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書名: 『ラマナ・マハルシとの対話 第3巻  ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア記述

書誌:
記録  ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア
訳者  福間 巌
発行  株式会社ナチュラルスピリット(2022年8月24日第2刷)
       http://www.naturalspirit.co.jp/
索引:
 ラマナ・マハルシ辞書(『ラマナ・マハルシとの対話第3巻』より)
引用:


眠り、夢見、目覚めの状態

 (人は目覚めの状態よりも深い眠りの中にいるとき、
  より純粋意識の状態に近いのでしょうか?)
 
 眠り、夢見、目覚めの状態は、
 不動の真我の上に現れた単なる現象にすぎません。
 真我は純粋な気づきの状態です。
 誰であろうと、
 一瞬でも真我から離れて在ることができるでしょうか?
 それが可能だとすればこの質問も起こりうるでしょうが、
 それはありえません。(『対話3』p216)


眠りと目覚めの継続性

 眠りと目覚めの状態には
 継続性があるということです。
 その継続性とは何でしょう?
 それが純粋な存在状態なのです。(『対話3』p217)


眠りと目覚めの違い

 眠りと目覚めの状態には
 継続性があるということです。
 その継続性とは何でしょう?
 それが純粋な存在状態なのです。
 
 二つの状態には違いがあります。
 何がその違いでしょう?
 出来事、つまり身体や世界や物事は
 目覚めの状態の中には現れても、
 眠りの中では消え去るということです。(『対話3』p217)


眠りの中では気づいていない

 (「眠りの中では私は気づいていなかった」と言うなら)
 
 確かに、
 眠りの中では身体や世界に気づいていません。
 しかし今
 「眠りの中の私は気づいていなかった」
 と言うためには、
 眠りの中にあなたが存在していなければなりません。
 今、それを言うのは誰でしょうか? 
 それは目を覚ました人です。
 眠っている人がそう言うことはできないからです。
 ということは、
 真我と身体を同一視している個人が、
 「眠りの間にそのような自覚はなかった」
 と言うのです。(『対話3』p217)


個人や物事の継続性はそこにない

 あなたは自分自身と身体を同一視するために、
 あなたの周りに世界を見て、
 それから
 「目覚めの状態は
  美しいものや興味深いものでいっぱいだ」
 と言います。
 眠りの状態は退屈なように見えます。
 なぜなら、
 あなたがそこに個人として存在せず、
 それゆえ、
 それらのものもそこにないからです。
 しかし事実はどうでしょう? 
 三つの状態すべての中に
 「存在」は継続していますが、
 個人や物事の継続性はそこにないのです。(『対話3』p218)


身体や世界は一時的なはかないもの

 (眠り、夢見、目覚めの)
 三つの状態すべての中に
 「存在」は継続していますが、
 個人や物事の継続性はそこにないのです。
 継続するものは不変であり、永続します。
 継続しないものは一時的なはかないものものです。
 それゆえ、存在の状態は永久的であり、
 身体や世界は一時的なはかないものです。
 それらは不変不滅の
 「存在─意識」のスクリーン上を通り過ぎる
 束の間の現象にすぎないのです。(『対話3』p218)


眠りは純粋意識の状態に近い

 (目覚めの状態よりも深い眠りの状態のほうが、
  より純粋意識の状態に近いか?、と言うなら)
 
 その意味においては、そのとおりです。
 眠りから目覚めへと移行するとき、
 「私」という想念が立ち現れ、
 心が活動し始めます。
 それから想念が湧き起こり、
 身体の機能が作用し始めます。
 これらすべてがわれわれに目覚めたと言わせるのです。
 このような展開すべての不在が眠りの特徴であり、
 それゆえ、
 目覚めの状態よりも
 純粋意識の状態に近いと言えるのです。(『対話3』p218)


眠りは至福ではない

 (深い眠りは)目覚めの状態よりも
 純粋意識の状態に近いと言えるのです。
 
 しかしだからといって
 常に眠りの中にいることを望むべきではありません。
 第一に、それは不可能です。
 それは他の状態と
 必然的に交替しなければならないからです。
 第二に、
 それは真我を実現したジニャーニがいる
 至福の状態ではありません。
 なぜなら彼の状態は永久的で、
 交替するよ
 うなものではないからです。
 しかも眠りの状態は
 人々から気づきの状態として認識されてはいません。
 しかし賢者は眠りの状態でも常に気づいています。
 それゆえ、眠りの状態は
 賢者が安住する境地とは異なったものなのです。(『対話3』p219)


