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書名: 『あるがままに  ラマナ・マハルシの教え

書誌:
編者  デーヴィッド・ゴッドマン
訳者  福間 巌
発行  株式会社ナチュラルスピリット(2005年12月7日発行)
       http://www.naturalspirit.co.jp/
索引:
 ラマナ・マハルシ辞書(『あるがままに』より)
引用:


真我探求の特徴

 (何がこの真我探求の特徴なのか、というなら)
 
 あなたは心である。
 あるいは、あなたは心だと考えている。
 心とは想念以外の何ものでもない。
 さて、あらゆる特定の想念の背後には、「私」という普遍的想念がある。
 それがあなた自身である。
 この「私」を第一の想念と呼ぶこととしよう。
 この「私」という想念を心に保ちなさい。
 そしてそれが何なのかを見いだすために問いただしなさい。
 この問いがあなたの注意を強固に引きとどめるようになったとき、他には何
 も考えることができなくなるのだ。(p102)


あなたは心だ

 あなたは心である。
 あるいは、あなたは心だと考えている。
 とは想念以外の何ものでもない。
 さて、あらゆる特定の想念の背後には、「私」という普遍的想念がある。
 それがあなた自身である。
 この「私」を第一の想念と呼ぶこととしよう。
 この「私」という想念を心に保ちなさい。
 そしてそれが何なのかを見いだすために問いただしなさい。
 この問いがあなたの注意を強固に引きとどめるようになったとき、他には何
 も考えることができなくなるのだ。(p102)


心とは想念

 あなたは心である。
 あるいは、あなたは心だと考えている。
 心とは想念以外の何ものでもない。
 さて、あらゆる特定の想念の背後には、「私」という普遍的想念がある。
 それがあなた自身である。
 この「私」を第一の想念と呼ぶこととしよう。
 この「私」という想念に保ちなさい。
 そしてそれが何なのかを見いだすために問いただしなさい。
 この問いがあなたの注意を強固に引きとどめるようになったとき、他には何
 も考えることができなくなるのだ。(p102)


第一の想念

 あなたは心である。
 あるいは、あなたは心だと考えている。
 心とは想念以外の何ものでもない。
 さて、あらゆる特定の想念の背後には、「私」という普遍的想念がある。
 それがあなた自身である。
 この「私」を第一の想念と呼ぶこととしよう。
 この「私」という想念を心に保ちなさい。
 そしてそれが何なのかを見いだすために問いただしなさい。
 この問いがあなたの注意を強固に引きとどめるようになったとき、他には何
 も考えることができなくなるのだ。(p102)


「私」という想念A

 あなたは心である。
 あるいは、あなたは心だと考えている。
 心とは想念以外の何ものでもない。
 さて、あらゆる特定の想念の背後には、「私」という普遍的想念がある。
 それがあなた自身である。
 この「私」を第一の想念と呼ぶこととしよう。
 この「私」という想念を心に保ちなさい。
 そしてそれが何なのかを見いだすために問いただしなさい。
 この問いがあなたの注意を強固に引きとどめるようになったとき、他には何
 も考えることができなくなるのだ。(p102)


しばしば犯す誤り

 (他の想念が来たとき「私は誰か?」と自分に尋ねるとどんな答えもこない、
  この状態にとどまることが修練なのか、というなら)
  
 これは人びとがしばしば犯す誤りだ。
 あなたが真剣に真我を探求するときに起こることとは、「私」という想念が
 消え去り、探求を始めた「私」ではなく、深淵から別の何かが現れ、あなた
 をつかむのである。 
 
 (その別の何かとは何か、というなら)
 
 それが「私」の真意、真我である。
 それは自我ではない。
 それは至高の存在そのものである。(p102)


想念を拒絶する

 (想念は果てしなく起こり、ひとつの想念を拒絶すると別の想念が現れ、
  際限がない、というなら)
  
 私は想念を拒絶し続けなければならないとは言っていない。
 あなた自身、つまり「私」という想念を固守しなさい。
 あなたの関心がそのひとつの想念に絞られたとき、他の想念は自動的に拒絶
 され、消え去るだろう。(p103)


終わりは来る

 (では、想念の拒絶は必要ないのですね、というなら)
 いいや。
 しばらくの間は必要となるかもしれない。
 想念が起こるたびに拒絶していくことにはきりがないとあなたは想像してい
 る。
 それは本当ではない。
 終わりは来る。
 もし油断なく、想念が起こるたびに拒絶するよう断固とした努力をつづけれ
 ば、すぐにも内なる自己のなかへ深く、より深く入っていくのがわかるだろ
 う。
 この段階に至れば、想念を拒絶する努力は必要なくなる。(p103)


