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『21世紀への指導原理 OSHO』より

    「意識」の栄光と悲惨


 もし私たちがロボットの部品のような意味での「部分」なら、そのロボットが解体されるときにパニックに陥りはしないだろう。けれどもその時は、そういう「部分」の集合体であるロボット自身もパニックに陥りはしない。ロボットは動く構造物ではあっても、「意識」ではないからだ。
 では、私たち人間が地球が滅びるときにパニックに陥るのは、分をわきまえない出すぎた仕業ということになるのだろうか。そう言われれば、私たちの「意識」は納得するだろうか。それで「全体」のことも、「意識」としての自分のことも、一件落着するだろうか。私たちは、“自分”が部分だったのだからと納得して静かに、穏やかに、安らかに沈黙するだろうか。
 無論そうなら、「問題」など初めから発生しなかったろう。
 現実にはそういうことは起こらない。
 まったく起こったためしがないわけではないが、それが起こるとき、その「意識」は、“自分”が「全体」であることを知っているだろう。
 つまり、“自分”という部分存在にとどまろうとする限り、私たちは最後には「問題」を引き受けざるをえない。

 これはどういうことなのだろうか。
 要するにひとことで言うなら、私たちが「意識」であるとは、本質的、内在的、必然的に私たちが「全体」であらざるをえないということだ。つまり、どんな“部分意識”も結局最終的には“全体の意識”であらざるをえないということだ。それは取り外しなどきかない「意識」そのものの<道【タオ】>の一部だということだろう。最後には必ず真実が姿を表す。
 それが「意識」の栄光と悲惨であり、どんな“部分意識”もこの栄光と悲惨を避けることはできない。
 ここに「意識」の秘密がある。全知全能を分け持つ者の秘密が。

「意識」の担い手である私たちは、常に“自分”なりの判断をする。
 そして確かに、それは“自分”なりの判断でなくてはならない。それが「意識」の担い手の尊厳なのだから。私たちが対面する「全体」の何かに不満を持ち、何かを否定したい。あるいは何かを肯定するために、別のものを否定したい。「意識」の担い手としての“自分”の好みがある。そして、そのような選り好みをすることで、何かを自分の範囲に取り込み、何かを自分の範囲から排除する。
 私たちには、それしかやりようはないと思われる。
 そして、そういうやり方を洗練して、いつかまったく「問題」のない世界に行きたいものと思う。それが私たちの願いであり、私たちの欲望だ。
 けれども、実はそういうことは起こらない。

 その理由は、私たちが「意識」を担っているからだ。「意識」は、最後には結局「全体」でしかありえない。
 私たち「意識」の担い手は、「全体」の中の一部を否定しながらゴールに到ることはできない。「全体」の一部を排除しながら、“自分”の一部を否定しながら、最終ゴールに到達することはできない。
 否定は「意識」の最終ゴールにはなりえない。
 けれども、私たちはそんなことを理解しようとは思わない。そんなことは坊主の説教で、現実の自分とはまったく関係のないことと思おうとする。そして別の“自分”なりのやり方で、「問題」を解決しようとする。「問題」のない世界に、最終満足の世界に到ろうとする。ところが、そこにはやっぱりちゃんと“自分”がいて、その“自分”が最後に全宇宙に対応しようとする。ちゃんと帳尻を取ろうとして出てくる。「意識」の担い手である私たちの誰も、それから逃れることはできない。
 私たちの誰ひとり、「意識」の栄光と悲惨から逃れることはできない。

「意識」の栄光とは、それが「全体」でありうるということであり、その悲惨とは、それが常に「全体」であることを回避しようとするということだ。
 そしてOSHOは教える。
「全面性こそが、終着地【ゴール】だ。それは受容を通してしかやってこない」と。 (p26-29)

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