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「生きなければならない」
 生きなければならない……。
 私たちのあらゆる“問題”はこのことゆえに存在し、私たちのあらゆる“判断”はこのことを根拠として存在している。
 生きなければならない……。
 もし、「生きなければならない」のでなければ、何を根拠に私たちは“問題”を創り、“判断”を行うことができるだろう。
 <生>のあらゆる“問題”は、何かを根拠にして存在している。
 あらゆる“善悪”、あらゆる“正誤”は、<生>に何らかの“目的”、何らかの“方向性”を前提して、はじめて判断することができる。
 <生>に何の“目的”も、何の“方向性”もないのなら、どうやって“善悪”を、“正誤”を判断することができるだろう。
 そしてまた、どんな“判断”も下すことができないのなら、どうやって“問題”を創り出すことができるだろう。
 私たちが、さまざまの感情・思考に自己同化して、さまざまの“判断”を下し、さまざまの“問題”を創り出すとき、その根拠となっているのが、私たちは「生きなければならない」という無意識の前提だ。
 生きなければならない……。
 もし、「生きなければならない」ことはないのだとしたら……。
 あるいは、もし、「死ぬことなどできない」のだとしたら……。

 ……もちろん、肉体の“死”は訪れるだろう……。
 この肉体とは、いつか別れなければらならないだろう。
 それを避けることはできない。
 もし、「生きなければならない」ということが、肉体の“死”を避けなければならないという意味なら、それは端的に不可能な課題だと言うにすぎない。
 誕生したものは、いつか死なずにはいないのだから。
 生きられなかった「生」は肉体の中に“死”を蓄積し、生きなかっただけ、私たちは着実に“死”に向かって歩を進めていくだろう。
 あるいは、ただ単純に、私たちは“気軽に”肉体を脱いだり、肉体を纏ったりするかもしれない。
 いずれにしろ、肉体の生は肉体の死に向かう過程にすぎないとも言える。その意味では、“死”は<生>の一部に他ならない。
 しかし、肉体の“死”によって、私たちの「世界」がなくなるわけではない。
 私たちの「世界」が空無の中に消滅してしまうわけではない。
 私たちの<意識>が、滅塵してしまうわけではない。

 またもし、肉体の“死”によって私たちが消えるのなら……、私たちの「世界」が無くなるというのなら、<意識>としての私たちが空無の中に消滅してしまうというなら、そのときこそ、どんな心配性の私たちにも、いかなる“問題”も創造することはできなくなるだろう。(*^_^*)
 つまり、そのときこそ、文字通り“問題”はありえないわけだ。
 どんなに足掻こうにも、足掻く私たちがいないのだから。
 空無の中に消滅する……、そんなことを考えることこそ、“ぬか喜び”、あるいは“杞憂”というものだ。
 “そんなうまい話は起こらない”というのではない。“そんな恐ろしいことは起こらない”というのでもない。
 ただ単に、……しかし、じつは、そういうことはありえない……、というだけだ。
 私たちのこの「世界」が存在しなくなるというようなことは……。

 (<わたし>がいないとき、<わたし>がいないことを知っている<わたし>はいないのだから……。)

 もちろん、風景は変わるだろう。いつも変わってきたように。
 しかし、肉体の“死”によって、私たちの「世界」が消えることはないだろう。
 私たちは相変わらず「世界」に向かい、(そうしたければ)何かを願ったり、何かを嫌悪したりし続けることができるだろう。
 あるいは、(そうしたければ、そして、そういう時節が来ていれば)私たちは<今>以外のどんな“現実”も願わないゲームをしているかもしれない。

 だから、「生きなければならない」という“幻想”は、もう完全に綻び始めている。
 もうどうやっても、これ以上のこの“幻想”だけで、地球を“仕切る”ことはできそうもない。
 だから、ここで、この“地球次元”で、ひとつの“別れ”が起ころうとしているのだ。
 どうしても、まだ「生きなければならない」というゲームをしたい者たちと、どうしても、もう「生きなければならない」というゲームを続けられなくなっている者たちとの。

 そして、もし「生きなければならない」のでなければ、これ以上、私たちはどうやって“苦しみ”を演出できるというのだろうか。
 私たちは、もう“苦しみ”の演出には飽きてしまったのかもしれない。(2001.5/15)


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