努力をすることが不可能になる

 (努力なしにただ在ることも可能なのか、というなら)
 それどころか、ある限度を超えれば努力をすることが不可能になるのである。(p103)


限度を超えれば

 (努力なしにただ在ることも可能なのか、というなら)
 それどころか、ある限度を超えれば努力をすることが不可能になるのである。(p103)


アハム・ヴリッティ(「私」という想念)

 (私はまったく努力をするべきではないのか、というなら)
 今の段階では、あなたが努力なしでいることは不可能だ。
 あなたがより深く探求していくと、努力すること自体が不可能となるのであ
 る。
 
 もしアハム・ヴリッティ(「私」という想念)の源への探求を通して心が内
 向的になれば、ヴァーサナー(心の潜在的傾向)は消滅する。
 真我の光がヴァーサナーの上に注がれて、心と呼ばれる反映の現象が生じる。
 それゆえ、ヴァーサナーが消滅するとき、唯一の実在であるハートの光のな
 かに吸収されて、心も消え去るのである。
 これが探求者の知るべき概要と主旨のすべてだ。
 いやおうなく探求者に要求されることは、真剣さとアハム・ヴリッティの源
 への一心不乱な探求である。(p104)


内向的になれば

 もしアハム・ヴリッティ(「私」という想念)の源への探求を通して心が内
 向的になれば、ヴァーサナー(心の潜在的傾向)は消滅する。
 真我の光がヴァーサナーの上に注がれて、心と呼ばれる反映の現象が生じる。
 それゆえ、ヴァーサナーが消滅するとき、唯一の実在であるハートの光のな
 かに吸収されて、心も消え去るのである。
 これが探求者の知るべき概要と主旨のすべてだ。
 いやおうなく探求者に要求されることは、真剣さとアハム・ヴリッティの源
 への一心不乱な探求である。(p104)


心も消え去る

 もしアハム・ヴリッティ(「私」という想念)の源への探求を通して心が内
 向的になれば、ヴァーサナー(心の潜在的傾向)は消滅する。
 真我の光がヴァーサナーの上に注がれて、心と呼ばれる反映の現象が生じる。
 それゆえ、ヴァーサナーが消滅するとき、唯一の実在であるハートの光のな
 かに吸収されて、心も消え去るのである。
 これが探求者の知るべき概要と主旨のすべてだ。
 いやおうなく探求者に要求されることは、真剣さとアハム・ヴリッティの源
 への一心不乱な探求である。(p104)


一心不乱な探求

 もしアハム・ヴリッティ(「私」という想念)の源への探求を通して心が内
 向的になれば、ヴァーサナー(心の潜在的傾向)は消滅する。
 真我の光がヴァーサナーの上に注がれて、心と呼ばれる反映の現象が生じる。
 それゆえ、ヴァーサナーが消滅するとき、唯一の実在であるハートの光のな
 かに吸収されて、心も消え去るのである。
 これが探求者の知るべき概要と主旨のすべてだ。
 いやおうなく探求者に要求されることは、真剣さとアハム・ヴリッティの源
 への一心不乱な探求である。(p104)


初心者はどのように

 (初心者はどのようにこの探求を始めればいいのか、というなら)
 心はただ、「私は誰か?」という探求によってのみ沈黙する。
 「私は誰か?」という想念は他のすべての想念を破壊し、最後には、燃えて
 いる薪の山をかき混ぜる棒のように、「私は誰か?」という想念自体も滅ぼ
 されてしまうだろう。
 他の想念が現れたときは、考えることをつづけず、「その想念が誰にとって
 現れたのか?」と尋ねるべきである。
 いかに多くの想念が現れようとかまいはしない。
 想念が立ち現れるその瞬間に、油断なく、「これは誰にとって現れたのか?」
 と問えば、それは「私にとって」であることがわかるだろう。
 そのとき、「私とは誰か?」と尋ねることによって、心は源へと引き戻され、
 現れでた想念も静かになるだろう。
 このように繰り返し実習することによって、心は源にとどまる術を見いだす
 だろう。(p104)


考えることをつづけず

 (初心者はどのようにこの探求を始めればいいのか、というなら)
 心はただ、「私は誰か?」という探求によってのみ沈黙する。
 「私は誰か?」という想念は他のすべての想念を破壊し、最後には、燃えて
 いる薪の山をかき混ぜる棒のように、「私は誰か?」という想念自体も滅ぼ
 されてしまうだろう。
 他の想念が現れたときは、考えることをつづけず、「その想念が誰にとって
 現れたのか?」と尋ねるべきである。
 いかに多くの想念が現れようとかまいはしない。
 想念が立ち現れるその瞬間に、油断なく、「これは誰にとって現れたのか?」
 と問えば、それは「私にとって」であることがわかるだろう。
 そのとき、「私とは誰か?」と尋ねることによって、心は源へと引き戻され、
 現れでた想念も静かになるだろう。
 このように繰り返し実習することによって、心は源にとどまる術を見いだす
 だろう。(p104)


