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書名: 『アイ・アム・ザット 私は在る  ニサルガダッタ・マハラジとの対話

書誌:
英訳者  モーリス・フリードマン
編集者  スダカール・S・ディクッシット
翻訳者  福間 巌
発行所  株式会社ナチュラルスピリット(2005年6月8日初版発行)
       http://www.naturalspirit.co.jp/
索引:
 ニサルガダッタ・マハラジ辞書

引用:


真の気づき

 真の気づき(サンヴィド)とは、観照されている出来事についてまったく何
 をすることも試みない、純粋な観照の状態のことだ。
 あなたの思考と感情、言葉と行為もまた、出来事の一部分なのだ。
 あなたは明確な理解の完全な光のなかで、まったく関わりをもたないまま見
 守る。
 それがあなたに影響を与えないため、あなたは何が起こっているのかを正確
 に理解するのだ。
 それはよそよそしく冷淡な態度に見えるかもしれないが、本当はそうではな
 いのだ。
 ひとたびあなたがそのなかに在れば、それがいかなる性質のものであっても、
 あなたはあなたの見るものを愛することを見いだすだろう。
 この無選択の愛が気づきの試金石なのだ。
 もしそれがそこになければ、あなたはある個人的な理由で興味をもつだけだ。(p400)


無選択の愛

 真の気づき(サンヴィド)とは、観照されている出来事についてまったく何
 をすることも試みない、純粋な観照の状態のことだ。
 あなたの思考と感情、言葉と行為もまた、出来事の一部分なのだ。
 あなたは明確な理解の完全な光のなかで、まったく関わりをもたないまま見
 守る。
 それがあなたに影響を与えないため、あなたは何が起こっているのかを正確
 に理解するのだ。
 それはよそよそしく冷淡な態度に見えるかもしれないが、本当はそうではな
 いのだ。
 ひとたびあなたがそのなかに在れば、それがいかなる性質のものであっても、
 あなたはあなたの見るものを愛することを見いだすだろう。
 この無選択の愛が気づきの試金石なのだ。
 もしそれがそこになければ、あなたはある個人的な理由で興味をもつだけだ。(p400)


気づきの試金石

 真の気づき(サンヴィド)とは、観照されている出来事についてまったく何
 をすることも試みない、純粋な観照の状態のことだ。
 あなたの思考と感情、言葉と行為もまた、出来事の一部分なのだ。
 あなたは明確な理解の完全な光のなかで、まったく関わりをもたないまま見
 守る。
 それがあなたに影響を与えないため、あなたは何が起こっているのかを正確
 に理解するのだ。
 それはよそよそしく冷淡な態度に見えるかもしれないが、本当はそうではな
 いのだ。
 ひとたびあなたがそのなかに在れば、それがいかなる性質のものであっても、
 あなたはあなたの見るものを愛することを見いだすだろう。
 この無選択の愛が気づきの試金石なのだ。
 もしそれがそこになければ、あなたはある個人的な理由で興味をもつだけだ。(p400)


あなた意識

 人が意識しているかぎり、そこに苦痛と快楽はあるだろう。
 意識のレベルで快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。
 それらを超えていくには、意識を超えなければならない。
 意識あなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、
 あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超え
 ることが可能なのだ。
 そのとき、あなたは突然意識から自由な、まったくひとりの、何の干渉も入
 らない状態にいる。
 意識とはあなたに引っかかせようとする急激なかゆみなのだ。
 もちろん、意識から外へと出ることはできない。
 外へ出ようとする考え自体が意識のなかにあるからだ。
 だが、もし意識とは殻(から)のなかのヒヨコを包む個人的で私的な熱のよ
 うなものとして見ることを学ぶなら、その態度そのものが殻を破る転換期を
 もたらすだろう。(p400)


上に押し重ねられた

 人が意識しているかぎり、そこに苦痛と快楽はあるだろう。
 意識のレベルで快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。
 それらを超えていくには、意識を超えなければならない。
 意識をあなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、
 あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超え
 ることが可能なのだ。
 そのとき、あなたは突然意識から自由な、まったくひとりの、何の干渉も入
 らない状態にいる。
 意識とはあなたに引っかかせようとする急激なかゆみなのだ。
 もちろん、意識から外へと出ることはできない。
 外へ出ようとする考え自体が意識のなかにあるからだ。
 だが、もし意識とは殻(から)のなかのヒヨコを包む個人的で私的な熱のよ
 うなものとして見ることを学ぶなら、その態度そのものが殻を破る転換期を
 もたらすだろう。(p400)


押し重ねられた

 人が意識しているかぎり、そこに苦痛と快楽はあるだろう。
 意識のレベルで快楽や苦痛と闘うことはできないのだ。
 それらを超えていくには、意識を超えなければならない。
 意識をあなたのなかにではなく、あなたに対して起こる何か外部の、異質な、
 あなたの上に押し重ねられたようなものとして見るときにだけ、それを超え
 ることが可能なのだ。
 そのとき、あなたは突然意識から自由な、まったくひとりの、何の干渉も入
 らない状態にいる。
 意識とはあなたに引っかかせようとする急激なかゆみなのだ。
 もちろん、意識から外へと出ることはできない。
 外へ出ようとする考え自体が意識のなかにあるからだ。
 だが、もし意識とは殻(から)のなかのヒヨコを包む個人的で私的な熱のよ
 うなものとして見ることを学ぶなら、その態度そのものが殻を破る転換期を
 もたらすだろう。(p400)


意識かゆみ

 意識とはあなたに引っかかせようとする急激なかゆみなのだ。
 もちろん、意識から外へと出ることはできない。
 外へ出ようとする考え自体が意識のなかにあるからだ。
 だが、もし意識とは殻(から)のなかのヒヨコを包む個人的で私的な熱のよ
 うなものとして見ることを学ぶなら、その態度そのものが殻を破る転換期を
 もたらすだろう。(p400)


ヒヨコを包む熱

 意識とはあなたに引っかかせようとする急激なかゆみなのだ。
 もちろん、意識から外へと出ることはできない。
 外へ出ようとする考え自体が意識のなかにあるからだ。
 だが、もし意識とは殻(から)のなかのヒヨコを包む個人的で私的なのよ
 うなものとして見ることを学ぶなら、その態度そのものが殻を破る転換期を
 もたらすだろう。(p400)


殻を破る転換期

 意識とはあなたに引っかかせようとする急激なかゆみなのだ。
 もちろん、意識から外へと出ることはできない。
 外へ出ようとする考え自体が意識のなかにあるからだ。
 だが、もし意識とは殻(から)のなかのヒヨコを包む個人的で私的なのよ
 うなものとして見ることを学ぶなら、その態度そのものが殻を破る転換期を
 もたらすだろう。(p400)


仏陀

 彼(仏陀)はすべての意識が苦痛に満ちたものだと意味していたのだ。
 それは明白だ。(p400)


意識苦痛A

 彼(仏陀)はすべての意識苦痛に満ちたものだと意味していたのだ。
 それは明白だ。(p400)


死を恐れる

 自分自身が生まれてきたと信じている人は、死を非常に恐れている。
 その反対に、自分自身を本当に知っている人にとって、は幸福な出来事な
 のだ。(p400)


苦しみ

 人は自分自身のによってのみ苦しまなければならないのだろうか?
 私たちは本当に分離しているのだろうか?
 この広大な生命の大洋のなかで、私たちは他者のによって苦しみ、また私
 たちのによって他者を苦しめる。
 もちろん、バランスの法則が最高位のものだ。
 そして最後には貸借の決済をすませる。
 しかし、生命が続くかぎり、私たちは深く互いに影響を与え合うのだ。(p401)


体験への興味

 すべての体験の背後には自己があり、その体験への興味があるのだ。
 それを欲望と呼ぶがいい。
 あるいは愛と呼ぶがいい。
 言葉は重要でない。(p401)


苦しみの原因

 すべての苦しみは利己的な分離、孤立と貪欲によって起こるのだ。
 苦しみの原因が理解され、取り除かれたなら、苦しみはやむだろう。(p401)


人類の不幸

 苦しみを理解するには、苦痛と快楽を超えていかなければならない。
 あなた自身の欲望と恐れが理解することを妨げ、それゆえ他者を助けること
 も妨げているのだ。
 実際には、他者は存在しない。
 それゆえ、自分自身を助けることで、あなたはほかの皆をも助けるのだ。
 もし人類の不幸に真面目に取り組むのなら、あなたがもっている唯一の手段
 を完全なものにしなければならない。
 それがあなた自身なのだ。(p401)


運命無知

 (運命をつくり出すのは)無知が避けることができない原因なのだ。
 
 根本的には、あなた自身についての無知だ。
 また、ものごとの真の本質、その原因と結果についてでもある。
 あなたは辺りを見回し、理解もせずにその現れを実在と見なしてしまう。
 あなたは世界とあなた自身を知っていると信じている。
 だが、「わたしは知っている」とあなたに言わせているのは、単にあなたの
 無知にすぎないのだ。
 知らないということを認めなさい。
 そしてまずそこからはじめなさい。
 
 無知を終わらせること以上に、世界を助けられることは何もない。
 そうすれば、世界を助けるために何か特定のことをする必要はもうないのだ。
 行為をしようと無為であろうと、あなたの存在そのものが助けとなるのだ。(p402)


無知知識

 「わたしは無知だ」と認めること自体が知識の現れなのだ。
 無知な人は、彼の無知無知なのだ。
 あなたは無知が存在しないと言うことができる。
 なぜなら、それが見られた瞬間、それはもはやないからだ。
 それゆえ、それを無意識、あるいは盲目と呼んでもいいだろう。
 あなたの内側とまわりに見るすべては、あなたが知らず、理解しないことな
 のだ。
 あなたはあなたが知らず、理解しないことさえも知らないのだ。
 あなたが知らず、理解もしていないことを知ることは真の知識、謙虚なるハ
 ートの知識だ。(p402)


知識無知@

 事実は、知識とは無知でしかないということだ。
 あなたは知らないということを知っているのだ。(p402)


宇宙的マインド

 ひとたびあなたが内的に統合されたなら、外的な知識は自然にやってくるだ
 ろう。
 人生におけるそれぞれの瞬間に、あなたは知るべきことを知るのだ。
 宇宙的マインドの大洋のなかには、全知識が包含されている。
 それはあなたの要求しだいなのだ。
 そのほとんどは、けっして知る必要もないものかもしれない。
 だが、どちらにせよ、すべてあなたのものなのだ。(p403)


仕事

 何であれ、あなたがする必要のあることは間違いなく起こる。
 が宇宙を支配する仕事に従事していることは疑いない事実だ。
 だが、彼は助けを得ることを喜ぶ。
 もしそれが非利己的で、知的な人ならば、すべての宇宙の力が彼の指揮にし
 たがうだろう。(p403)


盲目的な力

 盲目的な力というものはない。
 意識がなのだ。
 為される必要のあることに気づいていなさい。
 そうすれば、それは為されるだろう。
 ただ油断なく、静かにしていなさい。
 ひとたびあなたが目的地に到着し、真の本性を知るならば、あなたの存在は
 すべてにとっての祝福となる。(p403)


所有物 への 執着

 (家族と所有物に対する)この執着は、「私」と「私のもの」という感覚
 とともに生まれたものだ。
 これらの言葉のもつ本当の意味を見いだしなさい。
 そうすれば、すべての束縛から自由になるだろう。
 あなたは時間のなかに広がるマインドをもっている。
 つぎつぎとあらゆることがあなたに起こり、そしてその記憶が残る。
 それには何の誤りもない。
 ただ、すべての有機的生命にとって本質的である過去の苦痛や快楽の記憶
 が、ひとつの反射的作用、支配的行動として残るとき問題が起こるのだ。
 この反射作用が「私」という形を取り、身体とマインドをいつも快楽の追求、
 苦痛からの逃避という目的のために使うのだ。
 あなたが「私」を、ひと塊(かたまり)の欲望と恐れとして「私のもの」を、
 苦痛を避け快楽を確保するためにものごとや人びとを抱擁するものとしてあ
 るがままに認識したとき、「私」と「私のもの」は、実在のなかに何の基盤
 ももたない偽りの観念だということが理解できるだろう。
 マインドによってつくられながらも、マインドがそれらを真実だと見なすか
 ぎり、そのつくり出した者を支配する。
 それが疑われた瞬間、それらは消え去るのだ。(p404)


「私」と「私のもの」

 「私」と「私のもの」は、それ自体では存在をもたないため、身体という支
 えを必要とする。
 身体がそれらの身元の証明となるのだ。
 あなたが「私の」夫や「私の」子どもと言うとき、身体にとっての夫、身体
 にとっての子どもを意味している。
 自分が身体だという観念を捨て去り、「私とは誰なのか?」という質問に直
 面しなさい。
 即座に実在を呼び戻す動きのプロセスがはじまる。
 というよりも、そのプロセスがマインドを実在へと連れていくだろう。
 ただ、恐れてはならないのだ。(p404)


実在「私」

 実在が在るためには、「私」「私のもの」という観念は去らなければなら
 ない。
 あなたが手放しさえすれば、それらは去るだろう。
 そうすれば、あなたの正常で自然な状態はふたたび現れる。
 そのとき、あなたは身体でもマインドでもなく、「私」でも「私のもの」で
 もない、まったく異なった存在の状態に在るのだ。
 それは、あれやこれとしての存在ではなく、特定の、あるいは一般的な何か
 との自己同一化のない、純粋な存在の気づきだ。
 意識の純粋な光の中には何も存在しない。
 無という概念すらない。
 そこにはただ光があるだけだ。(p404)


アイデンティティ@

 そこには喜ばしい気づきがある。
 だが、誰も喜んでいる人はそこにいない。
 もちろん、アイデンティティの感覚はある。
 しかし、それは一連の記憶のアイデンティティ、不変のスクリーン上の画像
 の連鎖とのアイデンティティのようなものなのだ。
 光とスクリーンなしに画像はありえない。
 画像がスクリーン上の光の戯(たわむ)れであると知ることは、画像が実在
 だという観念からの解放を与えてくれる。(p406)


「私は在る」

 「私は在る」という感覚は、あなたと自己との間の連結部であり、外見の多
 様性に妨げられないアイデンティティの象徴なのだ。
 「私は在る」を内面と外面の間、実在と現れとの間の愛の象徴として見なさ
 い。
 のなかでは、「私」という感覚を除いてはすべてが異なっている。
 その「私」が「私はを見た」と言うことを可能にするように、「私は在る」
 という感覚が、「私は真我だ」と言うことを可能にするのだ。
 私は何もしないし、私に対して何もされることはない。
 私は私であり、何も私に影響を与えることはできない。
 私はすべてに依存しているように見えるが、事実は、すべてが私に依存して
 いるのだ。(p406)


