋回するのではな
く、つねに中心軸にいなければならないのだ。(p365-366)
果てしない連続
誰もが行動的でありたい。
だが、彼の行為の根元はどこにあるのだろうか?
そこに中心点なるものはないのだ。
無意味に、苦しみながら、果てしない連続の中でそれぞれの行為が別の行為
を生みだしていく。
働きと休息の交代はそこにはない。
あなたは車輪が車軸のまわりをまわっていくように周辺を旋回するのではな
く、つねに中心軸にいなければならないのだ。(p365-366)
つねに中心軸に
誰もが行動的でありたい。
だが、彼の行為の根元はどこにあるのだろうか?
そこに中心点なるものはないのだ。
無意味に、苦しみながら、果てしない連続の中でそれぞれの行為が別の行為
を生みだしていく。
働きと休息の交代はそこにはない。
あなたは車輪が車軸のまわりをまわっていくように周辺を旋回するのではな
く、つねに中心軸にいなければならないのだ。(p365-366)
欲望や恐れ
いつであれ、欲望や恐れについての思考や感情がマインドに現れたときには、
ただそれから注意をそむけなさい。
私は抑圧について語ってはいない。
ただ注意を払うことを拒みなさい。(p366)
注意をそむけなさい@
いつであれ、欲望や恐れについての思考や感情がマインドに現れたときには、
ただそれから注意をそむけなさい。
私は抑圧について語ってはいない。
ただ注意を払うことを拒みなさい。
それは努力とは何の関わりもない。
ただ目を背け、思考そのものではなく、思考と思考の間を見なさい。
群衆のなかを歩くとき、あなたは出会うすべての人と闘ったりはしない。
ただ、その合間に通る道を見いだすだけだ。(p366)
群衆のなかを歩く
いつであれ、欲望や恐れについての思考や感情がマインドに現れたときには、
ただそれから注意をそむけなさい。
私は抑圧について語ってはいない。
ただ注意を払うことを拒みなさい。
それは努力とは何の関わりもない。
ただ目を背け、思考そのものではなく、思考と思考の間を見なさい。
群衆のなかを歩くとき、あなたは出会うすべての人と闘ったりはしない。
ただ、その合間に通る道を見いだすだけだ。(p366)
ゲームをやめれば
もし闘えば、あなたは闘いを招く。
だが抵抗しなければ、あなたも抵抗にであうことはない。
ゲームをやめれば、あなたは無関係なのだ。(p366)
無関係
もし闘えば、あなたは闘いを招く。
だが抵抗しなければ、あなたも抵抗にであうことはない。
ゲームをやめれば、あなたは無関係なのだ。(p366)
マインドから自由
それ(マインドから自由になる)には千年の時がかかるかもしれない。
だが、本当は時間は必要としないのだ。
あなたに必要なのは、絶対的に真剣になることだ。
ここでは意志が実行だ。
もし真剣ならば、それはあなたのものだ。
結局、それは態度の問題なのだ。
今ここであなたがジニャーニとなることを、恐れ以外の何も妨げてはいない。
あなたは非人格として在ること、あるいは非人格的存在を恐れているのだ。
ことはまったくシンプルだ。
欲望と恐れから、そしてそれらが生み出す想念から注意をそむけなさい。
そうすれば、あなたは即座に自然な状態のなかにあるだろう。(p366)
絶対的に真剣
それ(マインドから自由になる)には千年の時がかかるかもしれない。
だが、本当は時間は必要としないのだ。
あなたに必要なのは、絶対的に真剣になることだ。
ここでは意志が実行だ。
もし真剣ならば、それはあなたのものだ。
結局、それは態度の問題なのだ。
今ここであなたがジニャーニとなることを、恐れ以外の何も妨げてはいない。
あなたは非人格として在ること、あるいは非人格的存在を恐れているのだ。
ことはまったくシンプルだ。
欲望と恐れから、そしてそれらが生み出す想念から注意をそむけなさい。
そうすれば、あなたは即座に自然な状態のなかにあるだろう。(p366)
態度の問題
それ(マインドから自由になる)には千年の時がかかるかもしれない。
だが、本当は時間は必要としないのだ。
あなたに必要なのは、絶対的に真剣になることだ。
ここでは意志が実行だ。
もし真剣ならば、それはあなたのものだ。
結局、それは態度の問題なのだ。
今ここであなたがジニャーニとなることを、恐れ以外の何も妨げてはいない。
あなたは非人格として在ること、あるいは非人格的存在を恐れているのだ。
ことはまったくシンプルだ。
欲望と恐れから、そしてそれらが生み出す想念から注意をそむけなさい。
そうすれば、あなたは即座に自然な状態のなかにあるだろう。(p366)
非人格的存在
それ(マインドから自由になる)には千年の時がかかるかもしれない。
だが、本当は時間は必要としないのだ。
あなたに必要なのは、絶対的に真剣になることだ。
ここでは意志が実行だ。
もし真剣ならば、それはあなたのものだ。
結局、それは態度の問題なのだ。
今ここであなたがジニャーニとなることを、恐れ以外の何も妨げてはいない。
あなたは非人格として在ること、あるいは非人格的存在を恐れているのだ。
ことはまったくシンプルだ。
欲望と恐れから、そしてそれらが生み出す想念から注意をそむけなさい。
そうすれば、あなたは即座に自然な状態のなかにあるだろう。(p366)
欲望と恐れ@
今ここであなたがジニャーニとなることを、恐れ以外の何も妨げてはいない。
あなたは非人格として在ること、あるいは非人格的存在を恐れているのだ。
ことはまったくシンプルだ。
欲望と恐れから、そしてそれらが生み出す想念から注意をそむけなさい。
そうすれば、あなたは即座に自然な状態のなかにあるだろう。(p366)
注意をそむけなさいB
今ここであなたがジニャーニとなることを、恐れ以外の何も妨げてはいない。
あなたは非人格として在ること、あるいは非人格的存在を恐れているのだ。
ことはまったくシンプルだ。
欲望と恐れから、そしてそれらが生み出す想念から注意をそむけなさい。
そうすれば、あなたは即座に自然な状態のなかにあるだろう。(p366)
去来する想念
(マインドの修正や、変更や、消去といった問題は)絶対にない。
マインドは放っておきなさい。
それだけだ。
それについていってはならない。
結局、あなたの法則ではなく、それ自体の法則に従って去来する想念を離れ
て、マインドというものは存在しないのだ。
ただあなたが興味を持つために、マインドに支配されてしまうのだ。
まさにキリストが、「悪にはむかうことなかれ」と言ったごとくだ。
悪に抵抗することで、単にあなたはそれを強調してしまう。(p366)
興味を持つために
(マインドの修正や、変更や、消去といった問題は)絶対にない。
マインドは放っておきなさい。
それだけだ。
それについていってはならない。
結局、あなたの法則ではなく、それ自体の法則に従って去来する想念を離れ
て、マインドというものは存在しないのだ。
ただあなたが興味を持つために、マインドに支配されてしまうのだ。
まさにキリストが、「悪にはむかうことなかれ」と言ったごとくだ。
悪に抵抗することで、単にあなたはそれを強調してしまう。(p366)
悪にはむかう
マインドは放っておきなさい。
それだけだ。
それについていってはならない。
結局、あなたの法則ではなく、それ自体の法則に従って去来する想念を離れ
て、マインドというものは存在しないのだ。
ただあなたが興味を持つために、マインドに支配されてしまうのだ。
まさにキリストが、「悪にはむかうことなかれ」と言ったごとくだ。
悪に抵抗することで、単にあなたはそれを強調してしまう。(p366)
抵抗 と 強調
マインドは放っておきなさい。
それだけだ。
それについていってはならない。
結局、あなたの法則ではなく、それ自体の法則に従って去来する想念を離れ
て、マインドというものは存在しないのだ。
ただあなたが興味を持つために、マインドに支配されてしまうのだ。
まさにキリストが、「悪にはむかうことなかれ」と言ったごとくだ。
悪に抵抗することで、単にあなたはそれを強調してしまう。(p366)
自己暗示
自己暗示は、あなたが善と悪の狭間(はざま)に捕らわれ、あなた自身を個
人と見なしている今、もっとも強力に作用しているではないか。
私があなたに求めていることは、それをやめることなのだ。
目を覚まし、ものごとをあるがままに見なさい。(p367)
あなたとは
あなたとは、得たり失ったりできるような何かからまったく離れたものなの
だ。(p367)
放棄
そこに放棄するようなものは何もない。
もしあなたが獲得することをやめるなら、それで充分だ。
与えるためにはもたなければならない。
もつためには取らなければならない。
取らないほうがいいのだ。
それは「霊的な」自尊心となる危険性のある放棄を行うよりもシンプルだ。(p367)
獲得をやめる
そこに放棄するようなものは何もない。
もしあなたが獲得することをやめるなら、それで充分だ。
与えるためにはもたなければならない。
もつためには取らなければならない。
取らないほうがいいのだ。
それは「霊的な」自尊心となる危険性のある放棄を行うよりもシンプルだ。(p367)
与えるためには
そこに放棄するようなものは何もない。
もしあなたが獲得することをやめるなら、それで充分だ。
与えるためにはもたなければならない。
もつためには取らなければならない。
取らないほうがいいのだ。
それは「霊的な」自尊心となる危険性のある放棄を行うよりもシンプルだ。(p367)
取らないほうがいい
そこに放棄するようなものは何もない。
もしあなたが獲得することをやめるなら、それで充分だ。
与えるためにはもたなければならない。
もつためには取らなければならない。
取らないほうがいいのだ。
それは「霊的な」自尊心となる危険性のある放棄を行うよりもシンプルだ。(p367)
「霊的」マーケット
この、秤(はかり)にかけ、選択し、選定し、交換するといったすべてのこ
とは、「霊的」マーケットでのショッピングなのだ。
いったいあなたに何の関わりがあるというのだろう?
どんな取引をするというのだろうか?
あなたがビジネスをしようと躍起になっていないとき、この選択の果てしな
い不安が何の役に立つというのだろう?
落ち着きのなさは、あなたをどこへも連れていきはしない。
あなたには何も必要ないとあなたが理解することを、何かが妨げているのだ。
それを見つけだしなさい。
そして、それが偽りであることを見極めなさい。
それはある毒を飲み込んで、水への抑えきれない渇望に苦しむようなものだ。
かぎりなく水を飲み込むよりも、毒を消去してこの焼けつくような渇きから
自由になったらどうかね?(p367)
落ち着きのなさA
この、秤(はかり)にかけ、選択し、選定し、交換するといったすべてのこ
とは、「霊的」マーケットでのショッピングなのだ。
いったいあなたに何の関わりがあるというのだろう?
どんな取引をするというのだろうか?
あなたがビジネスをしようと躍起になっていないとき、この選択の果てしな
い不安が何の役に立つというのだろう?
落ち着きのなさは、あなたをどこへも連れていきはしない。
あなたには何も必要ないとあなたが理解することを、何かが妨げているのだ。
それを見つけだしなさい。
そして、それが偽りであることを見極めなさい。
それはある毒を飲み込んで、水への抑えきれない渇望に苦しむようなものだ。
かぎりなく水を飲み込むよりも、毒を消去してこの焼けつくような渇きから
自由になったらどうかね?(p367)
何も必要ないA
この、秤(はかり)にかけ、選択し、選定し、交換するといったすべてのこ
とは、「霊的」マーケットでのショッピングなのだ。
いったいあなたに何の関わりがあるというのだろう?
どんな取引をするというのだろうか?
あなたがビジネスをしようと躍起になっていないとき、この選択の果てしな
い不安が何の役に立つというのだろう?