誰にとって現れたのか

 (初心者はどのようにこの探求を始めればいいのか、というなら)
 心はただ、「私はか?」という探求によってのみ沈黙する。
 「私はか?」という想念は他のすべての想念を破壊し、最後には、燃えて
 いる薪の山をかき混ぜる棒のように、「私はか?」という想念自体も滅ぼ
 されてしまうだろう。
 他の想念が現れたときは、考えることをつづけず、「その想念が誰にとって
 現れたのか?」と尋ねるべきである。
 いかに多くの想念が現れようとかまいはしない。
 想念が立ち現れるその瞬間に、油断なく、「これは誰にとって現れたのか?」
 と問えば、それは「私にとって」であることがわかるだろう。
 そのとき、「私とはか?」と尋ねることによって、心は源へと引き戻され、
 現れでた想念も静かになるだろう。
 このように繰り返し実習することによって、心は源にとどまる術を見いだす
 だろう。(p104)


源にとどまる術

 (初心者はどのようにこの探求を始めればいいのか、というなら)
 心はただ、「私は誰か?」という探求によってのみ沈黙する。
 「私は誰か?」という想念は他のすべての想念を破壊し、最後には、燃えて
 いる薪の山をかき混ぜる棒のように、「私は誰か?」という想念自体も滅ぼ
 されてしまうだろう。
 他の想念が現れたときは、考えることをつづけず、「その想念が誰にとって
 現れたのか?」と尋ねるべきである。
 いかに多くの想念が現れようとかまいはしない。
 想念が立ち現れるその瞬間に、油断なく、「これは誰にとって現れたのか?」
 と問えば、それは「私にとって」であることがわかるだろう。
 そのとき、「私とは誰か?」と尋ねることによって、心は源へと引き戻され、
 現れでた想念も静かになるだろう。
 このように繰り返し実習することによって、心は源にとどまる術を見いだす
 だろう。(p104)


幾生にもわたって

 たとえ幾生にもわたって繰り返されてきた対象物へと向かう感覚の潜在的傾
 向(ヴィシャヤ・ヴァーサナー)が大海の波のように無数に立ち現れようと
 も自己の本性への瞑想がますます強烈になるとき、それらの潜在的傾向は打
 ち破られるだろう。
 「いったい、これらすべての潜在的傾向(ヴァーサナー)を破壊して、ただ
 真我としてとどまることは可能なのだろうか?」といった疑いを許すよりも、
 自己留意に粘り強く固執するべきである。(p105)


対象物へと向かう

 たとえ幾生にもわたって繰り返されてきた対象物へと向かう感覚の潜在的傾
 向(ヴィシャヤ・ヴァーサナー)が大海の波のように無数に立ち現れようと
 も自己の本性への瞑想がますます強烈になるとき、それらの潜在的傾向は打
 ち破られるだろう。
 「いったい、これらすべての潜在的傾向(ヴァーサナー)を破壊して、ただ
 真我としてとどまることは可能なのだろうか?」といった疑いを許すよりも、
 自己留意に粘り強く固執するべきである。(p105)


感覚の潜在的傾向

 たとえ幾生にもわたって繰り返されてきた対象物へと向かう感覚の潜在的傾
 向(ヴィシャヤ・ヴァーサナー)が大海の波のように無数に立ち現れようと
 も自己の本性への瞑想がますます強烈になるとき、それらの潜在的傾向は打
 ち破られるだろう。
 「いったい、これらすべての潜在的傾向(ヴァーサナー)を破壊して、ただ
 真我としてとどまることは可能なのだろうか?」といった疑いを許すよりも、
 自己留意に粘り強く固執するべきである。(p105)


ヴィシャヤ・ヴァーサナー

 たとえ幾生にもわたって繰り返されてきた対象物へと向かう感覚の潜在的傾
 向(ヴィシャヤ・ヴァーサナー)が大海の波のように無数に立ち現れようと
 も自己の本性への瞑想がますます強烈になるとき、それらの潜在的傾向は打
 ち破られるだろう。
 「いったい、これらすべての潜在的傾向(ヴァーサナー)を破壊して、ただ
 真我としてとどまることは可能なのだろうか?」といった疑いを許すよりも、
 自己留意に粘り強く固執するべきである。(p105)