出来事の原因@

 私はあなたの言語習慣に異議はない。
 だが、それは実際を歪(ゆが)ませ、破壊してしまうのだ。
 より正確な言い方は、「そこには話すことが、働くことが、来ることが、行
 くことが起こっている」となるだろう。
 なぜなら、何かが起こるには宇宙全体が符合しなければならないからだ。
 ひとつの出来事の原因が何か特定のものと信じるのは間違いだ。
 すべての原因は普遍的なものなのだ。
 宇宙全体がその創造と存続に貢献しないかぎり、あなたの身体は存在しなか
 っただろう。
 ものごとは起こるがままに起こる、なぜなら、世界はあるがままだというこ
 とに、私は完全に気づいているからだ。
 出来事の流れに影響を与えるには、世界のなかに新しい要因をもたらさなけ
 ればならない。
 そしてそのような要因は、私のなかで焦点を合わされた愛と理解の力である
 私自身でしかありえないのだ。(p406-407)


映画館

 身体が誕生するとき、あらゆることが自由に起こる。
 そしてあなたは自分を身体だと見なして、それらに関わっていく。
 あなたは映画館でずっと席に座っていて、画像が光の戯(たわむ)れにすぎ
 ないのをよく知っているにもかかわらず、画面を見て笑ったり泣いたりして
 いる人のようなものだ。
 その魔力を破るには、スクリーンから自分自身へと注意を移行させるだけで
 充分なのだ。(p407)


魔力を破る

 身体が誕生するとき、あらゆることが自由に起こる。
 そしてあなたは自分を身体だと見なして、それらに関わっていく。
 あなたは映画館でずっと席に座っていて、画像が光の戯(たわむ)れにすぎ
 ないのをよく知っているにもかかわらず、画面を見て笑ったり泣いたりして
 いる人のようなものだ。
 その魔力を破るには、スクリーンから自分自身へと注意を移行させるだけで
 充分なのだ。
 身体が死ぬとき、あなたが現在生きている身体的、精神的出来事の連鎖であ
 る人生は終わりを迎える。
 それは身体の死を待たずとも、今でさえ終わらせることができる。
 注意を真我に移行し、そこにとどめておくだけで充分なのだ。
 あたかもそこに、すべてを創造し、動かす神秘の力があるように。
 すべては起こるのだ。
 あなたは動かす人ではなく、ただの観察者なのだということを自覚しなさい。
 そうすれば、あなたは平和の内にあることだろう。(p407)


注意を移行させる

 身体が誕生するとき、あらゆることが自由に起こる。
 そしてあなたは自分を身体だと見なして、それらに関わっていく。
 あなたは映画館でずっと席に座っていて、画像が光の戯(たわむ)れにすぎ
 ないのをよく知っているにもかかわらず、画面を見て笑ったり泣いたりして
 いる人のようなものだ。
 その魔力を破るには、スクリーンから自分自身へと注意を移行させるだけで
 充分なのだ。(p407)


身体が死ぬとき

 身体が死ぬとき、あなたが現在生きている身体的、精神的出来事の連鎖であ
 る人生は終わりを迎える。
 それは身体の死を待たずとも、今でさえ終わらせることができる。
 注意を真我に移行し、そこにとどめておくだけで充分なのだ。
 あたかもそこに、すべてを創造し、動かす神秘の力があるように。
 すべては起こるのだ。
 あなたは動かす人ではなく、ただの観察者なのだということを自覚しなさい。
 そうすれば、あなたは平和の内にあることだろう。(p407)


動かす人ではなく

 身体が死ぬとき、あなたが現在生きている身体的、精神的出来事の連鎖であ
 る人生は終わりを迎える。
 それは身体の死を待たずとも、今でさえ終わらせることができる。
 注意を真我に移行し、そこにとどめておくだけで充分なのだ。
 あたかもそこに、すべてを創造し、動かす神秘の力があるように。
 すべては起こるのだ。
 あなたは動かす人ではなく、ただの観察者なのだということを自覚しなさい。
 そうすれば、あなたは平和の内にあることだろう。(p407)


冷静な観察者

 あなたは冷静な観察者としてあることからはじめなければならない。
 そのときにのみ、あなたは普遍的な愛する者と行為する者としてのあなたの
 完全な存在を認識するだろう。
 あなたが特定の人物としての困難のなかに巻き込まれているかぎりは、何も
 その彼方にあるものを見ることはできない。
 だが究極的には、あなたは特定でも普遍的でもなく、その両方を超えたもの
 だと知ることだろう。(p407)


無次元の点@

 あなたは冷静な観察者としてあることからはじめなければならない。
 そのときにのみ、あなたは普遍的な愛する者と行為する者としてのあなたの
 完全な存在を認識するだろう。
 あなたが特定の人物としての困難のなかに巻き込まれているかぎりは、何も
 その彼方にあるものを見ることはできない。
 だが究極的には、あなたは特定でも普遍的でもなく、その両方を超えたもの
 だと知ることだろう。
 鉛筆の先のごく小さな点が無数の絵を描きだすように、気づきの無次元の点
 は広大な宇宙の内容を描くことができるのだ。
 その点を探し出し、自由になりなさい。(p407)


創造者@

 (世界をつくり出したのは)あなた自身の記憶からだ。
 あなたが創造者としての自分に無知なかぎり、あなたの世界は限定され、反
 復的なものになる。
 ひとたびあなたが過去との自己同一化を超えていけば、調和と美の新しい世
 界を自由につくり出すことができる。
 あるいは、あなたはただ存在と非存在の彼方にとどまるのだ。(p407)


難しいことではない

 自由とその祝福を体験するまであなたは恐れることだろう。
 もちろん、身体を識別し導くためにはいくらかの記憶が必要だ。
 そしてそのような記憶は残る。
 だが、身体への執着が残ることはない。
 それはもはや欲望と恐れの拠(より)り所ではなくなるのだ。
 これらすべてを理解し、修練することは何も難しいことではない。
 しかし、あなたは興味をもたなければならない。
 興味なしには何もなされないからだ。(p408)


一束の記憶

 あなたとは執着によって束ねられた一束の記憶なのだということを理解した
 上で、そこから踏みだし、外側から見てみなさい。
 はじめてあなたは記憶ではない何かを知覚するだろう。
 自分個人の関心事に忙しい某氏として在ることをやめて、ついにあなたは平
 和になるのだ。(p408)


欲望の網の目

 あなたとは執着によって束ねられた一束の記憶なのだということを理解した
 上で、そこから踏みだし、外側から見てみなさい。
 はじめてあなたは記憶ではない何かを知覚するだろう。
 自分個人の関心事に忙しい某氏として在ることをやめて、ついにあなたは平
 和になるのだ。
 世界には何も間違ったところがないということを、あなたは認識するだろう
 ――間違っていたのはあなただけだ。
 そして、それは今終わったのだ。
 けっしてふたたび、あなたは無知から生まれた欲望の網の目に捕まることは
 ないだろう。(p408)


忘れないことで

 どうしたものか、私の場合それはとても簡単で、やさしいものだった。
 私のグルが亡くなる寸前に私に告げたのだ。
 「私を信じなさい。あなたは至高の実在なのだ。私の言葉を疑ってはならな
 い。不信感をもってはならない。私は真実を伝えているのだ。それに基づい
 て行動しなさい」と。
 私には彼の言葉を忘れることができなかった。
 そして忘れないことで、私は真我を実現したのだ。
 
 何も特別なことはしなかった。
 私は私の人生を生き、商売に励み、家族の面倒を見、時間の許すかぎり私の
 グルと彼の言葉を覚えていたのだ。
 じきに彼は逝き、私は記憶に頼ることしかできなかった。
 それで充分だったのだ。(p408)


覚えていた

 私には彼の言葉を忘れることができなかった。
 そして忘れないことで、私は真我を実現したのだ。
 
 何も特別なことはしなかった。
 私は私の人生を生き、商売に励み、家族の面倒を見、時間の許すかぎり私の
 グルと彼の言葉を覚えていたのだ。
 じきに彼は逝き、私は記憶に頼ることしかできなかった。
 それで充分だったのだ。(p408)


真実の言葉A

 彼の言葉真実だった。
 だからそれは実現されたのだ。
 真実の言葉はつねに実現される。
 私のグルは何もしなかった。
 彼の言葉が働きかけたのだ。
 なぜなら、それらは真実だったからだ。
 何であれ、私のしたことは願わず、求めずして内側から起こったものだ。(p409)


彼の言葉

 何ひとつしなかった。
 私は真我を実現しようと苦悩したわけでさえない。
 は私に「あなたは至高なるものだ」と告げ、そして死んだのだ。
 私にはただを疑うことができなかった。
 それ以外はすべてひとりでに起こっていった。
 私は変わりつづけていく私を見ていた。
 ただそれだけだ。
 実のところ、私は驚いている。
 しかし、彼の言葉を実証したいという熱望が湧いてきたのだ。
 私にはが嘘をついているはずがないというあまりにも強い確信があったた
 め、彼の言葉の完全な意味を実現するか、そうでなければ死ぬしかないと感
 じたのだ。
 私の決意は強固なものだったが、何をすべきか知らなかった。
 私は何時間ものこととが確約した言葉を想い、議論することなく、ただ
 の言った言葉を覚えていたのだ。(p409)


至高の実在A

 (至高の実在とは)私はもはや騙(だま)されない。
 それだけだ。
 私は世界をつくり出し、そこに住んでいた――もはやそうすることはないの
 だ。(p410)


騙(だま)されない

 (至高の実在とは)私はもはや騙されない。
 それだけだ。
 私は世界をつくり出し、そこに住んでいた――もはやそうすることはないの
 だ。(p410)


意識を超えた空

 (私が住んでいるのは)存在と非存在を超えた、意識を超えた空のなかだ。
 その空はまた充満してもいるのだ。
 私を哀れんではいけない。
 それは、「私は私の仕事を終えた。もう何もするべきことはない」と言う人
 のようなものだ。(p410)


何が起こったのか

 (何が起こったのかというなら)マインドが出来事をつくり出すことをやめ
 たのだ。
 遙かなる昔からの絶え間ない探求が終焉したのだ。
 私は何も望まず、何も期待せず、何ひとつ私のものとして受け取らなかった。
 そこに闘おうとする「私」は残っていなかった。
 ただの「私は在る」さえも消え去ったのだ。(p410)


習慣的な確信

 もう一つ気づいたことは、すべての習慣的な確信を失ったということだ。
 以前、私は多くのことに確信をもっていた。
 今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。
 だが、知らないことで何かを失ったようには感じない。
 なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。(p410)


知識は無知なるもの

 もう一つ気づいたことは、すべての習慣的な確信を失ったということだ。
 以前、私は多くのことに確信をもっていた。
 今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。
 だが、知らないことで何かを失ったようには感じない。
 なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。
 私が知らないということ自体、すべての知識は無知なるものだという事実の
 知識なのだ。
 「私は知らない」だけが私にできる唯一の表明だ。(p410)


私は知らない

 以前、私は多くのことに確信をもっていた。
 今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。
 だが、知らないことで何かを失ったようには感じない。
 なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。
 私が知らないということ自体、すべての知識は無知なるものだという事実の
 知識なのだ。
 「私は知らない」だけが私にできる唯一の表明だ。
 「私は生まれた」という考えを例にとってみなさい。
 あなたはそれを真実だと受け取っているかも知れない。
 そうではないのだ。
 あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。
 生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
 あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死
 をまぬがれない者となる。
 映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。
 よく見てみなさい。
 すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存
 在するのだ。(p410)


生まれなかった

 あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。
 生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
 あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死
 をまぬがれない者となる。
 映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。
 よく見てみなさい。
 すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存
 在するのだ。(p410)


同一化

 あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。
 生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
 あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは
 をまぬがれない者となる。
 映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。
 よく見てみなさい。
 すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存
 在するのだ。(p410)


死をまぬがれない者

 あなたはけっして生まれなかったし、けっしてぬこともないだろう。
 生まれて、そしてんでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
 あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死
 をまぬがれない者となる。
 映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。
 よく見てみなさい。
 すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存
 在するのだ。(p410)


小さな光の点

 意識のかぎりない広がりのなかに、ひとつのが現れる。
 小さな点は急速に動き、紙の上にペンで形を描くように思考、感情、概念、
 観念を描きだす。
 その描きだすインクが記憶だ。
 あなたはその小さな点であり、あなたの動きによって世界はつねに再創造さ
 れていくのだ。
 動くのをやめなさい。
 すると世界はなくなるだろう。
 内側を見なさい。
 すると身体のなかの広大なの反映は、「私は在る」という感覚としての小
 さな光の点だと見いだすだろう。
 ただだけがあり、それ以外のすべては現れにすぎないのだ。(p410-411)


光の点暗闇

 意識のかぎりない広がりのなかに、ひとつのが現れる。
 小さなは急速に動き、紙の上にペンで形を描くように思考、感情、概念、
 観念を描きだす。
 その描きだすインクが記憶だ。
 あなたはその小さなであり、あなたの動きによって世界はつねに再創造さ
 れていくのだ。
 動くのをやめなさい。
 すると世界はなくなるだろう。
 内側を見なさい。
 すると身体のなかの広大なの反映は、「私は在る」という感覚としての小
 さな光の点だと見いだすだろう。
 ただだけがあり、それ以外のすべては現れにすぎないのだ。
 
 マインドにとってそれは暗闇として現れる。
 それはその反映を通してだけ知ることができる。
 日の光以外はすべて日の光のなかで見られるのだ。(p410-411)


個人的なマインド

 あなたは記憶によって織り込まれ、欲望と恐れによってひとつに束ねられた、
 あなた自身の個人的なマインドをもっているのだ。
 私は自分自身のマインドというものをもっていない。
 私が知る必要のあることは、宇宙は私に食べる物を与えるように私のもとへ
 運んでくるのだ。
 
 私にとって知りたいことは何もない。
 だが、知る必要のあることは知ることになるのだ。(p411)


知りたいこと

 私にとって知りたいことは何もない。
 だが、知る必要のあることは知ることになるのだ。(p411)


私の内側と外側

 私の内側外側であり、私の外側内側なのだ。
 必要な知識をあなたから得るかも知れない。
 だが、あなたは私から離れていないのだ。(p411)


トゥリーヤ

 世界を描きだす光の点がトゥリーヤだ。
 光そのものとなることがトゥリーヤーティータだ。
 だが、実在がこれほど間近にあるというときに、そのような名称が何になる
 というのだろうか?(p411)


実在不動変化

 実在不動のものだ。
 それにもかかわらず、絶え間ない変化のなかにある。
 それは力強い川のようなものだ。
 それは流れていくが、しかも永遠にそこにある。
 流れていくのは、川とその川床と両岸ではなく、水だ。
 同じようにサットヴァ・グナ、普遍的調和の質はタマスとラジャス、暗闇と
 絶望に対して戯(たわむ)れる。
 サットヴァのなかには、つねに変化と進展がある。
 ラジャスのなかには、つねに変化と後退がある。
 一方、タマスは混沌(こんとん)を代表する。
 三つのグナ(質)は永遠に互いに対抗して戯れあう。
 それは事実であり、そこに事実との不和はありえないのだ。(p411)


三つのグナ(質)

 実在は不動のものだ。
 それにもかかわらず、絶え間ない変化のなかにある。
 それは力強い川のようなものだ。
 それは流れていくが、しかも永遠にそこにある。
 流れていくのは、川とその川床と両岸ではなく、水だ。
 同じようにサットヴァ・グナ、普遍的調和の質はタマスラジャス、暗闇と
 絶望に対して戯(たわむ)れる。
 サットヴァのなかには、つねに変化と進展がある。
 ラジャスのなかには、つねに変化と後退がある。
 一方、タマスは混沌(こんとん)を代表する。
 三つのグナ(質)は永遠に互いに対抗して戯れあう。
 それは事実であり、そこに事実との不和はありえないのだ。(p412)


