今この地球を覆っている問題は山ほどある。それぞれに複雑な問題を抱え、それぞれ複雑に絡み合っている。 けれどもこのOSHOなるものは言う。 問題は単純だ。たったひとつの問題しかない。しかもそれは、実在する問題ですらない。あるのはたったひとつの虚構の問題だけだ、と。 しかしそれは、必ずしもその問題の解決が容易だということではないようだ。 それもそのはず、実在する問題なら解決可能だが、実在しない問題を解決することはできないからだ。 ではその解決は不可能なのか。 ここで、このOSHOなるものの言うことは面白い。 いや、解決の道はある。虚構の問題は、それが虚構の問題であることに気づくことによって自然に消滅する、と。 もしそうなら問題は簡単ではないか、その虚構の問題とやらに気づきさえすればいいわけではないか、と畳み掛けると、そのOSHOなるものは言う。 いや、それが本当の問題だと気づくのは、そう簡単ではない。それは全身全霊のエネルギーの投入を要求する。中途半端なエネルギーの投入では足りない、と。 そんな面倒なことをいうなら、そんな虚構の問題なんか放っておいて、現実の問題を解決した方がいい、と言うと、そのOSHOなるものはこう言う。 そのいわゆる現実の問題は、その虚構の問題の投影に過ぎない。だからそれは樹の枝を払うようなものだ。一時しのぎにはなっても、問題の解決にはけっしてならない、と。 絶対にならないのか、と問うと、絶対にならない、と言う。 他に道はないのか、と問うと、他に道はない、と言う。 まるで、そのOSHOなるものは、くっくっくっ、と笑ってでもいるかのようだ。 では、今地上で起こっているさまざまの問題解決の努力は何の役にも立たないというのか、と問いつめると、そのOSHOなるものは言う。 大いに役に立ちうるはずだ。だが今現在は、問題そのものの所在を見ようとしないのだから、随分とエネルギーを無駄にしている。無駄にするどころか、解決に役立つはずのその同じエネルギーを、問題を作る方に回している場合の方が多い。そもそも問題などというものが現れたのは、そのためなのだから。実はこの世界は解決すべき問題などではなく、生きるべき神秘なのだから、と。 (p4-5) |