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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    狂気の加速


 誰もが、今世紀から来世紀に架けての変わり目は、尋常の変わり目ではないという。
 ほとんど異様ともいえる時代の加速感、全方向からの問題の集中集積とその煮詰まり方。地球全体を覆っている絶望的なまでに深い虚無感。
 どこを見渡しても恐ろしいほどの展望のなさと、肌身に触れてひしひしと迫ってくるこの圧倒的な不安感……。
 口には出さなくても実は誰もが何かの気配を感じ、そして待っている。

<このままで済むはずがない>、いや<このままでいいはずがない>、と。

 けれども一見、世の中の表面はあくまでも何事もないかのように、今まで通りの芝居を続けている。
 誰もが気がつかない振りをしている以上、何も自分から言い出す必要はない。
 見回したところ誰も本質的なことを言い出す者はないようだし、自分にも何がどうだとはっきりしているわけでもない。みんなどうやらこれまでと同じ路線で行こうとしているようだから、取りあえず自分もそうしておいて悪いわけもあるまい、と。
 綻びは弱く優しいところから現れ始める。
 あまりにも圧倒的な虚無感に浸されて、世界をひとつの秩序宇宙【コスモス】として理解したいという深い必要からも切り離されて漂い出す人たち。その人たちは自分の虚無感にも気がつかない。
 いや、気がつかない振りがしたい。気がつきたくないのだ。
 世の中の表層を駆け巡るあまりにも愚劣な、あまりにも醜悪な、そしてあまりにも虚構を積み重ねて無用に複雑になった情報の洪水のために、人はただ苛立ち、今日をやり過ごすことだけで充分に消耗する。
 そして気がついてみれば、自分までが、愚劣な子ども騙しの虚構の世界に一喜一憂している。

 けれども実は、自分の中の何かがそれに気づいている。
 だからこそ、そのいたたまらなさがつい自分を押しやって、仕事の中に、忙しさの中に、金儲けの中に、権力争いの中に、虚構の暴力、虚構のセンセイション、勝負、ポルノグラフィ、酒、麻薬の中にと逃げ込ませようとするのだ。
 そうやって自分が狂うか、あるいはその狂気を他人【ひと】に、誰よりも身近な自分の子どもに押し付けずにはいられない。
 比較を、序列を、競争を教えることによって。
 自分もまたそうされて来たのだから。そして今ではそれを信じているのだから。
 それしか生きる道はないではないか。競争を勝ち抜かなくては、人に抜きんでなくては、ぼやぼやしていていいはずがないではないか、と。
 誰もが「現実」という名の許に、公認の虚構と狂気を押し付け合う。まるで他に方法がないかのようだ。そして事実、それしか生きる道がないかのようなのだ。
 一体、それ以外のどんな方法で生計を立てたらいいというのか。みんなが狂っている以上、自分もそれと一緒に狂わなければ、生きてゆくことすらできないではないか。
 きれいごとを言っていて済む世の中ではないのだ、と。 (p16-18)

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