タントラ秘法の書I 『和尚講話録:空の哲学』から抜粋 |
かつて科学は、「存在するのは物質だけで、それ以外は何も存在しない」と言っていた。この概念、つまり「存在するのは物質だけだ」という概念から、大きな哲学大系がいくつも生まれた。しかし、物質の存在を主張する人々も、意識のようなものの存在を認めざるを得なかった。それはいったい何か。彼らの考えによれば、それは副次的現象であり、物質の副産物だった――たんに物質が姿を変えたものであり、きわめて微妙なものではあるが、物質的であることには変わりはない。ところが、この半世紀の間に大きな奇跡が起こった。 科学は物質について探求に探求を重ねたが、探求すればするほど、物質のようなものはなくなっていく。分析していくと、物質は消失してしまう。……。深く見通すことができれば、物質は消え去る。そしてエネルギーがそこに残る。 このエネルギーという現象、非物質的なエネルギーという力は、ずっと昔から神秘家たちに知られていた。ヴェーダや、聖書や、コーランや、ウパニシャッド……世界中の神秘家たちは<存在>を貫いて見通し、そして常に「物質とは現れにすぎない、奥深くにあるのは物質ではなくエネルギーだ」という結論を得ていた。科学も今、それを認めている。ただ神秘家たちは、さらにもう一つ語っている。それはまだ科学も認めていない。でもいずれは認めることになるだろう。神秘家たちは、さらにこう結論している。曰く、エネルギーを深く貫いて見通せば、エネルギーも消え去り、意識だけが残る。…… この技法曰く、 この意識は各々の存在者として存在する。他には何も存在しない。 いったいあなたは何か。いったいあなたは誰か。目を閉じて自分が誰かを追求してみると、究極的に、自分は意識だと結論せざるを得ない。それ以外のすべては、自分に属しこそすれ、自分自身ではないからだ。体は自分に属する。そして自分は体を意識できる。体を意識する主体は、体とは別物だ。体は知覚の対象となり、自分は主体となる。あなたは体を知ることができる。知るばかりでなく、操ることもできる。……。 あなたは体でないばかりでなく、マインドでもない。なぜなら、マインドについても意識できるからだ。……。 自分自身から分離できない唯一のものが、観照するエネルギーだ。つまり、あなたはそれだ。自分自身をそれから分離することはできない。……。この純粋な意識が、各々の存在者として存在するわけだ。 この<存在>の中に在るものはすべて、この意識の現象だ。この意識のひとつの波であり、結晶化したものだ。ほかには何も存在しない。肝心なのはこれを感じることだ。分析も有効だし、知的な理解も有効だろう。しかし肝心なのは感じることだ――「ほかには何も存在しない。ただ意識だけだ」と。そして、意識だけが存在するかのようにふるまうことだ。……。 この技法曰く、 この意識は各々の存在者として存在する。他には何も存在しない。 この言葉とともに生活してみる。この言葉に対して鋭敏になり、どこへ行くにも、この心、このハートを携えて行く――「すべては意識であり、ほかには何も存在しない」と。するとやがて、世界はその顔を変える。やがて対象物は消え去り、いたるところに人間が現れる。やがて突然、世界全体は光りを帯び、そしてあなたは気がつく――自分が今まで死物の世界に住んでいたのは、自分が鈍感だったせいだと。鈍感でなければ、すべては生きている。生きているのみならず、すべては意識を持っている。なぜなら、すべては奥深くでは意識にほかならないからだ。 それを理論として受け取る人もいるだろう。それを理論として信じたら何も起こらない。理論ではなく、自分の生き方、生の様式とするのだ。すべてが意識であるかのようにふるまってみる。初めのうちは「ように」だろう。きっと馬鹿らしく感じるだろう。でもその馬鹿らしさを貫いたら、また、あえて馬鹿になれたら、ほどなく世界はその神秘を開示するだろう。(p185-p192) |