脳の血管のどこかが詰まり、私たちがいわゆる脳梗塞といわれる状態になって病院のベッドに身を横たえたとしよう。 その時にも、私たちの足の細胞は平常通りに活動しているのだろうか。本当のことは知らないが、多分そうなのだろうと思う。 また脳の中の死滅部分がだんだん広がって最終的な黄疸症状を引き起こし、私たち自身が呼吸困難に陥っているときにも、私たちの足の細胞はなおも可能な限り平常通りの活動をしようとするのだろうか。それが肉体の生理的事実であるかどうかはともかく、それも考えられることだ。 そして全体としての私たち自身が死ぬとき、肉体の一部である私たちの足の細胞が静かに(何の不足を言うでもなく)その活動を止めるだろうということも、想像できる。 ところで、私たちが黄疸症状を起こして呼吸困難に陥っているとき、私たち自身がそれに気付かないことはありうるだろうか。 無論、そんなことは考えられない。 すでに意識を失っているならともかく、そうでない限り、私たち自身の全体である意識は、その意識の住んでいる世界に応じて、自分の肉体の陥っている窮境に対応しようとするだろう。あるいは声にならぬ声で助けを求め、あるいはパニックに陥り、あるいは気を失うことにし、あるいはソクラテスのように静かに自分の肉体に起こっている死を見つめようとするだろう。 ところで、私たちにとっての全体と言ってもいい地球が瀕死の窮状に陥るときを想像すると、何がその状況に意識として全面的に対応するのだろうか。 こういう問題は、全体である地球が実際に窮地に陥らない限り発生しても来ないし、また明らかにもならない。そして、私たちが知っているこれまでの歴史には、人類がそんなことを考えた時代は存在しなかった。あるいは、夢うつつのような遠い神話の響きとしてしか、私たちはそんなものを知らない。 ということは、そんなことを考えなければならない私たちは、途方もない実験に立ち合っているといえるのかもしれない。 あるいは、地球全体がひとつの意識的生命体として、そのような全状況に対応しているのかもしれない。 その場合は、私たち人間はその小さな小さな一細胞として、地球が陥っている窮境とは一応無関係に、自分の生命とその機能を全うすることだけに専念していればいいとも言える。何しろ、その時死ぬのは意識的生命体としての地球全体であり、私たちはその全体的意識とはかけ離れた、ごくごく小さな部分意識でしかないわけだから。 これ以上現在の人間に我慢できなくなって、地球が何らかの仕草でそのことを表現することだって考えられないわけではない。ひとつぶるっと身震いして、自分の皮膚にできたかさぶたと、かさぶたを作っているその虫を払い落とそうとするかもしれない。 逆に、払い落としきれずにその瘡蓋と虫ごと、「生命の星」としての死滅の道を歩む可能性だって考えられないわけではない。 そしてその時私たち人間が、冬にそなえて葉を落とす樹木の枯れ葉のように、何の思いもなく従容と死に赴くなら、実は「問題」など何処にも存在しないとも言える。そして真実に即して言うなら、無論、問題など何処にも存在していないのだろう。 その時、全体としての地球生命【ガイア】が、最期の呼吸困難を起こしているときに私たちが陥っているようなパニックに陥っているかどうかは、足の細胞である私たちの感知しないことなのだから。 けれどももしここで、地球生命【ガイア】の部分意識である私たち人間が、ガイアそのものが陥るべきパニックを分け持つなら、そこに「問題」なるものが発生する。 つまりそれは、私たち人間が、部分意識であると同時に「全体」でもあるということなのだから。 (p24-26) |