狂気と分裂 |
わたしはこれまで必死になって、何か“客観的な根拠”を求めてきたような気がする。 “藁をも持つかむ思い”で、なにか、客観的な根拠を、揺るがない何かを求めてきたような気がする。 そしてそれを、自分の中の“空虚”に求めるのではなく、また、自分のハートの中に求めるのでもなく、必死になって「言葉」で、その<根拠>を見つけようとしていたような気がする。 しかし、「言葉」で<自分>を支えることはできないようだ。 そもそも、<自分>は“マインド”の支えを必要とするようなものではないのだから。 “応無所住而生其心”、“応無所住而生其心”、“おうむしょじゅうにしょうごしん”、“おうむしょじゅうにしょうごしん”。 「マサニジュウスルトコロノウシテ、シカモソノココロヲショウズベシ」 言葉は、なんの根拠もなく、いくらでも出てくる。 思いは、なんの根拠もなく、いくらでも出てくる。 そんなもので、<わたし>を支えることはできない。 <わたし>は、そんなものに支えられる必要はない。 <わたし>の中に浮かんできた“思い”の一部が、<わたし>の中の別の“思い”を、虐めている。 <わたし>は、虐める“思い”に自己同化して気持ちよくなったり、虐められる“思い”に自己同化して辛くなったりしている。 <わたし>は“他人”の目になって“自分”を虐めたり、“自分”の目になって“他人”に虐められたりしている。 <わたし>は、“自分”の中に、その分裂を許容している。 <わたし>は<実在>だ。だが、その分裂は虚構だ。 その分裂は虚構だが、その分裂を許容している<わたし>は、<実在>だ。 <わたし>は、虐める“他人”と、虐められる“自分”に分裂して、一人二役を演じながら、虐められる“自分”に自己同化する。 この分裂したそれぞれの“思い”を浮かべながら、<わたし>はよくも気が狂わないものだ。 <わたし>は狂わない。 <わたし>は狂えない。 構造はいびつに歪むことができるが、<わたし>は構造ではないから。 <わたし>は、いびつに歪んだ構造の中に捕らえられることはあるが、<わたし>はいびつに歪むことはできない。 <わたし>は構造ではないから。 <わたし>は、分裂したたくさんの“思い”を浮かべて、そのひとつひとつに自己同化することがあるだけ。 <わたし>は、その自己同化によって、“思い”の囚われ人になることがあるだけ。 <わたし>は、その“思い”ではない。 <わたし>は、狂えない。 なぜ、<わたし>は分裂しなくてはならないのだろう。 <わたし>は、分裂しなくてもいいのだ。 しかし、それは分裂した“思い”が造ることはできない。 (2004.3/28) |