サットヴァマインド

 サットヴァはあなたの真の本性の輝きだ。
 あなたはつねにそれをマインドの彼方に見いだすことができる。
 だが、あなたが世界を望むならば、三つのグナを分離不可能で、本質的にひ
 とつである物質―エネルギー―生命として受け容れなければならない。
 時間と空間のなかには、誕生と死、進歩、後退、また進歩、ふたたび後退と
 いった、一見、はじまりも終わりもないような永遠の流れがある。
 永遠、不変で身体を持たず、マインドのない気づきが至福なのだ。(p412)


世界を望むなら

 サットヴァはあなたの真の本性の輝きだ。
 あなたはつねにそれをマインドの彼方に見いだすことができる。
 だが、あなたが世界を望むならば、三つのグナを分離不可能で、本質的にひ
 とつである物質―エネルギー―生命として受け容れなければならない。
 時間と空間のなかには、誕生と死、進歩、後退、また進歩、ふたたび後退と
 いった、一見、はじまりも終わりもないような永遠の流れがある。
 永遠、不変で身体を持たず、マインドのない気づきが至福なのだ。(p412)


意識もの

 意識の届かないところから物質ははじまる。
 ものとは私たちが理解してこなかった存在のひとつの形態だ。
 それは変化しない。
 それはつねに同じで、それ自体として、何か奇妙な異質なものとしてそこに
 あるように見える。
 もちろん、それは意識のなかに在る。
 だが、一見不変に見える外観ゆえに、外側にあるように見えるのだ。
 ものの根本は記憶のなかにある。
 記憶なしには認識はないからだ。
 創造―維持―破壊すなわちブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ。
 これが永遠の過程だ。
 すべてのものごとはそれに支配されているのだ。(p412)


創造―維持―破壊

 意識の届かないところから物質ははじまる。
 ものとは私たちが理解してこなかった存在のひとつの形態だ。
 それは変化しない。
 それはつねに同じで、それ自体として、何か奇妙な異質なものとしてそこに
 あるように見える。
 もちろん、それは意識のなかに在る。
 だが、一見不変に見える外観ゆえに、外側にあるように見えるのだ。
 ものの根本は記憶のなかにある。
 記憶なしには認識はないからだ。
 創造―維持―破壊すなわちブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ。
 これが永遠の過程だ。
 すべてのものごとはそれに支配されているのだ。(p412)


脱出だけを

 私はほかでもない脱出だけを示しているのだ。
 ひとつが三つ(創造―維持―破壊)を含んでいることを理解しなさい。
 そしてあなたこそがそのひとつなのだ。
 そうすれば、あなたは輪廻(りんね)から解放されるだろう。(p412)


ひとつが三つ(創造―維持―破壊)を含んでいる

 私はほかでもない脱出だけを示しているのだ。
 ひとつが三つ(創造―維持―破壊)を含んでいることを理解しなさい。
 そしてあなたこそがそのひとつなのだ。
 そうすれば、あなたは輪廻(りんね)から解放されるだろう。(p412)


輪廻から解放される

 私はほかでもない脱出だけを示しているのだ。
 ひとつが三つ(創造―維持―破壊)を含んでいることを理解しなさい。
 そしてあなたこそがそのひとつなのだ。
 そうすれば、あなたは輪廻(りんね)から解放されるだろう。(p412)


最終的に

 創造の段階の後に、調査、そして熟考の段階が来る。
 そして最終的に放棄と忘却の段階となる。
 意識は残るが、潜在的な、静かな状態なのだ。(p412)


アイデンティティA

 アイデンティティの状態は実在のなかで固有のものであり、けっして消え去
 るものではない。
 しかし、アイデンティティとは一時的な個人(ヴィヤクティ)でも、カルマ
 によって束縛された人格(ヴィヤクタ)でもないのだ。
 それはすべての自己同一化が偽りとして放棄されたときに残るものだ。
 純粋な意識、そこにある、またはありうるすべての存在の感覚だ。
 意識ははじめ純粋で、終わりもまた純粋なままだ。
 その中間において、創造の根本である想像によって汚されてしまうのだ。
 意識はつねに同じ状態で残る。
 それをあるがままに知ることが真我の実現であり、永遠の平和なのだ。(p412)


充分な解放

 知られることは私、あるいは私のものではありえない、ということを知るこ
 と自体、充分な解放だ。
 一式の記憶と習慣との自己同一化からの自由、存在の無限な広がりに対する
 驚愕(きょうがく)、その無尽蔵な創造力と完全な超越、意識のあらゆる状
 態が錯覚であり、一時的であることの認識から生まれた絶対的な恐れのなさ
 ――それらは深く、かぎりない源から湧き出るものだ。
 源を源として、現れは現れとして知ること、自己を唯一の源として知ること
 が真我の実現なのだ。(p413)


唯一の源として

 知られることは私、あるいは私のものではありえない、ということを知るこ
 と自体、充分な解放だ。
 一式の記憶と習慣との自己同一化からの自由、存在の無限な広がりに対する
 驚愕(きょうがく)、その無尽蔵な創造力と完全な超越、意識のあらゆる状
 態が錯覚であり、一時的であることの認識から生まれた絶対的な恐れのなさ
 ――それらは深く、かぎりないから湧き出るものだ。
 として、現れは現れとして知ること、自己を唯一の源として知ること
 が真我の実現なのだ。(p413)


鏡のマインド

 誰も「私は観照者だ」と言うことはできない。
 「私は在る」はつねに観照されているものだ。
 冷静な気づきの状態が観照意識、「鏡のマインド」だ。
 それは対象物とともに現れては消えるものであり、それゆえ完全に実在とは
 言えない。
 対象物がなんであれ、それは変わらず残る。
 それゆえそれは実在とも言えるのだ。
 それは実在と非実在の両方の質をもっているため、そのふたつに架ける橋な
 のだ。(p413)


観照者の役目

 それ(観照者)は何もしない。
 そして何の役にも立たないのだ。
 
 (なぜそれについて話すかと言うなら)なぜなら、それはそこに在るからだ。
 橋は渡すというひとつの役割を果たすだけだ。
 あなたは橋の上に家を建てたりはしない。
 「私は在る」はものごとを見るが、観照者はそれらを見通すだけだ。
 それはそれらを非実在で一時的なものとして、ありのままに見る。
 「私ではなく、私のものではない」と言うことが観照者の役目なのだ。(p414)


私の場合

 私の場合を例に見てみなさい。
 私は真我の実現のために何もしなかった。
 私の師が、実在は私のなかにあると言ったのだ。
 私は内面を見て、そこにそれを発見した。
 まさしく、師の言ったように。
 実在を見ることは、自分の顔を鏡で見ることのように簡単なことなのだ。
 ただ鏡は汚れのない、本物でなければならない。
 欲望や恐れによる歪みがなく、観念や意見から自由な、すべてのレベルで明
 晰(めいせき)な、静かなマインドが実在を反映するために必要なのだ。
 澄んで、静かに在りなさい。
 油断なく冷静に在りなさい。
 そうすればほかのすべてはひとりでに起こるだろう。
 
 私は何もしなかった。
 それはただ起こっただけだ。
 私は私の人生を送り、家族の必要に従事していたのだ。
 私のグルも何もしなかった。
 彼が言ったとおり、それはただ起こったのだ。(p415)


原因は無数

 起こることすべてが起こることすべての原因なのだ。
 原因は無数にある。
 たったひとつの原因という考えはただの幻想だ。(p415-416)


在るする

 (あなたは何をしているのか、というなら)
 あなたは在ることと、することを同一視している。
 それはそうではないのだ。
 マインドと身体が動き、変化し、ほかのマインドと身体を動かし、変化させ
 ていく。
 それがすること、行為と呼ばれるものだ。
 私が見るには、燃えることによって火が続いていくように、行為がつぎの行
 為を生みだしていく、それが行為の本質だ。
 私は行為もしなければ、ほかの者に行為させることもしない。
 私は永遠に、起こっていることに気づいているのだ。(p416)


行為の本質

 あなたは在ることと、することを同一視している。
 それはそうではないのだ。
 マインドと身体が動き、変化し、ほかのマインドと身体を動かし、変化させ
 ていく。
 それがすること、行為と呼ばれるものだ。
 私が見るには、燃えることによって火が続いていくように、行為がつぎの行
 為を生みだしていく、それが行為の本質だ。
 私は行為もしなければ、ほかの者に行為させることもしない。
 私は永遠に、起こっていることに気づいているのだ。(p416)


ひとつのマインド

 そこには、「私はこれだ、私はあれだ。これは私のものだ。あれは私のもの
 だ」という考えが群れをなしたひとつのマインドがあるだけだ。
 私はマインドではない。
 けっしてそうではなかったし、そうあることもないだろう。(p416)


世界構成

 世界は物質、エネルギー、知性で構成されている。
 それらは多くの方法でそれ自体を現している。
 欲望と想像が世界を創造する。
 知性はその二つを調停し、平和と調和の感覚をもたらすのだ。
 私にとっては、それはすべて起こるだけだ。
 私は気づいていて、しかも影響を受けないままなのだ。(p416)


飛ぶ鳥のように

 (ひとたびある感覚を体験したら、記憶は以前の状態に後戻りできないはず、
 というなら)
 そのとおりだ。
 記憶に加えられたことを消去するのは簡単なことではない。
 しかし、間違いなくそれはできる。
 事実、私はつねにそれをやっている。
 飛ぶ鳥のように、私は足跡を残さないのだ。(p416-417)


観照者A

 観照者は気づきのなかの単なる点にすぎず、名前も形もない。
 それは露のしずくに映る太陽の反映のようなものだ。
 露のしずくには名前も形もない。
 だが、光の小さな点は太陽によってできたものだ。
 しずくの透明さとなめらかさは必要な条件であるが、それ自体としては充分
 と言えない。
 同じようにマインドの明晰性と沈黙は、マインドのなかに実在の反映が現れ
 るために必要であるが、それだけでは充分でないのだ。
 それを超えたところに実在がなければならない。
 実在は永遠に存在しているため、必要条件のほうが強調されるのだ。(p417)


忍耐と自己制御

 (マインドが澄んで静かなのに、反映が現れないこともあるか、というなら)
 運命が考慮されなければならない。
 無意識は運命に捕らえられている。
 事実、それが運命なのだ。
 人は待たなければならないかもしれない。
 しかし、運命の手がいかに重くのしかかろうと、忍耐と自己制御によって取
 り除くことはできるのだ。
 統合と純粋さが障害をぬぐい去るとき、マインドのなかに実在の姿は現れて
 くる。(p417)


自己制御

 (どのようにして自己制御を習得するのか、というなら)
 まず、あなたはあなたが考えているような個人ではないということを理解し
 なさい。
 あなたがあなた自身だと考えていることは、単なる想像や思いつきにすぎな
 いのだ。
 あなたに両親はいない。
 あなたは生まれてもいなければ、死にもしないのだ。
 私がそう言うのを信じるか、あるいは探求し、調査することでそれに到達す
 るがいい。
 完全なる信頼の道は速い。
 もうひとつの道は遅いが、安定している。
 どちらも行為によって試されなければならないのだ。
 あなたが真実だと信じることにしたがって行動しなさい。
 これが真理への道なのだ。(p417)


行為によって

 まず、あなたはあなたが考えているような個人ではないということを理解し
 なさい。
 あなたがあなた自身だと考えていることは、単なる想像や思いつきにすぎな
 いのだ。
 あなたに両親はいない。
 あなたは生まれてもいなければ、死にもしないのだ。
 私がそう言うのを信じるか、あるいは探求し、調査することでそれに到達す
 るがいい。
 完全なる信頼の道は速い。
 もうひとつの道は遅いが、安定している。
 どちらも行為によって試されなければならないのだ。
 あなたが真実だと信じることにしたがって行動しなさい。
 これが真理への道なのだ。(p417)


真理への道

 まず、あなたはあなたが考えているような個人ではないということを理解し
 なさい。
 あなたがあなた自身だと考えていることは、単なる想像や思いつきにすぎな
 いのだ。
 あなたに両親はいない。
 あなたは生まれてもいなければ、死にもしないのだ。
 私がそう言うのを信じるか、あるいは探求し、調査することでそれに到達す
 るがいい。
 完全なる信頼の道は速い。
 もうひとつの道は遅いが、安定している。
 どちらも行為によって試されなければならないのだ。
 あなたが真実だと信じることにしたがって行動しなさい。
 これが真理への道なのだ。(p417)


意識の長所

 意識している長所とは単なるうぬぼれにすぎない。
 意識はつねに障害なのだ。
 障害のないとき、人はそれを超えることができる。(p417)


うぬぼれ

 意識している長所とは単なるうぬぼれにすぎない。
 意識はつねに障害なのだ。
 障害のないとき、人はそれを超えることができる。(p417)


真我の実現理解

 (行為は真我の実現に本質的なものなのか、というなら)
 真我の実現にとっては、理解が本質的なものだ。
 行為は偶然のものでしかない。
 確固とした理解の人は行為を差し控えるだろう。
 行為とは真理の試験なのだ。(p418)


理解行為

 真我の実現にとっては理解が本質的なものだ。
 行為は偶然のものでしかない。
 確固とした理解の人は行為を差し控えるだろう。
 行為とは真理の試験なのだ。(p418)


真理の試験

 (行為は真我の実現に本質的なものなのか、というなら)
 真我の実現にとっては、理解が本質的なものだ。
 行為は偶然のものでしかない。
 確固とした理解の人は行為を差し控えるだろう。
 行為とは真理の試験なのだ。(p418)


実在空想

 もしあなたがつねにあなた自身を試験しなければ、実在空想との区別はで
 きなくなるだろう。
 観察と注意深い理性はある程度の助けになる。
 しかし、実在は逆説的なのだ。
 思考と感情、言葉と行動を見守り、なぜ、どのようにして、あなたの知らな
 いうちにそれらが変化していくのかを疑わないかぎり、あなたが真我を実現
 したということをどうして知ることができるだろう?
 本当に驚くからこそ、それが実在だと知るのだ。
 予想され、期待されたものが実在であることはまれだ。(p418)


本当に驚くから

 もしあなたがつねにあなた自身を試験しなければ、実在と空想との区別はで
 きなくなるだろう。
 観察と注意深い理性はある程度の助けになる。
 しかし、実在は逆説的なのだ。
 思考と感情、言葉と行動を見守り、なぜ、どのようにして、あなたの知らな
 いうちにそれらが変化していくのかを疑わないかぎり、あなたが真我を実現
 したということをどうして知ることができるだろう?
 本当に驚くからこそ、それが実在だと知るのだ。
 予想され、期待されたものが実在であることはまれだ。(p418)


個人

 光が身体によって遮られたとき、が現れるのと同じように、純粋な自己覚
 醒が「私は身体だ」という想念によって妨げられるとき、個人が現れる。
 そしてが地上の光によってその位置と形を変えていくように、個人も運命
 のパターンにしたがって喜んだり、苦しんだり、休息したり、あくせく働い
 たり、 見いだしたり、失ったりするように現れて見えるのだ。
 身体がもはやなくなったとき、個人は再帰することなく完全に消え去る。
 ただ観照者と偉大な未知なるものだけが残るのだ。(p418)