自己留意に

 たとえ幾生にもわたって繰り返されてきた対象物へと向かう感覚の潜在的傾
 向(ヴィシャヤ・ヴァーサナー)が大海の波のように無数に立ち現れようと
 も自己の本性への瞑想がますます強烈になるとき、それらの潜在的傾向は打
 ち破られるだろう。
 「いったい、これらすべての潜在的傾向(ヴァーサナー)を破壊して、ただ
 真我としてとどまることは可能なのだろうか?」といった疑いを許すよりも、
 自己留意に粘り強く固執するべきである。(p105)


想念が起こるなり

 対象物へと向かう感覚の潜在的傾向が心のなかにあるかぎり、「私は誰か?」
 という探求は必要だ。
 想念が起こるなり、そのとき、その源で、探求によってすべての想念を根絶
 するべきである。
 真我以外の何ものも求めないこと(アンニャ)が無執着(ヴァイラーギャ)
 あるいは無欲(ニラーシャ)であり、真我をけっして離れないことが智慧
 (ジニャーナ)である。(p105)


真我以外の何ものも求めない(アンニャ)

 対象物へと向かう感覚の潜在的傾向が心のなかにあるかぎり、「私は誰か?」
 という探求は必要だ。
 想念が起こるなり、そのとき、その源で、探求によってすべての想念を根絶
 するべきである。
 真我以外の何ものも求めない(アンニャ)が無執着(ヴァイラーギャ)
 あるいは無欲(ニラーシャ)であり、真我をけっして離れないことが智慧
 (ジニャーナ)である。
 実際には、無欲と智慧はひとつなのだ。(p105)


無執着(ヴァイラーギャ)

 対象物へと向かう感覚の潜在的傾向が心のなかにあるかぎり、「私は誰か?」
 という探求は必要だ。
 想念が起こるなり、そのとき、その源で、探求によってすべての想念を根絶
 するべきである。
 真我以外の何ものも求めないこと(アンニャ)が無執着(ヴァイラーギャ)
 あるいは無欲(ニラーシャ)であり、真我をけっして離れないことが智慧
 (ジニャーナ)である。
 実際には、無欲と智慧はひとつなのだ。(p105)


無欲と智慧@

 対象物へと向かう感覚の潜在的傾向が心のなかにあるかぎり、「私は誰か?」
 という探求は必要だ。
 想念が起こるなり、そのとき、その源で、探求によってすべての想念を根絶
 するべきである。
 真我以外の何ものも求めないこと(アンニャ)が無執着(ヴァイラーギャ)
 あるいは無欲(ニラーシャ)であり、真我をけっして離れないことが智慧
 (ジニャーナ)である。
 実際には、無欲と智慧はひとつなのだ。(p105)


真珠採り

 ちょうど、真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を
 採るように、誰もが無執着とともに自己の内に深く潜り、真我という真珠を
 手に入れなければならない。
 もし真我に達するまで自己の本性(スワルーパ・スマラナ)を絶えず覚えて
 いることができれば、それだけでじゅうぶんだろう。
 「束縛されているのは誰なのか?」と尋ね入り、自己の本性(スワルーパ)
 を知ることこそが解脱である。
 真我探求とは、つねに心を真我のなかだけにとどめておくことである。
 瞑想とは、真我を存在−意識−至福(サット−チット−アーナンダ)である
 至高の存在(ブラフマン)と思いなすことである。(p105)


自己の本性(スワルーパ・スマラナ)

 ちょうど、真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を
 採るように、誰もが無執着とともに自己の内に深く潜り、真我という真珠を
 手に入れなければならない。
 もし真我に達するまで自己の本性(スワルーパ・スマラナ)を絶えず覚えて
 いることができれば、それだけでじゅうぶんだろう。
 「束縛されているのは誰なのか?」と尋ね入り、自己の本性(スワルーパ)
 を知ることこそが解脱である。
 真我探求とは、つねに心を真我のなかだけにとどめておくことである。
 瞑想とは、真我を存在−意識−至福(サット−チット−アーナンダ)である
 至高の存在(ブラフマン)と思いなすことである。(p105)


真我探求とは

 ちょうど、真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を
 採るように、誰もが無執着とともに自己の内に深く潜り、真我という真珠を
 手に入れなければならない。
 もし真我に達するまで自己の本性(スワルーパ・スマラナ)を絶えず覚えて
 いることができれば、それだけでじゅうぶんだろう。
 「束縛されているのは誰なのか?」と尋ね入り、自己の本性(スワルーパ)
 を知ることこそが解脱である。
 真我探求とは、つねに心を真我のなかだけにとどめておくことである。
 瞑想とは、真我を存在−意識−至福(サット−チット−アーナンダ)である
 至高の存在(ブラフマン)と思いなすことである。(p105)