眠りは努力と相容れない

 眠りの状態は個人的な想念や印象から自由です。
 その状態を
 人の意志によって変えることはできません。
 なぜなら、
 その状態では努力することが不可能だからです。
 純粋意識により近いにもかかわらず、
 眠りの状態は真我を実現するための
 努力と相容れないものなのです。(『対話3』p219)


実現したいという衝動

 眠りの状態は個人的な想念や印象から自由です。
 その状態を
 人の意志によって変えることはできません。
 なぜなら、
 その状態では努力することが不可能だからです。
 純粋意識により近いにもかかわらず、
 眠りの状態は
 真我を実現するための努力と
 相容れないものなのです。
 
 実現したいという衝動は
 目覚めの状態にのみ起こります。
 そしてそのための努力ができるのも
 目覚めているときだけです。(『対話3』p219)


障害をもたらすのは

 私たちは、
 「眠りの状態の静寂を得るのに障害をもたらすのは、
  目覚めの状態における想念である」
 ということを学びました。
 「静かに在りなさい。
  そして私は神だと知りなさい」
 と聖書は言います。
 それゆえ、
 静寂が探究者の目的です。
 ただ一つの想念を静めるための一瞬の努力でさえ、
 静寂の境地に達する長い道のりへの
 一歩となるのです。
 努力は必要であり、
 それは目覚めの状態でのみ可能です。(『対話3』p219)


静かに在りなさい

 私たちは、
 「眠りの状態の静寂を得るのに障害をもたらすのは、
  目覚めの状態における想念である」
 ということを学びました。
 「静かに在りなさい。
  そして私は神だと知りなさい」
 と聖書は言います。
 それゆえ、
 静寂が探究者の目的です。
 ただ一つの想念を静めるための一瞬の努力でさえ、
 静寂の境地に達する長い道のりへの
 一歩となるのです。
 努力は必要であり、
 それは目覚めの状態でのみ可能です。(『対話3』p219)


探究者の目的

 私たちは、
 「眠りの状態の静寂を得るのに障害をもたらすのは、
  目覚めの状態における想念である」
 ということを学びました。
 「静かに在りなさい。
  そして私は神だと知りなさい」
 と聖書は言います。
 それゆえ、
 静寂が探究者の目的です。
 ただ一つの想念を静めるための一瞬の努力でさえ、
 静寂の境地に達する長い道のりへの
 一歩となるのです。
 努力は必要であり、
 それは目覚めの状態でのみ可能です。(『対話3』p220)


努力は必要

 努力は必要であり、
 それは目覚めの状態でのみ可能です。
 そこに努力があり、
 また気づきもあるとき、
 想念は静められます。
 眠りの状態における静寂はこうして得られるのです。
 それがジニャーニの境地です。
 それは眠りでも目覚めでもなく、
 その中間です。
 そこには目覚めの状態の気づきと
 眠りの状態の静寂があります。
 それがジャーグラト─スシュプティと呼ばれるものです。(『対話3』p220)


ジニャーニの境地

 努力は必要であり、
 それは目覚めの状態でのみ可能です。
 そこに努力があり、
 また気づきもあるとき、
 想念は静められます。
 眠りの状態における静寂はこうして得られるのです。
 それがジニャーニの境地です。
 それは眠りでも目覚めでもなく、
 その中間です。
 そこには目覚めの状態の気づきと
 眠りの状態の静寂があります。
 それがジャーグラト─スシュプティと呼ばれるものです。(『対話3』p220)


眠りと目覚めの中間

 努力は必要であり、
 それは目覚めの状態でのみ可能です。
 そこに努力があり、
 また気づきもあるとき、
 想念は静められます。
 眠りの状態における静寂はこうして得られるのです。
 それがジニャーニの境地です。
 それは眠りでも目覚めでもなく、
 その中間です。
 そこには目覚めの状態の気づきと
 眠りの状態の静寂があります。
 それがジャーグラト─スシュプティと呼ばれるものです。(『対話3』p220)


気づきと静寂

 それがジニャーニの境地です。
 それは眠りでも目覚めでもなく、
 その中間です。
 そこには目覚めの状態の気づきと
 眠りの状態の静寂があります。
 それがジャーグラト─スシュプティ
 と呼ばれるものです。
 それを「目覚めた眠り」、
 あるいは「眠りながらの目覚め」、
 あるいは「眠りのない目覚め」、
 あるいは「目覚めのない眠り」
 と呼んでもいいでしょう。
 それは眠りの状態とも目覚めの状態とも異なります。
 それは「目覚めを超えたもの」
 あるいは「眠りを超えたもの」で、
 完全な気づきと完全な静寂を一つにした状態なのです。(『対話3』p220)


