『心の社会』(マーヴィン・ミンスキー著、産業図書刊)という本がある。情報工学の権威が、大脳生理学の成果を取り入れて“心 (マインド)”を作成するビジョンを描いた本だ。もちろん著者は、コンピュータによって“心”というものを作ることができると考えている。 つまり著者は、人間の“心”というものは、非常に単純な判断が構造を持って複雑多岐に組み合わされることによって構築されているものであり、その膨大な複雑さを機械でカバーすることができれば、“心”を生み出すことができると考えているわけだ。 だが、複雑多岐な根拠に基づく判断といっても、その判断が人間の“心”に起きるのは、そこに“心”の根拠がすでにあるからで、その複雑さに基づく判断があるからそれを根拠に“心”が発生するのではない。 この関係を逆転することはできない。 そしてその“心”は、およそ複雑さなど関係のないものを根拠に存在している。 それはけっして神経繊維の数の膨大さとその構造の複雑さに帰すことのできないものだ。人間の“心”の動きがどれほど複雑であったとしても、もしそれだけなら、いつかコンピュータがその複雑さとその構造をコピーし、真似ることができないとはいえない。いつかそれはできるだろう。 けれども、そのことによって人間の“心”と同じものを生み出すことができると考えるのは、“種の進化”の根拠を膨大な時間に帰したダーウィンの論理にも類比できる。それは、膨大さとか、長い時間とか、人間が簡単にはカバーすることができない検証不能な量的問題を誇示することによって、その圧倒的な量のイメージの中に本来起こりえないものを封じ込めようとする態度だ。 例えば今、単純な好悪の判断を示す素子を組み合わせて、ある判断の体系を作りえたとしよう。 その体系の中にある入力を与えると、ある判断の結果が出力される。 そしてその体系はその中の一部として学習機能を持っている。その体系は現在の心理学が想定するようなあらゆる心理的傾向を示すとしよう。つまり、ある量の素子がある判断に傾いたとき、一定の限界を超えたところでシステム全体の決定が一方向に傾く、などといった人間の“心”の中で起こる曖昧な感情と態度決定のプロセスがそこに反映されているとしよう。 けれども例えば、人間がそのような状況に置かれた時のそのある種の曖昧な気分、それがある程度煮つまって何かの結論に達する時の、その“心”の内面がそこにあると考えることができるだろうか。 人間の“心”の中のある種の気分を、一定数の素子がある種の状態になっていることになぞらえることはできる。そしてある種の気分に傾くことを、その感染素子が増えていくこと、あるいは減っていくことになぞらえることはできる。 けれどもその場合、その膨大な素子を抱えたコンピュータ頭脳の中の何処に、人間の“心”の中のその“ある種の気分”が存在するといえるのだろうか。 人間の“心”の中には、ある種の気分が確かに存在しており、私たちは自分の経験ではっきりとそれを知っている。そして他人が判断に悩む姿を見て、それがどのような内面的状態を現しているかを理解することができる。 しかし、そのコンピュータの中の何処に、その“気分”、その“内面”は存在しているのか。 確かに、ある種の気分の変遷を一定の判断を示している素子の量、あるいは構造的な組み合わせの変化に喩えることはできるだろう。そして、人間の判断がたどるのと同じある変化を、その判断体系がたどるように仕組むこともけっして不可能ではないだろう。 だがそのことと、“心”を作るということはまったく別なことだ。 “心 (マインド)”を作るとは、いってみれば、その人間の判断の中にあるある内面、曖昧な気分の変化そのものを作るということだ。 なぜなら、その内面だけが<主体>だからだ。 それだけが、不安におびえて反乱を起こすハルの内面でありうるからだ。 そのコンピュータの中に展開されている判断素子のあるパターンの変化を、ひとつの判断という結果に到るための処理の流れの反映と類比するのは構わない。けれどもそのパターンを、そこにある種の気分が存在していることだと強弁することはできない。 コンピュータの中の一つひとつの素子のプラスとマイナスがひとつの気分であると言えるなら、そこにはある種の気分があることになるだろう。 しかしそれは比喩ではあっても、事実として、単なる電気的なプラスとマイナスが人間の内面的気分に対応する実体を持つと思う者はいないだろう。そのプラスとマイナスをどれほど複雑に組み合わせても、そこにどれほどの構造を持たせることができても、そのこと自体でそこにある種の気分を生み出したことにならないのは自明だ。 なぜこのような誤解が起こるのか。 それはひとえに、コンピュータを生み出した西洋社会が、“心 (マインド)”というものと<意識>というものの区別をはっきり意識してこなかったことに由来する。だから、コンピュータが複雑な判断を下せるようになれば、そこに人間の“心”の萌芽を認める短絡した理解が発生したのだろう。(p139-142) |