観照者個人

 観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為す」と言うのだ。
 「私は知っている」ということは、真実に反することではない。
 それは単に限定されているだけだ。
 しかし、「私は為す」ということは、まったくの間違いだ。
 なぜなら、そこには為す人など誰もいないからだ。
 行為者であるという観念さえ含めたすべてはひとりでに起こるのだ。(p418)


私は為す

 観照者は「私は知っている」と言い、個人は「私は為す」と言うのだ。
 「私は知っている」ということは、真実に反することではない。
 それは単に限定されているだけだ。
 しかし、「私は為す」ということは、まったくの間違いだ。
 なぜなら、そこには為す人など誰もいないからだ。
 行為者であるという観念さえ含めたすべてはひとりでに起こるのだ。(p418)


行為する者

 宇宙は行為であふれている。
 だが、そこに行為する者はいないのだ。
 そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
 して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
 だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
 影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。
 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。
 行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。
 行為はそれらの領域なのだ。
 観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど
 まりなさい。(p418)


大きな個人たち

 宇宙は行為であふれている。
 だが、そこに行為する者はいないのだ。
 そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
 して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
 だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
 影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。
 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。
 行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。
 行為はそれらの領域なのだ。
 観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど
 まりなさい。(p418)


行為の世界(マハーダカーシュ)

 宇宙は行為であふれている。
 だが、そこに行為する者はいないのだ。
 そこには自己同一化によって行為していると想像している無数の小さな、そ
 して大きな、そしてとても大きな個人たちがいる。
 だが、それが行為の世界(マハーダカーシュ)はすべてに依存し、すべてに
 影響する単一の統一体だという事実を変えることはない。
 星たちは私たちに深く影響を与え、私たちも星たちに影響を与える。
 行為から意識へと一歩退き、行為は身体とマインドにまかせなさい。
 行為はそれらの領域なのだ。
 観照者さえも至高なるもののなかに消え去るまで、純粋な観照者としてとど
 まりなさい。(p418)


人格の消滅

 木々でいっぱいの密林を想像してみなさい。
 木材から板が切りだされ、一本の小さな鉛筆でその板に書いていく。
 観照者は書かれたものを読み、そして鉛筆と板は密林に間接的に関係しては
 いるが、書かれたことはそれとは何の関係もないことを知る。
 それは完全にその上に付け加えられたものであり、その消滅には何の重要性
 もないのだ。
 人格の消滅にはつねに大いなる解放の感覚が続くものだ。
 あたかも重荷が落ちたかのように。(p418-419)


観照者を超えた彼方

 (ただの観照者と「観照者を超えた彼方」とはどう違うのかというなら)
 それはプリント地の布を洗うようなものだ。
 はじめにデザインが消え、それから背後の色が落ち、最後に布が真っ白にな
 る。
 人格は観照者に場をゆずる。
 それから観照者は去り、純粋な気づきが残るのだ。
 布は、はじめは白く、終わりも白い。
 パターンと色はしばらくの間ただ起こっただけだ。(p419)


布を洗うような

 (ただの観照者と「観照者を超えた彼方」とはどう違うのかというなら)
 それはプリント地の布を洗うようなものだ。
 はじめにデザインが消え、それから背後の色が落ち、最後に布が真っ白にな
 る。
 人格は観照者に場をゆずる。
 それから観照者は去り、純粋な気づきが残るのだ。
 は、はじめは白く、終わりも白い。
 パターンと色はしばらくの間ただ起こっただけだ。(p419)


気づき対象物

 (気づき対象物なしに気づきはありうるか、というなら)
 気づきとその対象物を、私たちは観照と呼ぶのだ。
 そこに欲望や恐れによって起こる対象物との自己同一化があるとき、そのよ
 うな状態が個人と呼ばれるのだ。
 実際にはただひとつの状態があるだけだ。
 自己同一化によって歪曲されたとき、それは個人と呼ばれる。
 それが存在の感覚で色づけされたとき、それが観照者であり、色も限定もな
 いとき、それは至高なるものと呼ばれるのだ。(p419)


観照個人

 気づきとその対象物を、私たちは観照と呼ぶのだ。
 そこに欲望や恐れによって起こる対象物との自己同一化があるとき、そのよ
 うな状態が個人と呼ばれるのだ。
 実際にはただひとつの状態があるだけだ。
 自己同一化によって歪曲(わいきょく)されたとき、それは個人と呼ばれる。
 それが存在の感覚で色づけされたとき、それが観照者であり、色も限定もな
 いとき、それは至高なるものと呼ばれるのだ。(p419)


ひとつの状態

 (気づきの対象物なしに気づきはありうるか、というなら)
 気づきとその対象物を、私たちは観照と呼ぶのだ。
 そこに欲望や恐れによって起こる対象物との自己同一化があるとき、そのよ
 うな状態が個人と呼ばれるのだ。
 実際にはただひとつの状態があるだけだ。
 自己同一化によって歪曲されたとき、それは個人と呼ばれる。
 それが存在の感覚で色づけされたとき、それが観照者であり、色も限定もな
 いとき、それは至高なるものと呼ばれるのだ。(p419)


無知ゆえに

 (何が自分をつねに落ち着きなく、煮えたたせつづけるのか、というなら)
 本当は、あなたは知らぬままにあなた自身を探しているのだ。
 あなたは愛するにふさわしい、完全に愛する価値あるものに恋いこがれてい
 る。
 無知ゆえに、あなたはそれを矛盾と対立の世界のなかに探し求めている。
 あなたがそれを内側に見いだしたとき、あなたの探求は終わるのだ。(p419)


世界矛盾

 (いつまでもこの悲しみに満ちた世界に取り組んでいくだろうと、いうなら)
 先走ってはいけない。
 あなたは知らないのだ。
 すべての現れが対立のなかにあるのは本当だ。
 快楽と苦痛、善と悪、高い低い、進歩と後退、休息と闘い。
 それらはすべて、ともに来て、ともに去っていくものだ。
 そしてそこに世界があるかぎり、その矛盾はそこにあるだろう。
 そこにはまた完全な調和、至福、そして美のときがあるかもしれない。
 だが、ほんのしばらくの間だけだ。
 完全なものは、すべての完全なものの源に帰り着き、対立するものはその戯
 (たわむ)れを続けるのだ。(p419)


静かになりなさい

 (どのようにして完成に到達するのか、というなら)
 静かになりなさい。
 世界のなかでのあなたの仕事をするがいい。
 だが、内側では静かにしていなさい。
 そうすればすべてはやってくるだろう。
 真我実現のためにあなたの仕事に頼ってはならない。
 それは他者に利益をもたらすかもしれないが、あなたにではない。
 あなたの希望は、マインドのなかでは沈黙を保ち、ハートのなかで静かにし
 ていることにあるのだ。
 真我実現した人たちはとても静かなのだ。(p420)


仕事真我実現

 (どのようにして完成に到達するのか、というなら)
 静かになりなさい。
 世界のなかでのあなたの仕事をするがいい。
 だが、内側では静かにしていなさい。
 そうすればすべてはやってくるだろう。
 真我実現のためにあなたの仕事に頼ってはならない。
 それは他者に利益をもたらすかもしれないが、あなたにではない。
 あなたの希望は、マインドのなかでは沈黙を保ち、ハートのなかで静かにし
 ていることにあるのだ。
 真我実現した人たちはとても静かなのだ。(p420)


時間に依存する

 待つことは無駄なことだ。
 問題を解決するために時間に依存することは自己欺瞞(ぎまん)だ。
 未来は、単に過去がそれ自体を繰り返すだけなのだ。
 変化は未来のなかではなく、いまの中だけで起こりうる。(p420)


未来過去

 待つことは無駄なことだ。
 問題を解決するために時間に依存することは自己欺瞞(ぎまん)だ。
 未来は、単に過去がそれ自体を繰り返すだけなのだ。
 変化は未来のなかではなく、いまの中だけで起こりうる。(p420)


変化をもたらす

 (何が変化をもたらすのか、というなら)
 澄みきった明晰(めいせき)性で変化の必要性を見なさい。
 それだけだ。(p420)


体験真我の実現

 すべての体験は限定された、一時的な幻想でしかない。
 体験からは何も期待してはならない。
 それが新しい次元の体験へと導くことはあっても、真我の実現自体はひとつ
 の体験ではないのだ。
 新しい体験がいかに興味深いものであっても、古いものより真実だというわ
 けではない。
 真我の実現が新たな体験ではないことは明らかだ。
 それはすべての体験における時を超えた要因の発見だ。
 それは体験を可能にする気づきなのだ。
 すべての色のなかで光が色彩をもたない要因であるように、すべての体験の
 なかには気づきが存在している。
 それにも関わらず、気づきは体験ではないのだ。(p420-421)


新しい体験

 新しい体験がいかに興味深いものであっても、古いものより真実だというわ
 けではない。
 真我の実現が新たな体験ではないことは明らかだ。
 それはすべての体験における時を超えた要因の発見だ。
 それは体験を可能にする気づきなのだ。
 すべての色のなかで光が色彩をもたない要因であるように、すべての体験の
 なかには気づきが存在している。
 それにも関わらず、気づきは体験ではないのだ。(p421)


体験気づき

 真我の実現が新たな体験ではないことは明らかだ。
 それはすべての体験における時を超えた要因の発見だ。
 それは体験を可能にする気づきなのだ。
 すべての色のなかで光が色彩をもたない要因であるように、すべての体験の
 なかには気づきが存在している。
 それにも関わらず、気づき体験ではないのだ。(p421)


時を超えた要因

 新しい体験がいかに興味深いものであっても、古いものより真実だというわ
 けではない。
 真我の実現が新たな体験ではないことは明らかだ。
 それはすべての体験における時を超えた要因の発見だ。
 それは体験を可能にする気づきなのだ。
 すべての色のなかで光が色彩をもたない要因であるように、すべての体験の
 なかには気づきが存在している。
 それにも関わらず、気づきは体験ではないのだ。(p421)


気づき認識

 気づきは常にそこにある。
 それが認識される必要はないのだ。
 マインドの扉を開きなさい。
 そうすればそれは光で満ちあふれるだろう。(p421)


科学

 科学は、単に私たちの無知の境界線を押し戻しているだけだ。(p421)


自然気づき

 意識的な体験の総体性が自然だ。
 意識的自己としてのあなたは自然の一部なのだ。
 気づきとしてのあなたはその彼方にある。
 自然を単なる意識として見ることが気づきなのだ。(p421)


気づき段階

 意識のなかに段階はあるが、気づきのなかにはない。
 それは均質なひと塊(かたまり)なのだ。
 マインドのなかでのその反映が愛と理解だ。
 理解における明晰性の段階や、愛の強烈さに度合いはあっても、その源に段
 階はないのだ。
 源は単一であり、シンプルだ。
 だがその贈り物は無限のものだ。
 ただ、贈り物を源と取り違えてはならない。
 あなた自身が川ではなく源であることを自覚しなさい。
 それだけだ。(p421)


贈り物

 意識のなかに段階はあるが、気づきのなかにはない。
 それは均質がひと塊(かたまり)なのだ。
 マインドのなかでのその反映が愛と理解だ。
 理解における明晰性の段階や、愛の強烈さに度合いはあっても、そのに段
 階はないのだ。
 は単一であり、シンプルだ。
 だがその贈り物は無限のものだ。
 ただ、贈り物と取り違えてはならない。
 あなた自身が川ではなくであることを自覚しなさい。
 それだけだ。(p421)


あなたは在る

 「私は在る」としてのあなたは、身体の岸の間を流れる川だ。
 だが、あなたはまた源でもあり、海でもあり、空の雲でもあるのだ。
 どこであれ、そこに生命と意識があるとき、あなたは在る。
 極小よりも小さく、極大よりも大きい。
 あなたは在る。
 ほかのすべては現れにすぎない。(p421)


見ること

 注意深く見てみなさい。
 すると、見る者と見られるものは、見ることがあるときにだけ現れることが
 理解できるだろう。
 それらは見ることの属性なのだ。
 あなたが、「私はこれを見ている」と言うとき、「私」と「これ」は見るこ
 ととともに現れ、それ以前にはないことがわかる。
 あなたは目に見えない「これ」や見ていない「私」をもつことはできないの
 だ。
  
 「私はこれを見ている」が「私は私が見ていないことを見ている」、あるい
 は「私は暗闇を見ている」になるのだ。
 見ることは残る。
 知られるもの、知ること、知る者という三位のなかでは、知ることだけが事
 実だ。
 「私」と「これ」は疑わしいものだ。
 誰が知ろう?
 何が知られるというのだろう?
 知ることがあるということを除いては、そこには何の確実性もないのだ。(p422)


知ること

 知られるもの、知ること、知る者という三位のなかでは、知ることだけが事
 実だ。
 「私」と「これ」は疑わしいものだ。
 誰が知ろう?
 何が知られるというのだろう?
 知ることがあるということを除いては、そこには何の確実性もないのだ。(p422)


真の本性

 知ることは、在ることと愛することとともに、あなたの真の本性の反映なの
 だ。
 知る者と知られるものは、マインドによって加えられるのだ。
 実際は何もないところに、主体―客体の二元性をつくり出すのがマインドの
 本質なのだ。(p422)


マインドの本質

 知ることは、在ることと愛することとともに、あなたの真の本性の反映なの
 だ。
 知る者と知られるものは、マインドによって加えられるのだ。
 実際は何もないところに、主体―客体の二元性をつくり出すのがマインドの
 本質なのだ。(p422)


欲望と恐れの原因

 (欲望と恐れの原因とは)明らかに、過去の苦痛と快楽の記憶だ。
 そこには何も偉大な神秘があるわけではない。
 同じ対象物に恐れ欲望が関係したときにだけ葛藤(かっとう)が起こるの
 だ。(p422)


葛藤(かっとう)

 (欲望と恐れの原因とは)明らかに、過去の苦痛と快楽の記憶だ。
 そこには何も偉大な神秘があるわけではない。
 同じ対象物に恐れと欲望が関係したときにだけ葛藤(かっとう)が起こるの
 だ。(p422)


意識あなた

 それ(記憶を終わらせること)は必要でもなければ、可能でもない。
 すべては意識のなかで起こり、あなたがその根本、源、意識の根底なのだと
 いうことを認識しなさい。
 世界は体験の連続にすぎず、あなたはそれらに意識を与えるものだ。
 しかも、あなたはすべての体験を超えた彼方にとどまるのだ。
 それは熱、炎、燃える木材のようなものだ。
 熱は炎を維持し、炎は木材を焼き尽くす。
 熱がなければ炎も燃料もなかっただろう。
 同じように、気づきなしには意識も、物質を意識の媒体に変容する生命もな
 かっただろう。(p422)


燃料

 世界は体験の連続にすぎず、あなたはそれらに意識を与えるものだ。
 しかも、あなたはすべての体験を超えた彼方にとどまるのだ。
 それは、燃える木材のようなものだ。
 は炎を維持し、は木材を焼き尽くす。
 がなければ燃料もなかっただろう。
 同じように、気づきなしには意識も、物質を意識の媒体に変容する生命もな
 かっただろう。(p422)