瞑想とは

 ちょうど、真珠採りが自分の腰に石をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を
 採るように、誰もが無執着とともに自己の内に深く潜り、真我という真珠を
 手に入れなければならない。
 もし真我に達するまで自己の本性(スワルーパ・スマラナ)を絶えず覚えて
 いることができれば、それだけでじゅうぶんだろう。
 「束縛されているのは誰なのか?」と尋ね入り、自己の本性(スワルーパ)
 を知ることこそが解脱である。
 真我探求とは、つねに心を真我のなかだけにとどめておくことである。
 瞑想とは、真我を存在−意識−至福(サット−チット−アーナンダ)である
 至高の存在(ブラフマン)と思いなすことである。(p105)


「私」という想念B

 「私」という想念の源を探究しなさい。
 するべきことはそれだけである。
 宇宙は「私」という想念が原因で存在している。
 「私」という想念が終焉すれば、不幸もまた終焉する。
 偽りの「私」という想念は、その源を探ることによってのみ終焉するのであ
 る。(p114)


するべきこと

 「私」という想念の源を探究しなさい。
 するべきことはそれだけである。
 宇宙は「私」という想念が原因で存在している。
 「私」という想念が終焉すれば、不幸もまた終焉する。
 偽りの「私」という想念は、その源を探ることによってのみ終焉するのであ
 る。(p114)


宇宙

 「私」という想念の源を探究しなさい。
 するべきことはそれだけである。
 宇宙は「私」という想念が原因で存在している。
 「私」という想念が終焉すれば、不幸もまた終焉する。
 偽りの「私」という想念は、その源を探ることによってのみ終焉するのであ
 る。(p114)


心を制御

 人びとはどのように心を制御すべきかと尋ねてくる。
 私は彼らに言う。
 「を見せてみなさい。そうすれば何をすべきかがわかるだろう」と。
 とは単なる一束の想念にすぎない。
 それが事実である。
 どうしてそれを思ったり、望んだりすることで絶滅させることができるだろ
 うか?
 あなたの想念も欲望もの一部分なのである。
 新たな想念が湧き上がるごとには肥えていく。
 それゆえ、によってを殺そうとすることはばかげている。
 を殺す唯一の方法は、その源を見いだし、それをとらえることである。
 そうすればはひとりでに消え去るだろう。
 ヨーガはチッタ・ヴリッティニロダ(の活動の静止)を教える。
 だが、私はアートマ・ヴィチャーラ(真我探究)を教える。
 これは実際的な方法である。(p114)


ニロダ(制御) と ヴィチャーラ(探究)

 ヨーガはチッタ・ヴリッティニロダ(心の活動の静止)を教える。
 だが、私はアートマ・ヴィチャーラ(真我探究)を教える。
 これは実際的な方法である。
 チッタ・ヴリッティ・ニロダは眠り、気絶あるいは飢餓状態によっても引き
 起こされる。
 その原因が絶たれた瞬間、想念は再び起こってくる。
 だとすればいったい何の役に立つというのだろう?
 麻痺状態のなかでは平和があり、不幸はない。
 だが、麻痺状態が消えれば不幸も再び起こる。
 それゆえ、ニロダ(コントロール)は役に立たず、その効果も長つづきしな
 いのである。(p114-115)


麻痺状態不幸

 ヨーガはチッタ・ヴリッティニロダ(心の活動の静止)を教える。
 だが、私はアートマ・ヴィチャーラ(真我探究)を教える。
 これは実際的な方法である。
 チッタ・ヴリッティ・ニロダは眠り、気絶あるいは飢餓状態によっても引き
 起こされる。
 その原因が絶たれた瞬間、想念は再び起こってくる。
 だとすればいったい何の役に立つというのだろう?
 麻痺状態のなかでは平和があり、不幸はない。
 だが、麻痺状態が消えれば不幸も再び起こる。
 それゆえ、ニロダ(コントロール)は役に立たず、その効果も長つづきしな
 いのである。(p114-115)