目覚めた眠り

 それを「目覚めた眠り」、
 あるいは「眠りながらの目覚め」、
 あるいは「眠りのない目覚め」、
 あるいは「目覚めのない眠り」
 と呼んでもいいでしょう。
 それは眠りの状態とも目覚めの状態とも異なります。
 それは「目覚めを超えたもの」
 あるいは「眠りを超えたもの」で、
 完全な気づきと完全な静寂を一つにした状態なのです。
 それは眠りと目覚めの間の状態であり、
 二つの想念の合い間でもあります。
 それはそこから想念が湧き起こる源です。
 私たちは眠りから目覚めたときにそれを見ます。(『対話3』p220)


眠りながらの目覚め

 それを「目覚めた眠り」、
 あるいは「眠りながらの目覚め」、
 あるいは「眠りのない目覚め」、
 あるいは「目覚めのない眠り」
 と呼んでもいいでしょう。
 それは眠りの状態とも目覚めの状態とも異なります。
 それは「目覚めを超えたもの」
 あるいは「眠りを超えたもの」で、
 完全な気づきと完全な静寂を一つにした状態なのです。
 それは眠りと目覚めの間の状態であり、
 二つの想念の合い間でもあります。
 それはそこから想念が湧き起こる源です。
 私たちは眠りから目覚めたときにそれを見ます。(『対話3』p220)


眠りと目覚めの間

 それは眠りの状態とも目覚めの状態とも異なります。
 それは「目覚めを超えたもの」
 あるいは「眠りを超えたもの」で、
 完全な気づきと完全な静寂を一つにした状態なのです。
 それは眠りと目覚めの間の状態であり、
 二つの想念の合い間でもあります。
 それはそこから想念が湧き起こる源です。
 私たちは眠りから目覚めたときにそれを見ます。(『対話3』p220)


想念の合い間

 それは眠りの状態とも目覚めの状態とも異なります。
 それは「目覚めを超えたもの」
 あるいは「眠りを超えたもの」で、
 完全な気づきと完全な静寂を一つにした状態なのです。
 それは眠りと目覚めの間の状態であり、
 二つの想念の合い間でもあります。
 それはそこから想念が湧き起こる源です。
 私たちは眠りから目覚めたときにそれを見ます。(『対話3』p220)


想念が湧き起こる源

 それは眠りの状態とも目覚めの状態とも異なります。
 それは「目覚めを超えたもの」
 あるいは「眠りを超えたもの」で、
 完全な気づきと完全な静寂を一つにした状態なのです。
 それは眠りと目覚めの間の状態であり、
 二つの想念の合い間でもあります。
 それはそこから想念が湧き起こる源です。
 私たちは眠りから目覚めたときにそれを見ます。(『対話3』p220)


想念の源

 それは眠りと目覚めの間の状態であり、
 二つの想念の合い間でもあります。
 それはそこから想念が湧き起こる源です。
 私たちは眠りから目覚めたときにそれを見ます。
 言葉を換えれば、
 想念の源は眠りにおける静寂にあるのです。
 眠りの静寂と目覚めの混乱との違いは
 すべて想念にあります。
 想念の源に行きなさい。
 そうすれば眠りの静寂に行き着くでしょう。
 最大限の精神力、
 つまり完全な気づきをともなった探究によって、
 あなたはそれに到達するのです。(『対話3』p220)


眠りにおける静寂

 それは眠りと目覚めの間の状態であり、
 二つの想念の合い間でもあります。
 それはそこから想念が湧き起こる源です。
 私たちは眠りから目覚めたときにそれを見ます。
 言葉を換えれば、
 想念の源は眠りにおける静寂にあるのです。
 眠りの静寂と目覚めの混乱との違いは
 すべて想念にあります。
 想念の源に行きなさい。
 そうすれば眠りの静寂に行き着くでしょう。
 最大限の精神力、
 つまり完全な気づきをともなった探究によって、
 あなたはそれに到達するのです。(『対話3』p220)


最大限の精神力

 想念の源は眠りにおける静寂にあるのです。
 眠りの静寂と目覚めの混乱との違いは
 すべて想念にあります。
 想念の源に行きなさい。
 そうすれば眠りの静寂に行き着くでしょう。
 最大限の精神力、
 つまり完全な気づきをともなった探究によって、
 あなたはそれに到達するのです。(『対話3』p220)


あらゆる体験

 私たちのあらゆる体験は、
 想念以外の何ものでもありません。
 快楽も苦痛も単なる想念でしかありません。
 それらは私たち自身の内にあるのです。
 もしあなたが想念から自由で、
 しかも気づいているなら、
 あなたは「あの完全な存在」なのです。(『対話3』p220)


