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『21世紀への指導原理 OSHO』より

「思考」と「洞察」の違い


 通常の人間の生活を、道ばたの花を眺めながらの散歩に喩えるなら、昔の思想家の思索行為は、その同じ散歩道を自転車で走ることにも喩えられる。
 彼は、その道が何処にいたる道であるのかを、その道の行く手を、その方向を「意味」として抽出することができた。
 ところが今や私たち人類が手に入れた推論能力は、その同じ散歩道を車で走るようなものだと言えるかもしれない。私たちはその推論の各過程にひとつの内面的な“情”として対応することはない。私たちはただちに結論を知り、その結論に左右されて行動の指針を与えられる。

 昔、思考するとはある種の内面を生きることだったが、今や「思考」は、あからさまな本質だけを抽出されることになった。そこでは、状況はさまざまな情報材料【データ】に変換され、ある動機を持った論理意図が強制的な論理回路を作成し、その回路にデータが投入され、演算処理が施され、結果が出力された。それはいわば、仕掛の施された迷路として待ち受けるパチンコの盤面上を、投げ込まれたデータという球が駆け抜けるようなものともいえた。
「思考」は、一種の機械過程になり、それはシュミレーションと呼ばれた。
 コンピュータの出現で“思考”過程は非常に加速されたようにも見えた。
 けれども、散歩しながら眺めた野の花に“情”として対応した、あの「思索」の内的過程はまったく忘却されていった。
 そこでの内実であった曖昧な情的なものが、純粋な“意味”として抽出されるに及んで、逆にその“意味”の根拠となった裏の<ソフト>は、私たちの視界から隠れてしまった。もはやそれは、昔の“情緒”としての内的な「意味」とは違っていた。
 利益を得るための最も野蛮な動機、有無を言わさぬ絶対の“必要”といった類の「意味」だけが、最終的にすべての“意味”を支えるものとして残った……。

 何かがおかしくないだろうか。これが「思考」というものなのだろうか。
 ある意味ではイエスだ。そしてある意味ではノーだ。
 それが「思考」なのかという意味では、イエスだ。それが「思考」だ。「思考」とは「論理」であり、それはもともと一種の機械過程だったからだ。
 けれどもそれが、思想家たちの営為「思索」と異なることも確かだ。
 何故なら、その人たちの「思索」とは、純粋の意味での「思考」ではなかったからだ。その人たちの「思索」の肝心要はその「洞察」にあった。彼が身を置いていた状況の中で、何かに「問題」を感じたその“直感”、その“感受性”こそが彼の「思索」だった。

 そしてそれは、彼が<意識>であったからこそ起こりえたことだった。
 コンピュータは、データに対して、前もって与えられている以外の「問題」を感じることはできない。彼にその能力はない。コンピュータは所与のデータに対して所与の処理を施すだけだ。
 もし私たち人間が、コンピュータの膨大な情報処理量に圧倒されてコンピュータの判断力を信じ、「問題」を感じる自らの能力を引き下げてゆくとしたら、それは私たち人間の退化をしかもたらさないだろう。
 その意味では、これまでの段階における「情報革命」は、人間の内面の世界に関して退化をしかもたらしていないかもしれない。
 私たちは最も洗練された複雑な道具を使って、最も野蛮な「思考」に焦点を合わせる存在に退化していただけかもしれない。

 私たちは“速さ”という見かけにうわずってしまったのかもしれない。
 私たちは、強力な道具を手にしたために、あらゆる虚飾を剥いだ最も野蛮な「意味」の世界を暴露されたのかもしれない。
 コンピュータの“思考”が人間の「思考」を何がしかでも代行しているという幻想を抱いた途端、私たち人間は現段階の物理次元の欲望に固定されるだけだろう。例えば、テレビという大きな能力を持つ通信媒体を、ひたすら政治と暴力と競争とポルノグラフィーで満たしてしまったように。

 コンピュータが人間に代わって地球の波動をキャッチし、状況を洞察はしない。
 その洞察に基づいた論理回路を作成することはない。コンピュータの“思考”とは、主人である人間の最も自明な欲望を代行する論理作業にすぎない。
 私たちは、人間が主人であり、コンピュータが召使いであることを自明のこととして知っている。
 OSHOは言う。
「コンピュータにできないことがひとつだけある、それは生きること、主人になることだ」と。
 では、私たち人間はなぜ主人なのか。何が私たちを主人にしているのだろうか。 (p133-136)

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