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書名: 『ラマナ・マハルシとの対話第1巻  ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア記述

書誌:
記録  ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア
訳者  福間 巌
発行  株式会社ナチュラルスピリット(2012年12月29日発行)
       http://www.naturalspirit.co.jp/
索引:
 ラマナ・マハルシ辞書(『ラマナ・マハルシとの対話第1巻』より)
引用:


知性(ブッディ)

 (知性(ブッディ)とは何か?、というなら)
 
 思考あるいは識別の機能です。
 それらは単なる名前でしかありません。
 自我、心、知性、それらはみな同じものです。
 誰の心でしょう? 
 誰の知性だと言うのでしょう? 
 自我のです。
 自我は実在でしょうか? 
 いいえ。
 私たちは自我を取り違えて知性や心と呼ぶのです。(『対話1』p379)


疑う者疑い

 いかにあなたが学ぼうとも、知識に際限はありません。
 あなたは疑う者を見落として、疑いを解こうとします。
 その反対に、疑う者をとらえなさい。
 そうすれば疑いは消え去るのです。(『対話1』p379)


真我に達する

 (どうすれば真我に達することができるのか?、というなら)
 
 真我に達するというようなことはないのです。
 もし真我達せられるようなものなら、それは今ここには存在せず、新たに
 獲得されるものということです。
 新たに獲得されたものは、やがて失われるでしょう。
 それはつまり一時的なはかないものだということです。
 永遠なるものでなければ、努力して得るだけの価値もありません。
 だからこそ、私は真我に達するということはないと言うのです。
 あなたは真我です。
 あなたはすでに「それ」なのです。
 事実は、あなたは自分の至福に満ちた状態に無知だということです。
 無知が起こり、純粋な至福の上に覆いを被せてしまったのです。
 私たちが試みるべきことは、この無知を取り除くことだけです。
 この世界は誤った知識で成り立っています。
 誤った知識は真我を身体や心と同一視することで成り立っています。
 この偽りの自己同一化が取り除かれなければなりません。
 そのとき、そこに真我が残るのです。(『対話1』p414-415)


サンサーラ

 (サンサーラは障害なのではないか? 聖典は放棄を勧めているのではないか、
  というなら)
  
 サンサーラはあなたの心の中だけに存在するのです。
 世界が「私は世界だ」と声を上げたりはしません。
 そうでなければ、それはあなたの眠りの中も含めて、常に存在しているはず
 です。
 しかし眠りの中に世界は存在しないため、それは一時的なものなのです。
 一時的なものであるため、それは力を持っていません。
 力がないため、それは真我によってたやすく征服されるのです。
 ただ真我だけが永久に存在しています。
 放棄とは真我と非真我との同一化を断ち切ることです。
 無知が消え去るとともに、非真我も存在を消します。
 それが真の放棄なのです。(『対話1』p414-415)


放棄とは

 世界が「私は世界だ」と声を上げたりはしません。
 そうでなければ、それはあなたの眠りの中も含めて、常に存在しているはず
 です。
 しかし眠りの中に世界は存在しないため、それは一時的なものなのです。
 一時的なものであるため、それは力を持っていません。
 力がないため、それは真我によってたやすく征服されるのです。
 ただ真我だけが永久に存在しています。
 放棄とは真我と非真我との同一化を断ち切ることです。
 無知が消え去るとともに、非真我も存在を消します。
 それが真の放棄なのです。(『対話1』p414-415)


真の放棄

 世界が「私は世界だ」と声を上げたりはしません。
 そうでなければ、それはあなたの眠りの中も含めて、常に存在しているはず
 です。
 しかし眠りの中に世界は存在しないため、それは一時的なものなのです。
 一時的なものであるため、それは力を持っていません。
 力がないため、それは真我によってたやすく征服されるのです。
 ただ真我だけが永久に存在しています。
 放棄とは真我と非真我との同一化を断ち切ることです。
 無知が消え去るとともに、非真我も存在を消します。
 それが真の放棄なのです。(『対話1』p414-415)


なぜ眠りの状態にとどまっていられないか?