麻痺状態不幸***

 では、どうすればその効果が持続するのだろうか?
 不幸の原因を突き止めることによってである。
 不幸は対象物を知覚することによって起こる。
 もし知覚されるものがなければ、それによって引き起こされる想念もなく、
 不幸も一掃される。
 「どうすれば対象物が消え去るのか?」が次の間題である。
 聖典や聖者は、「対象物は単なる心の創造物にすぎない」と言っている。
 それらは実質的な存在をもっていない。
 物質を調査してみなさい。
 そしてこの表明の真実性を確かめるがいい。
 すると、客観的な世界は主観的意識のなかにあるという結論に達するだろう。
 それゆえ、真我こそが世界に浸透し、それを包みこむ唯一の実在なのである。
 そこに二元性は存在せず、それゆえあなたの平和を妨げる想念も起こらない。
 これが真我の実現である。
 真我は永遠であり、その実現もまた永遠のものである。(p115)


霊的修練

 アビヤーサ(霊的修練)は想念に平和を乱されるたびに、真我のなかへと退
 くことで成り立っている。
 それは集中でも心の破壊でもなく、真我のなかに退くことなのである。(p115)


あるがままのあなたで

 あるがままのあなたで在りなさい。
 天から降りてくるようなものは何もないし、現れもしない。
 必要なのは自我を失うことだけだ。
 在るものは、つねにそこに在る。
 今このときでさえ、あなたはそれである。
 空白状態はあなたによって見られている。
 空白を見ているあなたはそこに存在している。
 何を待つというのだろうか?
 「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとす
 る欲望はすべて自我の作用である。
 あなたは自我の罠に陥っている。
 これらのことはあなたではなく、すべて自我が言っているのである。
 あるがままのあなたで在りなさい。
 それ以上何も必要ない!(p122)


必要なのはA

 あるがままのあなたで在りなさい。
 天から降りてくるようなものは何もないし、現れもしない。
 必要なのは自我を失うことだけだ。
 在るものは、つねにそこに在る。
 今このときでさえ、あなたはそれである。
 空白状態はあなたによって見られている。
 空白を見ているあなたはそこに存在している。
 何を待つというのだろうか?
 「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとす
 る欲望はすべて自我の作用である。
 あなたは自我の罠に陥っている。
 これらのことはあなたではなく、すべて自我が言っているのである。
 あるがままのあなたで在りなさい。
 それ以上何も必要ない!(p122)


空白状態は

 あるがままのあなたで在りなさい。
 天から降りてくるようなものは何もないし、現れもしない。
 必要なのは自我を失うことだけだ。
 在るものは、つねにそこに在る。
 今このときでさえ、あなたはそれである。
 空白状態はあなたによって見られている。
 空白を見ているあなたはそこに存在している。
 何を待つというのだろうか?
 「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとす
 る欲望はすべて自我の作用である。
 あなたは自我の罠に陥っている。
 これらのことはあなたではなく、すべて自我が言っているのである。
 あるがままのあなたで在りなさい。
 それ以上何も必要ない!(p122)


何を待つというのだろうか

 あるがままのあなたで在りなさい。
 天から降りてくるようなものは何もないし、現れもしない。
 必要なのは自我を失うことだけだ。
 在るものは、つねにそこに在る。
 今このときでさえ、あなたはそれである。
 空白状態はあなたによって見られている。
 空白を見ているあなたはそこに存在している。
 何を待つというのだろうか?
 「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとす
 る欲望はすべて自我の作用である。
 あなたは自我の罠に陥っている。
 これらのことはあなたではなく、すべて自我が言っているのである。
 あるがままのあなたで在りなさい。
 それ以上何も必要ない!(p122)


自我の罠

 あるがままのあなたで在りなさい。
 天から降りてくるようなものは何もないし、現れもしない。
 必要なのは自我を失うことだけだ。
 在るものは、つねにそこに在る。
 今このときでさえ、あなたはそれである。
 空白状態はあなたによって見られている。
 空白を見ているあなたはそこに存在している。
 何を待つというのだろうか?
 「私はまだ見ていない」という考え、見たいという期待、何かを得ようとす
 る欲望はすべて自我の作用である。
 あなたは自我の罠に陥っている。
 これらのことはあなたではなく、すべて自我が言っているのである。
 あるがままのあなたで在りなさい。
 それ以上何も必要ない!(p122)


ひとたび生まれたなら

 ひとたび生まれたなら、あなたは何かに到達する。
 そしてそれを達成したなら、再び戻ってくるのだ。
 それゆえ、そのような無駄なことはすべてやめるがいい。
 あるがままに在りなさい。
 あなたが誰なのかを知りなさい。
 生まれ、死に、生まれ変わることから自由になりなさい。
 そして真我としてとどまりなさい。(p122)


