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『21世紀への指導原理 OSHO』より

挟撃される人間


 コンピュータ・テクノロジーとバイオ・テクノロジーが発展するこれからの時代、私たち人間は二つの技術によって両面から挟撃されているともいえる。  自分の思考内容と判断を自分だと思っていれば、いつかコンピュータの能力によって、それが一部置換される時代が来ないとはいえない。また自分の肉体こそが自分だと思っていれば、バイオ・テクノロジーによって人間の存在根拠が脅かされるような時代が来ないともいえない。
 コンピュータの専門家【エキスパート】システムが人間のきわめて専門的な判断能力を置換しうることはすでに実証済みらしい。人間の論理的思考能力とその結論としての判断力に限っていえば、コンピュータの能力が人間のそれを凌駕する時代が来ることは、既定の事実といってもいいだろう。
 私たち人間は、望むと望まざるに関わらず、今や社会の発展段階そのものによって自分が誰なのか、私とは何なのかという問いに直面させられる状況に入って来た。

 今、きわめて高度なエキスパート・システムが完成していて、特定の専門領域での膨大な資料を駆使し、考えられる限りの微妙な組み合わせを考慮してある判断を下したとしたら、その最終判断を私たち人間は凌駕できないだろう。  その世界の専門家であればあるほど、その判断が考えられる限り最上のものであることを認めざるをえないはずだから。
 ますます膨大になる情報資源を取り込み、必要な再構成を施し、随時微調整しながらその加工情報を迅速に処理してゆくコンピュータの能力に、人間の知力はとてもかなわないだろう。
 もしそのような専門知識こそが自分のアイデンティティだと思っていた人がいたら、その人は自分の存在そのものをその専門家システムによって脅かされることになるのは間違いない。

 コンピュータがΠ【パイ】の値を何万桁計算したからといって、人間の総合的能力がコンピュータによって凌駕されたと思う者はいない。
 けれども、あるコンピュータ・システムが、人間が処理しうる限りの情報を驚くべき速さで構造的に処理し、考えられる限りの精妙かつ妥当な判断を下したとしたら、しかもその道の専門家がその判断を超えることができないことを自認したとしたら……。
 その場合はどうだろうか。
 それでも人間の能力の方が、コンピュータよりも上だと言い切れるだろうか。
 そのときコンピュータの能力がある意味で人間の能力を超えた、と私たちが考えることはありえないことではない。
 ファイゲンバウム教授の『第五世代コンピュータ』(講談社刊)の中に、あるエキスパート・システムの設計の各段階で自分の専門分野の知識を提供して相談に乗ったある専門家が、最終的にそのシステムが完成した段階で、自分のノウハウのすべてを機械に吸い取られた衝撃と落ち込みを描いた場面があった。
 生涯をかけて確立した彼のアイデンティティが、たったそれだけのもの、それだけの能力だったことが証明されたからだ。

 だが無論、私たちの中の何かは、自分がコンピュータに凌駕されたなどというたわごとを納得しない。
 たとえ、意識的にはどれほど自分を、その能力、その専門知識、自分の判断力、自分の作品、つまり何らかのアイデンティティに自己同化していたとしても、そしてそのすべてがコンピュータに凌駕されたことがはっきりしたとしても、私たちの中の何かは、自分がコンピュータに凌駕されるなどということを納得していない。
 人間が、自分が作った機械に及ばないなどということがありうるはずがない、と。
 それは、自分の本当の“アイデンティティ”が機械と競合する「能力」などでないことを、私たちが知っているからに違いない。 (p127-130)

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