熱力学の第二法則と現実に存在する生命現象という、この逆行する二つの事態の間で整合性を取ろうとしたのが、シュレーディンガーの「負のエントロピー」(ネゲントロピー)という概念だった。この一語の中に、あくまでもランダムな無秩序の世界に解体しようとする不可逆的な物理次元の中で、生物が単純な要素から複雑な構造、つまりより高度な秩序を構築しうる可能根拠を封じ込めようとしたのだろう。 だが、この「ネゲントロピー」という洗練された衣装に託されたものも、古くからの「生気」説や「自由エネルギー」説の場合と同じように、やはり、無機的で偶発的な物質世界の中からの“生命の誕生”と、その頂点での“<意識>の発生”という、不可能事を支えるための秘法だった。 そして今、物質世界からの“生命発生”の可能根拠として現在最も注目されているものに、ベルギー出身の化学者イリア・プリゴジン博士の「散逸構造論」があるという。 プリゴジン博士があくまでも物理化学理論として提唱したこの「散逸構造論」は、熱力学の法則が支配する物理次元に、従来“異常な例外”と呼ばれてきた生命現象が何とか忍び込みうるその突破口を開くものと期待されている。 プリゴジン博士の「散逸構造論」によって、物理次元の中での私たち生命体の活動領域が、従来の物理化学理論の中で整合的に記述できる可能性が現れたのだという。 つまり、生命現象を、物理次元で一定の期間内(例えば寿命のある間)物質を一時的に構造化するプロセスとして成立している現象だとすれば、現在の物理化学の言語で記述できる可能性があるということらしい。 言ってみれば、ローソクの炎を「炎というひとつの現象態」として考えることができるように、生命現象も、一つひとつははるかに短い周期で消滅を続ける細胞を根拠として、その細胞を構造化する過程として、つかの間のあいだこの物理次元に現象していると理解すれば、何とか熱力学法則の支配領域内の「非平衡・開放系」という一隅に、生存条件を見つけられそうだというのだ。 まさに、 わたしという現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといっしょに せはわしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です …… 宮沢賢治『春と修羅』序から の世界そのものと言える。 けれどもここでもまた、私たちは同じことを言わなければならない。 プリゴジン博士の「散逸構造論」は、<意識>である生命現象がこの物質次元に突出するための可能根拠を解明したものだろう。プリゴジン博士がそのようなことを主張しているわけでは無論ないが、「散逸構造」あるが故に物質次元が生命を“誕生”させ、ついにはこの宇宙に自省的<意識>を“発生”させたと考えるなら、そんなことはやはり万にひとつもありえないことを確認しておかなければならない。 宇宙が<生命>を“誕生”させ、<生命>が<意識>を“発生”させたのではない。 <意識>そのものが<生命>なのだ。この順番を逆転することはできない。 ただ、<意識>である生命が物質次元といういわば“死の世界”に自分を展開し、自らの万能を表現してみるためには、(マインドで解明しようとすれば)想像を絶する巧妙な工夫が必要だったというにすぎない。 いわゆる生物の形態形成の“種”がDNA、RNAという二重螺旋構造の物質的根拠によって媒介されたように、絶えず無秩序に解体していこうとする死の世界(=粗い波動の物理次元)に<意識>の内容を表現しようとしたとき、「散逸構造論」で解明され始めたような手段が醸し出され、採用されたということだろう。 こんなにも自明のことが、こんなにも理解し難くなったのには、実は単純な理由がある。 この異常事態は、私たち人間が、自分が<意識>という<主体>であること、自分が<生命>そのものであることを認めなくなった(忘れた)ことと並行して発生した。 この混迷した事態は、私たちが自分を、<意識>の空に偶然に発生する個々の“思い【マインド】”、個々の“欲望”だと思いこんだことに(そして今も思い込んでいることに)、本質的根拠を持っている。 (p159-163) |