落ち着きのなさは、あなたをどこへも連れていきはしない。
あなたには何も必要ないとあなたが理解することを、何かが妨げているのだ。
それを見つけだしなさい。
そして、それが偽りであることを見極めなさい。
それはある毒を飲み込んで、水への抑えきれない渇望に苦しむようなものだ。
かぎりなく水を飲み込むよりも、毒を消去してこの焼けつくような渇きから
自由になったらどうかね?(p367)
毒
「私は時間と空間のなかの個人だ」という感覚が毒なのだ。
ある意味では、時間そのものが毒だ。
時間のなかで、すべてのものごとが終焉(しゅうえん)し、新たに滅ぼされ
るために生まれてくる。
時間と自己同一化してはならない。
不安げに「つぎは何か、つぎは何か?」と尋ねてはならない。
時間から外に踏みだして、それが世界を滅ぼすのを見るがいい。
そして言うがいい。
「すべてを終わらせることが時間の本性なのだ。そうあらしめればいい。そ
れは私には関わりない。私は燃えつきるものではなく、燃料を集める必要も
ないのだ」と。(p367)
つぎは何か?
「私は時間と空間のなかの個人だ」という感覚が毒なのだ。
ある意味では、時間そのものが毒だ。
時間のなかで、すべてのものごとが終焉(しゅうえん)し、新たに滅ぼされ
るために生まれてくる。
時間と自己同一化してはならない。
不安げに「つぎは何か、つぎは何か?」と尋ねてはならない。
時間から外に踏みだして、それが世界を滅ぼすのを見るがいい。
そして言うがいい。
「すべてを終わらせることが時間の本性なのだ。そうあらしめればいい。そ
れは私には関わりない。私は燃えつきるものではなく、燃料を集める必要も
ないのだ」と。(p367)
時間の本性
「私は時間と空間のなかの個人だ」という感覚が毒なのだ。
ある意味では、時間そのものが毒だ。
時間のなかで、すべてのものごとが終焉(しゅうえん)し、新たに滅ぼされ
るために生まれてくる。
時間と自己同一化してはならない。
不安げに「つぎは何か、つぎは何か?」と尋ねてはならない。
時間から外に踏みだして、それが世界を滅ぼすのを見るがいい。
そして言うがいい。
「すべてを終わらせることが時間の本性なのだ。そうあらしめればいい。そ
れは私には関わりない。私は燃えつきるものではなく、燃料を集める必要も
ないのだ」と。(p367)
過剰な興味
そこにはつねに観照される何かがある。
もし観照されるものがなければ、その不在がある。
観照は自然なもので、問題のないものだ。
問題は自己同一化に導く、過剰な興味なのだ。
何であれあなたを没頭させるものを、あなたは実在と見なしてしまう。(p368)
帰属しないもの
純粋で、混じり気なく、帰属しないものが実在だ。
汚染され、混じりあい、依存し、はかないものが非実在だ。
言葉に惑わされてはならない。
ひとつの言葉が多くの矛盾した意味を伝えることさえあるのだ。
快楽を追求し、不快を避ける「私は在る」は偽りだ。
快楽と苦痛を分割できないものとして見る「私は在る」は、正しく見ている。
知覚するものに巻き込まれた観照者が個人なのだ。
超然と離れて動じない観照者が実在の見張り塔であり、それは非顕現に固有
である気づきが顕現に接触する点だ。
観照者なしに宇宙はありえない。
宇宙なしに観照者はありえないのだ。(p368)
実在 と 非実在@
純粋で、混じり気なく、帰属しないものが実在だ。
汚染され、混じりあい、依存し、はかないものが非実在だ。
言葉に惑わされてはならない。
ひとつの言葉が多くの矛盾した意味を伝えることさえあるのだ。
快楽を追求し、不快を避ける「私は在る」は偽りだ。
快楽と苦痛を分割できないものとして見る「私は在る」は、正しく見ている。
知覚するものに巻き込まれた観照者が個人なのだ。
超然と離れて動じない観照者が実在の見張り塔であり、それは非顕現に固有
である気づきが顕現に接触する点だ。
観照者なしに宇宙はありえない。
宇宙なしに観照者はありえないのだ。(p368)
懐中電灯をもって
(時間を観照するのは)時間を超えた、名づけられないものだ。
光を放って輝く燃えさしをぐるぐる速くまわすと、輝く輪として現れる。
その動きが止んでも、燃えさしは残る。
同じように、動きのなかの「私は在る」が世界をつくり出すのだ。
「私は在る」が休息しているとき、それは絶対となる。
あなたは懐中電灯をもって回廊を渡り歩く人のようだ。
あなたは光線のなかのものしか見ることができない。
他は暗闇なのだ。(p368)
世界を変える@
(世界を変えることは)もちろんできる。
しかし、あなたはそれと自己同一化することをやめ、彼方へと超えていかな
ければならない。
そのとき、あなたは破壊し、再創造する力を持つのだ。(p368)
自由が欲しい
(自由が欲しいのなら)あなたは二つのことを知らなければならない。
あなたが何から自由になるのか、そして何があなたを束縛しているのかだ。(p368)
宇宙に関心はない
私は宇宙に関心はない。
それはあるままで、あるいはないままで構わずにおこう。
もし私が私自身を知るならば、それで充分なのだ。(p368)
世界を哀れむ
私は宇宙に関心はない。
それはあるままで、あるいはないままで構わずにおこう。
もし私が私自身を知るならば、それで充分なのだ。
存在しない世界を哀れむのではなく、存在する自己を哀れむがいい。
夢に巻き込まれて、あなたは真我を忘れてしまったのだ。(p368-369)
望ましいもの
望ましいものは望む人たちにまかせておきなさい。
あなたの欲望の流れを、取ることから与えることへと変えなさい。
与えること、分かちあうことへの情熱は、あなたのマインドから外面的な世
界という観念を、そして与えるという観念さえも自然に洗い流してしまうの
だ。(p369)
欲望の流れを
望ましいものは望む人たちにまかせておきなさい。
あなたの欲望の流れを、取ることから与えることへと変えなさい。
与えること、分かちあうことへの情熱は、あなたのマインドから外面的な世
界という観念を、そして与えるという観念さえも自然に洗い流してしまうの
だ。
そして与えることも受け取ることも超えた、純粋な愛の輝きだけがそこに残
るだろう。(p369)
愛とは
愛とは分かつことと区別することへの拒絶だ。
統合を考える前に、まずあなたは二元性をつくり出さなければならない。
本当に愛するとき、あなたは、「私はあなたを愛している」とは言わない。
思考があるところに二元性があるのだ。(p369)
インド
そこにはまた、霊的な側面もある。
内面と外面の区別がインドではより少ないのだ。
統合はよりたやすい。
社会はそれほど抑圧的ではないのだ。(p369)
グナ(属性)
あなたはグナ(属性)を超えてはいけないのだろうか?
なぜサットヴァを選ぶのだろう?
どこへ行こうとも、あなたのままでありなさい。
グナを気にかけてはいけない。(p369)
世界 の 力
どうしてあなた自身の環境をつくり出さないのだろうか?
世界はあなたがそれに与えるだけの力しか、あなたに対して持ってはいない
のだ。
反抗しなさい。
二元性を超えていきなさい。
西洋と東洋の違いをつくってはならない。(p370)
霊的でない環境
(非常に霊的でない環境に自分を見いだしたとき)何もしてはいけない。
あなた自身でありなさい。
離れて在りなさい。
彼方を見るのだ。(p370)
同じこと
あなたがあなたの真の存在を知るとき、問題はなくなるのだ。
あなたが両親を喜ばせようと喜ばせまいと、結婚しようとしまいと、たくさ
んの富をつくろうとつくるまいと、それはみなあなたにとって同じことなの
だ。
ただ環境にしたがって行動しなさい。
それでもあらゆる状況で、事実と実在に親密に触れながら。(p370)
恐れのないこと
いいや、それはまったく普通の状態なのだ。
あなたがそれを高いと呼ぶのは恐れがあるからだ。
まず、恐れから自由になりなさい。
何も恐れるものはないことを知りなさい。
恐れのないことが至高なるものへの扉なのだ。(p370)
混雑した通り
あなたが恐れるものは何もないことを見るとき、恐れのない状態はひとりで
にやってくるのだ。
混雑した通りを歩くとき、あなたはただ人びとを通り越していく。
何人かを見て、何人かは一瞥(いちべつ)するだけだ。
だが、あなたは止まらない。
障害をつくり出すのは止まるからなのだ。
動きつづけなさい。
名前や形を無視しなさい。
それらに執着してはいけない。
あなたの執着が束縛なのだ。(p370)
止まらない
あなたが恐れるものは何もないことを見るとき、恐れのない状態はひとりで
にやってくるのだ。
混雑した通りを歩くとき、あなたはただ人びとを通り越していく。
何人かを見て、何人かは一瞥(いちべつ)するだけだ。
だが、あなたは止まらない。
障害をつくり出すのは止まるからなのだ。
動きつづけなさい。
名前や形を無視しなさい。
それらに執着してはいけない。
あなたの執着が束縛なのだ。(p370)
死 と 再生
古い宝飾品を新たにつくり直す宝石細工師たちは、最初にそれを形のない金
の状態に溶解する。
同じように、新しい名前と形が出現する前に、人は根元の状態に戻らなけれ
ばならない。
死は再生のために本質的なものなのだ。(p371)
正しさ と 間違い
自分自身であることが正しく、自分自身でないことが間違いだ。
それ以外はすべて条件づけだ。
行動の基盤を必要とするために、あなたは正しさと間違いを分離することに
熱心なのだ。
あなたはいつも何かを追求している。
だが、個人的に動機づけられ、何らかの価値の尺度に基づき、ある結果を狙
った行為は無為よりも一層悪い。
なぜならその結果はつねに苦いものだからだ。(p371)
結果を狙った行為
自分自身であることが正しく、自分自身でないことが間違いだ。
それ以外はすべて条件づけだ。
行動の基盤を必要とするために、あなたは正しさと間違いを分離することに
熱心なのだ。
あなたはいつも何かを追求している。
だが、個人的に動機づけられ、何らかの価値の尺度に基づき、ある結果を狙
った行為は無為よりも一層悪い。
なぜならその結果はつねに苦いものだからだ。(p371)
気づき と 愛
(気づきと愛はひとつかと言うなら)もちろんだ。
気づきは動的で、愛は存在だ。
気づきとは行為のなかの愛なのだ。
マインドはそれ自体で無数の可能性を実現することができる。
だが、愛によって喚起されないかぎり、それらに価値はない。
愛は創造に先行する。
それなしでは、ただの混沌(こんとん)となってしまう。(p371)
愛 と 創造
マインドはそれ自体で無数の可能性を実現することができる。
だが、愛によって喚起されないかぎり、それらに価値はない。
愛は創造に先行する。
それなしでは、ただの混沌(こんとん)となってしまう。(p371)
真の行為
あなたは救いようのないほど行為に取りつかれている!
動き、落ち着きのなさ、苦悩がそこにないかぎり、あなたはそれを行為とは
呼ばないのだ。
混沌とは動きのための動きなのだ。
真の行為は置き換えるのではない。
それは変容するのだ。
場所の変化は単なる移動にすぎない。
ハートの変化が行為なのだ。
ただ覚えておきなさい。
知覚できるものは何ひとつ実在ではない。
活動は行為ではない。
行為とは秘められた、未知で、不可知のものだ。
あなたはその結果を知ることができるだけだ。(p371)
活動 と 行為
混沌とは動きのための動きなのだ。
真の行為は置き換えるのではない。
それは変容するのだ。
場所の変化は単なる移動にすぎない。
ハートの変化が行為なのだ。
ただ覚えておきなさい。
知覚できるものは何ひとつ実在ではない。
活動は行為ではない。
行為とは秘められた、未知で、不可知のものだ。
あなたはその結果を知ることができるだけだ。(p371)
神 と 行為者
なぜ、(神という)外側の行為者をもちこむのだろうか?
