実はここには、私たちの内面のある大きな欺瞞が隠れている。 私たちは、“判断停止”自体が欺瞞であることに気がつかない振りをしているのだ。 <生き延びるために生まれて来るくらいなら、もともと生まれて来ない方がましだ>という判断は、けっしてそれ自体間違っているわけではない。 ただ、もし自分がそう思うのなら、そこで“判断停止”せずに、そこからまっしぐらに自分の思いで突き進んでみる必要があるのではないか。 そうしたら常に必ず、 <何の相談も受けずに親の勝手でこの世に産みつけられてしまった自分は、まるで罠に掛かったようなものだ>となるか、 それとも <自分が生まれてくることを選んだ以上、それはけっしてこの世で生き延びるだけのためであるはずがない>となるか、何か大きな分かれ道に突っ込むことになるだろう。 いずれにせよそこには常に、自分が<主体>であり続けるか、それともその<主体>である尊厳を自己放棄して何かの“判断停止”に逃げ込むかの、大きな分岐点がはっきりと出現するはずだ。 つまり、<自分>とは罠に掛かって勝手に産みつけられたりできるものなのか、と。 恐らくそれが、私たちが「今、ここ」に生かされてきたことの意味なのだろう。 そして私たちが何らかの“判断停止”をしたとき、つまり私たちが、 例えば、 <何の相談も受けずに、親の勝手でこの世に産みつけられてしまった……> と認めたとき、実は私たちは、大なり小なり、本来は自分の中に在る、ある秘密の権能を手放してしまっているのだろう。そのような“判断停止”を選択したとき、極端な言い方をすれば、私たちは意図せずして、親の勝手で殺されたところで何の異存もあるはずのない、ロボットのような自分を認めたことになるのだから。 そんな“判断停止”に心から納得の行く人間がありえたとしての話だが……。 結局、“判断停止”とは不正直ということではないだろうか。 私たちは自分の権能を手放したような、また手放していないような振りがしたいのかもしれない。そして、その中途半端さに、自分でもいたたまれないのではないのか。 責任を引き受けずに自由だけ手にしたいというような、本当は自分でも信じていないことを、信じる振りだけしているのではないのか。 そうやって、無理にでも、偶発的な「欲望」の前に気を失いたいのではないのか。 気を失いさえすれば、もう責任はないとばかりに。 そして結局、そんな自分を許せないために、私たちは自分が幸福になることを許さないのではないだろうか。 例えば、暑くて水を浴びたいと思うとき、金を儲けてプールのある家を建ててからでなければその望みは叶えられないとなれば、それはある意味では不可能なことかもしれない。人生にそれほどの時間はないかもしれないから。 けれども、水のあるところに行って浴びればいいのであれば、それは大抵の人間には今すぐにも叶うことだろう。が、私たちは自分で本当に望んでもいないそんな不可能な夢だけを見続けようとする。 何のためにか。本当に生きることを避けるために。 現在地球がこれほどの窮状に陥っているのは、そして私たちがこれほどの惨めさの中で金縛りになっているのは、実は、本当にリアルであると真の自分が“知っている”ものに、私たち自身が対応していないからではないのか……。 例えば最初に挙げたさまざまの問題はそれぞれ極めて重大な、どれひとつとっても私たちの地球に決定的な惨状をもたらしかねない(そして現にもたらしつつある)問題だ。 だが場合によっては、これらの問題がさして大きな問題ではない、あるいは少なくとも自分には直接関係ない、と私たちが思うことは充分にありうることだ。 いや、この際遠慮した言い方はよそう。 そういう問題はあまり意識したことがない、あるいはそういう問題が存在するとは知らなかった、と言う人があったとしても、私たちは事実驚きはしない。 多分、それこそが私たちの大部分であるはずだから。 そして恐らく、この“判断停止”に引きずり込む深い睡魔に身を任せることによって、私たちは途方もないものを手放そうとしているのかもしれない。 私たちは、人間としての尊厳そのものを手放そうとしているのだ。 (p20-24) |