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『21世紀への指導原理 OSHO』より

宇宙空間に浮かぶ母子像


 私たちが“自分”を時々刻々に変化する“思い”だとみなし、その“思い”が時空の中に発生する規序を“偶然”としか思えず、なおかつその“思い”に深く自己同化していったら、私たちには真の意味の<主体>は見えなくなり、いつか自分を<主体>と認めることすら躊躇しなければならなくなるだろう。
 そして、自分が<主体>であること、自分が<生命>そのものであることを忘れれば、物質過程の中で“生き”なければならなくなるのも確かだ。
 自分が<主体>であるというこの自明のことが分からなくなれば、それを論理的に明らかにする方法などあるはずもないからだ。

 西洋文化の発展を担ってきた科学者たちは、“意識は実在ではなく、経済生活という下部構造に規定される上部構造にすぎない。実在するのは物理過程しかなく、意識は物理過程の単なる反映に過ぎない”というマルクスの言葉を、“科学的真理”として受け入れざるをえないほどに、<主体>である自分から切り離されてしまった。
 そしてそれゆえに、無機的物理世界の中に生起する無量の偶然の累積によって、生命が“誕生”し、自省的<意識>が“生まれた”、というような愚かしい神話を作り上げざるをえないところまで堕ちてしまったのだ。
 おそらく未来の科学は、“<意識>がなければ偶然すら生起しえない”ことを明らかにするだろう。それは多分、“生命世界には、偶然というものは存在しえない”ということと同じだろうが……。

 私たちが森羅万象の中に個々の「物」を発見するのは、私たちが時間の流れに抗して自らを保持しようとする自我 (エゴ) に乗っ取られているからだ、と喝破したのは、ドイツの神秘詩人にして科学者であったルートウィッヒ・クラーゲス博士だった(『意識の本質について』、剄草書房刊)。
 私たちが外界に見る事象が“客観的存在物”ではなく、私たちの内面の投影に他ならないことをこれほど明晰に語った言葉はないだろう。
 私たちが、眼前に現象する森羅万象の中に<生命>を認めないのは、私たち自身が自分の中の真の<主体>、すなわちあらゆる現象の根拠である<意識>との通路を塞いでしまって、その通路の存在を忘れてしまったからに他ならない。
 日本の神話の“岩戸閉め”とは、ある意味では、このことの暗喩表現ともいえる。

 私たちは心を持った存在としてこの世に生まれてきた。
 母親の愛を信頼し、世界が自分の思いに応えてくれることをまったく疑いもせずに生まれてきたのだ。その信頼がなければ、生まれて来ることもできなかっただろう。
 私たちは、森羅万象が自分の思いに応えてくれる世界に生まれてきた。
 そうでなくて、マルクスが言うように、そして今もまだ地上の科学者たちが信じる振りをしているように、<生命>が偶発的、無機的な機械過程から“発生”してきたものであり、DNA二重螺旋の無機的、偶発的自己発展運動(この語義矛盾を見よ)によって実現したものだというようなたわごとを信じるというなら、きっとその人は、次のような心象を何の不自然さをも感じずに思い浮かべることができる人なのだろう。

 今例えば、映画『2001年宇宙の旅』の最後の場面のあの赤ん坊が、無限の闇を背景にした宇宙空間の中に、ぽっかりと浮んでいるところを想像してみよう。
 今彼は、その無心な目を見開いている。
 宇宙の中に独り浮かぶ無限大とも無限小ともいえるその赤ん坊は、母親の愛を信頼し切っているかのごとく歓喜の目を見開いて上の方を見上げている。
 カメラが後退し、画面の中で赤ん坊の表情が遠退いて行くに連れ、赤ん坊の全身が現れ、その赤ん坊を抱いている誰かの腕が視野の中に入ってくる。
 そして、無限の宇宙空間の中にぽっかりとひとつの母子像が浮かび上がってきたとき、その赤ん坊の信頼と歓喜の目に向かい合っていたのが、白金色の金属ロボットの無機的な表情だったというような場面を想像してみてはどうだろう。

 あなたはこのような心象を、何の違和感もなく心の底から当然のこととして思い浮かべることができるだろうか。
 こんな心象を、あなたの心の真実として受け入れることができるだろうか。
 私たちの感傷を問題にしているのではない。そうではない。
 私たちの中の本当の自己が知っているはずの、「真実」の響きのことを言っているだけだ。(p163-166)

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