世界はそれ自体からそれ自体を再創造するのだ。
それは一時的なものが一時的なものを生みだしていく果てしない過程だ。
そこに行為者がいなければならないとあなたに考えさせるのは自我なのだ。
どれほど恐ろしいイメージであろうとも、あなたがあなた自身のイメージに
よって神をつくり出すのだ。
あなたのマインドのフィルムを通して世界を投影し、そして原因と目的を与
えるために神をも投影する。
それはすべて想像なのだ。
その外へと踏みだしなさい。(p371)
世界 と 神
世界はそれ自体からそれ自体を再創造するのだ。
それは一時的なものが一時的なものを生みだしていく果てしない過程だ。
そこに行為者がいなければならないとあなたに考えさせるのは自我なのだ。
どれほど恐ろしいイメージであろうとも、あなたがあなた自身のイメージに
よって神をつくり出すのだ。
あなたのマインドのフィルムを通して世界を投影し、そして原因と目的を与
えるために神をも投影する。
それはすべて想像なのだ。
その外へと踏みだしなさい。(p371)
果てしない過程
世界はそれ自体からそれ自体を再創造するのだ。
それは一時的なものが一時的なものを生みだしていく果てしない過程だ。
そこに行為者がいなければならないとあなたに考えさせるのは自我なのだ。
どれほど恐ろしいイメージであろうとも、あなたがあなた自身のイメージに
よって神をつくり出すのだ。
あなたのマインドのフィルムを通して世界を投影し、そして原因と目的を与
えるために神をも投影する。
それはすべて想像なのだ。
その外へと踏みだしなさい。(p371)
行為者 と 自我
なぜ、(神という)外側の行為者をもちこむのだろうか?
世界はそれ自体からそれ自体を再創造するのだ。
それは一時的なものが一時的なものを生みだしていく果てしない過程だ。
そこに行為者がいなければならないとあなたに考えさせるのは自我なのだ。
どれほど恐ろしいイメージであろうとも、あなたがあなた自身のイメージに
よって神をつくり出すのだ。
あなたのマインドのフィルムを通して世界を投影し、そして原因と目的を与
えるために神をも投影する。
それはすべて想像なのだ。
その外へと踏みだしなさい。(p371)
すべて想像
世界はそれ自体からそれ自体を再創造するのだ。
それは一時的なものが一時的なものを生みだしていく果てしない過程だ。
そこに行為者がいなければならないとあなたに考えさせるのは自我なのだ。
どれほど恐ろしいイメージであろうとも、あなたがあなた自身のイメージに
よって神をつくり出すのだ。
あなたのマインドのフィルムを通して世界を投影し、そして原因と目的を与
えるために神をも投影する。
それはすべて想像なのだ。
その外へと踏みだしなさい。(p371)
想像の神秘
本当に実在のように見えることが想像の神秘なのだ。
あなたは禁欲主義者か、あるいは結婚しているかもしれない。
修行僧か、あるいは家庭をもつ人かもしれない。
それは要点ではないのだ。
あなたは自分の想像の奴隷だろうか、あるいは違うだろうか?
あなたがいかなる決定をしようとも、いかなる仕事をしようとも、それは変
わることなく想像、想定が事実として誇示していることにいつも基づいてい
るのだ。(p371-372)
実存 は 想像
(ここで私がはあなたの前に座っているそのどの部分が想像なのか、というなら)
その全体だ。
空間と時間さえ想像のものだ。
(それはつまり、私は存在しないということなのか、というなら)
私もまた存在しない。
すべての実存(イクジスタンス)は想像されたものなのだ。(p372)
すべての限界は
(存在(ビーイング)もまた想像上のものか、というなら)
すべてを満たし、すべてを超えた純粋な存在は、限定された実存ではない。
すべての限界は想像上のものだ。
無限のものだけが実在なのだ。(p372)
限界 と 無限
すべての実存(イクジスタンス)は想像されたものなのだ。
すべてを満たし、すべてを超えた純粋な存在は、限定された実存ではない。
すべての限界は想像上のものだ。
無限のものだけが実在なのだ。(p372)
観照者の彼方
それ(私が何を見るか)はどのように見るかによる。
マインドを通して見るとき、私は無数の人びとを見る。
マインドの彼方を見るとき、私は観照者を見る。
観照者の彼方には虚空と沈黙のかぎりない強烈さがあるのだ。(p372)
計画を立てる
どうして、何のために計画を立てるのかね?
そのような質問は不安の現れだ。
関係性は生きものだ。
ただあなたのマインドのなかで平和に在りなさい。
そうすれば、あなたはすべての人と平和に在ることだろう。
あなたが起こることの支配者でないことを自覚しなさい。
純粋に技術的なこと以外、あなたに未来をコントロールすることはできない
のだ。
人間同士の関係性は、計画どおりにはいかないものだ。
それはあまりにも豊かで多様なのだ。
ただ理解し、慈悲深くありなさい。
すべての利己主義から自由になりなさい。(p372)
関係性
関係性は生きものだ。
ただあなたのマインドのなかで平和に在りなさい。
そうすれば、あなたはすべての人と平和に在ることだろう。
あなたが起こることの支配者でないことを自覚しなさい。
純粋に技術的なこと以外、あなたに未来をコントロールすることはできない
のだ。
人間同士の関係性は、計画どおりにはいかないものだ。
それはあまりにも豊かで多様なのだ。
ただ理解し、慈悲深くありなさい。
すべての利己主義から自由になりなさい。(p372)
支配者 と 奴隷
(起こることの)支配者にも奴隷にもなってはいけない。
超然と離れて在りなさい。(p373)
超然と離れて@
(起こることの)支配者にも奴隷にもなってはいけない。
超然と離れて在りなさい。(p373)
行為 と 意志
行為を避けることはできない。
それはほかのすべてのように起こるのだ。
試してみるがいい。
しなければならないことをするのだということを、あなたはすぐに理解する
だろう。
行為した後になって、はじめてあなたはあなたの意志を知るのだ。(p373)
自由意志
いいや(あなたには欲望をもつ自由はない)。
あなたは欲望に強制されるのだ。
ヒンドゥー教では自由意志という概念自体が不在だ。
だから、そのための言葉もないのだ。
意志とは拘束、固定、束縛だ。(p373)
意志とはA
いいや(あなたには欲望をもつ自由はない)。
あなたは欲望に強制されるのだ。
ヒンドゥー教では自由意志という概念自体が不在だ。
だから、そのための言葉もないのだ。
意志とは拘束、固定、束縛だ。(p373)
自由 と 運命
あなたはまず、自由にならなければならない。
世界のなかで自由になるには、世界から自由にならなければならない。
さもなければ、あなたの過去があなたとあなたの本来のために決定するのだ。
起こったことと起こらなければならないことの間に、あなたは捕らわれてい
る。
それを運命、あるいはカルマと呼ぶがいい。
だが、けっして自由ではない。
まず、あなたの真の存在に戻りなさい。
そして愛のハートから行為するのだ。(p373)
顕現を調べてみなさい
(顕現のなかで、非顕現の特徴をもっているものは)
何もない。
あなたが非顕現の特徴を探しだそうとする瞬間、顕現は消え去るのだ。
もし非顕現をマインドで理解しようとするならば、あなたは即座にマインド
を超えるだろう。
木の棒で火をかきまわすときのように、棒は燃えつきてしまうのだ。
マインドを用いて、顕現を調べてみなさい。
卵の殻(から)をつつく、ヒヨコのようでありなさい。
殻の外側の人生を殻のなかで憶測していても、何の役にも立たない。
だが、殻を内側からつつくことがヒヨコを解放するのだ。
同じように、調べることと、矛盾や愚かしさを露わにすることで、内側から
マインドの殻を破りなさい。(p373)
卵の殻をつつく
あなたが非顕現の特徴を探しだそうとする瞬間、顕現は消え去るのだ。
もし非顕現をマインドで理解しようとするならば、あなたは即座にマインド
を超えるだろう。
木の棒で火をかきまわすときのように、棒は燃えつきてしまうのだ。
マインドを用いて、顕現を調べてみなさい。
卵の殻(から)をつつく、ヒヨコのようでありなさい。
殻の外側の人生を殻のなかで憶測していても、何の役にも立たない。
だが、殻を内側からつつくことがヒヨコを解放するのだ。
同じように、調べることと、矛盾や愚かしさを露わにすることで、内側から
マインドの殻を破りなさい。(p373)
個人 と 観照者A
個人は何の役にも立たない。
それは自分の関心事に深く巻きこまれ、その真の存在に完全に無知なのだ。
観照意識が個人に働きかけないかぎり、そして個人が観察の主体よりも、む
しろ対象とならないかぎり、真我の実現は不可能だ。
真我の実現を望むべき達成可能なものとするのは、観照者なのだ。
個人が自ら観照者になることはない。
それでは冷たいロウソクがやがて自ら火を灯(とも)すことを期待するよう
なものだ。
個人は気づきの炎に触れられないかぎり、無知の暗闇の中に永遠にとどまる
こともありうる。(p374)
ロウソクに火
(ロウソクに火を灯すのは)グルだ。
彼の言葉、彼の臨在だ。
インドでは、しばしばそれはマントラだ。
ひとたびロウソクに火が灯れば、炎はロウソクを燃やし尽くすのだ。
絶え間ないマントラの復唱は、個人が自分のためにするような何かではない。
ロウソクが燃えるほどロウソクが増えていくということがないように、その
恩寵(おんちょう)を受ける人は個人ではないのだ。(p375)
恩寵(おんちょう) と 個人
(ロウソクに火を灯すのは)グルだ。
彼の言葉、彼の臨在だ。
インドでは、しばしばそれはマントラだ。
ひとたびロウソクに火が灯れば、炎はロウソクを燃やし尽くすのだ。
絶え間ないマントラの復唱は、個人が自分のためにするような何かではない。
ロウソクが燃えるほどロウソクが増えていくということがないように、その
恩寵(おんちょう)を受ける人は個人ではないのだ。(p375)
個人 と 観照者B
火花が点火される前には、違いを知覚する観照者がいない。
個人は意識しているかもしれない。
だが、意識していることには気づいていない。
個人は考えること、感じること、体験することと完全に自己同一化している。
その中の暗闇も、個人が自らつくり出したものだ。
暗闇が疑われたとき、それは解け去る。
疑おうとする欲望は、グルによって植えつけられるものだ。
別の言葉で言えば、個人と観照者との違いは、自分自身を知っていることと、
知らないことにある。
そこに調和(サットヴァ)があるとき、意識のなかで見られる世界は意識の
本性として在る。
だが活動性(ラジャス)や受動性(タマス)が現れるとき、それらは覆い隠
し、歪(ゆが)ませ、そうしてあなたに偽りを実在として見せるのだ。(p375)
グルの恩寵A
準備への欲望自体が、グルがすでに訪れ、炎が灯されたことを意味している。
それは偶然出くわすひとつの言葉、あるいは本のなかの1ページかもしれな
い。
グルの恩寵は神秘的に働くのだ。(p375)
サーダナ と 個人
サーダナをするのは個人ではない。
個人は不安で、最後の最後まで抵抗する。
個人とその幻想、過去、現在、未来全体に働きかけるのは観照者なのだ。(p375-376)
真理の証拠@
真理の証拠は聞き手への影響のなかにあるのだ。
影響がかならずしも体験である必要はない。
それは人格、動機、人々との、そして自己との関係性における変化でもあり
うる。
言葉や薬物、あるいはほかのいかなる感覚的、精神的方法で誘導された超越
状態や幻想も一時的なもので、決定的とは言えない。
ここで語られた真理は不動の、永遠のものだ。
そしてその証拠は聞き手のなかに、彼の存在全体における深い永続的な変化
のなかにあるのだ。
彼自身の自己の存在を疑わないかぎり、その証拠は彼が疑えるようなもので
はない。
わたしの体験があなた自身の体験となったとき、それ以上の証拠をあなたは
求めるだろうか?(p376)
証拠は聞き手のなかに
影響がかならずしも体験である必要はない。
それは人格、動機、人々との、そして自己との関係性における変化でもあり
うる。
言葉や薬物、あるいはほかのいかなる感覚的、精神的方法で誘導された超越
状態や幻想も一時的なもので、決定的とは言えない。
ここで語られた真理は不動の、永遠のものだ。
そしてその証拠は聞き手のなかに、彼の存在全体における深い永続的な変化
のなかにあるのだ。
彼自身の自己の存在を疑わないかぎり、その証拠は彼が疑えるようなもので
はない。(p376)
体験者 と 証拠
体験者が彼の体験の証拠だ。
だが、体験者に証拠は必要ないのだ。
「私は在る」、そして私は「私は在る」と知っている。
それ以上の証拠を望むことはできない。(p376)
ものごとの真の知識
(ものごとの真の知識というものは)相対的見地からすれば――ある。
絶対的見地からすれば――ものごとといったものはないのだ。
何も存在しないことを知ることが、真の知識だ。(p376)
相対性 と 絶対性
それら(相対性と絶対性)は同一のものだ。
言葉が話された後、そこには沈黙がある。
相対性が終わったとき、絶対性が残るのだ。
言葉が話される前の沈黙は、話された後の沈黙と異なるだろうか?