物質マインドA

 在るものは在る。
 それは主観的でも客観的でもない。
 物質マインドは分離したものではない。
 それらはひとつのエネルギーの二つの相なのだ。
 マインド物質の機能として見てみなさい。
 そうすればあなたは科学を手にする。
 物質マインドの産物として見てみなさい。
 そうするとあなたは宗教を手にするだろう。(p423)


科学宗教

 在るものは在る。
 それは主観的でも客観的でもない。
 物質とマインドは分離したものではない。
 それらはひとつのエネルギーの二つの相なのだ。
 マインドを物質の機能として見てみなさい。
 そうすればあなたは科学を手にする。
 物質をマインドの産物として見てみなさい。
 そうするとあなたは宗教を手にするだろう。(p423)


物質マインドB

 (マインド物質の)どちらも先に現れはしないし、どちらか一方が現れる
 のでもない。
 物質は形であり、マインドは名前なのだ。
 それらはともに世界をつくる。
 浸透し、超越するのが実在、純粋な存在―意識―至福、あなたの本質そのも
 のなのだ。(p423)


時間が止まる

 (時間が止まる)とは)過去と未来が、永遠の今のなかで溶け合うのだ。
 
 それは過去と未来がもはや重要ではなくなるという意味でもありうる。
 それはまた、かつて起こったすべて、これから起こるだろうすべてが、思い
 のままに開かれた本として読むことができるという意味でもある。(p423)


何も存在しない@

 (予期しない出来事は不可避だから未来は知りえないというなら)
 あるレベルで予期しなかったことは、高次のレベルから見れば確実に起こる
 ことかもしれない。
 結局、私たちはマインドの限界内に在る。
 実際には、何も起こってはいないのだ。
 過去もなければ、未来もない。
 すべては現れであり、何も存在しないのだ。(p423-424)


世界は続いて

 マインドと物質の、そして名前と形の世界は続いていく。
 だが、それは私にとってまったく重要ではない。
 それは影のようなものだ。
 それはそこにある。
 どこへ行こうともついてくる。
 だが、どのような意味でも私を邪魔することはない。
 体験の世界はそのまま残る。
 だが、欲望と恐れで私に関わる名前と形は残さないのだ。
 体験とは、いわば属性をもたない純粋な体験だ。
 ほかによりよい言葉がないために、私はそれを体験と呼ぶのだ。
 それは大海の波のようなものだ。
 つねに存在しながら、その平和な力に影響を与えることはない。(p424)


影のようなもの

 マインドと物質の、そして名前と形の世界は続いていく。
 だが、それは私にとってまったく重要ではない。
 それは影のようなものだ。
 それはそこにある。
 どこへ行こうともついてくる。
 だが、どのような意味でも私を邪魔することはない。
 体験の世界はそのまま残る。
 だが、欲望と恐れで私に関わる名前と形は残さないのだ。
 体験とは、いわば属性をもたない純粋な体験だ。
 ほかによりよい言葉がないために、私はそれを体験と呼ぶのだ。
 それは大海の波のようなものだ。
 つねに存在しながら、その平和な力に影響を与えることはない。(p424)


純粋な体験

 マインドと物質の、そして名前と形の世界は続いていく。
 だが、それは私にとってまったく重要ではない。
 それは影のようなものだ。
 それはそこにある。
 どこへ行こうともついてくる。
 だが、どのような意味でも私を邪魔することはない。
 体験の世界はそのまま残る。
 だが、欲望と恐れで私に関わる名前と形は残さないのだ。
 体験とは、いわば属性をもたない純粋な体験だ。
 ほかによりよい言葉がないために、私はそれを体験と呼ぶのだ。
 それは大海の波のようなものだ。
 つねに存在しながら、その平和な力に影響を与えることはない。(p424)


無名無形体験

 はじめは、すべての体験がそのような(無名無形の定義できない)ものだ。
 記憶から生まれた欲望と恐れが名前と形を与え、ほかの体験と分けてしまう
 のだ。
 それは意識的な体験ではない。
 なぜなら、それはほかの体験と対立しているわけではないからだ。
 それでもそれは同じ体験なのだ。(p424)


無意識A

 ほとんどのあなたの体験は無意識のものだ。
 意識的なものは非常に少ない。
 あなたは事実に気づいていないのだ。
 なぜなら、あなたにとっては意識的なものしか数に入らないからだ。
 無意識に気づくようになりなさい。
 
 欲望と恐れが覆(おお)い隠し、歪(ゆが)ませてしまう要因なのだ。
 マインドがそれらから解放されたとき、無意識は容易に手に入るようになる。(p424)


無意識が手に入る

 (無意識が手に入るとは、無意識が意識的になることかというなら)
 むしろ反対だ。
 意識が無意識とひとつになるのだ。
 それをどちらから見ても区別がなくなるのだ。(p424)


気づき意識A

 気づき意識に対して限定されてはいない。
 それは存在するすべてに対するものだ。
 意識は二元性のものだ。
 気づきのなかに二元性はない。
 それは純粋な知覚のひと塊なのだ。
 純粋な存在と純粋な創造についても同じように、無名、無形、静寂であり、
 しかも絶対的実在だと言うことができる。
 言葉では言い表せないということが、それらに影響を与えることはまったく
 ない。
 それらは無意識でありながら、本質的なものなのだ。
 意識を根本的に変えることはできない。
 それは修正することができるだけだ。
 いかなるものも、変化するためには朦朧(もうろう)とした状態と消滅を、
 死を通らなければならないのだ。
 金の装飾品は、ほかの形に鋳造される前に溶解されなければならない。
 死ぬことを拒むものは再誕生できないのだ。(p424-425)


根本的に変える

 意識を根本的に変えることはできない。
 それは修正することができるだけだ。
 いかなるものも、変化するためには朦朧(もうろう)とした状態と消滅を、
 死を通らなければならないのだ。
 金の装飾品は、ほかの形に鋳造される前に溶解されなければならない。
 死ぬことを拒むものは再誕生できないのだ。(p425)


死ぬことを拒む

 意識を根本的に変えることはできない。
 それは修正することができるだけだ。
 いかなるものも、変化するためには朦朧(もうろう)とした状態と消滅を、
 を通らなければならないのだ。
 金の装飾品は、ほかの形に鋳造される前に溶解されなければならない。
 死ぬことを拒むものは再誕生できないのだ。(p425)


超然と離れてB

 内側に向かうこと、超然と離れてあること、手放すことが死だ。
 生を全(まっと)うするには、死は欠くことのできないものだ。
 すべての終焉(しゅうえん)がすべてのはじまりをもたらす。
 
 その一方、よく理解しなさい、生きる者ではなく、ただ死ぬ者だけが死ぬこ
 とができる。
 あなたのなかで生きているもの、それは不死なのだ。(p425)




 内側に向かうこと、超然と離れてあること、手放すことがだ。
 を全(まっと)うするには、は欠くことのできないものだ。
 すべての終焉(しゅうえん)がすべてのはじまりをもたらす。
 
 その一方、よく理解しなさい、きる者ではなく、ただぬ者だけがぬこ
 とができる。
 あなたのなかできているもの、それは不なのだ。(p425)


生を全うするには

 生を全(まっと)うするには、死は欠くことのできないものだ。
 すべての終焉(しゅうえん)がすべてのはじまりをもたらす。
 
 その一方、よく理解しなさい、生きる者ではなく、ただ死ぬ者だけが死ぬこ
 とができる。
 あなたのなかで生きているもの、それは不死なのだ。(p425)


死ぬ者だけが

 (身体のなしに、どのように死ぬというのか、というなら)
 内側に向かうこと、超然と離れてあること、手放すことがだ。
 生を全(まっと)うするには、は欠くことのできないものだ。
 すべての終焉(しゅうえん)がすべてのはじまりをもたらす。
 
 その一方、よく理解しなさい、生きる者ではなく、ただ死ぬ者だけが死ぬこ
 とができる。
 あなたのなかで生きているもの、それは不死なのだ。(p425)


欲望幸福@

 源は正しくも間違いでもない。
 欲望そのものも、正しくも間違いでもないのだ。
 それは幸福を求める努力にほかならない。
 自分自身を一片の身体と同一化して途方にくれ、あなたは幸福と呼ぶ充足と
 完全性の感覚を絶望的に探しまわるのだ。(p425)


幸福と完全性

 (幸福と完全性の感覚をいつ失ったのか、というなら)
 今朝、目覚める前にあなたは持っていたのだ。
 意識を超えていきなさい。
 そうすれば見いだすだろう。(p425)


目のなかのほこり

 目のなかのほこりが、あなたを盲目だと思わせるのだ。
 ほこりを洗い落として見てみなさい。
 
 ほこりを取り除きなさい。
 そうすれば、あなたのは光りにあふれることだろう。
 光はそこにあり、待っているのだ。
 はそこにあり、用意ができている。
 あなたが見ている暗闇は、ほこりの影にすぎないのだ。
 それを取り除きなさい。
 そしてあなたの本性に戻るのだ。(p425-426)


非二元性の感覚

 あなたが注意深く脳から意識を通って気づきへと観察していくと、二元性の
 感覚が続くことを見いだす。
 あなたが気づきを超えた彼方へと行くとき、そこには非二元性の感覚がある。
 そこに知覚はなく、ただ純粋な存在だけがある。
 もし存在という言葉が何か特定の存在を意味しているというならば、それを
 非存在と呼んでもいいだろう。(p427)


純粋な存在B

 あなたが注意深く脳から意識を通って気づきへと観察していくと、二元性の
 感覚が続くことを見いだす。
 あなたが気づきを超えた彼方へと行くとき、そこには非二元性の感覚がある。
 そこに知覚はなく、ただ純粋な存在だけがある。
 もし存在という言葉が何か特定の存在を意味しているというならば、それを
 非存在と呼んでもいいだろう。(p427)


存在非存在B

 あなたが注意深く脳から意識を通って気づきへと観察していくと、二元性の
 感覚が続くことを見いだす。
 あなたが気づきを超えた彼方へと行くとき、そこには非二元性の感覚がある。
 そこに知覚はなく、ただ純粋な存在だけがある。
 もし存在という言葉が何か特定の存在を意味しているというならば、それを
 非存在と呼んでもいいだろう。(p427)


非存在

 あなたが注意深く脳から意識を通って気づきへと観察していくと、二元性の
 感覚が続くことを見いだす。
 あなたが気づきを超えた彼方へと行くとき、そこには非二元性の感覚がある。
 そこに知覚はなく、ただ純粋な存在だけがある。
 もし存在という言葉が何か特定の存在を意味しているというならば、それを
 非存在と呼んでもいいだろう。(p427)


永遠の実在性

 (純粋な存在と特定の存在には何か関係があるのか、というなら)
 存在と単なる現れとの間にいかなる関係がありうるだろうか?
 海と波との間に何か関係性があるだろうか?
 実在は非実在の出現を可能にし、それを消滅させる。
 はかない瞬間の連続が時間という幻想をつくり出すのだ。
 しかし、純粋な存在の永遠の実在性は運動のなかにはない。
 なぜなら、すべての運動には不動の背景が要求されるからだ。
 それはそれ自体、背景なのだ。
 ひとたびあなたのなかでそれを見つけたならば、すべての区別と分離から独
 立したその存在を失ったことはけっしてなかったと知るだろう。
 しかし、それを意識のなかに探してはいけない。
 そこに見いだすことはないだろう。
 どこを探してもいけない。
 なぜなら、何もそれを含むことはできないからだ。
 その反対に、それがすべてを含み、すべてを表すのだ。
 それは、それ自体は不可視でありながら、すべてを可視にする日の光のよう
 なものだ。(p427)


不動の背景

 (純粋な存在と特定の存在には何か関係があるのか、というなら)
 存在と単なる現れとの間にいかなる関係がありうるだろうか?
 海と波との間に何か関係性があるだろうか?
 実在は非実在の出現を可能にし、それを消滅させる。
 はかない瞬間の連続が時間という幻想をつくり出すのだ。
 しかし、純粋な存在の永遠の実在性は運動のなかにはない。
 なぜなら、すべての運動には不動の背景が要求されるからだ。
 それはそれ自体、背景なのだ。
 ひとたびあなたのなかでそれを見つけたならば、すべての区別と分離から独
 立したその存在を失ったことはけっしてなかったと知るだろう。
 しかし、それを意識のなかに探してはいけない。
 そこに見いだすことはないだろう。
 どこを探してもいけない。
 なぜなら、何もそれを含むことはできないからだ。
 その反対に、それがすべてを含み、すべてを表すのだ。
 それは、それ自体は不可視でありながら、すべてを可視にする日の光のよう
 なものだ。(p427)


実質的な実在

 (意識のなかにないなら、その実在をどうやって認識するのか、というなら)
 それはシンプルなことだ。
 もし私があなたに口の中の味はどのようなものかと尋ねたならば、あなたは、
 「それは甘くもなく、苦くもなく、酸っぱくもなく、渋くもない」と言える
 だけだ。
 それはすべての味がないとき残ったものなのだ。
 同じように、すべての区別と反応がなくなったとき残るものが、シンプルで
 実質的な実在なのだ。(p428)


無意味な繰り返し

 (遥か何百万年も後の哀れな状態は、良くても約束された究極的な消滅であ
  り、最悪では、果てしなく続く無意味な繰り返しへの脅威だ、というなら)
 あなたの現在の状態は無始無窮(むきゅう)だと、どうやって証明するとい
 うのだろう。
 生まれる前、あなたはどうだったのか?
 死んだ後、あなたはどうなるのか?
 そして現在のあなたの状況を、あなたはどれほど知っているだろうか?
 今朝、目覚める前のあなたの状況さえ、知らないのではないかね?
 あなたはわずかばかりの現在の状態を知るだけで、それからすべての時と場
 所における結論を引き出しているのだ。
 あなたはただ夢を見ているだけかもしれない。
 そして夢が永遠のものであると想像しているのだ。(p428)


現在の状態

 (遥か何百万年も後の哀れな状態は、良くても約束された究極的な消滅であ
  り、最悪では、果てしなく続く無意味な繰り返しへの脅威だ、というなら)
 あなたの現在の状態は無始無窮(むきゅう)だと、どうやって証明するとい
 うのだろう。
 生まれる前、あなたはどうだったのか?
 死んだ後、あなたはどうなるのか?
 そして現在のあなたの状況を、あなたはどれほど知っているだろうか?
 今朝、目覚める前のあなたの状況さえ、知らないのではないかね?
 あなたはわずかばかりの現在の状態を知るだけで、それからすべての時と場
 所における結論を引き出しているのだ。
 あなたはただ夢を見ているだけかもしれない。
 そして夢が永遠のものであると想像しているのだ。(p428)


過去が満たせなかったこと

 (過去が満たせなかったことに、どんな希望がもてるのか、というなら)
 熱にうなされた状態で、あなたは過去と未来を投影し、それを実在だと見な
 しているのだ。
 事実、あなたの知っているのは現在の瞬間だけだ。
 なぜ、想像上の過去と未来について尋ねるより、今とは何なのかを調べよう
 としないのだろうか?
 あなたの現在の状態は無始でも無窮でもない。
 それは一瞬のうちに過ぎるのだ。
 それがどこから来るのか、どこへ行くのか、注意深く見てみなさい。
 あなたはじきに、その背後にある永遠の実在を見いだすだろう。(p428)


「私は在る」はいったい必要なのか

 (「私は在る」はいったい必要なのか、というなら)
 誰がそれを必要とするだろうか?
 それは今、そこにある。
 それにははじまりがあり、終わりがあるだろう。(p428)


誰がそれを必要とするだろうか?