あの完全な存在

 私たちのあらゆる体験は、
 想念以外の何ものでもありません。
 快楽も苦痛も単なる想念でしかありません。
 それらは私たち自身の内にあるのです。
 もしあなたが想念から自由で、
 しかも気づいているなら、
 あなたは「あの完全な存在」なのです。(『対話3』p221)


夢の世界

 ある人が夢を見ます。
 それは喜びや苦しみをともなった夢の世界です。
 しかし目を覚ますとともに、
 夢の世界に対する興味はすべて失われます。
 目覚めの世界もそれと同じことです。
 自分自身の一部であり自分自身と異ならない
 夢の世界に対して興味を失うのと同じように、
 もしあなたが
 目覚めと呼ばれる夢(サンサーラ)から目を覚ませば、
 この現在の世界に対しても興味を失うことでしょう。
 そして世界は自己の一部であって、
 客観的現実ではないということを悟るでしょう。(『対話3』p267)


目覚めの世界

 ある人が夢を見ます。
 それは喜びや苦しみをともなった夢の世界です。
 しかし目を覚ますとともに、
 夢の世界に対する興味はすべて失われます。
 目覚めの世界もそれと同じことです。
 自分自身の一部であり自分自身と異ならない
 夢の世界に対して興味を失うのと同じように、
 もしあなたが
 目覚めと呼ばれる(サンサーラ)から目を覚ませば、
 この現在の世界に対しても興味を失うことでしょう。
 そして世界は自己の一部であって、
 客観的現実ではないということを悟るでしょう。(『対話3』p267)


目覚めと呼ばれる夢(サンサーラ)

 ある人が夢を見ます。
 それは喜びや苦しみをともなった夢の世界です。
 しかし目を覚ますとともに、
 夢の世界に対する興味はすべて失われます。
 目覚めの世界もそれと同じことです。
 自分自身の一部であり自分自身と異ならない
 夢の世界に対して興味を失うのと同じように、
 もしあなたが
 目覚めと呼ばれる夢(サンサーラ)から目を覚ませば、
 この現在の世界に対しても興味を失うことでしょう。
 そして世界は自己の一部であって、
 客観的現実ではないということを悟るでしょう。(『対話3』p267)


物を欲しがる

 自分の周りにある物事が自分自身から分離していると考えるため、
 あなたは物を欲しがるのです。
 しかし、もしすべての物事は
 「想念でできた形態」でしかないことを理解すれば、
 もはや物を欲しがることもなくなるでしょう。(『対話3』p268)


想念でできた形態

 自分の周りにある物事が自分自身から分離していると考えるため、
 あなたは物を欲しがるのです。
 しかし、もしすべての物事は
 「想念でできた形態」でしかないことを理解すれば、
 もはや物を欲しがることもなくなるでしょう。(『対話3』p268)


真我は無限であり

 真我は無限であり、見るものすべてがその中に含まれています。
 「それ」を超えるものはなく、「それ」から分離したものもありません。
 このことを知れば、あなたは何も望まなくなるでしょう。
 何も望むことがないため、あなたは満足するのです。(『対話3』p269)


真我は常に実現されています

 真我は常に実現されています。
 すでに、そして常に実現されているものを探す必要はありません。
 なぜなら、自分自身の存在を否定することはできないからです。
 その存在が意識であり、真我なのです。
 
 あなたが存在しなければ、質問することさえできません。
 それゆえ、あなたは自分の存在を認めるはずです。
 その存在が真我です。それはすでに実現されています。
 それゆえ実現のためにする努力は、
 「真我を実現していない」という現在の誤った思い込みに
 気づくことにあるのです。
 新たな実現というものはありません。
 ただ真我が明らかにされるだけです。(『対話3』p269)


無知(アジニャーナ)を破壊できる

 無知(アジニャーナ)を破壊できるのは
 ヴリッティ・ジニャーナだけです。
 絶対的な叡知(ジニャーナ)は無知に対立しないのです。(『対話3』p274)


心の様態(ヴリッティ)

 心の様態(ヴリッティ)には二種類あります。
 対象に向かう心(ヴィシャヤ・ヴリッティ)と
 主体に向かう心(アートマ・ヴリッティ)です。
 後者が前者に取って代わらなければなりません。
 これがアビヤーサ(修練)の目的であり、
 それはまず人をプリー・アシュタカムへと導き、
 それから一なる真我へと導くのです。(『対話3』p274)


対象に向かう心(ヴィシャヤ・ヴリッティ)