沈黙はひとつであり、それなしには言葉も聞こえなかっただろう。
それはつねに言葉の背景にあるのだ。
あなたの注意を言葉から沈黙へと移行しなさい。
そうすれば、あなたは聞くだろう。(p376)
言葉 と 沈黙A
言葉が話された後、そこには沈黙がある。
相対性が終わったとき、絶対性が残るのだ。
言葉が話される前の沈黙は、話された後の沈黙と異なるだろうか?
沈黙はひとつであり、それなしには言葉も聞こえなかっただろう。
それはつねに言葉の背景にあるのだ。
あなたの注意を言葉から沈黙へと移行しなさい。
そうすれば、あなたは聞くだろう。(p376)
体験を熱望する
マインドは記憶をその知識とするために、体験を熱望する。
ジニャーニはすべての体験を超えている。
そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。(p376)
マインド と ジニャーニ
マインドは記憶をその知識とするために、体験を熱望する。
ジニャーニはすべての体験を超えている。
そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。
だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。
ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
のだ。(p376-377)
ジニャーニ と 記憶
ジニャーニはすべての体験を超えている。
そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。(p376-377)
ジニャーニ と 関係
ジニャーニはすべての体験を超えている。
そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。(p376-377)
完全に無関係
ジニャーニはすべての体験を超えている。
そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。(p376-377)
マインド と 実在@
マインドは記憶をその知識とするために、体験を熱望する。
ジニャーニはすべての体験を超えている。
そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。
だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。
ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
のだ。(p376-377)
言語的な形態
マインドは記憶をその知識とするために、体験を熱望する。
ジニャーニはすべての体験を超えている。
そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。
だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。
ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
のだ。(p376-377)
本質的にひとり
マインドは記憶をその知識とするために、体験を熱望する。
ジニャーニはすべての体験を超えている。
そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。
だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。
ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
のだ。(p376-377)
非実在を実在と
マインドは記憶をその知識とするために、体験を熱望する。
ジニャーニはすべての体験を超えている。
そして彼は過去の記憶をもたないのだ。
彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
だがマインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のな
かに押しこもうと熱心なのだ。
すべてにおいてそれは観念を求める。
なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。
実在は本質的にひとりなのだ。
だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。
ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことな
のだ。(p376-377)
実在を見る
実在を見るという状態はない。
誰が何を見るというのだろう?
あなたは実在として在ることができるだけだ。
いづれにせよ、あなたは実在なのだ。
問題はただ精神的なものだ。
偽りの概念を放棄しなさい。
それだけだ。
真の概念など必要ない。
そんなものはないのだ。(p377)
問題はただ精神的なもの
実在を見るという状態はない。
誰が何を見るというのだろう?
あなたは実在として在ることができるだけだ。
いづれにせよ、あなたは実在なのだ。
問題はただ精神的なものだ。
偽りの概念を放棄しなさい。
それだけだ。
真の概念など必要ない。
そんなものはないのだ。(p377)
真の概念
実在を見るという状態はない。
誰が何を見るというのだろう?
あなたは実在として在ることができるだけだ。
いづれにせよ、あなたは実在なのだ。
問題はただ精神的なものだ。
偽りの概念を放棄しなさい。
それだけだ。
真の概念など必要ない。
そんなものはないのだ。(p377)
マインド と 目的
マインドは目的をもたなければならない。
非実在からマインドを自由にするように奨励することは、何らかの見返りを
約束することだ。
実際には目的の必要などない。
偽りから自由になること自体が良いことなのだ。
それは報酬を求めてはいない。
それはまったく汚れずにいるようなものだ。
それ自体がその報酬なのだ。(p377)
自己知識の報酬
自己知識の報酬は個人的自己からの解放だ。
あなたに知る者を知ることはできない。
なぜなら、あなたが知る者だからだ。
知っているという事実は知る者を証明している。
ほかの証拠など必要ない。
知られるものを知る者は不可知なのだ。
光が色彩でのみ知られるように、知る者は知識のなかで知られるのだ。(p377)
知る者 と 証明
自己知識の報酬は個人的自己からの解放だ。
あなたに知る者を知ることはできない。
なぜなら、あなたが知る者だからだ。
知っているという事実は知る者を証明している。
ほかの証拠など必要ない。
知られるものを知る者は不可知なのだ。
光が色彩でのみ知られるように、知る者は知識のなかで知られるのだ。(p377)
私はすべてだA
私はあなたにとってはひとつの推測だが、私自身にとってではない。
私は私自身であることによって、私自身を知っている。
あなたが人間として在ることで、あなた自身が人間であることを知っている
ように。
あなたは自分が人間だということをつねに自分に思い起こさせたりはしない。
あなたの人間性が疑問視されたときにだけ、それを主張するのだ。
同じように、私は私はすべてであることを知っている。
私には、「私はすべてだ。私はすべてだ」と繰り返す必要はない。
あなたが私を何か特定の者、個人として見なすときだけ、私は言明するのだ。
あなたがつねに人間であるように、私はつねに私で在るものなのだ。
疑いの余地なく、何であれ、変わることなくあなたであるものがあなたなの
だ。(p377)
私 と 欲望
私が欲望に満ちていたとしても、それでも私は私で在るものなのだ。
あなたは欲望と自己同一化し、それらの奴隷になる。
私にとって欲望はものごとのなかのひとつであり、精神的な空のなかに浮か
ぶ雲にすぎない。
そして私がそれらを満たす行為へと強いられることはないのだ。(p378)
ジニャーニ(賢者)A
ジニャーニが知られることはない。
なぜなら、そこには知られるような誰もいないからだ。
個人が存在するとき、それについて何か言うことはできる。
だが、そこに特定のものとの自己同一化がないとき、何を言うことができる
だろう?
あなたはジニャーニに何かを言うかも知れない。
彼の質問はつねに「あなたは誰について語っているのか? そのような個人
は存在していないのだ」というものだろう。
あなたは宇宙について何も言えない。
なぜなら、それはすべてを含んでいるからだ。
同じように、ジニャーニについて言えることも何もないのだ。
なぜなら、彼はすべてであり、特定の何かではないからだ。
壁に絵を掛けるにはフックが必要だ。
フックがなければ何に絵を掛けるというのだろう?
ものの位置を決めるには空間が必要だ。
出来事を位置づけるには時間が必要だ。
だが、時間と空間を超えたところでは、手のつけようがない。
それはあらゆるものを知覚可能にする。
それにもかかわらず、それ自体は知覚の彼方にあるのだ。
マインドはマインドの彼方にあるものを知ることができない。
だが、マインドはその彼方のものによって知られる。
ジニャーニは誕生も死も知らない。
存在、非存在は彼にとって同じことなのだ。(p378)
知る者 と 知られるもの
知る者が非顕現であり、知られるものが顕現だ。
知られるものはつねに動いている。
それは変化し、それ自体の形も、住処(すみか)ももたない。
知る者はすべての知識の不変の支持者だ。
どちらも互いを必要としている。
だが、実在はその彼方に在るのだ。(p378)
顕現 と 非顕現@
知る者が非顕現であり、知られるものが顕現だ。
知られるものはつねに動いている。
それは変化し、それ自体の形も、住処(すみか)ももたない。
知る者はすべての知識の不変の支持者だ。
どちらも互いを必要としている。
だが、実在はその彼方に在るのだ。(p378)
壁に絵を掛ける
壁に絵を掛けるにはフックが必要だ。
フックがなければ何に絵を掛けるというのだろう?
ものの位置を決めるには空間が必要だ。
出来事を位置づけるには時間が必要だ。
だが、時間と空間を超えたところでは、手のつけようがない。
それはあらゆるものを知覚可能にする。
それにもかかわらず、それ自体は知覚の彼方にあるのだ。
マインドはマインドの彼方にあるものを知ることができない。
だが、マインドはその彼方のものによって知られる。
ジニャーニは誕生も死も知らない。
存在、非存在は彼にとって同じことなのだ。(p378)
身体 と 死
(身体が死を迎える、というなら)
何も死にはしない。
身体はただ想像上のものだ。
そこにそのようなものはないのだ。(p378)
時間の死
時間は終焉(しゅうえん)するだろう。
これが偉大な死(マハームリティユ)と呼ばれるものだ。
時間の死だ。
あなたは二時間の講義をしていたかもしれない。
それが終わったとき、それはどこへ行ったのだろうか?
それは講義のはじめ、中間、そして終わりのすべてのなかにある沈黙のなか
へと消え去ったのだ。
時間の終わるときが来た。
それは在った。
だが、それはもうないのだ。
一生話しつづけた後の沈黙と、一生沈黙していた後の沈黙は同じ沈黙だ。
不死とは「私は在る」という感覚からの自由だ。
しかもそれは消滅ではない。
その反対に、それはあなたが思い描く以上にかぎりなく実在で、気づいてい
て、幸福だ。
ただ、自己意識だけがもうないのだ。(p379)
宇宙の終局
(時間の死とは、宇宙の終局を意味するのかというなら)
宇宙とはあなたの個人的な体験なのだ。
どうしてそれが影響を受けようか?
あなたは二時間の講義をしていたかもしれない。
それが終わったとき、それはどこへ行ったのだろうか?
それは講義のはじめ、中間、そして終わりのすべてのなかにある沈黙のなか
へと消え去ったのだ。
時間の終わるときが来た。
それは在った。
だが、それはもうないのだ。
一生話しつづけた後の沈黙と、一生沈黙していた後の沈黙は同じ沈黙だ。
不死とは「私は在る」という感覚からの自由だ。
しかもそれは消滅ではない。
その反対に、それはあなたが思い描く以上にかぎりなく実在で、気づいてい
て、幸福だ。
ただ、自己意識だけがもうないのだ。(p379)
個人的な体験
(時間の死とは、宇宙の終局を意味するのかというなら)
宇宙とはあなたの個人的な体験なのだ。
どうしてそれが影響を受けようか?
あなたは二時間の講義をしていたかもしれない。
それが終わったとき、それはどこへ行ったのだろうか?
それは講義のはじめ、中間、そして終わりのすべてのなかにある沈黙のなか
へと消え去ったのだ。
時間の終わるときが来た。
それは在った。
だが、それはもうないのだ。
一生話しつづけた後の沈黙と、一生沈黙していた後の沈黙は同じ沈黙だ。
不死とは「私は在る」という感覚からの自由だ。
しかもそれは消滅ではない。
その反対に、それはあなたが思い描く以上にかぎりなく実在で、気づいてい
て、幸福だ。
ただ、自己意識だけがもうないのだ。(p379)
不死A
不死とは「私は在る」という感覚からの自由だ。
しかもそれは消滅ではない。
その反対に、それはあなたが思い描く以上にかぎりなく実在で、気づいてい
て、幸福だ。
ただ、自己意識だけがもうないのだ。(p379)
マインドの死
それ(=マインドの大いなる死と身体の小さな死)は同時には起こらない。
あなたは精神的動揺もなく、百回もの死を死ぬかもしれない。
あるいはあなたは身体を維持しながら、マインドのなかだけで死ぬかもしれ
ないのだ。
マインドの死は智慧の誕生だ。(p379)
ディガンバラ
包みをもっている人は、それを失わないかと不安だ。
彼は「包み意識」をもっているのだ。
「私は在る」の感覚を大切にしている人には自意識がある。
ジニャーニは何もつかまない。
それゆえ、意識していると言うことはできない。
しかも、彼は無意識でもないのだ。
彼は気づきの本質そのものだ。
私たちは彼をディガンバラと呼ぶ。
空を身にまとい、すべての現れを超えた裸の人だ。
彼がそのもとに存在するといえるような名前や形は何もない。
それでも彼は唯一、真に存在する人なのだ。(p379)
マインドの限界
マインドにはそれ自身の限界があるのだ。
知識の極限の地へとあなたを連れていき、未知の広大さに直面させるだけで
充分だ。
そのなかへと潜っていくことはあなた次第なのだ。(p379)
観照者は実在か
(観照者は実在かそれとも非実在か、というなら)
その両方だ。
それは幻想の最後に残るものであり、実在の最初に触れるものだ。
「私はただの観照者でしかない」と言うことは、偽りであり、真実でもある。
それは「私は在る」ゆえに偽りであり、観照者ゆえに真実なのだ。
「そこに観照がある」と言ったほうがより確かだ。
あなたが、「私は在る」と言った瞬間、宇宙全体がその創造者とともに存在
のなかに現れるからだ。(p380)
不死不滅
討論したいという欲望もまた、単なる欲望にすぎない。
知ろうとする欲望、力を持とうとする欲望、存在しようとする欲望さえ、た
だの欲望なのだ。
誰もが、存在すること、存続すること、継続することを欲望する。
なぜなら、誰も自分自身に確信がないからだ。
しかし、誰もが不死不滅なのだ。
あなたは自分を身体と見なすことで、自分自身を死ぬべき運命のものにして
しまうのだ。(p380)
死ぬべき運命のもの
誰もが、存在すること、存続すること、継続することを欲望する。
なぜなら、誰も自分自身に確信がないからだ。
しかし、誰もが不死不滅なのだ。
あなたは自分を身体と見なすことで、自分自身を死ぬべき運命のものにして
しまうのだ。(p380)
解放を恐れている
(見いだした解放を少し分けてください、というなら)
なぜ少しなのかね?