 (「私は在る」はいったい必要なのか、というなら)
 誰がそれを必要とするだろうか?
 それは今、そこにある。
 それにははじまりがあり、終わりがあるだろう。(p428)


不安A

 不安は「私は身体だ」という観念によって生じた精神的状態だ。
 それは「私は身体ではない」という反対の観念によって取り除くことができ
 る。
 どちらも観念であり偽りだ。
 しかし、ひとつがもうひとつを取り除く。
 どの観念もあなた自身のものではないということを認識しなさい。
 それらはみな、外側からあなたにやってくるのだ。
 あなたは全力をあげて考えなければならない。
 あなた自身があなたの瞑想の対象になりなさい。
 あなた自身を理解しようと努力することがヨーガなのだ。
 ヨーギになりなさい。
 あなたの人生をそれに捧げなさい。
 熟考し、驚き、探求しなさい。
 あなたが誤りの根本と誤りを超えた彼方の真理にたどり着くまで。(p430)


観念

 (不安はどのようにして現れるのか、というなら)
 それは「私は身体だ」という観念によって生じた精神的状態だ。
 それは「私は身体ではない」という反対の観念によって取り除くことができ
 る。
 どちらも観念であり偽りだ。
 しかし、ひとつがもうひとつを取り除く。
 どの観念もあなた自身のものではないということを認識しなさい。
 それらはみな、外側からあなたにやってくるのだ。
 あなたは全力をあげて考えなければならない。
 あなた自身があなたの瞑想の対象になりなさい。
 あなた自身を理解しようと努力することがヨーガなのだ。
 ヨーギになりなさい。
 あなたの人生をそれに捧げなさい。
 熟考し、驚き、探求しなさい。
 あなたが誤りの根本と誤りを超えた彼方の真理にたどり着くまで。(p430)


外側からあなたに

 (不安はどのようにして現れるのか、というなら)
 それは「私は身体だ」という観念によって生じた精神的状態だ。
 それは「私は身体ではない」という反対の観念によって取り除くことができ
 る。
 どちらも観念であり偽りだ。
 しかし、ひとつがもうひとつを取り除く。
 どの観念もあなた自身のものではないということを認識しなさい。
 それらはみな、外側からあなたにやってくるのだ。
 あなたは全力をあげて考えなければならない。
 あなた自身があなたの瞑想の対象になりなさい。
 あなた自身を理解しようと努力することがヨーガなのだ。
 ヨーギになりなさい。
 あなたの人生をそれに捧げなさい。
 熟考し、驚き、探求しなさい。
 あなたが誤りの根本と誤りを超えた彼方の真理にたどり着くまで。(p430)


全力をあげて考えなければならない

 (不安はどのようにして現れるのか、というなら)
 それは「私は身体だ」という観念によって生じた精神的状態だ。
 それは「私は身体ではない」という反対の観念によって取り除くことができ
 る。
 どちらも観念であり偽りだ。
 しかし、ひとつがもうひとつを取り除く。
 どの観念もあなた自身のものではないということを認識しなさい。
 それらはみな、外側からあなたにやってくるのだ。
 あなたは全力をあげて考えなければならない。
 あなた自身があなたの瞑想の対象になりなさい。
 あなた自身を理解しようと努力することがヨーガなのだ。
 ヨーギになりなさい。
 あなたの人生をそれに捧げなさい。
 熟考し、驚き、探求しなさい。
 あなたが誤りの根本と誤りを超えた彼方の真理にたどり着くまで。(p430)


瞑想の技法

 瞑想とは意識の高次の状態を貫き、最終的にそれを超えていこうとする意図
 的な試みなのだ。
 瞑想の技法とは、後に残してきたレベルの理解を失わないままつねにより精
 妙なレベルへと注意の焦点を移行する技だ。
 ある意味では、それは制御しながら死を迎えるようなものだ。
 人は最低の段階からはじめる。
 社会環境、習慣と慣例。
 身体的環境、姿勢と身体の呼吸。
 感覚器官、それらの感覚と知覚。
 マインド、その思考と感情。
 人格の構造全体が把握され、確実に捕らえられるまでだ。
 瞑想の最終段階は、アイデンティティの感覚が「私はこれだ」を超え、「そ
 こに在る」を超え、すべての観念を超えて、非人格的な、純粋な存在へと到
 達されることだ。
 だが、あなたが瞑想するときは精力的でなければならない。
 それは間違いなくパートタイムの仕事ではない。
 あなたの興味と活動を、あなたに必要なこととあなたの家族にとって最低限
 の必要に制限しなさい。
 あなたのエネルギーと時間を、あなたのまわりにマインドが築いてきた壁を
 破壊するために確保しなさい。
 私を信じるがいい。
 けっして後悔しないだろう。(p430)


夢の内容が違う

 (ヨーロッパ人にとって静かにしていることは非常に困難だ、というなら)
 いいや、そうではない。
 あなた方もまたを見ている。
 ただ私たちと夢の内容が違うだけなのだ。
 あなた方は完全性を未来のなかに求めている。
 私たちはそれを今の中に見いだそうとしているのだ。
 限定されたものだけが、完成されうる。
 無限なるものはすでに完全なのだ。
 あなたは完全だ。
 ただ知らないだけなのだ。
 あなた自身について学びなさい。
 そうすれば、驚くべきことどもを発見するだろう。(p431)


完全性

 (ヨーロッパ人にとって静かにしていることは非常に困難だ、というなら)
 いいや、そうではない。
 あなた方もまた夢を見ている。
 ただ私たちと夢の内容が違うだけなのだ。
 あなた方は完全性を未来のなかに求めている。
 私たちはそれをの中に見いだそうとしているのだ。
 限定されたものだけが、完成されうる。
 無限なるものはすでに完全なのだ。
 あなたは完全だ。
 ただ知らないだけなのだ。
 あなた自身について学びなさい。
 そうすれば、驚くべきことどもを発見するだろう。(p431)


敬虔さと愛情を

 必要なことはすべてあなたの内側にある。
 ただ、あなたは敬虔さと愛情を抱いてあなた自身に接近しなければならない。
 自己非難や自己不信は悲惨な過ちだ。
 あなたの絶え間ない苦痛への闘いと快楽の追求は、あなたがあなた自身に抱
 く愛のしるしなのだ。
 私があなたに願うことは、あなた自身への愛を完全なものにしなさい、とい
 うことだ。
 あなた自身のなかの何ひとつ、否定してはならない。
 あなた自身に無限性と永遠性を与えなさい。
 そして、あなたはそれらを必要としないことを発見しなさい。
 あなたはその彼方にあるのだ。(p431-432)


自己非難

 必要なことはすべてあなたの内側にある。
 ただ、あなたは敬虔さと愛情を抱いてあなた自身に接近しなければならない。
 自己非難や自己不信は悲惨な過ちだ。
 あなたの絶え間ない苦痛への闘いと快楽の追求は、あなたがあなた自身に抱
 く愛のしるしなのだ。
 私があなたに願うことは、あなた自身への愛を完全なものにしなさい、とい
 うことだ。
 あなた自身のなかの何ひとつ、否定してはならない。
 あなた自身に無限性と永遠性を与えなさい。
 そして、あなたはそれらを必要としないことを発見しなさい。
 あなたはその彼方にあるのだ。(p431-432)


悲惨な過ちA

 必要なことはすべてあなたの内側にある。
 ただ、あなたは敬虔さと愛情を抱いてあなた自身に接近しなければならない。
 自己非難や自己不信は悲惨な過ちだ。
 あなたの絶え間ない苦痛への闘いと快楽の追求は、あなたがあなた自身に抱
 く愛のしるしなのだ。
 私があなたに願うことは、あなた自身への愛を完全なものにしなさい、とい
 うことだ。
 あなた自身のなかの何ひとつ、否定してはならない。
 あなた自身に無限性と永遠性を与えなさい。
 そして、あなたはそれらを必要としないことを発見しなさい。
 あなたはその彼方にあるのだ。(p431-432)


戦争は不可避

 ある場所、または他の場所で、ある形で、あるいは他の形で戦争は常に起こ
 っている。
 戦争の起こらなかったときがかつてあっただろうか?
 ある人はそれは神の意志だという。
 ある人は、それを神の戯れだと言う。
 それは戦争とは不可避であり、誰の責任でもないということの別の言い方に
 すぎない。(p432)


態度

 なぜ私に態度を押しつけるのかね?
 私自身のものと呼べる態度を私はもってはいないのだ。(p432)


私自身の態度

 なぜ態度を押しつけるのかね?
 私自身のものと呼べる態度を私はもってはいないのだ。(p432)


犯人

 (この恐るべき無意味な虐殺の)その犯人を内側に探し求めなさい。
 すべての衝突の根本には、「私」と「私のもの」という観念があるのだ。
 それから自由になりなさい。
 そうすれば、あなたは衝突から解放されるだろう。(p433)


衝突の犯人

 その犯人を内側に探し求めなさい。
 すべての衝突の根本には、「私」と「私のもの」という観念があるのだ。
 それから自由になりなさい。
 そうすれば、あなたは衝突から解放されるだろう。(p433)


争い存在

 争いや闘いは存在の一部分なのだ。
 どうしてあなたは存在の責任が誰にあるのかを調べないのだろうか?(p433)


存在の責任

 争いや闘いは存在の一部分なのだ。
 どうしてあなたは存在の責任が誰にあるのかを調べないのだろうか?(p433)


名前A

 あなたは「身体―精神」、特定の名前と形として存続するために、常に他者
 と闘っているのだ。
 生きるために、あなたは破壊しなければならない。
 懐妊された瞬間から、あなたは周囲と戦争をはじめたのだ――死があなたを
 解放するまで、相互に根絶し合う残酷な戦争を。(p433)


生きるために

 あなたは「身体―精神」、特定の名前と形として存続するために、常に他者
 と闘っているのだ。
 生きるために、あなたは破壊しなければならない。
 懐妊された瞬間から、あなたは周囲と戦争をはじめたのだ――死があなたを
 解放するまで、相互に根絶し合う残酷な戦争を。(p433)


戦争

 あなたは「身体―精神」、特定の名前と形として存続するために、常に他者
 と闘っているのだ。
 生きるために、あなたは破壊しなければならない。
 懐妊された瞬間から、あなたは周囲と戦争をはじめたのだ――死があなたを
 解放するまで、相互に根絶し合う残酷な戦争を。(p433)


最終の答え

 最終の答えとはこれだ。
 何も存在しない。
 すべては宇宙的意識界のなかの一時的な現れだ。
 名前と形としての継続性は、容易に一掃できるただの精神的形態なのだ。(p433)


何も存在しないA

 最終の答えとはこれだ。
 何も存在しない。
 すべては宇宙的意識界のなかの一時的な現れだ。
 名前と形としての継続性は、容易に一掃できるただの精神的形態なのだ。(p433)


誰の責任でもない

 (この子どもの死は)誰の責任でもない。
 あるいは皆の責任だ。
 世界とは、それが包含するものであり、それぞれがそのほかのすべてに影響
 を与えるのだ。
 私たち皆が子どもを殺し、私たち皆が子どもとともに死ぬのだ。
 すべての出来事には無数の原因があり、無数の結果を生みだしている。
 責任の所在を求めることは何の役にも立たない。
 何に起因するわけでもないのだ。(p433)


責任の所在

 (この子どもの死は)誰の責任でもない。
 あるいは皆の責任だ。
 世界とは、それが包含するものであり、それぞれがそのほかのすべてに影響
 を与えるのだ。
 私たち皆が子どもを殺し、私たち皆が子どもとともに死ぬのだ。
 すべての出来事には無数の原因があり、無数の結果を生みだしている。
 責任の所在を求めることは何の役にも立たない。
 何に起因するわけでもないのだ。(p433)


カルマや因果応報

 それ(カルマや因果応報)はただ相対として真実に近いというだけだ。
 実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり。互いの重荷の原因であり、
 互いの重荷の重さに耐えているのだ。(p433)


創造者と創造物

 それ(カルマや因果応報)はただ相対として真実に近いというだけだ。
 実際には、私たちは互いの創造者と創造物であり。互いの重荷の原因であり、
 互いの重荷の重さに耐えているのだ。(p434)


無知無実

 無知であることで、私たちは無実なのだ。
 行為のなかで、私たちは有罪だ。
 私たちは知らずに罪を犯し、理解することなく苦しむのだ。
 私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜けだすこ
 とだ。
 なぜなら記憶が想像をあおりたて、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。(p434)


苦しむ

 無知であることで、私たちは無実なのだ。
 行為のなかで、私たちは有罪だ。
 私たちは知らずにを犯し、理解することなく苦しむのだ。
 私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜けだすこ
 とだ。
 なぜなら記憶が想像をあおりたて、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。(p434)


唯一の希望

 無知であることで、私たちは無実なのだ。
 行為のなかで、私たちは有罪だ。
 私たちは知らずに罪を犯し、理解することなく苦しむのだ。
 私たちの唯一の希望は、止まって、見て、理解し、記憶の罠から抜けだすこ
 とだ。
 なぜなら記憶が想像をあおりたて、想像が欲望と恐れをひき起こすからだ。(p434)


脳の欠陥と混乱

 意識の光が記憶のフィルムを通してあなたの脳に画像を投影するのだ。
 脳の欠陥と混乱のために、あなたが知覚することは歪曲(わいきょく)し、
 好き嫌いの好みに色づけされてしまう。
 あなたの思考を秩序あるものにし、過度の感情的な意味づけから自由になり
 なさい。
 そうすれば、あなたは人々やものごとをあるがままに、明晰性と慈愛を持っ
 て見ることだろう。(p434)


好き嫌いの好み

 意識の光が記憶のフィルムを通してあなたの脳に画像を投影するのだ。
 脳の欠陥と混乱のために、あなたが知覚することは歪曲(わいきょく)し、
 好き嫌いの好みに色づけされてしまう。
 あなたの思考を秩序あるものにし、過度の感情的な意味づけから自由になり
 なさい。
 そうすれば、あなたは人々やものごとをあるがままに、明晰性と慈愛を持っ
 て見ることだろう。(p434)


愛と苦痛の観照者

 誕生、人生、死の観照者は同一だ。
 それは愛と苦痛の観照者なのだ。
 なぜなら限定と分離の存在が悲しみに満ちたものであるにもかかわらず、私
 たちはそれを愛しているからだ。
 私たちはそれを愛し、同時に憎んでいるのだ。
 私たちは争い、殺し、生命や所有物を破壊する。
 そしてそれにもかかわらず私たちは愛情深く、献身的なのだ。
 私たちは優しく子供の世話をする。
 そして子供を捨てもするのだ。
 私たちの人生は矛盾で満ちている。
 しかし、それでも私たちはそれにしがみつく。
 この執着がすべての根底にある。(p434)