 (なぜ好きなだけ眠りの状態(スシユプティ)の中にとどまっていられない
  のか? どうして目覚めの状塵のように自分の意思でその中にいられないの
  か?、というなら)
  
 眠りの状態はこの目覚め状態の中でも続いています。
 私たちは常に眠りの状態の中にいるのです。
 今この目覚めの状態にいるときに意識的にその中に入り、それを悟ることが
 私たちのすべきことです。
 実際には、その中に入って行くことも、それから出ることもありません。
 それに気づくようになること、それがサマーディです。
 
 無知な人は長い間眠りの状態の中にとどまることができません。
 彼は生来の性癖によって強制的にそこから追い出されてしまうのです。
 彼の自我はまだ死んではいないため、再び立ち現れます。
 しかし賢明な人は、自我が源にある間にそれを破壊しょうと試みるのです。
 自我は生来の性癖、つまりプラーラブダ(運命)に駆り立てられて、何度も
 何度も立ち現れてきます。
 すなわち、ジニャーニにもアジニャーニにも自我は生じるということです。
 二人の違いは、自我が立ち現れるとき、アジニャーニはまったくその源に無
 知であり、夢見と目覚めの状態における眠り(スシユプティ)に気づいてい
 ません。
 一方、ジニャーニは自我が立ち現れても、常に自我をラクシャ(標的)であ
 る源にとどめながら、超越体験を楽しんでいるのです。
 この自我は危険ではありません。
 それはロープの燃え殻のようなもので、それでは何もできないからです。
 絶えず源に的をとどめることで、自我は海の中の塩人形のようにその源に溶
 け去るのです。(『対話1』p486-487)


ロープの燃え殻

 無知な人は長い間眠りの状態の中にとどまることができません。
 彼は生来の性癖によって強制的にそこから追い出されてしまうのです。
 彼の自我はまだ死んではいないため、再び立ち現れます。
 しかし賢明な人は、自我が源にある間にそれを破壊しょうと試みるのです。
 自我は生来の性癖、つまりプラーラブダ(運命)に駆り立てられて、何度も
 何度も立ち現れてきます。
 すなわち、ジニャーニにもアジニャーニにも自我は生じるということです。
 二人の違いは、自我が立ち現れるとき、アジニャーニはまったくその源に無
 知であり、夢見と目覚めの状態における眠り(スシユプティ)に気づいてい
 ません。
 一方、ジニャーニは自我が立ち現れても、常に自我をラクシャ(標的)であ
 る源にとどめながら、超越体験を楽しんでいるのです。
 この自我は危険ではありません。
 それはロープの燃え殻のようなもので、それでは何もできないからです。
 絶えず源に的をとどめることで、自我は海の中の塩人形のようにその源に溶
 け去るのです。(『対話1』p487)


海の中の塩人形

 無知な人は長い間眠りの状態の中にとどまることができません。
 彼は生来の性癖によって強制的にそこから追い出されてしまうのです。
 彼の自我はまだ死んではいないため、再び立ち現れます。
 しかし賢明な人は、自我が源にある間にそれを破壊しょうと試みるのです。
 自我は生来の性癖、つまりプラーラブダ(運命)に駆り立てられて、何度も
 何度も立ち現れてきます。
 すなわち、ジニャーニにもアジニャーニにも自我は生じるということです。
 二人の違いは、自我が立ち現れるとき、アジニャーニはまったくその源に無
 知であり、夢見と目覚めの状態における眠り(スシユプティ)に気づいてい
 ません。
 一方、ジニャーニは自我が立ち現れても、常に自我をラクシャ(標的)であ
 る源にとどめながら、超越体験を楽しんでいるのです。
 この自我は危険ではありません。
 それはロープの燃え殻のようなもので、それでは何もできないからです。
 絶えず源に的をとどめることで、自我は海の中の塩人形のようにその源に溶
 け去るのです。(『対話1』p487)
好み:(-||-)