「痛み」を作ることができないとは、いったいどういうことだろう。 「痛み」を引き起こすような衝撃を作ることはできる。その衝撃を感受するためのセンサーを作ることはできる。感受した衝撃を伝送する神経を作ることはできる。有線にせよ、無線にせよ、レーザーにせよ、この物理次元でどのような遠くまでもそのような衝撃を伝えることはできるだろう。その衝撃がどの程度の大きな衝撃であるかを解析する解析器を作ることもできるだろう。解析された結果を何らかの形で表示する痛み表示器を作ることもできるはずだ。 けれども誰が、あるいは何がその「痛み」を感受するのか。 誰が、あるいは何がそれを「痛み」としてキャッチし、「痛み」として支えるのか。 つまり、その「痛み」は何処で起こるのか。 「痛み」を作ることができないとは、その「痛み」の最後の受け手、「痛み」を「痛み」として“感受する者”を作りえないということだ。 ようするに、<意識>を作りえないということなのだ。 この宇宙に現れるあらゆる事象は、二つの側面から成り立っている。 ひとつは、出来事を起こすためのあらゆる手段、条件。そしてもうひとつは、その出来事が起こるその場所だ。これは、現象が生起するための二つの側面だ。 現象が起こるための諸条件をひっくるめて、物質世界という。 現象が起こるその場所のことを、<意識>という。 現象というひとつの事態が起こるためには、この二つの側面がなければならず、このどちらを欠いても現象は起こりえない。 それが起こる場所、<意識>を欠いては、「痛み」という最も単純素朴な現象すら起こりえない。その意味では、物質界は、<意識>が例えば「痛み」というものをビジョンし現象させるときの、その表現手段にすぎない。物質界がその「痛み」を支えるわけではない。 この満天に星を散りばめた大宇宙という現象も、それを見るひとりの人間の<意識>がなければ生起しえない。そしてその<意識>を作ることはできないのだ。 コンピュータの発達が人間のマインドの領域を侵食して来るのと時を合わせて、まるで申し合わせたかのように、一方ではバイオテクノロジーの発達が、肉体の領域から人間のアイデンティティの再確認を迫ってくる。 現代の宇宙科学では、一五〇億年前に起こった宇宙のビッグバン以来、星雲の発達と星の発達を経て地球が生まれ、そこで生物が生まれ、その生物の発達過程で内省的な<意識>を持つ人間が生まれた、ということになっている。そして、ごく最近の発見によって、この内省的な<意識>を支えるに到るまでの進化のための全情報を納めているのが、生物体としての人間のあらゆる遺伝情報を担った、各細胞内のDNAとRNAという微少な二重螺旋構造であることが分かった、と。 地球上の生物の発生から内省的な<意識>に到るまでのこの発達の経路は、あたかも物質基盤から<意識>の次元が出現したかのようにイメージされている。 人間の出現により、生物種の発展は内省的な<意識>を生み出すに到った、と。 けれどもそれなら、この内省的な<意識>を出現させる以前のそこまでの経路は、<意識>以外の何か盲目的な、まったく偶然の物質過程だったとでもいうのだろうか。 宇宙空間での、意識生命体の分布率が話題にされることがある。 そのような数字は、機械的な物質過程からの偶発的な生命発生の確率を計算したとでもいうつもりだろうか。(p145-147) |