本当に単純です。
たった今、まさにここに、「ジョーン」は全く存在していません。
直接的な経験のことを話しています。
信念のことではありません。
自分で調べてみて、本当にそうかどうか確かめてみてください。
あるのは音、感覚、目に見える像だけです。
それが全部です。
「ジョーン」もいなければ「悟り」もなければ「明晰さ」もなけれ
ば「過去」もなければ「未来」もなければ「現在」もありません。
マインドの中を除いては。
思考と記憶と想像が「私」と「他の人」と「世界」というス
トーリーを紡いでいます。
思考と記憶と想像が、時間と連続性という幻想を創り出しています。
そしてすぐに映写機が回り、私たちは次々に映画を見ることになり
ます。
驚くほどリアルなものですが、すべては作り事です。
「ジョーンとその悟りへの旅」「ジョーンとその失敗」「ジョーン
とその成功」「明晰さがある今、ジョーンはいかに変わったか」
「ジョーンとラマナ・マハルシを比較する」「ジョーンは存在する
のか、しないのか」、どんどん続いていきます。
それはちょうどテレビのスイッチをつけた時に似ています。
テレビ番組がどんなにくだらなくても、もし30秒でも見ていたら、
そこに引き込まれるんです。
そうなると、私たちは、スピリチュアルなことの目標はテレビのス
イッチを切って、テレビに触れないことだという考えを手にします。
そのことは、瞑想のいろいろな流派において、目標にされています。
でも、その瞑想の実践ということも、テレビ番組のひとつです。
根源的な幻想はまだ信じられています。
その幻想とは、リモコンを持ってテレビを見ることができると信じ
られている誰かです。
その誰かは存在していません。
見ることは起こりますが、それをしている人はどこにも存在してい
ません。
そのことはたった今、直接調べてみることができます。
この言葉を見て、読んで、理解している「私」というのは事後の思
考であって、頭の中のイメージです。
見ることはただ在るんです。
すべてはただ在るだけです。
くだらないチャンネルと崇高なサマーディは違う番組、違う見かけ
です。
どちらも終わりのないダンスの中で現れては消えていきます。
つねに崇高なサマーディの状態にあろうとすることは魅惑的なゲー
ムです。
いかに長く希望が持続するかは、ほんとうに驚くべきことです
(テレビとは分離していて、手にリモコンを持って、コントロール
しようとしている「私」のイメージを維持しながら) 。
最終的には、もしあなたが幸運であれば、ラメッシの素晴らしい
質問がマインドに飛びつくかもしれません。
「誰が気にするんだ?」
これは虚無的な質問でも、ひねくれた質問でもありません。
「誰が気にするんだ?」は素晴らしい質問です。
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