達成したなら

 ひとたび生まれたなら、あなたは何かに到達する。
 そしてそれを達成したなら、再び戻ってくるのだ。
 それゆえ、そのような無駄なことはすべてやめるがいい。
 あるがままに在りなさい。
 あなたが誰なのかを知りなさい。
 生まれ、死に、生まれ変わることから自由になりなさい。
 そして真我としてとどまりなさい。(p122)


無駄なことは

 ひとたび生まれたなら、あなたは何かに到達する。
 そしてそれを達成したなら、再び戻ってくるのだ。
 それゆえ、そのような無駄なことはすべてやめるがいい。
 あるがままに在りなさい。
 あなたが誰なのかを知りなさい。
 生まれ、死に、生まれ変わることから自由になりなさい。
 そして真我としてとどまりなさい。(p122)


生まれ変わる

 ひとたび生まれたなら、あなたは何かに到達する。
 そしてそれを達成したなら、再び戻ってくるのだ。
 それゆえ、そのような無駄なことはすべてやめるがいい。
 あるがままに在りなさい。
 あなたが誰なのかを知りなさい。
 生まれ、死に、生まれ変わることから自由になりなさい。
 そして真我としてとどまりなさい。(p122)


真我を知ること

 (人はどのようにして真我を知るのか、というなら)
 真我を知ることは、真我として在ることである。
 あなたは真我を知らないと言えるだろうか?
 鏡がなければ目を直接見ることはできない。
 だが、それでも目が存在することを否定するだろうか?
 同じように、真我は対象化されないが、あなたは真我に気づいている。
 それとも対象化されていないために真我の存在を否定するだろうか?
 あなたが「真我を知ることができない」と言うとき、それは相対的知識の点
 から見た不在を意味している。
 なぜなら、相対的知識に慣れすぎたため、自分自身をそれと同一視するから
 である。
 真我を対象化することはできない。
 そのため、そのような偽りの同一視が、明白な真我を知ることを困難にして
 しまう。
 そうしておいてから「どのようにして真我を知るのか?」とあなたは尋ねる
 のである。(p123)


鏡がなければ

 (人はどのようにして真我を知るのか、というなら)
 真我を知ることは、真我として在ることである。
 あなたは真我を知らないと言えるだろうか?
 鏡がなければ目を直接見ることはできない。
 だが、それでも目が存在することを否定するだろうか?
 同じように、真我は対象化されないが、あなたは真我に気づいている。
 それとも対象化されていないために真我の存在を否定するだろうか?
 あなたが「真我を知ることができない」と言うとき、それは相対的知識の点
 から見た不在を意味している。
 なぜなら、相対的知識に慣れすぎたため、自分自身をそれと同一視するから
 である。
 真我を対象化することはできない。
 そのため、そのような偽りの同一視が、明白な真我を知ることを困難にして
 しまう。
 そうしておいてから「どのようにして真我を知るのか?」とあなたは尋ねる
 のである。(p123)


対象化されない

 (人はどのようにして真我を知るのか、というなら)
 真我を知ることは、真我として在ることである。
 あなたは真我を知らないと言えるだろうか?
 鏡がなければ目を直接見ることはできない。
 だが、それでも目が存在することを否定するだろうか?
 同じように、真我は対象化されないが、あなたは真我に気づいている。
 それとも対象化されていないために真我の存在を否定するだろうか?
 あなたが「真我を知ることができない」と言うとき、それは相対的知識の点
 から見た不在を意味している。
 なぜなら、相対的知識に慣れすぎたため、自分自身をそれと同一視するから
 である。
 真我を対象化することはできない。
 そのため、そのような偽りの同一視が、明白な真我を知ることを困難にして
 しまう。
 そうしておいてから「どのようにして真我を知るのか?」とあなたは尋ねる
 のである。(p123)


偽りの同一視A

 (人はどのようにして真我を知るのか、というなら)
 真我を知ることは、真我として在ることである。
 あなたは真我を知らないと言えるだろうか?
 鏡がなければ目を直接見ることはできない。
 だが、それでも目が存在することを否定するだろうか?
 同じように、真我は対象化されないが、あなたは真我に気づいている。
 それとも対象化されていないために真我の存在を否定するだろうか?
 あなたが「真我を知ることができない」と言うとき、それは相対的知識の点
 から見た不在を意味している。
 なぜなら、相対的知識に慣れすぎたため、自分自身をそれと同一視するから
 である。
 真我を対象化することはできない。
 そのため、そのような偽りの同一視が、明白な真我を知ることを困難にして
 しまう。
 そうしておいてから「どのようにして真我を知るのか?」とあなたは尋ねる
 のである。(p123)