限定分離

 誕生、人生、死の観照者は同一だ。
 それは愛と苦痛の観照者なのだ。
 なぜなら限定分離の存在が悲しみに満ちたものであるにもかかわらず、私
 たちはそれを愛しているからだ。
 私たちはそれを愛し、同時に憎んでいるのだ。(p434)


執着が根底に

 誕生、人生、死の観照者は同一だ。
 それは愛と苦痛の観照者なのだ。
 なぜなら限定と分離の存在が悲しみに満ちたものであるにもかかわらず、私
 たちはそれを愛しているからだ。
 私たちはそれを愛し、同時に憎んでいるのだ。
 私たちは争い、殺し、生命や所有物を破壊する。
 そしてそれにもかかわらず私たちは愛情深く、献身的なのだ。
 私たちは優しく子供の世話をする。
 そして子供を捨てもするのだ。
 私たちの人生は矛盾で満ちている。
 しかし、それでも私たちはそれにしがみつく。
 この執着がすべての根底にある。(p434)


人生は今に在る

 私たちの人生は矛盾で満ちている。
 しかし、それでも私たちはそれにしがみつく。
 この執着がすべての根底にある。
 その上それは完全に表面的なものだ。
 私たちは何かに、あるいは誰かに全力でしがみつき、そしてつぎの瞬間それ
 を忘れてしまう。
 子供が泥だんごを作り、軽い気持ちで捨て去ってしまうように。
 それに触れてみなさい。
 子供は怒りとともに泣き叫ぶことだろう。
 気をそらしてみなさい。
 彼はそれを忘れてしまう。
 なぜなら、私たちの人生は今に在るからだ。
 そして人生への愛は今に在るからだ。(p434)


苦痛と快楽の劇

 私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。
 私たちは対比によって魅せられているのだ。
 このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。
 しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙
 を切望するのだ。
 宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。
 あなたはその観照者であり、そのハートでもあるのだ。(p434)


対比に魅せられ

 私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。
 私たちは対比によって魅せられているのだ。
 このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。
 しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙
 を切望するのだ。(p434)


宇宙のハート

 私たちは多様性を、苦痛と快楽の劇を愛している。
 私たちは対比によって魅せられているのだ。
 このために対立するものと、それらの表面上の分裂を必要としている。
 しばらくの間それらを楽しみ、それから退屈して、純粋な存在の平和と沈黙
 を切望するのだ。
 宇宙のハートは絶え間なく鼓動している。
 あなたはその観照者であり、そのハートでもあるのだ。(p434)


画家は絵の中に

 画家は絵の中にいるのだ。
 あなたは画家を絵から引き離し、そして彼を探そうとする。
 分割してはいけない。
 偽りの質問をしてはいけない。
 ものごとはありのままだ。
 そして、誰か特定の人に責任があるわけではない。
 個人的責任という考えは媒介者という幻想から来ている。
 「誰かがそれをしたに違いない、誰かに責任がある」と。
 今のような社会と、その法律と習慣の構成は、分離した責任ある個人という
 考え方を根底にしている。
 だが、これが社会にとって選択できる唯一の形態ではない。
 分離の感覚が弱く、責任が拡散した別の類(たぐい)の社会形態もありうる
 だろう。(p434)


個人的責任@

 画家は絵の中にいるのだ。
 あなたは画家を絵から引き離し、そして彼を探そうとする。
 分割してはいけない。
 偽りの質問をしてはいけない。
 ものごとはありのままだ。
 そして、誰か特定の人に責任があるわけではない。
 個人的責任という考えは媒介者という幻想から来ている。
 「誰かがそれをしたに違いない、誰かに責任がある」と。
 今のような社会と、その法律と習慣の構成は、分離した責任ある個人という
 考え方を根底にしている。
 だが、これが社会にとって選択できる唯一の形態ではない。
 分離の感覚が弱く、責任が拡散した別の類(たぐい)の社会形態もありうる
 だろう。(p435)


責任ある個人

 ものごとはありのままだ。
 そして、誰か特定の人に責任があるわけではない。
 個人的責任という考えは媒介者という幻想から来ている。
 「誰かがそれをしたに違いない、誰かに責任がある」と。
 今のような社会と、その法律と習慣の構成は、分離した責任ある個人という
 考え方を根底にしている。
 だが、これが社会にとって選択できる唯一の形態ではない。
 分離の感覚が弱く、責任が拡散した別の類(たぐい)の社会形態もありうる
 だろう。(p435)


私は愛している

 には問題がある。
 もう言ったはずだ。
 在ること、名前と形とともに存在することは苦痛に満ちたものだ。
 それでも私はそれを愛している。
 
 存在のなかにはすべてが含まれている。
 の本性そのものがなのだ。
 苦痛に満ちたものでさえ、すべきものだ。(p435)


未知への愛

 (なぜ無限のなかにとどまらないのか、というなら)
 それは探求の本能なのだ。
 未知への愛、それが私を存在のなかへと連れ出したのだ。
 在ることのなかに平和を探すことが、成ることの本性そのものであるように、
 成ることのなかに冒険を見いだすことが、在ることの本性そのものなのだ。
 この在ることと成ることの交替は不可避だ。
 だが、私の住処(すみか)はその彼方にあるのだ。(p435)


在ること成ること@

 (なぜ無限のなかにとどまらないのか、というなら)
 それは探求の本能なのだ。
 未知への愛、それが私を存在のなかへと連れ出したのだ。
 在ることのなかに平和を探すことが、成ることの本性そのものであるように、
 成ることのなかに冒険を見いだすことが、在ることの本性そのものなのだ。
 この在ること成ることの交替は不可避だ。
 だが、私の住処(すみか)はその彼方にあるのだ。(p435)


交替は不可避

 (なぜ無限のなかにとどまらないのか、というなら)
 それは探求の本能なのだ。
 未知への愛、それが私を存在のなかへと連れ出したのだ。
 在ることのなかに平和を探すことが、成ることの本性そのものであるように、
 成ることのなかに冒険を見いだすことが、在ることの本性そのものなのだ。
 この在ることと成ることの交替は不可避だ。
 だが、私の住処(すみか)はその彼方にあるのだ。(p435)


私の住処(すみか)

 (なぜ無限のなかにとどまらないのか、というなら)
 それは探求の本能なのだ。
 未知への愛、それが私を存在のなかへと連れ出したのだ。
 在ることのなかに平和を探すことが、成ることの本性そのものであるように、
 成ることのなかに冒険を見いだすことが、在ることの本性そのものなのだ。
 この在ることと成ることの交替は不可避だ。
 だが、私の住処(すみか)はその彼方にあるのだ。(p435)


礼拝もまた無知

 ある神を愛し、礼拝することもまた無知なのだ。
 私の家は、いかに高尚なものであろうとすべての概念の彼方にある。(p435)


概念の彼方

 ある神を愛し、礼拝することもまた無知なのだ。
 私の家は、いかに高尚なものであろうとすべての概念の彼方にある。
 
 どんな言葉でも好きなように使うがいい。
 何であれ、あなたの考えることを私は超えているのだ。(p435)


存在への愛から

 集合的な存在への愛から、人は生まれる。
 そしてひとたび生まれたなら、人は運命に巻きこまれる。
 運命とは、成ることから分離できないものだ。
 特定のものに成ろうとする欲望が、個人的な過去や未来といったすべてを含
 んだ個人にあなたを仕立てあげるのだ。(p436)


運命成ること

 集合的な存在への愛から、人は生まれる。
 そしてひとたび生まれたなら、人は運命に巻きこまれる。
 運命とは、成ることから分離できないものだ。
 特定のものに成ろうとする欲望が、個人的な過去や未来といったすべてを含
 んだ個人にあなたを仕立てあげるのだ。(p436)


無意味さゆえに

 集合的な存在への愛から、人は生まれる。
 そしてひとたび生まれたなら、人は運命に巻きこまれる。
 運命とは、成ることから分離できないものだ。
 特定のものに成ろうとする欲望が、個人的な過去や未来といったすべてを含
 んだ個人にあなたを仕立てあげるのだ。
 ある偉大な人物を見てみなさい。
 何と素晴らしい人物だったのだろう!
 だが、何と彼の人生は困難に満ち、その成果はかぎられたものだったろうか。
 何と人の人格は完全に依存したものか。
 そして何と世界はそれに無関心なのだろうか。
 そしてそれにも関わらず、私たちはそれを愛し、その取るに足らない無意味
 さゆえに、それを保護するのだ。(p436)


私の態度

 だが、私の態度は異なっている。
 子供の誕生を祝わないように、私は死を災難としては見ないのだ。
 子どもは困難のなかへと生まれてきた。
 死者はそれから立ち去るのだ。
 生命への執着は不幸への執着だ。
 私たちは私たちに苦痛を与えるものに執着するのだ。
 私たちの本性とはそんなものなのだ。
 
 私にとって、死の瞬間は恐れではなく祝福の瞬間だ。
 私は泣いて生まれてきた。
 私は笑って死ぬだろう。(p436)


不幸への執着

 生命への執着は不幸への執着だ。
 私たちは私たちに苦痛を与えるものに執着するのだ。
 私たちの本性とはそんなものなのだ。
 
 私にとって、死の瞬間は恐れではなく祝福の瞬間だ。
 私は泣いて生まれてきた。
 私は笑って死ぬだろう。(p436)


死後の状態

 (死の瞬間に)どのような変化を期待するというのだろう?
 フィルムの投影が終わったとき、後に残るのはそれがはじまったときと同じ
 ものだ。
 あなたの誕生以前の状態は、またあなたの死後の状態なのだ。
 もしあなたが覚えているとすればだが。(p436)


社会活動

 だが、私はほかでもないそれだけをいつもしているのだ。
 どんな社会活動を私にしてほしいと言うのだろう?
 寄せ集めの仕事は私のものではない。
 私の立場は明らかだ。
 分配するために生産しなさい。
 あなたが食べる前に食事を与えなさい。
 あなたが取る前に与えなさい。
 あなた自身のことを考える前に、他者のことを考えなさい。
 分かちあいに根ざした非利己的な社会だけが、安定した幸福な社会なのだ。
 これは実質的な解決法にすぎない。
 もしあなたがそれを望まないのなら闘うがいい。(p436)


社会動機

 社会動機によって構築されている。
 根底に善意を敷きつめなさい。
 そうすれば、特別な社会事業家は必要なくなるだろう。(p437)


より良くなる

 世界はつねにより良くなるべきだった。
 しかし、それでもそうならなかった。
 未来にどんな希望があるというのだろうか?
 もちろん、サットヴァが上昇しているとき、そこには調和と平和の期間があ
 った。
 だが、ものごとはそれ自体の完成によって破壊されるものだ。
 完全な社会は静的であることを余儀なくされる。
 それゆえ、それは停滞し、崩壊するのだ。
 頂上からすべての道は下へと向かっていく。
 社会は人びとのようなものだ。
 それは生まれ、成長し、ある時点で相対的な完成を遂げ、そして衰退し、死
 を迎えるのだ。(p437)


完成破壊

 世界はつねにより良くなるべきだった。
 しかし、それでもそうならなかった。
 未来にどんな希望があるというのだろうか?
 もちろん、サットヴァが上昇しているとき、そこには調和と平和の期間があ
 った。
 だが、ものごとはそれ自体の完成によって破壊されるものだ。
 完全な社会は静的であることを余儀なくされる。
 それゆえ、それは停滞し、崩壊するのだ。
 頂上からすべての道は下へと向かっていく。
 社会は人びとのようなものだ。
 それは生まれ、成長し、ある時点で相対的な完成を遂げ、そして衰退し、死
 を迎えるのだ。(p437)


完全な社会

 世界はつねにより良くなるべきだった。
 しかし、それでもそうならなかった。
 未来にどんな希望があるというのだろうか?
 もちろん、サットヴァが上昇しているとき、そこには調和と平和の期間があ
 った。
 だが、ものごとはそれ自体の完成によって破壊されるものだ。
 完全な社会は静的であることを余儀なくされる。
 それゆえ、それは停滞し、崩壊するのだ。
 頂上からすべての道は下へと向かっていく。
 社会は人びとのようなものだ。
 それは生まれ、成長し、ある時点で相対的な完成を遂げ、そして衰退し、死
 を迎えるのだ。(p437)


社会人びと

 完全な社会は静的であることを余儀なくされる。
 それゆえ、それは停滞し、崩壊するのだ。
 頂上からすべての道は下へと向かっていく。
 社会人びとのようなものだ。
 それは生まれ、成長し、ある時点で相対的な完成を遂げ、そして衰退し、死
 を迎えるのだ。(p437)


永遠完全

 何であれ、はじまりあるものには終わりがなくてはならない。
 永遠のなかでは今ここですべてが完全なのだ。(p437)


はじまりの地点

 時が来れば、私たちははじまりの地点に戻ってくる。
 空間が空間の外に私たちを連れだすことができないように、時間は時間の外
 に私たちを連れだすことはできない。
 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。(p437)


待つこと

 時が来れば、私たちははじまりの地点に戻ってくる。
 空間が空間の外に私たちを連れだすことができないように、時間は時間の外
 に私たちを連れだすことはできない。
 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
 秘密は今ここの行為にある。
 あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。
 何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあな
 たが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。
 安全性についてのあなたの考えが何であれ。
 あなたに必要なのは勇気だけだ。(p437)


絶対的な完成

 空間が空間の外に私たちを連れだすことができないように、時間は時間の外
 に私たちを連れだすことはできない。
 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
 秘密は今ここの行為にある。
 あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。
 何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあな
 たが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。
 安全性についてのあなたの考えが何であれ。
 あなたに必要なのは勇気だけだ。(p437)


今ここの行為

 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
 秘密は今ここの行為にある。
 あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。
 何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあな
 たが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。
 安全性についてのあなたの考えが何であれ。
 あなたに必要なのは勇気だけだ。(p437)


秘密の行為

 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
 秘密は今ここの行為にある。
 あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。
 何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあな
 たが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。
 安全性についてのあなたの考えが何であれ。
 あなたに必要なのは勇気だけだ。(p437)


盲目にさせる

 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
 秘密は今ここの行為にある。
 あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。
 何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあな
 たが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。
 安全性についてのあなたの考えが何であれ。
 あなたに必要なのは勇気だけだ。(p437)


無視して

 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
 秘密は今ここの行為にある。
 あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。
 何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあな
 たが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。
 安全性についてのあなたの考えが何であれ。
 あなたに必要なのは勇気だけだ。(p437)


絶対的に完全

 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
 秘密は今ここの行為にある。
 あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。
 何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあな
 たが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。
 安全性についてのあなたの考えが何であれ。
 あなたに必要なのは勇気だけだ。(p437)


あるかのように

 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
 秘密は今ここの行為にある。
 あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。
 何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあな
 たが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。
 安全性についてのあなたの考えが何であれ。
 あなたに必要なのは勇気だけだ。(p437)


安全性について

 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
 秘密は今ここの行為にある。
 あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。
 何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあな
 たが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。
 安全性についてのあなたの考えが何であれ。
 あなたに必要なのは勇気だけだ。(p437)


