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『21世紀への指導原理 OSHO』より

すると私たちのしていることは……


 だからといって何がどうだというのか、と言われるかもしれない。

 これまで見てきたようなことは妥当な議論かもしれない。それは確かにその通りかもしれないが、それが本当だとして、だから何がどうだというのか。だからといって、何かが変わるのか……、と。
 確かに、物質過程という無生命の機械的偶然過程の中から生命現象が誕生し、その中から私たちの肉体も<意識>も生まれたというのは、考えてみると少し不自然なのかもしれない。それは、少し違うのかもしれないが、そんなことは何時になっても決定的な真実が分かるというものでもなし、何時もその時々の理解があるだけではないのか。そんな理解がどう変わったところで、いずれにせよ私たちがこのように生きている現実に何の違いもないではないか、と。
 一瞬、確かにそんなふうにも見える。
 けれども、本当にそうだろうか。

 もし、<意識>が始まることも終わることもないのなら……。
 生まれも消えもできない永遠の「今、ここ」として<意識>が在るのなら……。
 もし、それが本当の本当だとしたら、それはとんでもないことではないのか。

 もし、それが本当だとしたら、私たちのこれまでのマインドの努力はまったく馬鹿気た努力だったことになりはしないか。
 それは、私たち自身が、肉体という“窓”を通して物質次元に突出している<意識>そのものだったということではないのか。これまで見てきたことが本当にそうとしか思えないのなら、その当然の帰結はそういうことではないのか。
 では、それほどの安全性の上でなおかつ心配し続けてきた自我【エゴ】は何をしてきたのか……。
 何よりも、心配するエゴに自己同化することで私たちは、“自分が生きなければならない”と思い込み、また“自分の努力で生きている”と思い込んできた。

 私たちは、自分が「生かされている」存在であることを忘れた。

 そしてここで言っていることは、いわゆる宗教的感情とは少し違う。ここで問題にしているのは、単純な事実認識に過ぎない。
 私たちは“誰か”によって“生かされている”のではないかもしれないが、現に“自分で生きなければならない”と思い込んでいる以上、自分が不生不滅の永遠の命であることを自認している存在でないことも確かだ。
 つまり、私たちは現状では、自分を永遠の生命とは別の、それとは切り離された存在と自認しているはずだ。
 それなら、その不生不滅の生命とは別の存在であるエゴにとっての唯一妥当な自己認識は、「生かされている」ということでなければならないだろう。何しろ、“自分”が生きられるどんな環境も、どんな構造も、“自分”で工夫したり作ったりしたことはないのだから。

 すると、こういうことになる。
 おおざっぱに言って、私たちは、三つの段階で生きていることになるだろう。
 第一段階は、“自分で生きている”と思っている安定した自我【エゴ】として。
 第二段階は、“自分が生かされている”ことを知っている不安定なエゴとして。
 第三段階は、“ただ生きている”ことを知っている何者かとして。

 私たちは、これまでずっと“自分で生きている”のだと思ってきた。
 だからこそ、生きるための努力をしなければならなかったし、またそれゆえにこそエゴとして安定していることもできた。
 いってみればそれは、私たちを生かすために整えられた万全の環境の中に迎えられながら、まるで偶然そんな環境に紛れ込んだ泥棒のように目を血走らせ、人に隠れて、やましさに身を凍らせながら、密かに環境を搾取していたようなものだった。
 けれどもどうやら、今世紀の最後を境にして、私たち地球人類は、全体としてこの第一段階を卒業して行くようだ。
 そして、エゴとしては一種きわめて不安定な自己認識、“自分は生かされている”という自己認識に到達しようとしているらしい……。 (p163-173)

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