ただ在ること

 (あなたの語る在ることとは、何として在ることか、というなら)
 あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。
 「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理
 の要諦である。
 その方法は、「静かに在ること」に尽きる。
 では静寂とは何を意味するのだろうか?
 それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。
 なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。
 「私はこれである」という観念を放棄しなさい。
 真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。
 それ以上簡単なことがあるだろうか?
 それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なこと
 なのである。(p123-124)


真理の要諦

 (あなたが語る在ることとは、何として在ることか、というなら)
 あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。
 「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理
 の要諦である。
 その方法は、「静かに在ること」に尽きる。
 では静寂とは何を意味するのだろうか?
 それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。
 なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。
 「私はこれである」という観念を放棄しなさい。
 真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。
 それ以上簡単なことがあるだろうか?
 それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なこと
 なのである。(p123-124)


静かに在ること

 (あなたが語る在ることとは、何として在ることか、というなら)
 あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。
 「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理
 の要諦である。
 その方法は、「静かに在ること」に尽きる。
 では静寂とは何を意味するのだろうか?
 それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。
 なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。
 「私はこれである」という観念を放棄しなさい。
 真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。
 それ以上簡単なことがあるだろうか?
 それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なこと
 なのである。(p123-124)


苦しみの原因@

 (あなたが語る在ることとは、何として在ることか、というなら)
 
 あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。
 「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理
 の要諦である。
 その方法は、「静かに在ること」に尽きる。
 では静寂とは何を意味するのだろうか?
 それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。
 なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。
 「私はこれである」という観念を放棄しなさい。
 真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。
 それ以上簡単なことがあるだろうか?
 それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なこと
 なのである。(p123-124)


アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)

 (あなたが語る在ることとは、何として在ることか、というなら)
 あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。
 「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理
 の要諦である。
 その方法は、「静かに在ること」に尽きる。
 では静寂とは何を意味するのだろうか?
 それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。
 なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。
 「私はこれである」という観念を放棄しなさい。
 真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。
 それ以上簡単なことがあるだろうか?
 それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なこと
 なのである。(p123-124)


真我の知識

 (あなたが語る在ることとは、何として在ることか、というなら)
 あなたの務めはただ在ることであり、あれやこれとして在ることではない。
 「私は私であるものである」(I AM THAT I AM)という言葉がすべての真理
 の要諦である。
 その方法は、「静かに在ること」に尽きる。
 では静寂とは何を意味するのだろうか?
 それはあなた自身を打ち壊すことを意味する。
 なぜならすべての名前と形が苦しみの原因だからだ。
 「私はこれである」という観念を放棄しなさい。
 真我を実現するために必要なのは、静かに在ることだけである。
 それ以上簡単なことがあるだろうか?
 それゆえ、アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)の達成は最も容易なこと
 なのである。(p123-124)


自己の真の本性

 唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるものである。
 それを注意の的として射止め、ハートの中で強烈にそれを知るべきである。
 この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、明晰(め
 いせき)で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。
 ハートのなかで絶えず輝きつづける意識こそが無形の真我であり、存在や非
 存在である何かなどと考えることなく、ただ静かに在ることによって知られ
 るもの、ただそれだけが完全な実在であると知りなさい。(p124)


無形の真我

 唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるものである。
 それを注意の的として射止め、ハートの中で強烈にそれを知るべきである。
 この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、明晰(め
 いせき)で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。
 ハートのなかで絶えず輝きつづける意識こそが無形の真我であり、存在や非
 存在である何かなどと考えることなく、ただ静かに在ることによって知られ
 るもの、ただそれだけが完全な実在であると知りなさい。(p124)


完全な実在

 唯一、自己の真の本性だけが、調べられ、知られる価値のあるものである。
 それを注意の的として射止め、ハートの中で強烈にそれを知るべきである。
 この自己の本性の知識は、苛立ち苦しむ心の活動から解放された、明晰(め
 いせき)で平静な意識にのみ明らかにされるだろう。
 ハートのなかで絶えず輝きつづける意識こそが無形の真我であり、存在や非
 存在である何かなどと考えることなく、ただ静かに在ることによって知られ
 るもの、ただそれだけが完全な実在であると知りなさい。(p124)


活動とは

 活動は創造である。
 活動とは、人が生まれながらにもっている幸福を破壊することである。
 もし活動が勧められるなら、助言者は師ではなく殺し屋である。
 そのような状況は、師の姿をした死の神(ヤマ)、あるいは創造の神(ブラ
 フマー)が現れたのだと言えるだろう。
 そのような人に真理の探究者を解放することはできない。
 彼は束縛を強めるだけである。(p170)
好み:(-||-)