すべてを取りなさい。
それは取るためにそこにあるのだ。
だが、あなたは解放を恐れているのだ。(p380-381)
執着 と 勇気
執着が勇気を破壊するのだ。
与える者にはいつも与える用意がある。
だが、受け取る者がいないのだ。
自由とは手放すことを意味している。
人々はすべてを手放したくない。
死が不死の代価であるように、無限なるものの代価が有限なるものだという
ことを彼らは知らないのだ。(p381)
受け取る者がいない
執着が勇気を破壊するのだ。
与える者にはいつも与える用意がある。
だが、受け取る者がいないのだ。
自由とは手放すことを意味している。
人々はすべてを手放したくない。
死が不死の代価であるように、無限なるものの代価が有限なるものだという
ことを彼らは知らないのだ。(p381)
自由とは手放すこと
執着が勇気を破壊するのだ。
与える者にはいつも与える用意がある。
だが、受け取る者がいないのだ。
自由とは手放すことを意味している。
人々はすべてを手放したくない。
死が不死の代価であるように、無限なるものの代価が有限なるものだという
ことを彼らは知らないのだ。(p381)
無限なるものの代価
執着が勇気を破壊するのだ。
与える者にはいつも与える用意がある。
だが、受け取る者がいないのだ。
自由とは手放すことを意味している。
人々はすべてを手放したくない。
死が不死の代価であるように、無限なるものの代価が有限なるものだという
ことを彼らは知らないのだ。(p381)
霊的な成熟@
霊的な成熟はすべてを手放す用意のなかにある。
あきらめることが第一歩なのだ。
だが真の放棄は、そこに何も放棄するものなどないと悟ることだ。
なぜなら、あなたのものなど何もないからだ。
深い眠りのように、眠りに陥るとき、あなたはベッドを放棄するわけではな
い。
ただそれを忘れるだけだ。(p381)
あきらめる
霊的な成熟はすべてを手放す用意のなかにある。
あきらめることが第一歩なのだ。
だが真の放棄は、そこに何も放棄するものなどないと悟ることだ。
なぜなら、あなたのものなど何もないからだ。
深い眠りのように、眠りに陥るとき、あなたはベッドを放棄するわけではな
い。
ただそれを忘れるだけだ。(p381)
真の放棄
霊的な成熟はすべてを手放す用意のなかにある。
あきらめることが第一歩なのだ。
だが真の放棄は、そこに何も放棄するものなどないと悟ることだ。
なぜなら、あなたのものなど何もないからだ。
深い眠りのように、眠りに陥るとき、あなたはベッドを放棄するわけではな
い。
ただそれを忘れるだけだ。(p381)
唯一の証拠
あなたが知っているのは、あなたが存在するということだけであるのを、私
はたやすくあなたに容認させることができる。
あなたが持つことのできる唯一の証拠は、あなたなのだ。
だが私は実在(リアリティ)と単なる実存(イグジスタンス)を同一視しな
い。
実存は一時的であり、つねに時間と空間のなかにある。
一方、実在は不変ですべてに浸透しているのだ。(p383)
実在 と 実存
あなたが知っているのは、あなたが存在するということだけであるのを、私
はたやすくあなたに容認させることができる。
あなたが持つことのできる唯一の証拠は、あなたなのだ。
だが私は実在(リアリティ)と単なる実存(イグジスタンス)を同一視しな
い。
実存は一時的であり、つねに時間と空間のなかにある。
一方、実在は不変ですべてに浸透しているのだ。(p383)
実存 と 実在
あなたが知っているのは、あなたが存在するということだけであるのを、私
はたやすくあなたに容認させることができる。
あなたが持つことのできる唯一の証拠は、あなたなのだ。
だが私は実在(リアリティ)と単なる実存(イグジスタンス)を同一視しな
い。
実存は一時的であり、つねに時間と空間のなかにある。
一方、実在は不変ですべてに浸透しているのだ。(p383)
甘さの証明
あなたは「砂糖が甘いことを証明してくれれば、それをもらうよ」と言って
いる子供のようだ。
甘さの証明は砂糖のなかにではなく、口のなかにあるのだ。
それが甘いことを知るためには、味を知らなければならない。
ほかに方法はない。
もちろん、あなたは「それは砂糖でしょうか、それは甘いのでしょうか?」
と尋ねることからはじめることができる。
そしてあなたが味わうまでは私の保証を受け入れる。
ひとたび味わえば、すべての疑いは消え去るのだ。
そしてあなたの知識は直接の、揺るぎのないものとなる。(p384)
真理の証拠A
私は、あなたに私を信じるように頼みはしない。
ただ、はじめるのに充分なだけは信頼してほしい。
それぞれの段階がそれ自体を証明、あるいは反証するのだ。
あなたは真理に先立って真理の証拠がほしいようだ。
では、証明の証明はどうなるのかね?
見なさい、あなたは後退しているのだ。
それを止めるためには、証拠を求めることをやめ、真理としての何かを、ま
ず受け入れなければならない。
それが何かは重要ではない。
それは神、あるいは私、あるいはあなた自身かもしれない。
どの場合でも、あなたは何か、あるいは誰か未知なるものを真理として受け
入れるのだ。
さて、もしあなたが、たとえ一瞬でも受け入れた真実にしたがって行為する
ならば、すぐにもつぎの段階に移るだろう。
それは闇のなかで木に登るようなものだ。
最初の枝に足をかけて、はじめてつぎの枝をつかむことができる。
科学はそれを実験的研究方法と呼ぶ。
論理を証明するために、先達の実施指導にしたがって実験を進めていくのだ。
霊的探求における実験の連鎖をヨーガと呼ぶのだ。(p384-385)
どのヨーガを
(どのヨーガを選択すれば良いのか、というなら)
もちろん、すべてのジニャーニは、彼がもっとも親密に知っている自分の歩
いた達成への道を提案することだろう。
しかし、彼らのほとんどは非常に寛大であり、探求者の必要に適した助言を
するのだ。
すべての道はマインドの浄化へとあなたを導く。
不純なマインドは真理を不透明にする。
純粋なマインドは透明だ。
真理はそれを通して容易に、明らかに見ることができるのだ。(p385)
すべての道は
すべての道はマインドの浄化へとあなたを導く。
不純なマインドは真理を不透明にする。
純粋なマインドは透明だ。
真理はそれを通して容易に、明らかに見ることができるのだ。(p385)
マインドの浄化へ
もちろん、すべてのジニャーニは、彼がもっとも親密に知っている自分の歩
いた達成への道を提案することだろう。
しかし、彼らのほとんどは非常に寛大であり、探求者の必要に適した助言を
するのだ。
すべての道はマインドの浄化へとあなたを導く。
不純なマインドは真理を不透明にする。
純粋なマインドは透明だ。
真理はそれを通して容易に、明らかに見ることができるのだ。(p384-385)
実在 と 名前と形
「私は在る」という点で、あなたは意識のなかの感覚的、精神的状態に触れ
ている。
一方、実在は瞑想されず、触れられず、体験されないままだ。
あなたは二元性をあまりにも当然のことと見なしていて、それに気づいてさ
えもいない。
だが、私にとって多様性や変化は分離を生みださないのだ。
あなたは実在が名前と形から離れてあると想像している。
だが、私にとって名前と形は、実在の絶えず変化する表現であり、それから
離れてはいないのだ。(p386)
真理の証拠B
あなたは実在が名前と形から離れてあると想像している。
だが、私にとって名前と形は、実在の絶えず変化する表現であり、それから
離れてはいないのだ。
あなたは真理の証拠を求めている。
だが私にとっては実存すべてが証拠だ。
あなたは実存(イグジスタンス)から存在(ビーイング)を切り離し、実在
(リアリティ)から存在(ビーイング)を切り離している。
だが、私にとってはすべてがひとつなのだ。
どれほど目覚めの状態の真実性に確信をもっていようとも、私が自分の話で
しているように、あなたはそれを永久不変のものだと宣言することはない。
しかし、それでも私は私たちの間に違いを見ない。
ただあなたはものごとを想像しているだけであり、私はそうしないだけなの
だ。(p386)
実存/存在/実在
あなたは真理の証拠を求めている。
だが私にとっては実存すべてが証拠だ。
あなたは実存(イグジスタンス)から存在(ビーイング)を切り離し、実在
(リアリティ)から存在(ビーイング)を切り離している。
だが、私にとってはすべてがひとつなのだ。
どれほど目覚めの状態の真実性に確信をもっていようとも、私が自分の話で
しているように、あなたはそれを永久不変のものだと宣言することはない。
しかし、それでも私は私たちの間に違いを見ない。
ただあなたはものごとを想像しているだけであり、私はそうしないだけなの
だ。(p386)
人伝えに聞いた
あなたの知らない真理の証拠について探し求めるよりも、あなたが知ってい
ると信じている証拠について調べてみなさい。
そうすれば、あなたは何も確信できるものがなく、人伝えに聞いたことを信
じているだけだと知るだろう。
真理を知るためには、あなた自身の体験を通らなければならないのだ。(p386)
旅路の果て
真理は努力の結果、旅路の果てにあるのではない。
それは今ここに、その熱望と探求そのもののなかにあるのだ。
それはマインドや身体よりも近い。
「私は在る」という感覚よりも近いのだ。
あなたがそれを見ないのは、あなた自身からずっと遠くを、存在の核心の外
を見ているからだ。
あなたは真理を対象化し、あなたの証明と審査の基準に合うべきだと言い張
っている。
だが、それはものごとや思考にしか当てはまらないのだ。(p387)
資格がある
(どうやら私には真理について語る資格がないようです、というなら)
あなたには資格があるばかりではなく、あなたが真理そのものなのだ。
ただあなたは偽物を真理だと勘違いしているだけだ。(p388)
真理の発見
真理の発見は、偽りを識別することのなかにあるのだ。
あなたは存在しないものを知ることができる。
在るものは――あなたはただ在ることができるだけなのだ。
既知にとって、知識は相対的なものだ。
ある意味では、知識は無知の片割れなのだ。
無知のないところに知識の必要があるだろうか?
それ自体では、無知も知識も存在していない。
それらは単なるマインドの状態であり、また本質的に不変である意識の運動
の現れなのだ。(p388)
偽りを識別する
真理の発見は、偽りを識別することのなかにあるのだ。
あなたは存在しないものを知ることができる。
在るものは――あなたはただ在ることができるだけなのだ。
既知にとって、知識は相対的なものだ。
ある意味では、知識は無知の片割れなのだ。
無知のないところに知識の必要があるだろうか?