必要なのは勇気

 待つことであなたが得るのは、さらに待つことだけだ。
 絶対的な完成は、近くか遠くか、いつかの未来にではなく、今ここにある。
 秘密は今ここの行為にある。
 あなたをあなた自身に対して盲目にさせるのは、あなたのふるまいなのだ。
 何であれ、これがあなた自身だと考えていることを無視して、あたかもあな
 たが絶対的に完全であるかのように行動しなさい。
 安全性についてのあなたの考えが何であれ。
 あなたに必要なのは勇気だけだ。(p437)


必要なすべて

 あなたは必要なすべてをもっている。
 それを使いなさい。
 あなたの知る最上のあり方でふるまいなさい。
 すべきだと思うことをしなさい。
 過ちを恐れてはならない。
 いつでもそれは正すことができる。
 ただ維持が重要なのだ。
 ものごとがどのように形を取るかは、あなたの手中にはない。
 行為の動機はあなたにかかっているのだ。(p438)


最上のあり方

 あなたは必要なすべてをもっている。
 それを使いなさい。
 あなたの知る最上のあり方でふるまいなさい。
 すべきだと思うことをしなさい。
 過ちを恐れてはならない。
 いつでもそれは正すことができる。
 ただ維持が重要なのだ。
 ものごとがどのように形を取るかは、あなたの手中にはない。
 行為の動機はあなたにかかっているのだ。(p438)


維持が重要

 あなたは必要なすべてをもっている。
 それを使いなさい。
 あなたの知る最上のあり方でふるまいなさい。
 すべきだと思うことをしなさい。
 過ちを恐れてはならない。
 いつでもそれは正すことができる。
 ただ維持が重要なのだ。
 ものごとがどのように形を取るかは、あなたの手中にはない。
 行為の動機はあなたにかかっているのだ。(p438)


行為の動機

 あなたは必要なすべてをもっている。
 それを使いなさい。
 あなたの知る最上のあり方でふるまいなさい。
 すべきだと思うことをしなさい。
 過ちを恐れてはならない。
 いつでもそれは正すことができる。
 ただ維持が重要なのだ。
 ものごとがどのように形を取るかは、あなたの手中にはない。
 行為の動機はあなたにかかっているのだ。(p438)


行為の動機

 (疑いはグルの言葉の働きを妨げ、それを無効にするのか、というなら)
 あなたの言うとおりだ。
 それはしばらくの間、無効とされてしまうだろう。
 
 (そのグルの言葉の力、エネルギーには何が起こるのか、というなら)
 それは現れないまま、潜在的な状態で残るのだ。
 だが、質問そのものが誤解に基づいている。
 師、弟子、そして彼らの間にある愛と信頼、それらはひとつの事実であって、
 数ある独立した事実ではない。
 それぞれがほかの一部分だ。
 愛と信頼なしには、そこにグルも弟子もないだろう。
 それは電灯のスイッチを入れるようなものだ。
 ランプ、コード、スイッチ、変圧器、送電線、そして発電所。
 それらがひとつの全体を形づくっている。
 ひとつの要素でも欠ければ、光はないだろう。
 不可分なものを分離してはならない。
 言葉が事実をつくり出すことはない。
 それらは描写するか、あるいは歪(ゆが)めるかのどちらかだ。
 事実はつねに言葉を必要としないのだ。(p438)


間違いB

 あなたには何の間違いもない。
 ただ、あなたのあなた自身に関する考えは、まったくの間違いだ。
 欲望をもち、恐れ、苦しむのはあなたではなく、環境と影響によってあなた
 の身体に築かれた個人なのだ。
 あなたは個人ではない。
 これがあなたのマインドのなかで明確に確立されるべき、けっして見失って
 はならないものだ。
 通常は、長い期間のサーダナ(修練)、何年もの苦行と瞑想が必要なのだ。(p442)


苦しむのは

 あなたには何の間違いもない。
 ただ、あなたのあなた自身に関する考えは、まったくの間違いだ。
 欲望をもち、恐れ、苦しむのはあなたではなく、環境と影響によってあなた
 の身体に築かれた個人なのだ。
 あなたは個人ではない。
 これがあなたのマインドのなかで明確に確立されるべき、けっして見失って
 はならないものだ。
 通常は、長い期間のサーダナ(修練)、何年もの苦行と瞑想が必要なのだ。(p442)


長い期間のサーダナ

 あなたには何の間違いもない。
 ただ、あなたのあなた自身に関する考えは、まったくの間違いだ。
 欲望をもち、恐れ、苦しむのはあなたではなく、環境と影響によってあなた
 の身体に築かれた個人なのだ。
 あなたは個人ではない。
 これがあなたのマインドのなかで明確に確立されるべき、けっして見失って
 はならないものだ。
 通常は、長い期間のサーダナ(修練)、何年もの苦行と瞑想が必要なのだ。(p442)


無垢(むく)で単純な

 助言の単純さに惑わされてはならない。
 無垢(むく)で単純なことを信頼する勇気をもつ者は非常にまれなのだ。
 あなたがマインドの囚人であり、自らつくり出した想像の世界のなかに住ん
 でいると知ることは、智慧(ちえ)の現れだ。
 何もそれから求めず、それを完全に放棄する用意のあることが誠実さだ。
 本当の絶望から生まれた、そのような誠実さがあなたに私を信頼させるのだ。(p444)


マインドの囚人

 助言の単純さに惑わされてはならない。
 無垢(むく)で単純なことを信頼する勇気をもつ者は非常にまれなのだ。
 あなたがマインドの囚人であり、自らつくり出した想像の世界のなかに住ん
 でいると知ることは、智慧(ちえ)の現れだ。
 何もそれから求めず、それを完全に放棄する用意のあることが誠実さだ。
 本当の絶望から生まれた、そのような誠実さがあなたに私を信頼させるのだ。(p444)


本当の絶望

 助言の単純さに惑わされてはならない。
 無垢(むく)で単純なことを信頼する勇気をもつ者は非常にまれなのだ。
 あなたがマインドの囚人であり、自らつくり出した想像の世界のなかに住ん
 でいると知ることは、智慧(ちえ)の現れだ。
 何もそれから求めず、それを完全に放棄する用意のあることが誠実さだ。
 本当の絶望から生まれた、そのような誠実さがあなたに私を信頼させるのだ。(p444)


絶望誠実さ

 助言の単純さに惑わされてはならない。
 無垢(むく)で単純なことを信頼する勇気をもつ者は非常にまれなのだ。
 あなたがマインドの囚人であり、自らつくり出した想像の世界のなかに住ん
 でいると知ることは、智慧(ちえ)の現れだ。
 何もそれから求めず、それを完全に放棄する用意のあることが誠実さだ。
 本当の絶望から生まれた、そのような誠実さがあなたに私を信頼させるのだ。(p444)


最初の仕事

 あなたの最初の仕事とは、あなたとあなたのまわりにある悲しみを見ること
 だ。
 そしてつぎは解放への強烈な熱望だ。
 熱望の強烈さそのものがあなたを導くだろう。
 ほかの導きは必要ない。(p444)


悲しみを見る

 あなたの最初の仕事とは、あなたとあなたのまわりにある悲しみを見ること
 だ。
 そしてつぎは解放への強烈な熱望だ。
 熱望の強烈さそのものがあなたを導くだろう。
 ほかの導きは必要ない。(p444)


解放への強烈な熱望

 あなたの最初の仕事とは、あなたとあなたのまわりにある悲しみを見ること
 だ。
 そしてつぎは解放への強烈な熱望だ。
 熱望強烈さそのものがあなたを導くだろう。
 ほかの導きは必要ない。(p444)


苦しみ快楽

 (苦しみに鈍くさせられ、それ自体にさえ無関心だ、というなら)
 あなたを鈍くさせたのは苦しみではなく、快楽かも知れない。
 調べてみなさい。(p444)


第一歩を踏みだす

 (自分には意志もエネルギーもない、というなら)
 いいや、あなたには第一歩を踏みだすに充分な力がある。
 そして一歩ずつが、つぎの一歩のために充分なエネルギーを生みだすだろう。
 エネルギーは確信から、確信は体験からやってくるのだ。(p444)


エネルギー確信

 (自分には意志もエネルギーもない、というなら)
 いいや、あなたには第一歩を踏みだすに充分な力がある。
 そして一歩ずつが、つぎの一歩のために充分なエネルギーを生みだすだろう。
 エネルギー確信から、確信は体験からやってくるのだ。(p444)


グルを変える

 (グルを変えることは正しいのか、というなら)
 なぜ変えないのかね?
 グルは道しるべのようなものだ。
 ひとりからほかへと移っていくことは自然なことだ。
 それぞれがあなたに方向と距離を告げるだろう。
 一方、サッドグル、永遠の師は道そのものなのだ。
 ひとたび道が目的地であり、あなたはつねに道の上に在り、目的地に到達す
 ることではなく、その美しさと智慧を楽しむことを悟れば、人生は仕事では
 なくなり、それは自然でシンプルに、それ自体で歓喜となるのだ。(p444)


グルサッドグル

 (グルを変えることは正しいのか、というなら)
 なぜ変えないのかね?
 グルは道しるべのようなものだ。
 ひとりからほかへと移っていくことは自然なことだ。
 それぞれがあなたに方向と距離を告げるだろう。
 一方、サッドグル、永遠の師は道そのものなのだ。
 ひとたび道が目的地であり、あなたはつねに道の上に在り、目的地に到達す
 ることではなく、その美しさと智慧を楽しむことを悟れば、人生は仕事では
 なくなり、それは自然でシンプルに、それ自体で歓喜となるのだ。(p444)


永遠の師

 (グルを変えることは正しいのか、というなら)
 なぜ変えないのかね?
 グルは道しるべのようなものだ。
 ひとりからほかへと移っていくことは自然なことだ。
 それぞれがあなたに方向と距離を告げるだろう。
 一方、サッドグル、永遠の師は道そのものなのだ。
 ひとたび道が目的地であり、あなたはつねに道の上に在り、目的地に到達す
 ることではなく、その美しさと智慧を楽しむことを悟れば、人生は仕事では
 なくなり、それは自然でシンプルに、それ自体で歓喜となるのだ。(p444)


道が目的地

 グルはしるべのようなものだ。
 ひとりからほかへと移っていくことは自然なことだ。
 それぞれがあなたに方向と距離を告げるだろう。
 一方、サッドグル、永遠の師はそのものなのだ。
 ひとたび道が目的地であり、あなたはつねにの上に在り、目的地に到達す
 ることではなく、その美しさと智慧を楽しむことを悟れば、人生は仕事では
 なくなり、それは自然でシンプルに、それ自体で歓喜となるのだ。(p444)


人を評価できる

 あなたの質問は三つの偽りの仮定から出てきたものだ。
 そのひとつ目は、人は他者との関わりを必要とするということ。
 二つ目は、人はほかの人を評価できるということ。
 三つ目は、弟子の進歩はグルの仕事であり、責任であるということだ。
 実際には、グルの役割とはただ指導し、勇気づけることだけなのだ。
 弟子は完全に彼自身に責任があるのだ。(p446)


評価できる

 あなたの質問は三つの偽りの仮定から出てきたものだ。
 そのひとつ目は、人は他者との関わりを必要とするということ。
 二つ目は、人はほかの人を評価できるということ。
 三つ目は、弟子の進歩はグルの仕事であり、責任であるということだ。
 実際には、グルの役割とはただ指導し、勇気づけることだけなのだ。
 弟子は完全に彼自身に責任があるのだ。(p446)


完全な明け渡し

 もちろん、完全な明け渡しがあれば、自己の過去、現在、未来と、
 身体的、そして霊的安全性や地位に関するすべての完全な放棄が
 あれば、豊かな愛と美にあふれた新たな人生の夜明けはやってく
 る。
 そうすればグルは重要ではない。
 なぜなら、弟子は自己を守る殻(から)を破ったからだ。
 完全な自己放棄そのものが解放なのだ。(p446)
***


在る幸福

 (目覚めのなかでは、在ることを知っていても、自分は幸福ではない。
  眠りのなかでは、り、幸福だが、自分はそれを知らない。
  必要なのは、自分が自由で幸福だと知ることだ、というなら)
 まったくそのとおりだ。
 今、深く内側に入っていきなさい。
 目覚めた眠りと言える状態のなかへ入っていきなさい。
 世界に気づくのではなく、自分自身に気づいている状態のなかへと入ってい
 きなさい。
 その状態のなかで、あなたは疑いの余地もなく、存在の根底では自由で幸福
 なのだと知るだろう。
 唯一の困難は、あなたが体験に耽溺(たんでき)し、記憶を大切そうに抱え
 ていることだ。
 実際には、その反対なのだ。
 思い出されたことは、けっして実在ではなく、実在は今あるのだ。(p442)


自由で幸福だと

 (目覚めのなかでは在ることを知っていても幸福ではないし、眠りのなかで
  は在り、幸福だがそれを知らない。自分が望むのは自由で幸福だと知るこ
  とだ、というなら)
 まったくそのとおりだ。
 今、深く内側に入っていきなさい。
 目覚めた眠りと言える状態のなかへ入っていきなさい。
 世界に気づくのではなく、自分自身に気づいている状態のなかへ
 と入っていきなさい。
 その状態のなかで、あなたは疑いの余地もなく、存在の根底では
 自由で幸福なのだと知るだろう。
 唯一の困難は、あなたが体験に耽溺し、記憶を大切そうに抱えて
 いることだ。
 実際には、その反対なのだ。
 思い出されたことは、けっして実在ではなく、実在は今あるのだ。(p442)


目覚めた眠り

 (目覚めのなかでは在ることを知っていても幸福ではないし、眠りのなかで
  は在り、幸福だが自分はそれを知らない。自分が望むのは自由で幸福だと
  知ることだ、というなら)
 まったくそのとおりだ。
 今、深く内側に入っていきなさい。
 目覚めた眠りと言える状態のなかへ入っていきなさい。
 世界に気づくのではなく、自分自身に気づいている状態のなかへと入ってい
 きなさい。
 その状態のなかで、あなたは疑いの余地もなく、存在の根底では自由で幸福
 なのだと知るだろう。
 唯一の困難は、あなたが体験に耽溺(たんでき)し、記憶を大切そうに抱え
 ていることだ。
 実際には、その反対なのだ。
 思い出されたことは、けっして実在ではなく、実在は今あるのだ。(p442)


唯一の困難

 (目覚めのなかでは在ることを知っていても幸福ではないし、眠りのなかで
  は在り、幸福だがそれを知らない。自分が望むのは自由で幸福だと知るこ
  とだ、というなら)
 まったくそのとおりだ。
 今、深く内側に入っていきなさい。
 目覚めた眠りと言える状態のなかへ入っていきなさい。
 世界に気づくのではなく、自分自身に気づいている状態のなかへと入ってい
 きなさい。
 その状態のなかで、あなたは疑いの余地もなく、存在の根底では自由で幸福
 なのだと知るだろう。
 唯一の困難は、あなたが体験に耽溺し、記憶を大切そうに抱えていることだ。
 実際には、その反対なのだ。
 思い出されたことは、けっして実在ではなく、実在は今あるのだ。(p442)
好み:(-||-)