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『21世紀への指導原理 OSHO』より

物質過程は表現手段にすぎない


 単なるフィルムの逆回しではなく、現に海辺の一軒の家が立ち現れたのが、私たちのこの生命世界が現象しているのが現実だとすれば、その背後には必ずその家をイメージし、ビジョンし、そして作り上げた<意識>を前提せざるをえない。

 これは数学的に確実なことだ。

 同様に、地球上に内省的な<意識>が“発生”したというのが現実だとしても、その内省的な<意識>が何百何千億という偶発的な物質的動きを根拠として、その偶然の中の非常に小さな確率の道を辿って実現したなどというたわごとを信じることはできない。
 これは信仰の問題ではなく、単に健全な常識の問題にすぎない。
 いかに膨大な時間で化粧しようとも、物質過程からの<意識>の“発生”など「竜巻がジェット機を吹き寄せる」可能性よりもありえない。
 人間の自省的<意識>に到るまでの地球上の生命の全発展段階は、物質次元では人間の肉体の中に集積されているだろう。そして全発展段階の情報を封じ込めたのが、DNA二重螺旋構造であることも確かだろう。
 けれども物質世界が、この二重螺旋構造に到るまでの進展を、自らの自律的偶然運動(この自明な語義矛盾!)の中で生み出したと考えることはできない。

 あるひとつのビジョンを物質次元に展開するには、それがどんなに微少なものであれ、とにかく何らかの物質的基盤が要求されることは間違いない。
 地上の生命の全発展段階の情報を凝縮したのが、二重螺旋構造だったというわけだ。  二重螺旋構造が、あるビジョンを物質次元で展開するために洗練されてきた手段であったことは確かだろう。
 例えば、見るという現象を実現する器官として目があるように、聞こえるという現象を実現する器官として耳があるように、全情報を凝縮して次の個体に伝達するために二重螺旋が使われてきたことは確かだ。
 けれども、そのことは地球上の生命の全発展段階の伝達のためにこの二重螺旋が必須であったことを保証するとしても、だからといって、この二重螺旋構造が全地球上の生命の発展を自ら指導し、牛耳ってきたと考える者はいないはずだ。
 それではシリコンチップがコンピュータの発展をイメージし、ビジョンし、物理次元に展開してきたと考えるようなものではないか。

 コンピュータの発展の背後には、それをビジョンし、具体的にイメージし、構築し、展開した人間の「意図」があり、その「意図」を可能にした<意識>がある。だとすればこの二重螺旋構造の背後にも、それをイメージし、展開した<意識>があると考えなければならない。
 コンピュータの発展を、シリコンチップの自律的な発展と考えることができないのと同じように、人間の自省的<意識>に到るまでの地球上の生命の展開を、DNA二重螺旋のような、いわばある種の部品の自律的発展と考えることはできない。
 自省的<意識>に到るまでの生命の発展を、物質次元での無意識的な、偶然の自律運動に還元することなどできないということだ。
 自省的<意識>に到るまでの全生命の“発展”の背後には、どうしても最初から<意識>の存在が前提されなければならない。
<意識>は、誕生できないのだ。(p163-166)

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