それ自体では、無知も知識も存在していない。
それらは単なるマインドの状態であり、また本質的に不変である意識の運動
の現れなのだ。(p388)
知識 と 無知A
ある意味では、知識は無知の片割れなのだ。
無知のないところに知識の必要があるだろうか?
それ自体では、無知も知識も存在していない。
それらは単なるマインドの状態であり、また本質的に不変である意識の運動
の現れなのだ。(p388)
表現不可能
(表現不可能……この言葉が私を賢くすることはない、というなら)
それがしばしば無知を覆(おお)い隠すことは本当だ。
マインドはそれ自体がつくり出した言語で働くことができる。
ただ、それ自体を超えていくことはできないのだ。
感覚的でも精神的でもなく、しかも、それなしには感覚的なものも精神的な
ものもありえないものが、感覚的なものや精神的なものに含まれることはあ
りえないのだ。
マインドには限界があることを理解しなさい。
マインドを超えていくには、沈黙とひとつにならなければならないのだ。(p388)
無知を覆い隠す
(表現不可能……この言葉が私を賢くすることはない、というなら)
それがしばしば無知を覆(おお)い隠すことは本当だ。
マインドはそれ自体がつくり出した言語で働くことができる。
ただ、それ自体を超えていくことはできないのだ。
感覚的でも精神的でもなく、しかも、それなしには感覚的なものも精神的な
ものもありえないものが、感覚的なものや精神的なものに含まれることはあ
りえないのだ。
マインドには限界があることを理解しなさい。
マインドを超えていくには、沈黙とひとつにならなければならないのだ。(p388)
行為 と 真理
(行為が真理の証拠だと言うことはできか、というなら)
行為でも無為でもない。
それはどちらも超えているのだ。(p388)
真理 を 伝える
真理は体験できるが、それは単なる体験ではない。
私はそれを知っていて、あなたに伝えることができる。
だが、あなたがそれに対して開いているときだけだ。
開いているとは、ほかの何も求めないということだ。(p389)
開いている
真理は体験できるが、それは単なる体験ではない。
私はそれを知っていて、あなたに伝えることができる。
だが、あなたがそれに対して開いているときだけだ。
開いているとは、ほかの何も求めないということだ。(p389)
あなたは適格だ
(恐れと欲望でいっぱいな私は真理を知るに適格ではないのか、というなら)
真理は良いふるまいに対する褒美(ほうび)でも、何かの試験が通ったこと
への賞でもない。
それをもたらすことはできないのだ。
それは原初のもの、不生、存在するすべての太古の源なのだ。
あなたは適格だ。
なぜならあなたは在るからだ。
あなたが真理に値する必要はない。
それはあなた自身のものなのだ。
ただ、それを追いかけることによって、それから逃げだしてはならない。
沈黙しなさい。
静かで在りなさい。(p389)
完全な非―自己意識
(粗大身、微細身を退けても、意識もある種の身体ではないかというなら)
あなたの言うとおりだ。
だが、そこで止まる必要はない。
その彼方へと行きなさい。
意識も、その中心の「私は在る」さえも、あなたではないのだ。
あなたの真の存在は完全な非―自己意識だ。
粗大、微細、あるいは超越、何であれすべての自己同一から完全に自由なの
だ。(p389)
在るためには@
(在るためには、誰かで在らねばならない、というなら)
それは正反対だ。
在るためには、あなたは誰でもない人にならなければならない。
あなた自身を何か、あるいは誰かだと考えることは死、そして地獄だ。(p389)
誰でもない人
(在るためには、誰かで在らねばならない、というなら)
それは正反対だ。
在るためには、あなたは誰でもない人にならなければならない。
あなた自身を何か、あるいは誰かだと考えることは死、そして地獄だ。(p389)
死、そして地獄
(在るためには、誰かで在らねばならない、というなら)
それは正反対だ。
在るためには、あなたは誰でもない人にならなければならない。
あなた自身を何か、あるいは誰かだと考えることは死、そして地獄だ。(p389)
すべての発見が
身体は食物からできている。
そしてマインドは想念からできている。
それらをあるがままに見なさい。
あなたが何であるのかを知る必要はない。
あなたが何ではないかを知れば充分なのだ。
あなたであるものを知ることはけっしてない。
なぜならすべての発見が克服すべき新たな次元を開くからだ。(p390)
新たな次元
身体は食物からできている。
そしてマインドは想念からできている。
それらをあるがままに見なさい。
あなたが何であるのかを知る必要はない。
あなたが何ではないかを知れば充分なのだ。
あなたであるものを知ることはけっしてない。
なぜならすべての発見が克服すべき新たな次元を開くからだ。(p390)
発見 と 無知
(すべての発見が克服すべき新たな次元を開くとは、永遠に無知であり続け
るという意味か、というなら)
それは無知がけっして存在しなかったことを意味するのだ。
真理は発見のなかにあり、発見されたもののなかにあるのではない。
そして、発見にははじまりも終わりもないのだ。
限界を疑いなさい。
そして超えていきなさい。
一見、不可能と見える仕事を自らに託しなさい。
それが道なのだ。(p390)
無知 と 発見
(すべての発見が克服すべき新たな次元を開くとは、永遠に無知であり続け
るという意味か、というなら)
それは無知がけっして存在しなかったことを意味するのだ。
真理は発見のなかにあり、発見されたもののなかにあるのではない。
そして、発見にははじまりも終わりもないのだ。
限界を疑いなさい。
そして超えていきなさい。
一見、不可能と見える仕事を自らに託しなさい。
それが道なのだ。(p390)
真理 と 発見
(すべての発見が克服すべき新たな次元を開くとは、永遠に無知であり続け
るという意味か、というなら)
それは無知がけっして存在しなかったことを意味するのだ。
真理は発見のなかにあり、発見されたもののなかにあるのではない。
そして、発見にははじまりも終わりもないのだ。
限界を疑いなさい。
そして超えていきなさい。
一見、不可能と見える仕事を自らに託しなさい。
それが道なのだ。(p390)
真のグルA
ハートのなかで、平和に、永遠に輝く内奥の光、それが真のグルなのだ。
ほかのすべては単に道を指し示すだけだ。(p390)
(外在の)師
(直接道を示してくれる(外在の)師にだけ関心がある、というなら)
彼らは一時的な、時間に拘束されたグルなのだ。
あなたは彼らをあらゆる職業のなかに見いだす。
何かの知識や技術を獲得するために、彼らを必要とするのだ。
時間に拘束されたグルは永遠にいるわけではない。
彼は彼の目的を果たし、つぎの師へと場を明け渡すのだ。
それはまったく自然なことであり、それについて非難されるようなことは何
もない。(p390)
外側のグル
(直接道を示してくれる外側のグルにだけ関心がある、というなら)
彼らは一時的な、時間に拘束されたグルなのだ。
あなたは彼らをあらゆる職業のなかに見いだす。
何かの知識や技術を獲得するために、彼らを必要とするのだ。
時間に拘束されたグルは永遠にいるわけではない。
彼は彼の目的を果たし、つぎの師へと場を明け渡すのだ。
それはまったく自然なことであり、それについて非難されるようなことは何
もない。(p390)
努力は誰のもの
(努力は誰のものなのか、というなら)
もちろん弟子のものだ。
外側のグルが指導し、内側のグルが力を送る。
油断なくそれに応えていくのが弟子の仕事だ。
弟子の意志、知性、エネルギーなしにはグルは無力なのだ。
内側のグルはチャンスを得ようとする。
愚鈍さと誤った追求が危機をもたらし、弟子は自ら己の苦境に目覚めるのだ。
賢い者はショックを待ったりしない。
それはひどく粗暴なものでもありうるのだ。(p391)
グル と 非暴力
内側のグルはチャンスを得ようとする。
愚鈍さと誤った追求が危機をもたらし、弟子は自ら己の苦境に目覚めるのだ。
賢い者はショックを待ったりしない。
それはひどく粗暴なものでもありうるのだ。
(それは脅しなのか、というなら)
脅しではなく警告だ。
内なるグルは非暴力に専心してはいない。
愚鈍で堕落した人格を破壊するためには、彼はときおりまったく暴力的にな
りうる。
不幸と死、生と幸福は彼の仕事の道具なのだ。
二元性においてだけ、非暴力は統一のための法となるのだ。(p391)
内なるグル@
内側のグルはチャンスを得ようとする。
愚鈍さと誤った追求が危機をもたらし、弟子は自ら己の苦境に目覚めるのだ。
賢い者はショックを待ったりしない。
それはひどく粗暴なものでもありうるのだ。
(それは脅しなのか、というなら)
脅しではなく警告だ。
内なるグルは非暴力に専心してはいない。
愚鈍で堕落した人格を破壊するためには、彼はときおりまったく暴力的にな
りうる。
不幸と死、生と幸福は彼の仕事の道具なのだ。
二元性においてだけ、非暴力は統一のための法となるのだ。(p391)
非暴力 と グル
内側のグルはチャンスを得ようとする。
愚鈍さと誤った追求が危機をもたらし、弟子は自ら己の苦境に目覚めるのだ。
賢い者はショックを待ったりしない。
それはひどく粗暴なものでもありうるのだ。
(それは脅しなのか、というなら)
脅しではなく警告だ。
内なるグルは非暴力に専心してはいない。
愚鈍で堕落した人格を破壊するためには、彼はときおりまったく暴力的にな
りうる。
不幸と死、生と幸福は彼の仕事の道具なのだ。
二元性においてだけ、非暴力は統一のための法となるのだ。(p391)
説得から強制へ
(人は自分自身を恐れなければならないのか、というなら)
恐れではない。
なぜなら自己とは善良を意味するからだ。
だが、それは深刻に受け止められなければならない。
それは注意と服従を呼び起こすのだ。
聞き入れられないとき、それは説得から強制へと変わる。
それはしばらく待つことができるが、否定されてはならないのだ。
困難は外側や内側のグルにあるのではない。
グルはつねに手に入る。
不足しているのは成熟した弟子のほうなのだ。
その人に用意ができていなければ、どうすることができようか?(p391)
アディカーリ
グルはつねに手に入る。
不足しているのは成熟した弟子のほうなのだ。
その人に用意ができていなければ、どうすることができようか?
