昔、ジャン・コクトーが監督した『オルフェの遺言』という映画を観たことがある。 その中に、窓際のカーテンが不思議な感じでふわーっと風に膨れ上がる場面があった。その瞬間の感じはいかにも不思議で、何故とも分からぬ妙な違和感があった。 実はそれは、フィルムの逆回しの最初の場面で、その後たくさん出てくる場面で、それが撮影した映像を時間を逆にして見せているのだと分かるのだが、そう分かってからも、何か不思議な可能性の中にさまよい込んだような感じが残ったものだ。 例えば今、こんな場面を想像してみることにしよう。 海辺にある一軒の家があって、そこである人たちが美しい生活を営んでいた。そしていつかその家の住人たちは死に絶え、その家は無住の家になってしまった。何十年もが過ぎた。その家の壁は落ち、柱は傾いた。そして何百年も経った。その家は完全に風化し、崩壊し、土となって海岸の砂の中に埋没してしまった、と。 さて、このようなことはけっして不思議なことでもなければ、ありえないことでもない。容易に想像できることだ。 ところで、その時代の変遷を凝縮した映像にして、短い映画に仕立てあげることもできるだろう。その映画の中では、ある豊かな生活空間であった美しい建物が、少しずつ古び、崩落し、砂の中に崩壊して行く映像が流れるだろう。 では、先ほどのジャン・コクトーに倣って、この映画を時間を逆にして回してみたらどうだろうか。 そこでは、波打ち際の砂浜の中からゆっくりと凹凸が浮かび上がり、流木が岸辺に打ち上げられ、砂の中に古びた土台が築かれ、流木が古びた柱となって立ち上がり、風の中から埃が壁となって吸着し、古びた二階が立ち上がり、壊れかけた屋根瓦が一枚二枚と屋根の上に現れ、海辺に一軒の古びた家が立ち現れ、やがていつか、美しい生活空間がそこに出現しているだろう。 私たちは、その映像を観て、それが時間を逆回転させた現実には起こりえない架空の現象であると知るはずだ。 永遠の時空の中で、ある海辺の砂の上に日が照り、波が打ち寄せ、風が吹き、嵐になり、そして竜巻が吹き寄せたとして、そんなことが何億何千万年も続いたとしても、非常に微少な確率の世界の中で、いかに不可能と思われるほどの偶然に偶然が重なったとしても、先ほどの海辺の砂浜の上に一軒の家が竜巻の中から現れるとことがありえないのを、私たちは知っているからだ。 それとも、そんなことがありうると考えることができるだろうか。これをまったくの数学的な確率の中で考えた場合、それはありうることなのだろうか。 そんな事態を想像するのに必ずしも数学者の頭を必要とはしない。どんな物理学者の頭も必要とはしない。小学生にも分かる単純なことだ。何十億、何百億年の時間が経とうと、波と風の中から偶然にその海辺の家が立ち現れることはないのだ。 どんな意図も持たない無生命の物理次元に、機械的偶然過程の中から星が誕生し、その星の惑星上に考えられないほどの偶然が重なって海が出現し、そこに有機物の世界が発生し、ついには惑星そのものがホメオスタスシを持った生命世界として展開するなど、竜巻が砂浜の上に一軒の家を吹き寄せるのと同じだけの不可能事だ。 けれども、私たちは知っている。それが、現実に起きたことを。 私たちが住んでいるこの世界がもし現実のものだとすれば、それを見ている私たちというこの内面がもし現実のものだとすれば、その奇跡が現に起きたことを、現に起こっていることを、「私たちは知っている」。(p150-152) |