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『21世紀への指導原理 OSHO』より

脳と心(マインド)と<意識>と


 目があるから見えるという事実があるわけではない。
 耳があるから聞こえるという事実があるわけではない。脳があるから考えるという事実があるわけではない。
 目は見えるという内面を物理次元に展開するためのひとつの手段であり、同じく耳は聞こえるという内面を、脳は考えるという内面をそれぞれ物理次元に展開するための手段であるにすぎない。
 このことは実は、見えるという体験内実が必ずしも目という器官に依存するものではない可能性を想像させる。聞こえるという体験内実は、必ずしも聴覚器官に依存するわけではないかもしれない。

 例えば、大作曲家ベートーベンは聴覚を失ってからも作曲を続けている。
 そこでできあがったものが音楽であることを否定する者はいない。また、そのときベートーベンが聴覚の助けなしに音楽を書いていたことも確かだ。
 ではそのとき、彼はその音楽を聴いていなかったのだろうか。
 それとも、彼の中でその音楽は鳴っていただろうか。
 もっと大胆に飛躍するなら、最近非常な脚光を浴び始めている臨死体験での体外離脱という体験が存在する。この場合、離脱した意識体は、本人の肉体の存在する位置からはけっして見えるはずのないものを、別の場所にいる意識主体(つまり自分)が見るという。
 無論この事実を、自分が体験するまでは信じないといって無視することはできる。けれどもこの種の体験が、ベートーベンの聴覚喪失後の作曲と同じ程度には、客観的に証明されている事実であることも確かだ。
 しかもこの臨死体験は、まさに見るという体験が眼という器官にも、脳という器官にも依存するものではなく、それと別個に存在する先験的体験内実であることを立証している。宇宙の「相似象」の研究を現在に継走する宇野多美恵氏が指摘しておられるように、カントのいう「先験的体験内実」とはこのことに対する直感であっただろう。
 その「見える」という、「聞こえる」という体験を生起させている場所とは何か。
 その神秘に私たちが付けた名前が<意識>だった。

 耳という道具を介して自分に起こる「聞こえる」という体験、目という道具を介して自分に起こる「見える」という体験を、私たちはある種の過程、出来事と思うことはあっても、それを<主体>と誤解することはない。
 けれども、脳という道具を介して自分に起こっている“思う”、“考える”という体験の場合、“心(マインド)”という名詞の存在が示すように、私たちの自己同化はそれを“自分”と思うほどにも深い。
 ここに、“心(マインド)”という極めて特殊な世界が現象する。
 OSHOは、このマインドという現象こそが、あらゆる条件付けを吸収した虚偽の根源だという。
「大脳とは、単なるメカニズムにすぎない。それをどう扱おうとするにせよ、そのように扱うことができる。思考(マインド)こそが問題だ。なぜなら、それは他人が作ったものだからだ」
「意識が思考(マインド)に自己同化してしまったら、大脳にはどうすることもできない。大脳は機械的なものにすぎない。マインドがどんなことを望んでも、大脳はそれを行う」と。(p163-166)

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