(用意か、それとも志か、というなら)
両方だ。
それは同じことなのだ。
インドでは、それはアディカーリと呼ばれている。
それは能力と資格があるということを意味している。(p392)
実在への儀式
(外側のグルは秘伝伝授の儀式を授けることができるか、というなら)
彼はあらゆる類の儀式を授けることができる。
しかし、実在への儀式は内面から起こらなければならない。(p392)
究極の儀式
(誰が究極の儀式を授けるのか、というなら)
自己が授けるのだ。(p392)
外側 と 内面
外側の自己と内面の自己はともに想像上のものだ。
ひとつの棘を抜くために別の刺を必要とするように、あるいは毒を解毒する
ために別の毒を使うように、「私」という存在への固執が癒されるために、
「超―私」という別の観念への固執が必要とされるのだ。
すべての断定は否定を呼び起こす。
だが、これはまだ第一段階にすぎない。
つぎの段階はその両方を超えた彼方へと行くことだ。(p392)
すべての断定は
外側の自己と内面の自己はともに想像上のものだ。
ひとつの棘を抜くために別の刺を必要とするように、あるいは毒を解毒する
ために別の毒を使うように、「私」という存在への固執が癒されるために、
「超―私」という別の観念への固執が必要とされるのだ。
すべての断定は否定を呼び起こす。
だが、これはまだ第一段階にすぎない。
つぎの段階はその両方を超えた彼方へと行くことだ。(p392)
内なるグルA
(内なるグルはひとつの概念なのか、それとも実在なのか、というなら)
彼だけが唯一の実在なのだ。
それ以外のすべては、「身体―精神」(デハー―ブッディ)によって時間の
上に投げかけられた影にすぎない。
もちろん、影でさえ実在に関連している。
だが、それ自体では実在とは言えないのだ。(p392)
唯一の実在A
(内なるグルはひとつの概念なのか、それとも実在なのか、というなら)
彼だけが唯一の実在なのだ。
それ以外のすべては、「身体―精神」(デハー―ブッディ)によって時間の
上に投げかけられた影にすぎない。
もちろん、影でさえ実在に関連している。
だが、それ自体では実在とは言えないのだ。(p392)
失うことが
(内なる師に実在性を移行することで何を得るのか、というなら)
失うことが、あなたの得ることだ。
影が影として見られたとき、あなたはそれにしたがうことをやめる。
あなたは振り返り、そこにいつもあった太陽をあなたの背後に発見するのだ。(p392)
したがうことをやめる
(内なる師に実在性を移行することで何を得るのか、というなら)
失うことが、あなたの得ることだ。
影が影として見られたとき、あなたはそれにしたがうことをやめる。
あなたは振り返り、そこにいつもあった太陽をあなたの背後に発見するのだ。(p392)
太陽をあなたの背後に
(内なる師に実在性を移行することで何を得るのか、というなら)
失うことが、あなたの得ることだ。
影が影として見られたとき、あなたはそれにしたがうことをやめる。
あなたは振り返り、そこにいつもあった太陽をあなたの背後に発見するのだ。(p392)
内側のグル
(内側のグルもまた教えを与えるのか、というなら)
彼は、あなたが永遠、不変、実在―意識―愛であり、内面とすべての現れを
超えたものだという確信を与えるのだ。(p392)
確信を与える
(内側のグルもまた教えを与えるのか、というなら)
彼は、あなたが永遠、不変、実在―意識―愛であり、内面とすべての現れを
超えたものだという確信を与えるのだ。(p392)
恐れは絶対的に消え去る
(確信では不十分だ、そこには確実性がなければならない、というなら)
まったくそのとおりだ。
だが、この場合は確信が勇気の形を取るのだ。
恐れは絶対的に消え去る。
その恐れのない状態が見間違うことのないほど新しく、しかも自分自身のも
のとして深く感じられ、否定できないものなのだ。
それは愛する我が子のようなものだ。
誰に疑うことができるだろう?(p393)
霊的な進歩
(あなたはどのような霊的な進歩を思い描いているか、というなら)
あなたが進歩を超えていくとき、進歩とは何かを知るだろう。(p393)
進歩の要因
(何が進歩の要因か、というなら)
沈黙が主な要因だ。
平和と沈黙のなかで、あなたは成長するのだ。(p393)
私の例
私の例を見てみなさい。
私のグルは、「私は在る」という感覚に留意し、ほかの何にも注意を払って
はならないと指導し、私はただそれにしたがったのだ。
私は呼吸や瞑想、あるいは聖典の研究などの特定の過程にはしたがわなかっ
た。
何が起ころうとも、それから注意を背け、「私は在る」という感覚とともに
とどまったのだ。
それはあまりにも単純で、粗野にさえ見えるかもしれない。
私がそうした理由は、グルが私にそうするように言ったからだ。
それでも、それは効果があったのだ!
服従はすべての欲望と恐れに対する強力な解決策なのだ。
マインドを占有するすべてのものから注意を背けなさい。
完成しなければならない仕事は何であれ完成させなさい。
だが、新たな義務は避けなさい。
空っぽでいることを保ち、つねに用意のできた、開いた状態でありなさい。
招かずにやってきたものを拒んではならない。
最後には、あなたは無欲、歓喜の無執着、内なる平安、そして描写不可能な
解放の状態に達する。
しかも、それはすばらしく実在なのだ。(p393)
注意を背けなさいA
マインドを占有するすべてのものから注意を背けなさい。
完成しなければならない仕事は何であれ完成させなさい。
だが、新たな義務は避けなさい。
空っぽでいることを保ち、つねに用意のできた、開いた状態でありなさい。
招かずにやってきたものを拒んではならない。
最後には、あなたは無欲、歓喜の無執着、内なる平安、そして描写不可能な
解放の状態に達する。
しかも、それはすばらしく実在なのだ。(p393)
仕事A
マインドを占有するすべてのものから注意を背けなさい。
完成しなければならない仕事は何であれ完成させなさい。
だが、新たな義務は避けなさい。
空っぽでいることを保ち、つねに用意のできた、開いた状態でありなさい。
招かずにやってきたものを拒んではならない。
最後には、あなたは無欲、歓喜の無執着、内なる平安、そして描写不可能な
解放の状態に達する。
しかも、それはすばらしく実在なのだ。(p393)
新たな義務
マインドを占有するすべてのものから注意を背けなさい。
完成しなければならない仕事は何であれ完成させなさい。
だが、新たな義務は避けなさい。
空っぽでいることを保ち、つねに用意のできた、開いた状態でありなさい。
招かずにやってきたものを拒んではならない。
最後には、あなたは無欲、歓喜の無執着、内なる平安、そして描写不可能な
解放の状態に達する。
しかも、それはすばらしく実在なのだ。(p393)
非難や賞賛
すべてはひとりでに起こる。
探求者は何もせず、グルも何もしない。
ものごとは起こるように起こる。
行為者という感覚が現れた後に、非難や賞賛が割り当てられるのだ。(p393)
行為 と 行為者A
(行為者はかならず行為の起こる前に現れるはずというなら)
それはその反対だ。
行為が事実であり、行為者はただの観念なのだ。
あなたの言葉そのものが、行為は確定的であり、行為者は疑わしいことを示
している。
責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。
何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考えていくと、
すべてが起こるための責任は、いかに間接的であってもすべてにあると認め
るほかはない。
行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神話なのだ。(p393-394)
行為者とは
責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。
何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考えていくと、
すべてが起こるための責任は、いかに間接的であってもすべてにあると認め
るほかはない。
行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神話なのだ。(p394)
責任を転嫁する
責任を転嫁することは人間の特徴的なゲームなのだ。
何かが起こるために不可欠な要因の果てしないリストについて考えていくと、
すべてが起こるための責任は、いかに間接的であってもすべてにあると認め
るほかはない。
行為者とは、「私の」と「私のもの」という幻想から生まれた神話なのだ。(p394)
誰が努力をするのか
(誰が努力をするのか、外側の自己か、内側の自己か、というなら)
あなたは努力、内側、外側、自己といった言葉を発明し、それらを実在の上
に押しつけようと努めてきた。
ものごとは、ただあるがままに起こるのだ。
しかし、私たちはそれを私たちの言語構造に沿うように、ひとつのパターン
に組みこむことを望むのだ。
この習慣があまりにも強いために、私たちは実在を言葉では表現できないも
のとして否定してしまう傾向にある。
言葉は、繰り返されてきた体験の慣例と習慣に関係する、ただの象徴だとい
うことを理解しないのだ。(p394)
言葉
(誰が努力をするのか、外側の自己か、内側の自己か、というなら)
あなたは努力、内側、外側、自己といった言葉を発明し、それらを実在の上
に押しつけようと努めてきた。
ものごとは、ただあるがままに起こるのだ。
しかし、私たちはそれを私たちの言語構造に沿うように、ひとつのパターン
に組みこむことを望むのだ。
この習慣があまりにも強いために、私たちは実在を言葉では表現できないも
のとして否定してしまう傾向にある。
言葉は、繰り返されてきた体験の慣例と習慣に関係する、ただの象徴だとい
うことを理解しないのだ。(p394)
ただの象徴
(誰が努力をするのか、外側の自己か、内側の自己か、というなら)
あなたは努力、内側、外側、自己といった言葉を発明し、それらを実在の上
に押しつけようと努めてきた。
ものごとは、ただあるがままに起こるのだ。
しかし、私たちはそれを私たちの言語構造に沿うように、ひとつのパターン
に組みこむことを望むのだ。
この習慣があまりにも強いために、私たちは実在を言葉では表現できないも
のとして否定してしまう傾向にある。
言葉は、繰り返されてきた体験の慣例と習慣に関係する、ただの象徴だとい
うことを理解しないのだ。(p394)
霊的な本の価値
(霊的な本の価値とは何か、というなら)
それらは無知を追い払う助けをする。
はじめのうちは有用だが、最後には障害となる。
人はいつそれを放棄すべきか知らなければならない。(p394)
アートマ と サットヴァ
(アートマとサットヴァとの関連性とは何か、というなら)
太陽とその光線のようなものだ。
調和と美、理解と愛情はすべて実在の表現なのだ。
それは行為のなかの実在性、物質における魂の影響だ。
タマスは覆い隠し、ラジャスは歪ませ、サットヴァは調和をもたらす。
サットヴァが成長することで、欲望と恐れは終焉するのだ。
歪曲していないマインドのなかに真の存在は反映される。
物質は改善され、魂は露わにされるのだ。
その二つはひとつとして見られる。
それらはつねにひとつだった。
だが、不完全なマインドはそれを二つとして見ていたのだ。
マインドの完成は人間の努めだ。
なぜなら物質と魂はマインドのなかでであうものだからだ。(p394)
太陽 と その光線
(アートマとサットヴァとの関連性とは何か、というなら)
太陽とその光線のようなものだ。
調和と美、理解と愛情はすべて実在の表現なのだ。
それは行為のなかの実在性、物質における魂の影響だ。
タマスは覆い隠し、ラジャスは歪ませ、サットヴァは調和をもたらす。
サットヴァが成長することで、欲望と恐れは終焉するのだ。
歪曲していないマインドのなかに真の存在は反映される。
物質は改善され、魂は露わにされるのだ。
その二つはひとつとして見られる。
それらはつねにひとつだった。
だが、不完全なマインドはそれを二つとして見ていたのだ。
マインドの完成は人間の努めだ。
なぜなら物質と魂はマインドのなかでであうものだからだ。(p394)
物質 と 魂
(アートマとサットヴァとの関連性とは何か、というなら)
太陽とその光線のようなものだ。
調和と美、理解と愛情はすべて実在の表現なのだ。
それは行為のなかの実在性、物質における魂の影響だ。
タマスは覆い隠し、ラジャスは歪ませ、サットヴァは調和をもたらす。
サットヴァが成長することで、欲望と恐れは終焉するのだ。
歪曲していないマインドのなかに真の存在は反映される。
物質は改善され、魂は露わにされるのだ。
その二つはひとつとして見られる。
それらはつねにひとつだった。
だが、不完全なマインドはそれを二つとして見ていたのだ。
マインドの完成は人間の努めだ。
なぜなら物質と魂はマインドのなかでであうものだからだ。(p394)
マインドの完成
(アートマとサットヴァとの関連性とは何か、というなら)
太陽とその光線のようなものだ。
調和と美、理解と愛情はすべて実在の表現なのだ。
それは行為のなかの実在性、物質における魂の影響だ。
タマスは覆い隠し、ラジャスは歪ませ、サットヴァは調和をもたらす。
サットヴァが成長することで、欲望と恐れは終焉するのだ。
歪曲していないマインドのなかに真の存在は反映される。
物質は改善され、魂は露わにされるのだ。
その二つはひとつとして見られる。
それらはつねにひとつだった。
だが、不完全なマインドはそれを二つとして見ていたのだ。
マインドの完成は人間の努めだ。
なぜなら物質と魂はマインドのなかでであうものだからだ。(p394)
人間の努め
(アートマとサットヴァとの関連性とは何か、というなら)
太陽とその光線のようなものだ。
調和と美、理解と愛情はすべて実在の表現なのだ。
それは行為のなかの実在性、物質における魂の影響だ。
タマスは覆い隠し、ラジャスは歪ませ、サットヴァは調和をもたらす。
サットヴァが成長することで、欲望と恐れは終焉するのだ。
歪曲していないマインドのなかに真の存在は反映される。
物質は改善され、魂は露わにされるのだ。
