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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    「問題」の中での“判断停止”


 何やら途方もない異変を予感させるこの世紀の変わり目、現象的にはさまざまな問題が地球を覆っている。
 人口爆発……飢餓……エイズ……気温上昇……熱帯雨林の消失……生物種の絶滅……砂漠化……麻薬……暴力……科学兵器……核破壊……そして来るべき戦争の予感……。
 もし現在地球が陥っているこの窮状が、現状の路線の延長で解決できるようなものなら、こんなにたくさんの“賢い”人たちがいて、これまでに解決できていないなどということが考えられるだろうか。
 これほどたくさんの人たちが、生き残り、勝ち抜き、繁栄を続けるための戦略戦術を立案、策定して来ているのだから。
 にもかかわらず新聞は毎日、生き延びること自体がますます難しくなっていることを、そのための競争がますます苛烈になり、ますます困難な時代がやって来ることを保証している。
 しかもなお、生きる歓びはますます消えて行っているように見える。

 この路線をひたすら巧妙に泳ぎ抜けば、いつか本当に望むような世界がやって来るのだろうか。本当にそんなに難しい世界を、そんなに超人的な抜け目なさで泳ぎ抜くことなどできるものだろうか。
 それにいったい、どんな世界が来ることを望んでいるというのだろう。
 いや、そうではないだろう。こんなことを何時まで続けていてもどんな世界にも行き着けはしないことを、本当は私たちはみんな知っているはずだ。むしろ逆に、あまりにも明るく賑やかに散乱するこの空騒ぎが、実は内側に押し殺された無力感と不安と絶望の深さそのままの表現であることも。

<このままでいいはずはないのだが……>と。

 けれども私たちは、自分の不安に触れれば不安そのものの存在根拠を呼び出すとでもいうように、これまで通りの芝居を続けようとする。
 不安の根拠は圧倒的に大きく、私たちはもうそれを真っ直ぐに見つめるだけの勇気を持っていないのだろうか。それとも、見ようとさえしなければそれが自然消滅すると考えているからだろうか。
 私たちが陥っているこの状態を表す一言、それは“判断停止”だ。
 なぜ、私たちはこの“判断停止”に陥っているのか。
 それは私たちが、この状況を抜け出すべき状態とは思っていないか、あるいはすでに此処からは抜け出せないものと見極めてしまったかの、どちらかだろう。
 もしかしたら、この二つは実は同じことなのかもしれない。
 それは、私たち全員が想像もできないほどの強力なマインドコントロールを受けていることの確実な証拠ではないのか。

 そして私たちは、まるで自分が生涯を生き残り競争に捧げると誓って、納得ずくで生まれてでも来たかのように、ひたすら比較と競争と奮闘の道を歩もうとする。
 けれども、一度こんなふうに発想してみてはどうだろう。
 生き延びるために生まれて来るくらいなら、もともと生まれて来ない方がましではなかったのか、と。
 そして、これは何も特別な発想ではない。
「勝手に生みやがって!」と親に毒づく中学生から、「人生でただひとつ意味のある決断は自殺の決断だ」とする西洋の哲学者まで、まだあまりこの世の荒波に揉まれていない(その意味では素朴な感性がまだ壊されていない)頭【マインド】には当然生まれてくるごく自然な判断だ。
 けれども、この中学生もこの哲学者も、実は、ひたすら比較と競争の生き残りゲームを演じている私たち一般の人間と違っているわけではないようだ。彼らも私たちと同じように、そこには出口がないことを“知っている”、いや、出口がないと信じ込んでいるからだ。だからそこで“判断停止”しているのだから。
 けれども、本当にそこに出口はないのだろうか。 (p18-20)

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