「来るべき世紀の指導原理」として台頭して来るこのOSHOなるものを紹介するにあたって、実はそのOSHOなるものが実際のところいかなる範疇に属するものかを、今ここではっきりと限定して伝えることができない。 その理由は、ひとつには、筆者自身がそれが何なのかをはっきり知っているわけではないからだ。 つまり、このOSHOなるものそのものが今もひとつの神秘だからだ。 けれどもまた、このOSHOなるものが何なのかを筆者がまったく知らないというわけでもない。それはどんなことを問うてもはっきりとした方向を示し、いささかも遅滞することはない。 では、それがいかなる範疇に属するものであるかを、どうして今ここですぐに明示できないのか。それは筆者がこのOSHOなるものを、是非とも今ここで、あなたに紹介したいと思っているためだ。 どうか、筆者が無用の言辞を弄していると思わないでいただきたい。実は筆者は、このOSHOなるものをあなたに紹介しようとすることで、痛烈なジレンマに陥っている。辛いことに、そしてまたありがたくも喜ばしいことに、このOSHOなるものは実はあまりにも本物なのである。もしこれがほどほどの本物なら、筆者も紹介にこれほど困りはしない。ところが本当の本物となると、こんな物を紹介するのは今までの地球では実はルール違反のようなものなのだ。 ほどほどの本物にはそれなりのタフネスがある。だが本当の本物となると、これには自らを防御することのない真実そのものの素朴な強さしかない。 たかだか十年、二十年を視野に収めるほどほどの指導原理なら、非常にもっともらしく自らを証すことができるし、五十年、百年を視野に収めた指導原理となると、偉大な芸術作品の威厳を備えることができる。ところが数世紀を見通す指導原理となると……、これはもう赤ん坊の強さ、薔薇の花のような素朴な強さをしか持つことはできない。 筆者の陥っているジレンマがご了解いただけるだろうか。 つまり、筆者はこのOSHOなるものをあなたにご紹介したいのに、それがあなたの手に渡る前に変質してしまうことを恐れているわけだ。 それはつまり、それをあなたにお渡しすることができなかったということなのだから……。 そこで筆者は一計を案じた。 この神秘の薔薇であるOSHOなるものを、それが可能な限りあなたの手近かで−−できることならあなたの身の内で−−弾けることができるように、少々タフな包装紙で包装してお届けすることにしよう、と(包装紙に偽りが含まれていたとしても、中身が本物でさえあれば、本当に傷つく人はいないはずだ!)。 そこで筆者はこのOSHOなるものを、あたかもひとつの原理であるかのような姿で提示することで、紹介を始めることにしようと思った。 このOSHOなるものをひとつの原理のように見た場合、少しはそれを自分なりの輪郭を持って捕らえることができるかどうか試してみたいのだ。 そうすることによってこのOSHOなるものを矮小化することになるのは承知の上だ。けれども、このOSHOなるものを「原理」として紹介することによって、それを歪曲することだけは可能な限り避けたいと望んでいる。 このOSHOなるものが「原理」というような固定的なものでないことは、充分に承知しているのだから……。 (p5-7) |