その二つはひとつとして見られる。
それらはつねにひとつだった。
だが、不完全なマインドはそれを二つとして見ていたのだ。
マインドの完成は人間の努めだ。
なぜなら物質と魂はマインドのなかでであうものだからだ。(p394)
欲望と恐れの犬
(私は欲望と恐れの犬に守られた扉の前にいる人のようです、というなら)
師にしたがい、犬たちに立ち向かいなさい。
それらがそこにいないかのようにふるまいなさい。
またしても、従順が黄金率なのだ。
自由は従順によって勝ち取られるものなのだ。
牢獄から逃げだすためには、疑うことなく、解放のために働いている人の指
導にしたがわなければならない。(p394-395)
従順が黄金率
(私は欲望と恐れの犬に守られた扉の前にいる人のようです、というなら)
師にしたがい、犬たちに立ち向かいなさい。
それらがそこにいないかのようにふるまいなさい。
またしても、従順が黄金率なのだ。
自由は従順によって勝ち取られるものなのだ。
牢獄から逃げだすためには、疑うことなく、解放のために働いている人の指
導にしたがわなければならない。(p394-395)
時節が調えば
時節が調えば、信頼はやってくる。
すべては時節とともに現れる。
グルはつねに分け与える用意がある。
ただ受け取る者がいないのだ。
時節を待てば、すべては起こるのだ。
皆が為し遂げるだろう。
ひとりの魂も失敗することはないだろう。(p395)
思慮深い読者
(これらの会話は読者にどのような影響をあたえるのか、というなら)
注意深く、思慮深い読者のなかで、それは成熟し、開花し、果実をもたらす
だろう。
真理に基づいた言葉は、もし完全に試されるなら、それ自身の力をもつのだ。(p395)
興味
(興味を呼び起こすのは)苦痛への恐れと快楽への欲望だ。
快楽は苦痛の終焉(しゅうえん)であり、苦痛は快楽の終焉だ。
それらは果てしない連続性のなかで交代しているだけなのだ。
あなたがそれを超えたあなた自身を見いだすまで、その悪循環を調べてみる
がいい。(p396)
智慧への障害
誤った観念と欲望がマインドと身体の気を消散させ、誤った行為へと導いて
いく。
偽りの発見と放棄は、真実がマインドのなかに入ることを妨げるものを取り
除くのだ。(p397)
時間 と 永遠
永遠は時間を知り、時間は永遠を知らない。
すべての意識は時間のなかにあり、意識にとって永遠は無意識として現れる。
それにもかかわらず、永遠なるものが意識を可能にするのだ。
光は暗闇のなかで輝く。
光の中で暗闇を見ることはできない。
あるいは、ほかの言い方をすれば、果てしない光の大洋のなかで、暗く、限
定され、対比によってしか知覚できない意識の雲が現れるのだ。
これらは何か非常にシンプルでありながら、しかしまったく表現不可能なも
のを言葉で表現しようとする単なる試みにすぎない。(p397)
永遠 と 意識
永遠は時間を知り、時間は永遠を知らない。
すべての意識は時間のなかにあり、意識にとって永遠は無意識として現れる。
それにもかかわらず、永遠なるものが意識を可能にするのだ。
光は暗闇のなかで輝く。
光の中で暗闇を見ることはできない。
あるいは、ほかの言い方をすれば、果てしない光の大洋のなかで、暗く、限
定され、対比によってしか知覚できない意識の雲が現れるのだ。
これらは何か非常にシンプルでありながら、しかしまったく表現不可能なも
のを言葉で表現しようとする単なる試みにすぎない。(p397)
言葉 と 実在
言葉は実在ではなく、マインドの状態に言及するものだ。
川、二つの岸、それに架かる橋、すべてはマインドのなかにある。
言葉だけであなたをマインドの彼方へと連れていくことはできない。
そこには途方もない真理への熱望か、またはグルへの絶対的な信頼がなけれ
ばならない。(p397)
目的地A
私を信じなさい。
そこには目的地もなければ、それへ到達する道もまたない。
あなたが道であり目的地なのだ。
あなた自身を除いて、到達するようなものは何もないのだ。
あなたに必要なのは理解することだけだ。
そして理解はマインドの開花なのだ。
樹が絶えることはないが、開花や結実は季節とともにやってくる。
季節は移り変わるが、樹は変わらない。
あなたが樹なのだ。
あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。
そしてこれからも育てていくだろう。
だが、あなたはそのまま残るのだ。
あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなる
だろうことでもない。
ただ在ることなのだ。
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。(p397-398)
必要なのは理解
私を信じなさい。
そこには目的地もなければ、それへ到達する道もまたない。
あなたが道であり目的地なのだ。
あなた自身を除いて、到達するようなものは何もないのだ。
あなたに必要なのは理解することだけだ。
そして理解はマインドの開花なのだ。
樹が絶えることはないが、開花や結実は季節とともにやってくる。
季節は移り変わるが、樹は変わらない。
あなたが樹なのだ。
あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。
そしてこれからも育てていくだろう。
だが、あなたはそのまま残るのだ。
あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなる
だろうことでもない。
ただ在ることなのだ。
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。(p397-398)
理解 と マインド
私を信じなさい。
そこには目的地もなければ、それへ到達する道もまたない。
あなたが道であり目的地なのだ。
あなた自身を除いて、到達するようなものは何もないのだ。
あなたに必要なのは理解することだけだ。
そして理解はマインドの開花なのだ。
樹が絶えることはないが、開花や結実は季節とともにやってくる。
季節は移り変わるが、樹は変わらない。
あなたが樹なのだ。
あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。
そしてこれからも育てていくだろう。
だが、あなたはそのまま残るのだ。
あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなる
だろうことでもない。
ただ在ることなのだ。
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。(p397-398)
宇宙 と あなた
あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。
そしてこれからも育てていくだろう。
だが、あなたはそのまま残るのだ。
あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなる
だろうことでもない。
ただ在ることなのだ。
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。(p398)
ただ在ること
あなたは無数の枝や葉を今まで育ててきた。
そしてこれからも育てていくだろう。
だが、あなたはそのまま残るのだ。
あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなる
だろうことでもない。
ただ在ることなのだ。
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。(p398)
創造 と 欲望
あなたが知らなければならないことは、そう在ったことではなく、そうなる
だろうことでもない。
ただ在ることなのだ。
宇宙を創造した欲望はあなたのものだ。
世界はあなた自身の創造だと知り、自由になりなさい。(p398)
残酷な世界
この残酷な世界が誰にとって現れるのかを見いだしなさい。
そうすれば、なぜそのように残酷に現れるのかを知るだろう。
あなたの質問は完全に正当なものだ。
しかし、それが誰にとっての世界なのかをあなたが知るまでは、それに答え
ることはできないのだ。
あるものの意味を見いだしたいのなら、あなたはつくり出した人に尋ねなけ
ればならない。
だから言っているのだ。
あなたが住んでいるこの世界をつくり出した人はあなたなのだ。
あなただけがそれを変え、あるいはつくり変えることができるのだ。(p398)
世界の意味
この残酷な世界が誰にとって現れるのかを見いだしなさい。
そうすれば、なぜそのように残酷に現れるのかを知るだろう。
あなたの質問は完全に正当なものだ。
しかし、それが誰にとっての世界なのかをあなたが知るまでは、それに答え
ることはできないのだ。
あるものの意味を見いだしたいのなら、あなたはつくり出した人に尋ねなけ
ればならない。
だから言っているのだ。
あなたが住んでいるこの世界をつくり出した人はあなたなのだ。
あなただけがそれを変え、あるいはつくり変えることができるのだ。(p398)
意味
あるものの意味を見いだしたいのなら、あなたはつくり出した人に尋ねなけ
ればならない。
だから言っているのだ。
あなたが住んでいるこの世界をつくり出した人はあなたなのだ。
あなただけがそれを変え、あるいはつくり変えることができるのだ。(p398)
あなた自身
あなたがあなた自身を知るとき、世界のなかであなたに知ることができない
ものは何ひとつなくなるのだ。
あなた自身を身体と考えることで、あなたは世界を物質的なものの集合だと
見なしてしまう。
あなた自身を意識の中心として知るとき、世界はマインドの大海として現れ
る。
実在の中のあるがままの自分自身を知るとき、あなたは世界をあなた自身と
して知るのだ。(p398)
あなた と 世界A
あなたがあなた自身を知るとき、世界のなかであなたに知ることができない
ものは何ひとつなくなるのだ。
あなた自身を身体と考えることで、あなたは世界を物質的なものの集合だと
見なしてしまう。
あなた自身を意識の中心として知るとき、世界はマインドの大海として現れ
る。
実在の中のあるがままの自分自身を知るとき、あなたは世界をあなた自身と
して知るのだ。(p398)
不幸の原因
不幸の原因は知覚する者と知覚されるものとの同一化にあるのだ。
それから欲望が生まれ、欲望とともに盲目的行為、結果への無頓着が続くの
だ。
まわりを見まわしてみなさい。
不幸は人間のつくり出したものだということを知るだろう。(p399)
解説 と 矛盾
解説は数多く、矛盾しあっている。
実在はシンプルだ。
すべてはひとつなのだ。
調和が永遠の法則であり、誰も苦しむように強いられてはいない。
ただあなたが解説し、説明しようと試みるとき、言葉はあなたを失望させる
のだ。(p399)
実在はシンプルA
解説は数多く、矛盾しあっている。
実在はシンプルだ。
すべてはひとつなのだ。
調和が永遠の法則であり、誰も苦しむように強いられてはいない。
ただあなたが解説し、説明しようと試みるとき、言葉はあなたを失望させる
のだ。(p399)
すべてはひとつ@
解説は数多く、矛盾しあっている。
実在はシンプルだ。
すべてはひとつなのだ。
調和が永遠の法則であり、誰も苦しむように強いられてはいない。
ただあなたが解説し、説明しようと試みるとき、言葉はあなたを失望させる
のだ。(p399)
源(みなもと)
実在のなかには、それ自体は暗いが、すべてを輝かす源があるだけだ。
知覚されないが、それは知覚を引き起こす原因であり、感じられないが、感
覚をひき起こす原因だ。
非存在でありながら、それは存在に感情を与える。
それは動きの不動なる背景なのだ。
ひとたびあなたがそこに在るなら、どこにいようと我が家のように感じるこ
とだろう。(p399)
我が家
実在のなかには、それ自体は暗いが、すべてを輝かす源があるだけだ。
知覚されないが、それは知覚を引き起こす原因であり、感じられないが、感
覚をひき起こす原因だ。
非存在でありながら、それは存在に感情を与える。
それは動きの不動なる背景なのだ。
ひとたびあなたがそこに在るなら、どこにいようと我が家のように感じるこ
とだろう。(p399)
欲望 と 個人
過去において満たされなかった欲望がエネルギーをふさぎ止め、それが個人
として現れる。
その蓄積されたエネルギーが使い果たされたとき、個人は死ぬのだ。
満たされなかった欲望は次の誕生のなかへと運ばれていく。
身体との自己同一化は、つねに新しい欲望をつくりつづけ、その束縛の構造
が明確に理解されるまで、それに終わりはないのだ。
解放をもたらすのは明晰性だ。
なぜなら、その原因と結果が明確に理解されるまで、欲望を放棄することは
できないからだ。
それは死ぬ。
そして永遠に死ぬのだ。
だが、その記憶は残る。
そしてそれらの欲望と恐れも。
それらが新しい個人にエネルギーを供給するのだ。
実在は、それにはまったく関わらない。
だが、それに光を与えることでそれを可能にするのだ。(p399)
誕生の原因
過去において満たされなかった欲望がエネルギーをふさぎ止め、それが個人
として現れる。
その蓄積されたエネルギーが使い果たされたとき、個人は死ぬのだ。
満たされなかった欲望は次の誕生のなかへと運ばれていく。
身体との自己同一化は、つねに新しい欲望をつくりつづけ、その束縛の構造
が明確に理解されるまで、それに終わりはないのだ。
解放をもたらすのは明晰性だ。
なぜなら、その原因と結果が明確に理解されるまで、欲望を放棄することは
できないからだ。
それは死ぬ。
そして永遠に死ぬのだ。
だが、その記憶は残る。
そしてそれらの欲望と恐れも。
それらが新しい個人にエネルギーを供給するのだ。
実在は、それにはまったく関わらない。
だが、それに光を与えることでそれを可能にするのだ。(p399)
新しい欲望
身体との自己同一化は、つねに新しい欲望をつくりつづけ、その束縛の構造
が明確に理解されるまで、それに終わりはないのだ。
解放をもたらすのは明晰性だ。
なぜなら、その原因と結果が明確に理解されるまで、欲望を放棄することは
できないからだ。(p399)
|