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『21世紀への指導原理 OSHO』より

痛みを感じるロボット


 例えば今、あるロボット工学者がひとつのロボットを作っていると想像してみよう。  街を歩けるロボットだ。
 そのロボットはたくさんのものを見て、たくさんの判断を下さなければならない。そして今、最も単純化した形態で、足の動作と目の動作をコントロールする制御部分が完成したとしよう。
 これから完成させなければならないのは判断部分だ。
 まず工学者は、そのロボットが絶対に安全な道路部分を歩いていると前提して、四つ角で止まる判断を設定する。つまり四つ角で前方の信号を確認し、その信号が赤であればそこで止まり、青であれば前進する判断をセットするわけだ。これが現在の地球上のロボット工学が達成しているパターン認識の水準で可能かどうかはともかく、原理的に可能であることは確かだろう。

 馬鹿げた想定だが、例えばそれが完成したとロボット工学者が考えた時点で、大胆にも彼が実験に乗り出したとする。
 そのロボットは街頭に乗り出し、街を歩く。ところが不幸にもたまたま信号を渡っている最中に暴走車が現れてそのロボットを跳ね飛ばしたとしよう。そのロボットには通常の人間の姿をさせていたのだが、うんともすんとも言わずに跳ね飛ばされた。その結果を見て、これも馬鹿げた想定だが、そのロボット工学者が、そのロボットが跳ねられた瞬間に人間並の悲鳴を上げなかったことをいたく恥じたとする。そしてそれ以来、彼はロボットに痛みを訴えさせる研究に入ったとしよう。
 無論、いつかその工学者の研究は実って、そのロボットにある種の衝撃を加えると、その衝撃の度合いに応じてそれなりの反応を起こすようなロボットを作ることに成功するだろう。

 しかしその完成したロボットが「痛いっ!」と発声するのを聞いて、そこに本当の“痛み”という内実が存在すると思う者がいるだろうか。
 少なくともそのロボット工学者だけは、その悲鳴が自分が仕組んだ電子回路による演算結果の出力表現にすぎないことを知っているはずだ。
 つまり赤信号を見て止まり、青信号を見て進むロボットを制作できたということは、そのこと自体ではけっして、私たちが信号を見ている時の、その“見えているという内面”を作ったことにはならないということだ。
 コンピュータで人間のマインドの判断を代行する部分を作れるということと、そのような判断が起こっている人間の<内面>を作るということとは、まったく別のことだというにすぎない。
 さっきの赤い信号を見て止まったロボットは、全視野の中の信号機というパターンを認識し、その信号機が赤を表示していることを受信して、歩行を止めることはできる。しかしこのことで確認されるのは、そこに外界の刺激という“入力”と、歩みを止めるという“出力”の存在だけで、人間の判断の場合における“見えているというその内面”の存在が確認されたわけではないことを理解しなければならない。

 では、その“見ているという内面”そのものはどう作ればいいのか。
 もし本気で人間の“心”を機械で作ろうと思う者がいれば、それを考えなければならないはずだが、おそらくそれを考える者は、それを作ろうとは思わないだろう。
 なぜなら、それは人間が作成できるものではないからだ。
 その見えているというそのこと、自動車にはねられたときに起こる痛みそのもの、あるいは難しい判断を迫られているときの悩ましげなその内面そのもの、それが起こっている場所が<意識>だ。

 その<意識>は、作ることができない。
 コンピュータの中にもし<意識>が前提されるとしたら、それはもともとのシリコンチップの中に存在している鉱物の<意識>だろう。東洋では、この鉱物の<意識>を「眠れる<意識>」と言い習わしてきた。(p142-144)

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