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『21世紀への指導原理 OSHO』より

まえがき


 これまでの地球で私たちが前提してきた常識と、これから始まる時代の常識との懸隔が大きすぎて、その二つの間に従来の常識で了解可能な橋を架けるのは不可能にさえ思われる。
 実際、新しい時代の到来を告げる予徴はすべて、地球外の知的生命体からの通信とか、太古の神々の復権の声明といったふうの、従来の地球世界が公式に認知しているチャンネルとは少し違ったチャンネルを通じて私たちの世界に紹介されたものだった。あるいはまた、古い聖典類の中の預言書とか著名な予言者の予言詩の解説といった類の、これまでの常識からいえば、うさん臭いとまではいわないまでも、一種の賑わいとして専門家に任せて、日常の現実とは無関係のものとして無視して構わない情報だった。

 従来の常識の中で日々の生活を送る大部分の私たちは、何のやましさも感じずにそれらの予徴を無視することができたし、またそうしなければ自分の日常そのものが不安定になるともいえた。しかしまた一方、それらの情報が確かな手ごたえをもって個々人の生活の中に浸透し始めてきているのも事実だ。
 けれども結局、私たちの世界の大勢は、表面上はまるでそんなものなど存在しないかのようにこれまで振る舞い続けてきたし、今もなおそのように振る舞い続けている。

 この事態は、こんなふうに喩えることもできる。
 つまり、新しい時代の予徴は、従来の公認の常識という今や防水性能を失いつつある防水膜を通過して浸透し、私たちの社会の潜在意識の中に無制限に密輸入され始めている。だがそれでも、その防水膜は表向き確かに防水膜として機能しているため、私たちの社会が表面意識で新しい時代の到来を認知するのを妨げることができているのだ、と。
 このままでは、私たちの社会の表面意識がはっきりと目を開けて新しい世界の到来を認知する以前に、新しい時代の方が雪崩を打って到来してしまいかねない。
 すると、私たちの社会の方は、最後まで新しい時代の到来など存在しないかのような前提で振る舞い続けることになってしまうだろう。そして最後の土壇場で、何の前準備もなしに一挙にそれまでに密輸入されて実勢となった潜在意識に席を譲るということになりかねない。
 こういうことは、そういうふうにしか起こりえないのだろうか……。

 しかし、考えようによっては、これはきわめて臆病な選択だ。
 そして臆病なだけに、犠牲の大きい選択でもある。
 何故ならこの選択は、私たちの従来の社会の常識の枠組みには少しも触れずに放置しておくため、個人的に新しい時代の予徴を密輸入して自分の中にその受け皿を用意している人たちはともかく、そうでない人たちにとっては、結局新しい次元の切り替わを理解するどんな受け皿も存在しないため、そこでただ無意識になる道しか残されていないことになるからだ。
 が、その新しい時代の予徴を密輸入している人たちも、その時代の到来を自分では確かに予感しまた確信しているといっても、それをそうでない人たちに説得できるわけでないことも確かだ。
 その意味では、この直感はあくまでも個人的なものだ。

 だが、その新しい時代は確かに目前に迫っている。
 その扉を開く以外に地球が生き延びられる道がないことも確かだ。そしてそれは、従来の地上の常識の側からも間違いなく理解可能なことなのだ。ただ私たちが、それを本当には見たいとも理解したいとも望んでいないだけだ。
 けれども、私たちがそれに対して目を瞑って、それを認知するのを避けようが避けまいが、そんなこととは関係なく、事実としてその新しい世界の到来を避けることはできない。また避けるべきでもない。
 今や確かに、私たちの従来の常識の世界に隣り合わせて、薄皮一枚を隔てた向こう側に、まったく新しい常識から成り立った世界が出現しているのだ。その新しい世界が、私たちの世界の公認の常識という薄皮一枚を外側からつついている。私たちは、自ら従来の常識を打ち破り、その薄皮一枚の向こう側の世界に出て行かなければならない。

 本書の意図は、新しい世界の到来に目を瞑ろうとする私たちの表面意識に変更を迫ることだ。
 喩えていうならそれは、これまで私たちの世界をしっかりと護り、ついに今やその役割を終えようとしている破水直前の羊膜を、外側からの働きかけに対応して、その羊膜の中で育まれてきた胎児自身の中に成熟した理解力の側から、進んで切り開こうとする意志の表明ともいえる。
 今や私たちは、新しい世界の到来を自ら認知し、自ら進んで正常出産のための準備を始めてもいい時期だ。そのための状況証拠は充分以上に整っている。私たちは、それを認知する勇気を出さなければならないだけだ。そして、私たちの世界の従来の常識とつながった表面意識で、新しい世界の到来の必然性を、少なくともその可能性を認知すべきなのだ。そして、新しい世界の到来を、目を開けて、気を失わずに迎えようとする意気を示さなければならない。

 要するに本書の意図は、私たちの社会の潜在意識がすでに充分に知っている新しい世界の到来を、表面意識で認知するための「口実」作りだといえる。
 もうこれ以上知らない振りをするのは止めよう、と声に出して言うための「口実」を作りたいのだ。何といっても、私たちが“生かされて”きたこと、ただ無秩序な物質宇宙の中に“偶然”発生したものでなどありえないことを、私たちの深い内面は重々知っており、今やほんのちょっとしたきっかけさえあれば、私たちは公認の表面意識の中でそのことを認める準備ができているからだ。

 そして、そのための「口実」としてOSHOほど打ってつけの存在はない、という確信があった。
 何故ならOSHOは、現段階の私たち地球人とは隔絶した圧倒的な知性を持った地球外の知的生命体でもなく、また私たちを育んできた超越的な太古からの神々でもなく、まさに私たちの地球が過去の伝統の中から生み出した、胎児である私たち地上人類の英知の代表ともいっていい存在だからだ。
 OSHOなら、私たち胎児が、自分の従来の自尊心の中から、その自尊心の、そのエゴの愚かさを理解するのを、そして私たちが自分なりの道筋で従来の常識を変更するのを手伝ってくれるだろう。
 OSHOは喜んで、私たちの「口実」になってくれるだろう。 (pi-iv)

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