タントラ秘法の書A 『和尚講話録:源泉への道』から抜粋 |
極端はマインドを魅了する。なぜか。なぜなら、中間にいたらマインドは死んでしまうからだ。振り子を見てごらん。もし古い柱時計があったら、その振り子を見てごらん。振り子が一日じゅう動き続けるのも、極端から極端へ動くからだ。左に行くときには、右へ行くエネルギーを蓄めている。だから振り子が右へ向かっているときには、ただ右に向かっているだけではなく、左へ行く推力を蓄積しているのだ。だから極端というのは、右−左、右−左だ。 その振り子を中間にとどめてごらん! すると推力はなくなってしまう。振り子はエネルギーを失う。そのエネルギーは極端から生じる。こちらの極があちらの極に向かって振り子を投げ、またあちらの極がこちらへと向かって投げる。それはひとつの円だ。振り子は動き続ける。振り子を中間にとどめてごらん。そうすれば動きは止まってしまう。 マインドはちょうど振り子のようなものだ。毎日よく観察してごらん。きっとわかるだろう。あなたはなにか極端なことを決定する。それから他極へと移る。あなたは怒る。それから後悔する。そして決心する「いや、もう充分だ。これからはけっして怒るまい」。それは極端だ。だがあなたはそれに気づかない。 ……。 「もうけっして怒るまい」と言うマインドは、再び怒る。そして再び怒るとき、自分の後悔や決意といったもの全部が、すっかり忘れ去られる。そして怒った後、また再びその決意が現れ、後悔が現れる。だが、あなたはそこにある欺瞞を感じることがない。今までずっとその連続だった。マインドは怒りから後悔へ、後悔から怒りへと動く。 怒ってはいけない。後悔してはいけない。もし怒ったとしても、そのときには、どうか後悔だけはしないでほしい。対極へと移らず、中間にとどまるのだ。そしてこう言うのだ。「私は怒ってしまった。私は悪い人間だ。暴力的な人間だ。私は怒ってしまった。これが私の姿だ」 だが後悔してはいけない。対極に移ってはいけない。中間にとどまるのだ。もし中間にとどまれたら、もはや推力、エネルギーは蓄積されず、再び怒ることはなくなる。 だからこのスートラは言う。 無頓着な心よ、中庸を保て。 ……するまで。 「……するまで」とはどういう意味か。あなたが爆発するまで、ということだ。マインドが死ぬまで中庸を保て……。マインドがなくなるまで中庸を保て……。だから「無頓着なマインドよ、中庸を保て――マインドがなくなるまで」ということだ。もしマインドが両極に存在するとしたら、中庸はノー・マインドだ。 だがこれはこの世でもっとも難しいことだ。一見するとやさしそうだ。一見すると単純そうだ。自分にもできそうに思える。後悔など必要ないということになれば、気も楽になる。でも試してごらん。そうすればわかるだろう――怒ったときには、マインドは後悔を強いるものだ。 ……。 だから試してごらん。このスートラはあなたの生活全体に適用するものだ。ときどき実行するというようなものではない。いつも心がけておく。なにかをするとき。歩くとき、食べるとき、あるいは人間関係において、すべてにおいて中庸を保つ。ともかく試してごらん。そうすればきっと感じるだろう――ある静けさが成長し、ある穏やかさが到来し、ある静かな中心が内側に育っていく――。 たとえ正確に中庸を保てなかったとしても、とにかく中庸を保つように努めることだ。そうすれば少しずつ、中庸の意味が感じ取れるようになるだろう。憎しみと愛、怒りと後悔……ともかくなんであれ、いつもその両極端を思い出し、その中間にいるようにする。そうすれば遅かれ早かれ、正確な中間点に出くわすだろう。 いったんそれを知ったら、もう二度とそれを忘れることがない。なぜなら、その中間点はマインドを超えているからだ。その中間点こそ、神性のすべてだ。(p126-133) |