 心の様態(ヴリッティ)には二種類あります。
 対象に向かう心(ヴィシャヤ・ヴリッティ)と
 主体に向かう心(アートマ・ヴリッティ)です。
 後者が前者に取って代わらなければなりません。
 これがアビヤーサ(修練)の目的であり、
 それはまず人をプリー・アシュタカムへと導き、
 それから一なる真我へと導くのです。(『対話3』p274)


主体に向かう心(アートマ・ヴリッティ)

 心の様態(ヴリッティ)には二種類あります。
 対象に向かう心(ヴィシャヤ・ヴリッティ)と
 主体に向かう心(アートマ・ヴリッティ)です。
 後者が前者に取って代わらなければなりません。
 これがアビヤーサ(修練)の目的であり、
 それはまず人をプリー・アシュタカムへと導き、
 それから一なる真我へと導くのです。(『対話3』p274)


* ヴリッティ・ジニャーナ

 この対話では「ブラフマカーラ・ヴリッティ・ジニャーナ」を意味する。
 気づきを対象に向けると、心はその対象物の形を取る。
 その同じ気づきを主体に向けると、
 心は無形のブラフマンの形を取る。
 それは「気づきが気づき自体に気づいている状態」である。(『対話3』p274)


私と世界が実在なら

 世界は常に誰の目にも明らかです。
 誰もが「私とこの世界が存在する」ということを知っているはずです。
 「私と世界は常に存在するだろうか?」、
 「もし私と世界が実在なら、
  時間や空間や区別にさえ関係なく存在するはずだが、
  果たしてそうだろうか?」と探究してみると、
 それらは目覚めと夢見の状態にだけ知覚され、
 深い眠りでは知覚されないということが明らかになります。
 それゆえ私と世界は、あるときは現れあるときは消え去るのです。
 それらは創造され、しばらく存在し、そしてその後に消え去ります。
 それらはどこから現れるのでしょうか?
 どこにとどまるのでしょうか?
 目の前からどこへ消え去るのでしょうか?
 そのような現象を実在と認めることができるでしょうか?(『対話3』p286-287)


創造、維持、破壊

 私と世界、そして創造、維持、破壊は、
 目覚めと夢見の状態にのみ知覚されますが、
 深い眠りでは知覚されません。
 深い眠りの状態は他の二つの状態とどのように異なるのでしょうか?
 眠りの状態に想念はありません。
 一方、他の二つの状態には想念があります。
 それゆえ、想念が「私」と世界の源であるに違いありません。(『対話3』p287)


想念が「私」と世界の源

 私と世界、そして創造、維持、破壊は、
 目覚めと夢見の状態にのみ知覚されますが、
 深い眠りでは知覚されません。
 深い眠りの状態は他の二つの状態とどのように異なるのでしょうか?
 眠りの状態に想念はありません。
 一方、他の二つの状態には想念があります。
 それゆえ、想念が「私」と世界の源であるに違いありません。(『対話3』p287)


想念はどこから

 想念は自然なものではありえません。
 さもなければ、あるとき現れ、
 別のとき消え去るということはありえないからです。
 想念はどこから立ち現れるのでしょうか?
 そこには常に存在し、
 変転変化の影響を受けない源があるはずです。
 その源は、ウパデーシャ・マントラが
 「すべての生きとし生けるものがそこから現れ、
  その中にとどまり、その中に消えゆく『それ』」
 と述べているように、
 永遠の状態であるに違いありません。(『対話3』p287)


永遠の状態

 想念は自然なものではありえません。
 さもなければ、あるとき現れ、
 別のとき消え去るということはありえないからです。
 想念はどこから立ち現れるのでしょうか?
 そこには常に存在し、
 変転変化の影響を受けない源があるはずです。
 その源は、ウパデーシャ・マントラが
 「すべての生きとし生けるものがそこから現れ、
  その中にとどまり、その中に消えゆく『それ』」
 と述べているように、
 永遠の状態であるに違いありません。(『対話3』p287)


実在を純粋に表現

 想念はどこから立ち現れるのでしょうか?
 そこには常に存在し、
 変転変化の影響を受けない源があるはずです。
 その源は、ウパデーシャ・マントラが
 「すべての生きとし生けるものがそこから現れ、
  その中にとどまり、その中に消えゆく『それ』」
 と述べているように、
 永遠の状態であるに違いありません。
 
 この『実在についての四十頌』の冒頭の二行連句は、
 賛歌や崇拝の詩ではなく、
 実在を純粋に表現したものなのです。(『対話3』p287)
好み:(-||-)